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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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2/21

第一話 鳥居のむこう

お盆が近づくと、うちでは毎年決まって、祖父母の家に帰省することになっている。


「燈、忘れ物ない?」


助手席からお母さんが振り返って言った。


「うん、大丈夫」


私は後部座席でそう答えて、自分の足元にあるボストンバッグを見た。着替えや歯ブラシのほかに、本を二冊と、小さなスケッチブックが入っている。去年は川辺で見つけた石の絵を描いた。今年も何か描けるものがあればいいなと思って持ってきた。


車の窓の外には、見慣れた町の景色がどんどん流れていく。しばらくすると家やビルが減って、代わりに緑が増えていった。遠くに見える山は青くかすんでいて、空はどこまでも高い。


「もう少しで着くぞ」


お父さんがそう言うと、お母さんが「今年も暑そうねえ」と笑った。


私は窓に額を寄せた。ひんやりしたガラスが気持ちいい。

大きな入道雲が、ゆっくりと空を流れていく。夏休みだ、と思った。


祖父母の家は、山と田んぼに囲まれた小さな集落のはずれにある。古い木造の家だけれど、私はあの家が好きだった。広い縁側も、少しきしむ廊下も、裏手にある畑も、夜になると聞こえるたくさんの虫の声も、全部、ここにしかない感じがするからだ。


「燈ちゃん、いらっしゃい」


着くなり祖母が笑顔で迎えてくれて、祖父は居間で新聞を読みながら「大きくなったな」と言った。毎年言われている気がするけれど、今年もやっぱり少しうれしかった。


その日の夕方は、縁側で切ったばかりの西瓜(すいか)を食べた。

しゃり、と噛むたびに甘い汁が口の中に広がって、庭の向こうでは蝉が休みなく鳴いていた。


夜には近所の子たちと手持ち花火をした。ぱちぱちとはじける火花はきれいで、少しこわくて、でも楽しかった。寝る前には蚊帳(かや)の向こうから虫の声を聞いた。横になると、昼間よりも少しだけ涼しい風が頬をなでていった。


「明日はどんな楽しいことがあるかな」


小さくつぶやいて目を閉じる。

私の夏休みは、まだ始まったばかりだ。






二日目は川へ行った。


水は思っていたよりずっと冷たくて、足を入れた瞬間、思わず声が出た。田舎の川は都会で見るものよりずっと透明で、浅いところを小さな魚がすばやく泳いでいくのがはっきり見える。陽の光が水面できらきら揺れていて、見ているだけでも気持ちよかった。


最初は冷たさにびっくりしたけれど、少しするとそれが心地よくなってきて、私は裾を気にしながら何度も水の中を歩いた。丸い石の上はつるつるしていて、足元が少し危なっかしかったけれど、それもなんだか楽しかった。


帰り道では祖父に畑を見せてもらって、まだ青いトマトや、つやつやした茄子を眺めた。葉のにおいの混じった夏の空気はむっとするほど暑かったけれど、土の上にしゃがみこんで見る野菜はどれも元気そうだった。


「食べられるやつは採って、夕飯のおかずにでもしようか」


祖父はそう言って笑った。私は頷いて、背の低いところになっている茄子をそっと見た。こんなふうに畑で育っているところを見ると、いつもより少し特別な食べ物みたいに思えた。


昼にはそうめんを食べた。冷たい麺はつるつると喉を通って、川遊びをしたあとの体にちょうどよかった。夕方には親戚の家からもらった桃を冷やして食べた。やわらかくて甘くて、かじると果汁がこぼれそうになった。


毎年似たようなことをしているのに、少しも飽きなかった。

ここで過ごす夏休みは、時間がゆっくり流れているみたいで、私は好きだった。






三日目の午後、私はひとりで家の裏の山道を歩いていた。


祖母には「遠くまで行っちゃだめだよ」と言われていたから、そのつもりはなかった。ただ、涼しそうな道を少しだけ歩いてみたくなっただけだ。


山の中は、昼間でも木陰が多くて薄暗い。蝉の声が耳に痛いくらい響いているのに、風が吹くと急にひんやりする。私は足元に気をつけながら、細い道をゆっくり進んだ。


そのとき、ふと木々の向こうに赤い色が見えた。


気になって近づいてみると、それは鳥居だった。


「……こんなところに、あったっけ」


思わず声に出していた。


鳥居はぽつんとひとつだけ立っていて、その奥には小さな祠があった。古びているようにも見えるし、変にきれいな気もする。人が手入れしているのか、していないのかもよくわからない。山の景色の中にあるはずなのに、その鳥居だけがそこだけ違う場所みたいに見えた。


前にここまで来たことがあったかどうか、思い出せない。

でも、少なくとも私はこの鳥居を知らなかった。


なんとなく気になって、もう少し近づこうとした、そのときだった。


「——おい、あれは人間か?」


誰かの声がした。


私はその場で凍りついた。


声は確かに聞こえた。近かった。鳥居の向こうから聞こえた気がした。

でも、見える範囲には誰もいない。


「……だれ?」


聞いてみても返事はなかった。

あるのは蝉の声と、葉が揺れる音だけだ。


さっきまで涼しいと思っていた風が、急に気味の悪いものみたいに感じられた。背中がぞわっとして、それ以上進めなくなる。鳥居の奥を見てはいけない気がして、私は息を詰めたまま立ち尽くした。


もう帰ったほうがいい。

そう思ったのに、足はすぐには動かなかった。目だけが、どうしても鳥居の奥を見ようとしてしまう。祠の前の影が、少しだけ濃くなったような気がした。


次の瞬間、私ははっとして踵を返した。

逃げるみたいに山道を引き返して、家に戻るまで一度も後ろを振り返らなかった。


その日のことは、夕飯の席でも誰にも言えなかった。

言ったら笑われる気がしたし、自分でもうまく説明できる気がしなかったからだ。


夜になって布団に入ってからも、昼間に見た赤い鳥居が何度も頭に浮かんだ。目を閉じるたび、あの向こうに誰かが立っていたような気がして、胸のあたりが落ち着かなかった。


その日の夜は、なかなか眠れなかった。






四日目の夜、親戚のおじさんが遊びに来た。


大人たちは居間でテレビをつけたまま話していて、私はその近くで麦茶を飲みながら、なんとなく会話を聞いていた。テレビではバラエティ番組の笑い声が流れていたけれど、誰もちゃんとは見ていなくて、ただ部屋の明かりみたいについているだけだった。


「そういや、燈ちゃんは裏山のほう行ったりしたか?」


不意にそう聞かれて、私は少しだけ肩を揺らした。


「……ちょっとだけ」


「はは、あんまり奥まで行くなよ。このへんの山は昔から妙な話が多いからな」


「また始まった」


祖母が呆れたように笑う。


けれど、おじさんは気にしないで続けた。


「この集落にはな、異界へ繋がる道があるって言われてるんだよ」


私は思わず顔を上げた。


「異界……?」


「そう。人じゃないもんがいる場所。昔は鳥居をくぐって帰ってこなかった、なんて話もあったらしい」


「子どもを怖がらせるんじゃないよ」


祖母がそう言って、おじさんの腕を軽く叩いた。おじさんは「冗談冗談」と笑ったけれど、私だけは笑えなかった。


昨日見た、赤い鳥居のことを思い出してしまったからだ。


あれはただの古い祠じゃないのかもしれない。

誰もいないのに聞こえた声も、気のせいじゃなかったのかもしれない。


そう思ったら、胸の奥が落ち着かなくなった。冷たい麦茶を飲んでも、喉のあたりがすっきりしない。テレビの笑い声も、大人たちの話し声も、急に少し遠く聞こえた。


怖い。

でも、確かめたい。


その気持ちは、夜になって布団に入ってからも消えなかった。目を閉じるたび、昼間に見たわけでもないのに、赤い鳥居が暗闇の中にぽつんと浮かんで見える気がした。


明日、もう一度だけ行ってみよう。

そう決めても、胸の奥のざわざわは、なかなか静まらなかった。






翌日の午後、私は昨日と同じ山道を歩いていた。


昨日よりも蝉の声が大きい気がした。

それなのに、胸の中はしんとしていて、落ち着かなかった。引き返したほうがいいと何度も思うのに、足は止まらない。


やがて木々の向こうに、見覚えのある赤が見えた。


昨日と同じ鳥居。

同じはずなのに、今日見るそれはもっとはっきり異様だった。山の緑の中にあるのに、そこだけ空気が違って見える。近づくほど、肌に触れる風が冷たくなっていく気がした。


「——おい、あれは人間か?」


不意に聞こえた声に、私の心臓は大きく跳ねた。


祖父母の家の裏山。

さっきまで耳が痛くなるほどうるさかった蝉の声が、その瞬間だけ少し遠くなった気がした。夏の湿った空気が肌にまとわりついて、木々の隙間から差し込む光さえ、この場所だけどこか冷たく見える。


視線の先には、赤い鳥居が立っていた。


逃げたほうがいい。

そう思うのに、足は動かなかった。


「……だれ、そこにいるの?」


なんとかそう聞いてみたけれど、返事はない。

あるのは風が笹の葉を揺らす音だけだった。


けれど、鳥居の向こう、祠のあたりから、誰かにじっと見られているような気配がする。

頭の中では逃げろと何度も声がしているのに、目だけはどうしても逸らせなかった。


そのとき、木陰の奥から人影が現れた。


「っ……!」


私は息を呑んだ。


最初に見えたのは、白い翼だった。

雪みたいに真っ白な、大きな翼。


それを背にした男の人が、鳥居の向こうに立っていた。髪も、伏せた睫毛も、着ているものも淡い色ばかりなのに、顔立ちは驚くほどはっきりしている。綺麗、というより、こんなものが本当にいていいのかと思うくらい、現実じゃなかった。


「へえ。ほんとに人間じゃないか」


その男の人の影から、もうひとり姿を見せる。


背の高い女の人だった。肩も腕も私の知っている女の人よりずっとたくましくて、頭には大きな角が二本、生えている。怖そうなのに、口元にはどこか面白がるみたいな笑みが浮かんでいた。


「妙だな」


白い翼の男の人が、静かな声で言った。


「この境が見えるはずがない」


境。

意味はわからない。けれど、その言葉がひどく遠く感じた。私の頭は、目の前の二人を見ただけでいっぱいだったからだ。


膝が震える。息もうまくできない。


「おっと、そんなに怯えなくてもいい。取って食いやしないさ」


角のある女の人が一歩前に出る。

その迫力に、私は思わず後ずさった。


「椿、脅かすな」


白い翼の男の人が静かに言う。


「脅かしてないよ。あたしは優しくしてるつもりなんだけどね」


椿。

強そうで怖いのに、名前だけ聞くと花みたいだと思った。


白い翼の男の人は、まっすぐ私を見た。


「君、名前は」


「……あかり」


声がうまく出なかった。

喉がからからに乾いている。


「燈、です」


「燈」


その人は確かめるみたいに私の名前を口にした。

それから少しだけ眉を寄せる。


「どうやってここへ来た」


「……歩いて……気づいたら、ここに」


「それは答えになっていない」


ひやりとするような声だった。

怒っているわけではないのに、責められたみたいな気がして、私は口をつぐんだ。


すると椿が、はあと息をついた。


「おいおい、そんな言い方したら余計怖がるだろ。見なよ、今にも倒れそうじゃないか」


そう言って、私の前にしゃがみこむ。

近くで見ると、椿の目は琥珀みたいな色をしていた。


「燈。あんた、自分が今どこにいるかわかってるかい?」


私は首を横に振った。

祖父母の家で聞いた昔話が、頭のすみでちらりとよぎる。


「笑い事じゃない、椿」


白い翼の男の人が言った。

その瞬間、さっきより空気が冷たくなった気がした。


私は思わずそちらを見る。

綺麗な人だと思った。けれど、近づきやすい綺麗さじゃない。触れたら指が切れそうな、薄い氷みたいな感じがした。


「……僕は白嶺だ」


落ち着いた声だった。


「こいつは椿。見た目どおり少々乱暴だが、人間を喰ったりはしない」


「おい」


椿がすぐに睨む。


「紹介の仕方ってもんがあるだろ」


「事実を言ったまでだ」


「見た目どおりって何だい」


「そのままの意味だ」


二人のやりとりは、ちくちくしているのに、どこか息が合っていた。

その不思議な会話に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。


でも、それも一瞬だった。


ざわり、と鳥居の奥の木々が大きく揺れた。


「……下がれ、燈!」


白嶺の声が鋭くなる。

同時に、椿の腕が私の肩を引き寄せた。


祠の陰から、黒いものが這い出してくる。


泥みたいにどろどろしていて、人の形に似ているのに、顔がない。見た瞬間、ぞっとした。怖い、というより、見てはいけないものを見た気がした。


「下っ端が寄ってきたか」


椿が低く言う。


「燈に引き寄せられたんだろうね」


「椿、その子を守れ」


白嶺が翼を広げる。

その白さが一瞬、暗い森の中でまぶしく見えた。


けれど、その黒い影は、まっすぐ私の方を向いた。


目なんてないはずなのに、はっきりそうわかった。


私を見ている。

背筋が凍る。


怖い。来ないで。いやだ。


そう思った瞬間、胸の奥が急に熱くなった。


心臓のすぐそばで、何かがぱちんと弾けたみたいだった。

逃げたい気持ちが、一瞬で別のものに変わる。


拒むような、押し返すような気持ち。


「……来ないで」


自分でも驚くくらい重い声が、喉の奥からこぼれた。


その瞬間、黒い影がびくりと震えた。

まるで見えない何かに押さえつけられたみたいに、地面へ叩きつけられる。


「……は?」


椿が呆然と声を漏らした。


白嶺もまた、はっきりと目を見開いている。


「今のは……」


自分が何をしたのか、私にはわからなかった。


急に体中の力が抜ける。

立っていられない。視界がぐらりと揺れて、膝が折れた。


「おい、燈!」


椿の声が遠くなる。


次の瞬間、誰かの腕が私を支えた。

頬にふれるのは、ひんやりとした羽根の感触。白い翼が、私の肩にふわりとかかる。


「無茶をしすぎだ」


すぐ近くで、白嶺の声がした。

いつもの冷たさとは少し違う、焦ったような響きが混じっている。


「椿。この子を連れていく」


「言われなくてもそのつもりだよ」


「……父様に見つかる前に」


その言葉だけが、妙に耳に残った。


とうさま。

それが誰のことなのか考える前に、まぶたが重くなる。


ぼやけていく視界の向こうで、赤い鳥居が夕闇に溶けていった。

私はそのまま、深い眠りの底へ落ちていった。

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