第十二話 (ラドリー視点)
「母、上?」
生まれてからこれまで、僕は母が泣くどころか感情を乱す姿を見た事はなかった。
ずっと、母は強かった。
アズドリア伯爵家の女主人として父さえ頭の上がらない存在。
そんな存在が今、僕の目の前で。
……僕のせいで涙を流していた。
「なぜ気づかないのですか。考えなしの甘言で貴方を破滅させた人間こそ、マリシアです。……そして、誰よりも貴方のことを見て、寄り添ってくれた人間こそシーリャ様であるのに」
「そんなこと!」
「兄上。どうして僕が貴方に当主の座を譲ると決めたか知っていますか」
いやなほど冷静な弟、アランの声が響いたのはそのときだった。
「シーリャ様が誓ってくださったからです。例え、伯爵家に何があっても自分は兄上につきそうと」
「……は?」
聞いた事のない話に思わず声を上げた僕を気にせず、アランは続ける。
「もし、兄上が当主になり伯爵家が傾くことがあっても、傾いた際の責任はラドリーだけのものではなく、私とラドリー二人の責任です」
淡々と語るアラン。
その話しぶりから、僕は理解できてしまう。
……これはかつて、シーリャが実際にアランに告げた内容であると。
「そして、その際私がフランシスコ家に戻ることはあり得ない。生涯私はラドリー・アズドリアの妻である」
それは愛の言葉と言うにはあまりに無骨で、覚悟の決まった言葉だった。
まるで、騎士が君主に忠誠を誓うような言葉。
……そして、僕はシーリャがそういう令嬢である事を知っていた。
「兄上」
僕に目を向けるアランの目は、哀れみに満ちていた。
「マリシア嬢は、シーリャ様のように地獄まで来てくれる人間なのですか?」
「僕、は」
今更すぎる記憶が、僕の頭の中にあった。
ずっと、僕に勉強を強いてきたシーリャ。
けれど、シーリャは僕以上に勉強をしていた。
そして、僕の為にずっと諫めてくれていた。
何かあった時、彼女が取りなしてくれたことも一度や二度ではない。
……何より、シーリャは僕にずっと向き合ってくれていた。
「まって、くれ」
今になって、理解した僕の声はかすれていた。
「婚約破棄は浅慮だった。違う僕は……」
「ラドリー、もう遅い」
そう告げる父上へと、顔を向ける。
その表情は、叱ると言うにはあまりにも苦しげだった。
「貴族令息の前での婚約破棄。それも一方的な婚約破棄。これからどうやって、全てをなかったことにできる?」
「それ、は」
「婚約を結び直すには、婚約した時よりも悪い条件から周囲を説得しないといけない。お前にそれができるか?」
思い出す。
僕が婚約する際、必死に周囲の貴族に挨拶回りをした時の記憶を。
それは最悪の思い出で、それをまた最初からするなど考えたくない。
それでも、もしシーリャを取り戻せるなら。
「できます! 僕は……」
「無理よ、ラドリー。貴方には」
淡々とした否定の言葉。
それに振り向くと、そこにいた母の顔に浮かんでいたのは今更取り返しのつかない失望だった。
「もう、貴方には取り返すことなどできないわ」
その母の表情を見て、ようやく理解する。
自分が失ったのはシーリャだけではない。
家族の信頼も失ってしまった事を。
「ラドリー、次期当主の立場だけではない。お前から貴族籍を剥奪する」
……父の淡々とした死刑宣告に、僕はもう何も言うことができなかった。
その言葉を最後に、僕だけを残して家族が部屋から出ていく。
「兄上」
最後、アランへと振り向く。
その時、アランの顔にあったのは、悲しみを隠さない表情だった。
「私も貴方を当主と呼びたかったです」
次回、アラン視点になります。




