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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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第二話 境を越えて

最初に戻ってきたのは、揺れる感覚だった。


体がふわふわ浮いているみたいで、でも時々、下から強く引かれる。誰かに運ばれているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。遠くで誰かの声がしている気もしたけれど、言葉の意味まではわからない。耳に入ってきても、水の底から聞いているみたいにぼやけていた。


まぶたは重く、開こうとしても開かなかった。


ただ、ひとつだけわかったことがある。


寒い、と思った次の瞬間には、何かやわらかいものが肩にかかった。そのたび、凍えていた体が少しだけゆるむ。羽根の感触だ、とぼんやり思ったところで、また意識は深いところへ沈んでいった。


次に目を覚ましたとき、私は見知らぬ天井を見ていた。


「……っ」


飛び起きようとして、体に力が入らないことに気づく。起き上がりかけた拍子に視界がぐらりと揺れて、私は慌てて手をついた。指の先に触れたのは、ひんやりした床板ではなく、やわらかい敷布団の感触だった。


知らない部屋だった。


壁も床も木でできているのに、祖父母の家とはどこか違う。部屋の広さも、障子の(さん)の細さも、置かれている家具の形も、微妙に見慣れない。窓の外から差し込む光はやわらかい(だいだい)色で、もう夕方なのかもしれなかった。部屋の隅には見たこともない形の棚や、細い煙を上げる香炉みたいなものが置かれている。ほのかに甘い匂いがして、知らない場所なのに、薬みたいに気持ちを落ち着かせる匂いでもあった。


ここはどこだろう。


私は布団の上で息を詰めた。


赤い鳥居。黒い影。白い翼。角のある女の人。


そこまで思い出したところで、障子の向こうから声がした。


「起きたかい」


びくっと肩が跳ねる。


返事もできないまま見ていると、障子が開いて、あの女の人――椿が顔を出した。


昨日と同じように背が高くて、角もあって、どう見ても人間じゃない。なのに、片手には湯気の立つ椀を持っていて、その姿が妙に普通で、私は余計にどうしていいかわからなくなった。怖いはずなのに、台所からお茶を持ってきた親戚のお姉さんみたいにも見えて、頭の中がこんがらがる。


「そんな顔しなくてもいいだろ」


椿は少し困ったみたいに眉を上げた。


「ほら、起きたばっかで喉渇いてるだろ。白湯だよ」


そう言って、警戒している私の前にしゃがみこんで椀を差し出してくる。


私はすぐには受け取れなかった。両手は布団の端を握ったままで、自分でもそれを離せない。


椿はため息をつくでもなく、ただ「まあ、そうなるか」と小さく言った。


「昨日のこと、どこまで覚えてる?」


「……鳥居、まで」


やっとそれだけ答えると、椿は「ああ」と頷いた。


「じゃあ、その先はだいぶ曖昧か」


そこで、もうひとつの足音が近づいてきた。


障子の向こうに立つ影を見た瞬間、胸がひゅっと縮こまる。


「目が覚めたなら知らせてくれ」


静かな声と一緒に、白嶺が部屋へ入ってきた。


やっぱり綺麗な人だと思った。白い翼は今は畳まれていたけれど、それでもこの部屋の空気だけ少し違って見える。昨日と同じく、近づきやすい感じはしなかった。冷たく透き通った氷が、そのまま人の形をして立っているみたいだった。


私は思わず布団の端を握りしめた。


白嶺はその手元を一瞬だけ見て、それから淡々と言った。


「怯えるのは当然だ。けれど、少なくとも今ここで君を害するつもりはない」


「少なくとも、って何だい」


椿がすぐに口を挟む。


「そういう言い方が怖がらせるんだって、まだわかんないのかい」


「事実を曖昧にする気はない」


「はいはい、お堅いねえ」


二人のやりとりは昨日と同じだった。

そのことに、ほんの少しだけ息がしやすくなる。


でも、わからないことの方がずっと多かった。


「……ここ、どこ」


自分でも驚くほど小さな声だった。


「祖父母の家じゃ、ない」


「違う」


答えたのは白嶺だった。


「ここは妖魔界(ようまかい)(みやこ)の外れだ」


意味がわからなくて、私は黙ったまま白嶺を見た。


妖魔界。


昨夜、おじさんが言っていた異界という言葉が、頭の中でゆっくり重なる。冗談だと思っていた言葉が、急に本当のものとして目の前にぶら下がったみたいで、うまく息が吸えなくなった。


「じゃあ、やっぱり……」


喉がひりつく。


「私、あの鳥居から……」


「境を越えた」


白嶺は短く言った。


「正確には、君があそこに迷い込んだ時点で、半分は巻き込まれていたようなものだけど」


「巻き込まれた、って……?」


椿が持っていた椀をいったん脇に置いて、胡坐(あぐら)をかくみたいに座りなおした。膝を立てたまま話すその姿は少し乱暴なのに、不思議と威圧感はなかった。


「昨日、あんたを襲おうとした黒いやつ、いただろ」


私は肩をこわばらせた。

顔のない、泥みたいな影を思い出してしまったからだ。


「あれは下っ端の名もない妖怪だよ。こっちじゃ掃いて捨てるほどいる」


「……妖怪」


「そう。で、昨日の境はたまたま穏やかじゃなくてね」


椿の声から、さっきまでの軽さが少しだけ消える。


宥和(ゆうわ)派と徹底抗戦(てっていこうせん)派の連中がぶつかってた。あたしたちはその真ん中にいたってわけ」


私は息を呑んだ。


戦場。

そんな言葉、私には物語の中でしか聞いたことがない。


「昨日、あそこは安全じゃなかった」


白嶺が言う。


「名もない下級妖怪が寄ってきたのも、その混乱のせいだ」


「安心しろ、と言って安心できる話じゃないのはわかってる」


白嶺は少し間を置いて続けた。


「けれど、君はもう無事にそこを抜けている」


「白嶺がほとんど一人で道こじ開けたけどね」


「椿」


「だって事実だろ」


椿は悪びれもせず言う。白嶺はそれ以上何も言わなかった。少しだけ口を閉ざしたその横顔を見て、なぜかこれ以上踏み込んではいけない気がした。


でも、気になってしまう。


あのとき、私を支えた白い羽根の感触。

最後に聞こえた、焦ったみたいな声。


本当はそれを聞きたかったのかもしれない。けれど、うまく言葉にできなかった。


私は布団の上で指先を握る。


「……二人は、何者なの」


聞いた瞬間、部屋が静かになった気がした。


椿は「そこからか」と小さく笑い、白嶺はまっすぐ私を見た。


「昨日も少し話したはずだ」


「でも、ちゃんとは……」


「そうだな」


白嶺は一度だけ目を伏せた。


「僕は天狗だ。椿は鬼。どちらも君たち人間が昔、妖怪とか物怪(もののけ)とか呼んでいたものの一つだと思えばいい」


天狗。鬼。


聞いたことのある名前のはずなのに、目の前に本当にいると、急に意味が遠くなる。


「……そんなの、いるわけないって思ってた」


「人間は大抵そう言うね」


椿が苦笑する。


「でも、あんたには見えた。境も、あたしたちも、あの下っ端も」


その言い方に、私は昨日のことを思い出した。

黒い影。胸の奥の熱。地面に叩きつけられた何か。


「……あれ、何だったの」


ぽつりと漏らすと、椿と白嶺が同時に黙った。


私は二人の顔を見比べた。

さっきまで普通に喋っていたのに、その話だけは簡単に答えられないみたいだった。


椿は一度口を開きかけて、やめた。白嶺は私から目を逸らさないまま、少しだけ考えるように黙っていた。


「詳細が知りたければ」


先に口を開いたのは白嶺だった。


雲仙(うんぜん)様のもとへ行け」


「雲仙、さま……?」


「ああ」


白嶺の声は落ち着いていたけれど、その名前を出したときだけ、少しだけ敬意が混じった気がした。


「この妖魔界で、最も多くの妖怪を束ねている方だ」


椿も頷く。


「まあ、ボスみたいなもんさ」


「椿」


「わかりやすく言っただけだろ」


白嶺は小さく息をついてから、私に向き直った。


「雲仙様なら、君がここに来た理由も、君の中にある力のことも、僕たちより正確にわかるはずだ」


力。


その言葉に、胸の奥がまた少しだけざわついた。


私はまだ、昨日の熱を思い出せない。

ただ怖かったことと、何かが起きたことだけしかわからない。


「……会わなきゃ、だめ?」


小さく聞くと、椿が少しだけやわらかい顔になった。


「無理やり引っ張っていく気はないよ」


そう言ってから、ちらっと白嶺を見る。


「……たぶんね」


「引っ張っていくつもりはない」


白嶺はすぐに言った。


「ただ、君が元の場所へ帰る方法を知りたいなら、結局そこへ行くことになる」


帰る。


その言葉に、お母さんの顔が浮かぶ。お父さんも、祖父母も。昨日の夕方までは、たしかにすぐそばにいた人たちだ。私がいなくなったことに、気づいているだろうか。探しているだろうか。怒っているだろうか。それとも、もう泣いているだろうか。


胸の奥がぎゅっと痛んだ。


「……帰りたい」


自分でも、ちゃんと声になっていたかはわからない。


椿が何か言いかけて、やめる。白嶺は少しだけ眉を寄せたけれど、慰めるようなことは言わなかった。


そのかわり、静かな声で言う。


「なら、なおさら雲仙様に会うべきだ」


私は黙った。


帰りたい。

お母さんのところに。お父さんのところに。祖父母の家に。


そう思うのに、喉の奥で何かが引っかかる。


昨日、鳥居の前で見たもの。

黒い影。白嶺の翼。椿の角。

そして、自分の中からあふれた、あの熱。


知らないまま帰るのは、たぶん無理だと、もうわかっていた。


白嶺が静かに言う。


「少し休んだら出る。都の中心まではそう遠くない」


「歩けそうかい」


椿が聞く。


私は少しためらってから頷いた。本当はまだ少しふらふらしたけれど、それを言ったらひとりだけ取り残される気がして、言えなかった。


椿はたぶんそのことに気づいていた。けれど何も言わず、脇に置いていた椀をもう一度私に差し出した。


「今度こそ飲みな。怯えてても腹は減るし、喉も渇く」


私はしばらくその椀を見ていたけれど、やがてそっと受け取った。


まだ少しだけ熱い。

でも、両手で包むと、不思議と落ち着いた。


ここがどこなのかも、二人が何を考えているのかも、まだ全部はわからない。

それでも、昨日ひとりで鳥居の前に立っていたときよりは、少しだけ息がしやすかった。


湯気の向こうで、白嶺が窓の外を見ている。

椿は腕を組んだまま、私がちゃんと飲むかどうか見張っているみたいだった。


私は白湯をひとくち飲んだ。


やさしい熱が、冷えたままだった体の奥へゆっくり落ちていく。


そのときようやく、私は本当に、知らない世界で目を覚ましたのだと実感した。


白湯を飲み終えるころには、少しだけ手の震えが止まっていた。


椿が空になった椀を受け取りながら、満足そうに頷く。


「よし。それなら何とかなるだろ」


「何とか、って……」


「都まで行くんだよ。ここは外れとはいえ、いつまでも留まっていい場所じゃない」


椿の言葉に、私は顔を上げた。


「危ないの?」


「絶対に安全な場所なんて、今の妖魔界にはそう多くない」


答えたのは白嶺だった。


「特に、昨日みたいな戦が起きた直後はな」


私は黙りこんだ。昨日の黒い影がまた頭に浮かぶ。ここにいても、もう祖父母の家の布団の中みたいに守られているわけじゃないのだと、その言葉で思い知らされた。


白嶺は障子の外へ目をやる。


「日が落ち切る前に出る。準備をしろ、と言っても君には何もないか」


「着替えとかも、そのままだからね」


椿が言って、私の服を見た。昨日のままの服はところどころ土で汚れていて、袖口も少し擦れていた。


「あとで都に着いたら何か見繕ってやるよ」


「そんなことまでしてもらわなくても……」


「子どもが遠慮するんじゃないよ」


椿は当たり前みたいに言った。


私は返事に困って、ただ膝の上に手を置いた。


白嶺はそんな私たちを少しだけ見て、それから短く言う。


「行けそうなら来い。詳しいことは道すがら話す」


そうして、先に部屋を出ていく。白い翼の端が障子の向こうへ消えるのを見ながら、私はまだ少しだけ現実感のない頭で考えていた。


都。妖魔界。雲仙様。


どれもまだ、言葉だけが先にあって、形がついてこない。


でも、立ち止まっている時間はもうないのかもしれなかった。


椿が立ち上がり、私に手を差し出す。


「ほら、燈。ゆっくりでいいから立ってみな」


私はその大きな手を見た。ごつごつしていて、爪は少し鋭くて、やっぱり人間の手とは違う。少しこわい。けれど、昨日みたいに無理やり引っ張るための手じゃないことは、なんとなくわかった。


おそるおそる、その手を取る。


椿の手はあたたかかった。


そのぬくもりを確かめながら立ち上がったとき、部屋の向こうから、知らない鳥の鳴き声みたいなものが聞こえた。


祖父母の家の外で聞く音とは、どこか違う。

その小さな違いが、かえってここが本当に別の世界なのだと教えてくる。


私は息をひとつ吐いた。


怖い。

帰りたい。

でも、もう昨日までの夏休みには戻れない気もしていた。


椿が私の顔をのぞきこむ。


「歩けるかい」


「……うん」


そう答えると、椿は「よし」と笑った。


私はもう一度だけ、さっきまで寝ていた布団を振り返った。

白い敷布団のしわ、窓から差し込む夕方の光、細く上る香の煙。ほんの少し前まで、ここは知らない場所でしかなかったのに、立ち去ると思うと少しだけ名残惜しい気もした。


それはたぶん、ここで初めて、自分が助かったのだと実感したからだ。


私は椿のあとについて、部屋の外へ出た。





椿に手を引かれて部屋の外へ出た瞬間、私は思わず足を止めた。


空の色が、見たことのない色をしていたからだ。


夕方のはずなのに、ただ赤いだけじゃない。藍色と紫色が溶け合ったみたいな空の下に、薄く光る雲がゆっくり流れている。遠くには大きな屋根の影が重なって見えて、それが都なのだと、言われなくてもなんとなくわかった。けれど、祖父母の家の近くにある町並みとはまるで違っていた。建物の形も、道の広さも、風に混じる匂いまでも、何もかもが知らない。


ここは本当に、私のいた場所じゃない。


その実感が、部屋の中にいたときよりもずっと強く胸に落ちてきた。


「そんなにきょろきょろしてると転ぶよ」


椿が振り返って言う。


「……ごめんなさい」


「謝ることじゃないさ。初めてなら、そりゃ驚くだろ」


前を歩いていた白嶺は振り返らなかった。白い翼を背に畳んだまま、細い道をまっすぐ進んでいく。その後ろ姿は人の形をしているのに、人間のものとは思えないくらい静かで、少しも隙がなかった。


私は椿の少し後ろを歩いた。


都の外れだと言っていたけれど、まわりは思ったより静かだった。古い木の塀が続き、その向こうに低い家々の屋根が見える。道ばたには見たことのない白い花が咲いていて、葉の形もどこか変わっている。虫の声みたいなものは聞こえるのに、祖父母の家の近くで聞くものより、少し低くて長かった。


怖い。

でも、見たことのないものばかりで、目を逸らせない。


そんなふうにあたりを見ていたとき、不意に白嶺が足を止めた。


私はその背中にぶつかりそうになって、慌てて止まる。


「どうしたんだい」


椿の声が低くなる。


白嶺は答えず、少しだけ顔を上げた。風の匂いでも嗅いでいるみたいだった。


「気配がする」


短い声だった。


その言葉が落ちた途端、空気が変わった気がした。さっきまで遠くで鳴いていた虫の声が急に小さくなる。代わりに、道の脇の茂みの奥で、何かが土を掻くような音がした。


ぞわ、と背中が粟立つ。


「燈、後ろへ」


椿が私の肩を軽く押し、自分は一歩前に出た。その背中が、さっきよりずっと大きく見えた。


私は言われた通り後ずさる。けれど足がもつれそうになって、道の端の石につまずきかけた。


その瞬間、草むらの奥から黒いものが這い出してきた。


「っ……!」


昨日見たものに似ていた。泥みたいにどろどろしていて、人の形に近いのに、顔がない。目も鼻も口もないはずなのに、こっちを見ているのがわかる。


一体だけじゃなかった。右の茂みから、左の塀の影から、地面を引きずるみたいに次々と現れる。


「昨日のより多いね」


椿が言った。

笑っているみたいな口調だったけれど、その目は少しも笑っていない。


「境の余波か」


白嶺の声は冷たかった。


その手の中で、いつの間にか大きな扇が開かれている。白い骨に淡い色の地が張られた、美しい扇だった。けれど綺麗だと思った次の瞬間には、それが武器なのだとわかった。


「椿、燈を守れ」


「言われなくても」


黒い影たちがいっせいに動いた。


その瞬間、白嶺が扇を振る。


何が起きたのか、最初はわからなかった。

ただ、次の瞬間にはものすごい風が道を吹き抜けて、落ち葉も砂も黒い影もまとめて巻き上げていた。


私は思わず目をつぶる。髪が乱れて、息が詰まりそうになる。頬に当たる風が痛い。けれど、それはただ強いだけじゃなくて、刃みたいに鋭い感じがした。


影たちは悲鳴もなく吹き飛ばされ、塀や地面に叩きつけられた。


でも、それで終わりじゃなかった。


一体が、ちぎれたみたいな体を引きずりながらなおも這ってくる。別の影は風を避けるみたいに低く回り込んで、こっちへ近づいてくる。


「しぶといね」


椿が低く言った。


次の瞬間、その手に大きな棍棒が握られていた。どこから出したのかもわからなかった。ただ黒くて太いそれを、椿は軽い木の枝みたいに肩に担いでいる。


迫ってきた影に向かって、一歩、前へ踏み出す。


棍棒が振り下ろされた。


どん、と鈍い音が道に響いた。地面が少し揺れた気がして、私は思わず膝を曲げる。目の前にいた影は、その一撃で地面にめり込んだみたいに動かなくなった。


けれど、右から別の一体が飛びかかる。


「危な――」


声が出るより早く、椿は棍棒を横に払ってそれを弾き飛ばした。影の体が壁にぶつかって、どろりと崩れる。


それでもまだ終わらない。今度は二体、後ろから。


「白嶺!」


「わかっている」


白嶺がもう一度扇を返す。今度の風はさっきより狭くて鋭かった。見えない刃みたいな風が走った途端、後ろから迫っていた影たちの体が大きく揺れ、そのまままとめて横倒しになる。


白嶺自身はほとんど動いていない。扇を持つ手と、立つ位置が少し変わるだけだ。それなのに、影たちは近づくこともできない。


綺麗だった。

怖いくらい綺麗だった。


あの白い翼も、静かな声も、全部人間のものじゃない。

そう思った瞬間、左の塀の上からぬっと黒い影が落ちてきた。


「っ!」


私の真上だった。


体が凍りついて動けない。

けれど次の瞬間には、椿が私の前にいた。


棍棒を振るうには距離が近すぎたんだと思う。椿は舌打ちして、それをためらいなく放り捨てた。


「やっぱ、こっちのが早い」


握った拳が、そのまま影の胴にめり込む。


鈍い音がした。

黒い影の体がくの字に折れ、そのまま地面に叩きつけられる。


私は呆然とその背中を見るしかなかった。


棍棒を持っているときも強かった。

でも、何も持たない椿の方が、もっと強かった。


もう一体が這い寄ってくる。椿はそれを片腕で掴み上げ、そのまま地面へ叩きつけた。黒い泥みたいなものが飛び散って、すぐに煙のように薄れていく。


「ったく、きりがないね」


「燈から離すな」


「わかってるよ」


椿はそう言いながらも、私を背に庇う位置を少しも崩さなかった。


白嶺が前、椿がすぐ前。

私はその後ろにいるだけだった。


なのに、胸の奥がざわざわする。昨日の黒い影を押し潰したときの、あの熱を思い出しそうになる。息が浅くなって、指先が少し熱い。


そのとき、道の先の暗がりから、これまでより大きな影がゆっくりと姿を現した。


今までの下級妖怪よりも背が高い。形も少し人に近くて、腕らしいものが長く垂れている。顔はやっぱりないのに、見られた瞬間、背筋が冷たくなった。


「……少し厄介だね」


椿が呟く。


「昨日の連中より形を保ってる」


「下がれ、椿」


白嶺の声が鋭くなる。


その瞬間、翼が大きく開いた。

白い羽根が夕方の光を受けて、眩しいくらいに輝く。


白嶺は扇を構えたまま、一歩も前へ出ない。けれど、あたりの空気が一気に張り詰めた。風が止まった、と思った次の瞬間、その全部が白嶺のまわりへ集まっていくのがわかった。


そして、扇が振られる。


今度の風は、音が違った。

ぶつかる、というより、裂く音だった。


目の前の空気そのものが白く走ったように見えて、大きな影の体が真横から切り裂かれる。影は大きくのけぞり、道の向こうへ吹き飛ばされた。そのまま地面に転がり、しばらく痙攣(けいれん)するみたいに揺れたあと、形を保てなくなって崩れていった。


私は息をするのも忘れていた。


静かだった。


椿の一撃みたいな大きな音はなかったのに、たった一振りで全部が終わったのがわかった。


「……行くぞ」


白嶺が扇を閉じながら言う。


それだけで、戦いはもう終わったのだと知れる声だった。


まわりにいた影たちは、いつの間にか動かなくなっていた。吹き飛ばされたものも、叩き潰されたものも、地面に残った黒い染みみたいなものさえ、ゆっくり薄れて消えていく。


椿は地面に落ちていた棍棒を拾い上げ、肩に担ぐ。


「燈、立てるかい」


私はこくりと頷いた。

けれど足は少し震えていた。


椿はそれを見て、何も言わず私の肩を軽く叩いた。


「まあ、初めて見りゃこうなるさ」


「……二人とも」


声がかすれた。


「強いんだね」


椿がにやっと笑う。


「今さら気づいたのかい」


その隣で、白嶺は一度だけこちらを見た。


「君が無事でいるためだ」


短い言葉だった。

でも、その言い方のせいか、胸の奥が少しだけ静かになった。


私はもう一度、影が消えた道を見た。


さっきまでそこにいたものが、跡形もなく消えている。

それなのに、風だけがまだ少し冷たくて、戦いが本当にあったのだと教えていた。


「都まで急ぐ」


白嶺が言う。


「このあたりで長居はできない」


私は黙って頷いて、二人のあとを追った。


怖かった。

でも、それと同じくらいはっきりわかったことがある。


白嶺も、椿も、もう昔話の中の化け物なんかじゃなかった。

ちゃんとここにいて、息をして、戦って、私を守っている。


それが少しだけ、心強かった。






風がやんだあともしばらく、私はその場から動けなかった。


さっきまで黒い影がいた場所には、もう何も残っていない。ただ、道の上に散った木の葉だけが、遅れて落ちてきたみたいにぱらぱらと揺れていた。あんなに恐ろしかったものが、こんなふうに何もなかったみたいに消えてしまうのが、かえって気味が悪かった。


胸の奥では、まだ心臓が速く鳴っている。


息を吸って、吐いているつもりなのに、うまく呼吸ができていない気がした。喉の奥がひりひりして、手のひらにはじっとり汗がにじんでいる。


「燈、立てるかい」


椿の声がして、私ははっとした。


顔を上げると、椿はいつもの調子みたいに見えた。棍棒を肩に担いで、少し乱れた髪を片手でかき上げている。けれど、よく見るとその額にはうっすら汗が浮いていた。


「……うん」


頷いたつもりだったけれど、自分でもわかるくらいぎこちなかった。


一歩踏み出す。足が思ったより重い。膝の奥がまだ少し震えていて、地面がちゃんとしているはずなのに、どこかふわふわして感じられた。


椿はそんな私を見て、何も言わずに少しだけ歩幅をゆるめた。


前を歩いていた白嶺が、振り返らないまま口を開く。


「このあたりで足を止めるのはよくない。行くぞ」


声はいつも通り落ち着いていた。けれど、さっき戦っていたときの張りつめた感じがまだ少し残っている気がした。


私は小さく息を吸って、二人のあとを追った。


しばらくは誰も喋らなかった。


道の両脇には低い木立が続いていて、その向こうに都の灯りみたいなものがちらちら見える。空はさっきより暗くなっていて、藍色の中に細い金色が溶けていた。祖父母の家の近くで見る夕方とは全然違う色なのに、暗くなっていく空を見ていると、もう帰らなきゃいけない時間なんだ、という気持ちだけは同じように胸に浮かんだ。


でも、帰る場所はここにはない。


そう思ったら、胸の奥がまたぎゅっと痛くなった。


「……白嶺」


自分でも、どうしてその人の名前を先に呼んだのかわからなかった。


白嶺は少しだけ顔を傾けた。


「なんだ」


「さっきの……」


言いかけて、言葉が止まる。


風。扇。黒い影。裂けるみたいな音。

頭の中には浮かぶのに、うまくまとまらない。


「すごかった」


結局、出てきたのはそれだけだった。


白嶺は少し黙ってから、「そうか」とだけ答えた。誉められたのに慣れていないのか、興味がないのか、それ以上は何も言わない。


代わりに椿が、くすっと笑った。


「そりゃそうだろ。あいつ、ああ見えて強いからね」


「ああ見えて、は余計だ」


「事実じゃないか。普段すました顔してるくせに、戦うと容赦ないんだから」


「君に言われたくない」


「何だい、喧嘩売ってんのか」


二人の言い合いは、やっぱりちくちくしていた。けれど、さっきみたいな怖さはなかった。その声を聞いているうちに、自分の呼吸が少しずつ落ち着いていくのがわかった。


しばらくして、私はもう一つのことを思い出した。


「……椿も」


「ん?」


「強かった」


今度は椿が少しだけ目を丸くする番だった。


「そりゃどうも」


そう言って笑ったあと、わざとらしく棍棒を持ち上げる。


「でも、あんまりこいつのおかげって感じじゃなかっただろ」


私は思わず小さく頷いた。


椿は声を上げて笑う。


「正直でいいねえ。そうなんだよ、こいつは持ってるだけで、ほんとは拳の方が性に合ってる」


「だからと言って、毎回武器を放るな」


「いいだろ、使えるもんは使ってるんだから」


そのやりとりに、私は少しだけ笑いそうになった。

さっきまであんなに怖かったのに、今は二人がこうして言い合っているだけで、少し安心してしまうのが不思議だった。


けれど次の瞬間、ふと別のことが胸に引っかかる。


「……私のせい、だったのかな」


二人の声が止まった。


私は足元を見たまま続ける。


「黒いのが来たの。私がいたから……」


言ってしまってから、喉の奥が苦くなった。

燈に引き寄せられたんだろうね。さっき椿がそう言っていたのを、ちゃんと覚えていたからだ。


椿はすぐには答えなかった。代わりに、前を向いていた白嶺が足をゆるめる。


「君が原因、と単純に言い切れるものじゃない」


静かな声だった。


「昨日から境が不安定だったのは事実だ。あの場に何が来てもおかしくはなかった」


「でも、燈の力が目立つのもほんとだね」


椿があとを継ぐ。


「だから狙われやすい、ってのはある」


私はぎゅっと唇を結んだ。


やっぱりそうなんだ、と思った。

怖いだけじゃなくて、自分がよくわからないものを持っているせいで、二人を危ない目に遭わせるのかもしれない。


そんな私の頭の上に、ぽんと軽い重みが落ちた。


椿の手だった。


「そんな顔すんな」


見上げると、椿はさっきまでみたいに笑ってはいなかった。


「あんたを連れてきたのは、こっちの判断だ。守るって決めたのも、こっちだよ」


その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。


前を歩いていた白嶺も、小さく言った。


「君が気に病む必要はない」


短い一言だった。

でも、それが白嶺なりの気遣いなのだと、なんとなくわかった。


私はしばらく何も言えなかった。


やがて、道の先が少し開ける。


木立の向こうに、都の灯りがさっきよりはっきり見えた。いくつもの屋根が重なって、その奥にもっと大きな建物の影がある。見たこともない景色なのに、不思議と目を引かれた。


「……着くの?」


聞くと、椿が「ああ」と頷いた。


「もう少しで都だよ」


白嶺は前を見たまま言う。


「その中枢に雲仙様がいらっしゃる」


私はその言葉を胸の中で繰り返した。


雲仙様。

この世界で一番多くの妖怪を束ねる人。

私がここに来た理由も、この中にあるらしい力のことも、その人ならわかるかもしれない。


怖い。

でも、会わなければ先へ進めない気もした。


私は都の灯りを見つめながら、小さく息を吐いた。


冷えかけていた胸の奥に、まだ白湯のあたたかさが少しだけ残っている。

その熱を確かめるみたいに手を握って、私はまた二人のあとを歩き出した。

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