第二十九話 (サブリナ視点)
シルドアに萎縮しているのは私だけではなかった。
二日目までは他の令嬢達も、私の言うことを聞いてシルドアに、仕事ができないなどの嫌みを言っていた。
しかし三日目からは無言の令嬢が出てき始め、今は誰もシルドアに嫌みを言う者は居なかった。
そして私にも、それをとがめることはできなかった。
……何せ、当の私がシルドアより仕事ができていないのだから。
令嬢達の中に萎縮した空気も一切気にせず、仕事を行うシルドア。
その瞳がある令嬢に向いたのは、その時だった。
「ちょっといいでしょうか」
「……っ!」
シルドアに話しかけられた令嬢の顔色が一気に青くなる。
それもそうだろう。
その令嬢は、一番この中で仕事のできない男爵令嬢だったのだから。
シルドアはそんな彼女の様子など意に介さず、彼女の行っている書類をのぞき込む。
私を除いた令嬢達が、そんなシルドアから目を背ける。
まるで、巻き込まれることを嫌ったように。
「ああ、やっぱり」
シルドアが何かに納得したように笑ったのは、そのときだった。
そのまま、シルドアは書類のある箇所を指さした後、何かを書き始めた。
「この箇所はこの計算式を使うといいですよ」
「……え?」
想像もしない言葉に、男爵令嬢は驚きながら、それでも素直にシルドアの言葉に従う。
そして、その大きな目を見開いた。
「本当だ、やりやすいわ……」
「でしょう」
その男爵令嬢に、シルドアが柔らかく笑う。
その笑顔が一気に空気を弛緩させ。
「何を勝手なことをしているのかしら?」
私はその瞬間立ち上がった。
ゆっくりとシルドアに迫りながら、私は高鳴る心を必死に抑える。
ようやく、ようやくシルドアが隙を見せた。
男爵令嬢が処理していた書類、それを私はきっちりと確認していた。
その書類に使われていた計算式が、私が必死に勉強した歴史ある計算式であることも。
一体どんな魔術を使って男爵令嬢にわかりやすいと言わせたのかはのかは知らない。
だが、ただの平民が一朝一夕で改良できるような計算式ではないのだ。
「私に見せて見なさい」
「さ、サブリナ様」
そう言いながら、男爵令嬢から書類を取り上げた私は計算の証明を始める。
確かにこの計算式であれば、従来の計算式よりも計算も確認もやりやすい。
ただ、こんな計算式私は知らない。
絶対に間違えている。
「……っ」
そのはずなのに、何度試そうがその計算式の誤りが見つかることはなかった。
それどころか、何度も計算するうちに私は気づいてしまう。
……この計算式は、非常に高度なものであることに。
この計算式は誤りである、そう言おうとした言葉は私の喉元に残っている。
しかし、その言葉を飲み込み、私は顔を上げた。
──私を見極めるかのような、無機質なシルドアの瞳が目に入ったのは、そのときだった。
お前は一体何者なのか、そんな言葉が頭に浮かぶ。
それを穏やかな笑顔の下に何とか押し込め、私は告げる。
「良いわ。今日だけは許してあげる。ただ、勝手なことはもう許さないわ」
「失礼いたしました。ありがとうございます」
表面上は穏やかに頭を下げるシルドア。
表面上は私に謝ったシルドアだが、私はよく理解していた。
……私は今、シルドアに負けたことを。
そのことに、内心怒りで煮えたぎる気持ちを抱きながら、私は押さえ込む。
今、ここでシルドアに攻撃しても墓穴を掘るだけだ。
今はこれ以上、シルドアの立場を上げてはならない。
「サブリナ様、許してはなりませんわ! こんな勝手なことをした人間、放っておいてはなりません!」
……しかし、そのことに周囲の人間は気づいて居なかった。
声をあげた子爵家の令嬢、バーリナが怒りからかいつもよりも赤い顔でシルドアをにらみつける。
彼女はこの事務方において能力も高く、私の腹心と言うべき令嬢で。
しかし今、彼女の言葉は最悪の悪手だった。
その瞬間、かすかにシルドアの口許がつり上がったことに私だけが気づいた。




