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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第二章

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第十七話 守りの外で

外縁区から戻ったその日の夜、私はなかなか寝つけなかった。


客間の障子の向こうには、いつもと変わらない庭がある。青白い霊力路が石のあいだを静かに流れ、枝先を揺らす風は穏やかだった。屋敷の中もまた、普段通りの静けさを取り戻しているように見える。傀儡の巡回する足音も一定で、遠くの回廊で誰かが低く言葉を交わす気配も、今ではもう珍しくない。


なのに、私の中だけが外縁区の路地裏に置き去りになっていた。


半分ほどけたような影の妖怪。

薬草を抱え、「あったかい子だねえ」と私を見た目。

人に忘れられ、名を呼ばれなくなり、少しずつ輪郭を失っていくという話。

表通りのにぎわいのすぐ裏で、声を上げる元気もなく座りこんでいた者たち。


布団の上で目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶのはあの細い路地ばかりだった。


今までだって、妖魔界のことを何も知らなかったわけじゃない。

雲仙様から、この世界が弱りつつあると聞いた。人に忘れられた妖怪たちが力を失い、だからこそ宥和派と徹底抗戦派が対立しているのだと教えられた。白嶺も椿も、それぞれの言葉で“今の妖魔界”を話してくれた。


でも、それと、実際に目で見ることは違う。


会議の席で交わされた議論は重かった。私の存在が危険だとか、管理すべきだとか、奪うべきだとか。あの日、私はただ、自分が見られていることの苦しさばかりを感じていた。

けれど外縁区で見たのは、見られもしないまま、忘れられたまま、静かに薄れていくものたちだった。


「……守るって、何なんだろう」


小さく呟いても、返事はない。


私は寝返りを打った。

明日になったら、白嶺と椿にも話してみようと、そう思っていた。紬が見せたかったのは、きっとそれだけじゃない。私に見せて終わりではなく、見たものを抱えたまま、今度は誰かへ返すところまで含めて、紬は私を外へ連れ出したんだと思う。


そう思うと、少しだけ緊張した。

うまく言葉にできるだろうか。私自身、外縁区で見たものの全部を整理しきれていない。けれど、それでも言わなければならない気がした。


庭の向こうで、風が一度だけ大きく葉を揺らした。


私はようやく目を閉じる。


静かな夜だった。

でもその静けさの底に、忘れられた声がまだ確かに残っているような気がした。





翌朝、私は朝食のあと、紬に「白嶺はいる?」と聞いた。


紬は少しだけ目を瞬いてから、すぐに何を言いたいのかわかったみたいに頷いた。


「いるよ。朝から書類見てる」


「忙しい?」


「忙しいけど、会えないほどじゃないと思う」


「……話したいことがあるの」


そう言うと、紬はやわらかく笑った。


「外縁区のこと?」


私はこくりと頷く。


「うん」


「じゃあ、たぶん白嶺も聞いた方がいい」


その言い方が少し意味深で、私は首を傾げた。


「どうして?」


「昨夜のうちに僕が少しだけ話したんだ。燈ちゃんを連れて行ったことと、ざっくり見たことを」


「怒ってた?」


「怒るというより……考えこんでた」


それは白嶺らしい反応だった。


紬に案内されて向かったのは、客間から少し離れた書庫に近い小部屋だった。

障子が半分だけ開いていて、中には白嶺がいた。机の上には巻物と木簡、それから都の簡単な見取り図らしきものが広がっている。いつものきちんとした装いではあるけれど、今日は羽織の袖を少しだけたくし上げていて、いかにも“考えごとをしている人”の格好だった。


白嶺は私たちの気配にすぐ気づいて顔を上げる。


「来たか」


「うん」


「燈ちゃん、外縁区のこと話したいんだって」


紬が先に言うと、白嶺は机の上の紙を静かにまとめた。


「座れ」


私と紬は敷かれた座布団へ座る。

白嶺は正面に向き直ったまま、すぐには口を開かなかった。何かを急かすでもなく、ただ“話せ”と目で言っている。私はその静けさに少しだけ緊張したけれど、ここで引き下がりたくなかった。


「昨日……外縁区に行って」


「聞いている」


白嶺が言う。


「紬の判断で届け物に同行したことも、その途中で何を見たかも、概ねは」


「概ね、ってことは全部じゃないんだよね」


「当然だ。君が見たことと、紬が説明したことは別だ」


そう返されて、私は少しだけ息を吸った。


「じゃあ、私が見たことを話す」


「話せ」


私は膝の上で指を組み、少しずつ言葉を選んだ。


中央区とは違う雑多な通り。

古い傀儡、傷んだ建物、弱い霊力灯。

表通りの裏にいた、形を保つのも苦しそうな妖怪たち。

「あったかい子だねえ」と笑った薬屋。

そして、私の霊力に反応して近づいてきた、小さく薄れた影の妖怪。


話しているうちに、また胸の奥がざわついてくるのを感じた。怖かったことも、その怖さだけでは終われなかったことも、口にするたびに鮮やかになる。


「……襲ってくるっていうより、縋るみたいだった」


最後にそう言うと、白嶺の目がほんの少しだけ細くなった。


「縋る、か」


「うん。怖かったけど、前みたいな感じじゃなかった」


私は白嶺を見た。


「白嶺、前に言ってたよね。下級妖怪が私を狙うのは、私の霊力が濃いからだって」


「言った」


「たぶん、それは本当なんだと思う。でも昨日見たのは、“狙う”っていうより“足りなくて苦しい”って感じだった」


白嶺は黙って聞いていた。

その沈黙が、私には少しだけこわかった。否定される気はしない。けれど、静かな人が本気で考えこんでいる時の間は、やっぱり少し息が詰まる。


紬がそこで口を挟む。


「燈ちゃんが見たのは、たぶん珍しい例じゃないよ」


「珍しくない?」


「うん。外縁区の端には、似たような状態の人たちが少なくない。名前を呼ばれなくなったり、役目を失ったり、信仰が薄れたりして、形を保つ力まで足りなくなってる」


「……それを、都は放ってるの?」


思わず聞くと、紬は少しだけ困った顔になった。


「放ってる、っていうと語弊はあるかな。中央からの支援がないわけじゃないし、薬や霊具も最低限は回ってる」


「でも」


「足りない」


今度は白嶺が答えた。


私と紬が同時にそちらを見る。


白嶺は目を伏せたまま、机の端に置いた巻物へ指先を触れた。


「足りていないのは事実だ」


その声は低く、どこか自分に言い聞かせるみたいでもあった。


「中央区と外縁区では、都の安定の恩恵に差がある。妖工霊力の整備状況も違う。警邏(けいら)の目も、物資の流れも、優先順位が違う」


白嶺はそこまで言ってから、一度だけ視線を上げた。


「……わかっていたつもりではいた」


私はその言葉に、小さく息を止めた。


わかっていたつもり。

それは白嶺の口から出るには、少し珍しい種類の言い方に思えた。


「でも、紬から昨夜話を聞いてから、ずっと引っかかっている」


白嶺は続ける。


「父の言う宥和は、秩序を守るためのものだ。対立を制御し、都を持たせ、妖魔界そのものを延命させる。その必要性自体は、僕も今でも否定しない」


公の場での意見ではなく、今はただ本音を話しているのだとわかった。


「だが、それで守られているのが、中央の秩序と上位層の安定ばかりだとしたら」


そこで言葉が切れる。


白嶺は普段、考えがまとまらないまま口にすることを好まない。そんな白嶺が、あえて途中で言葉を置くのを、私は初めて見た気がした。


「白嶺」


私がそっと呼ぶと、白嶺はゆっくり顔を上げた。


「……父の用意した宥和は、誰のためのものなんだろうと考えていた」


その一言は、胸に静かに落ちた。


蒼耀の思想そのものを、白嶺は今も全部捨てたわけではない。

でも、その思想が届いていない場所の現実を突きつけられて、初めて疑問が生まれている。私にはそれがはっきりわかった。


紬が少しだけ目を細める。


「姉さんも、似たことを言ってた」


「朱蘭が?」


白嶺がそちらを見る。


「うん。昔ね、宥和も抗戦も、どっちも大きな言葉だけど、その下からこぼれ落ちる人たちがいるって」


紬の声は穏やかだったけれど、その穏やかさがかえって重かった。


「だから、財の流れだけでもどうにかしようとしてた時期があった。でも、姉さんひとりで変えられることには限りがあった」


白嶺は小さく黙った。

その顔に、紬の姉を思う影が差したのが私にもわかった。


「……会議で、外縁区のことは話題にならなかったの?」


私が聞くと、白嶺はすぐには答えなかった。


やがて、静かに口を開く。


「出ないわけではない。だが、優先順位は低い」


「どうして」


「緊急性が見えにくいからだ」


その答えは、ひどく冷静だった。

でも、それが現実なんだろう。


「燈の存在は、目に見えて議題になる。管理するか、守るか、奪うか、切り分けやすい。だが外縁区の衰えは、急に爆ぜる火種ではない。静かに進むぶん、後回しにされやすい」


それは紬が昨日言っていたことと、ほとんど同じだった。

けれど白嶺の口から改めて聞かされると、その重さはまた違っていた。


「でも、それでいいの?」


私は気づけば、少し強い声で言っていた。


「後回しにされたまま、消えていくのを見てるだけで」


白嶺はまっすぐ私を見る。


「よくはない」


短い答えだった。


「よくはないが、だからといって今すぐすべてを変えられるとも言えない」


「うん」


「だから厄介なんだ」


その言葉には、珍しく苛立ちに近いものが混じっていた。


「父は間違っていない部分も多い。都を維持するには秩序がいる。雲仙様の負担が増す中で、混乱を広げないことも必要だ。だが、その秩序が結果としてこぼれ落ちる者を生むなら、それは本当に“守っている”と言えるのか、僕にもわからなくなってきた」


私はその言葉を聞きながら、昨日の路地裏を思い出した。

静かに座りこんでいた妖怪たち。あの人たちにとって、都は守ってくれる場所なんだろうか。それとも、ただ見捨てられないための最低限だけを与えられる場所なんだろうか。


そのとき、障子の向こうから遠慮のない声が飛んだ。


「おや、ずいぶん難しい顔してるじゃないか」


椿だった。


返事をするより先に障子が開き、椿がそのまま入ってくる。

今日は鍛錬帰りらしく、髪を後ろで高く結び、着流しの袖を軽くまくっていた。額に汗が残っているのに、それでも妙に堂々としている。


「何の集まりだい、これは」


「燈が外縁区で見たことを話していた」


白嶺が言う。


「へえ」


椿の琥珀色の目が、私へ向いた。


「じゃあちょうどよかった。あたしも聞きたいね」


椿はそのまま紬の隣にどさっと座った。

部屋の空気が少しだけ軽くなる。けれど、今から話すことが軽い話ではないのもわかっていた。


もう一度、私は外縁区のことを話した。

今度は白嶺へ語る時より少しだけ言葉が整っていた。薬屋の妖のこと。裏路地にいた薄れた者たちのこと。私の霊力に反応して近づいてきた小さな影のこと。


椿は最初、何も言わずに聞いていた。

でも私が「ただ襲うっていうより、足りなくて縋るみたいだった」と言ったところで、はっきりと顔をしかめた。


「気に食わないね」


吐き捨てるような一言だった。


「何が?」


私が聞くと、椿は腕を組み、苛立ったように片膝を立てた。


「何がも何もないだろ。力のあるやつらは上でご立派な理屈を並べてるのに、その下であんなふうに擦り切れてるのがいるってことさ」


「椿……」


紬が小さく名を呼ぶ。


でも椿は止まらなかった。


「兄貴のやり方が気に食わないのは今さらだよ。あっちは最初から、力のないやつは置いていく側だからね。でも蒼耀みたいに“守るため”とか“秩序のため”とか綺麗なこと言ってる連中まで、結局は弱いやつをこぼしてるなら、なおさら気に食わない」


私は黙って聞いた。


椿の怒りはわかりやすい。

けれどそのわかりやすさの奥に、もっと個人的な痛みがあるのも伝わってくる。男尊女卑の鬼の一族で、弱い側として踏まれないために戦ってきた椿だからこそ、力のある側が都合のいい理屈で弱い者を切り捨てるのを見ると我慢ならないんだろう。


「守る、って言葉がさ」


椿は低く続けた。


「一番信用ならない時があるんだよ」


その一言に、部屋が静かになった。


私は言葉を返せなかった。

白嶺も同じだった。白嶺は少しだけ視線を落とし、机の上の指先を静かに組んだ。


「……そうかもしれない」


やがて、白嶺が言う。


椿がそちらを見る。


「何だい。珍しく素直じゃないか」


「君の言い方は相変わらず極端だ」


「でも否定はしないんだろ」


白嶺は一度だけ、わずかに息をついた。


「父の言う守りは、少なくとも僕にとってはずっと正しいものだった。混乱を防ぎ、争いを抑え、都を持たせる。そのための理と手段は必要だと今も思っている」


「うん」


私は小さく頷いた。


「だが、守りの内側にいる者だけを数えるなら、それは守りとは呼べないのかもしれない」


その言葉に、私ははっとした。


守りの内側。

守りの外側。


中央区の明るい通りと、外縁区の裏路地。

会議の席で言う“守る”と、そこからこぼれる者たち。

私自身もまた、雲仙様の屋敷の内側で守られている。でも、外縁区にはその守りの外にいる者たちがいた。


「白嶺」


私は思わず呼んだ。


「なに」


「昨日、私もそんな感じがした」


「どんな」


「屋敷にいると、ここが守られてるってわかる。でも外縁区を見たら、同じ都なのに全然違った。中央区の会議で言う“守る”って、あの人たちのところまで届いてないんだって思った」


白嶺は静かに私を見た。

その目には、私の言葉を否定する色はなかった。


椿がそこで口を挟む。


「だったら話は早いじゃないか。守りの仕組みが悪いんだろ」


「単純化するな」


白嶺が即座に返す。


「簡単に変えられる話なら、もっと前に誰かがやっている」


「やってないから今こうなんだろ」


「それはそうだが」


言い返しながらも、白嶺の声にはいつものきっぱりした切れ味だけではない、別の重さがあった。


私は二人を見た。


この二人は、いつも違う場所から物を見る。

白嶺は理から入り、椿は怒りから入る。けれど今、その違う二人が、同じ“気に食わなさ”の前に立っているように見えた。


紬がそこで、やわらかく口を添える。


「姉さんね、前に言ってたんだ」


三人の視線が紬へ向く。


「“上の座にいる人たちは、下のほころびを知らないんじゃない。知っていて、全部を抱えられないから線を引くのだ”って」


紬は少しだけ目を伏せた。


「でも、“線を引いたまま正しさを語ると、こぼれた側の声は聞こえなくなる”とも言ってた」


部屋がまた静かになる。


朱蘭。

紬の亡くなった姉の言葉は、いつも少し遅れて胸に響く。現実を知った上で、それでも諦めきれなかった人の言葉だからかもしれない。


「……朱蘭らしいな」


白嶺がぽつりと呟いた。


「そう?」


「ああ。綺麗事では済ませないが、線を引いた側だけに立ちもしない」


その評価には、少しだけ敬意が滲んでいた。


私は自分の膝を見下ろした。


「私、何ができるのかはまだわからない」


小さくそう言う。


「でも、見なかったことにはしたくない」


それは外縁区から戻ってからずっと私の中にあった気持ちだった。

何かすぐにできるわけじゃない。私はまだ子どもで、この世界のことだって知らないことの方が多い。それでも、あの路地で見たものを「仕方ない」で終わらせるのだけは嫌だった。


椿が私を見る。


「それでいいんじゃないか」


「え」


「何でもかんでも今すぐ背負う必要はないさ。でも見たものを忘れないってのは、大事だよ」


その言い方は乱暴じゃなかった。

椿にしては珍しく、まっすぐやわらかい。


「弱い側が踏まれてるのを、見ないふりしない。それだけでも、上にいる連中よりよっぽどましさ」


「椿、それは言い過ぎだ」


白嶺が言う。


「そうかい?」


「少なくとも全員が見ないふりをしているわけではない」


「でも結果は変わってない」


椿のその返しに、白嶺はすぐには言い返せなかった。


その沈黙が、私には妙に印象に残った。

白嶺は反論できない時、感情で押し返さない。ただ黙って、その反論できなさごと引き受ける。そこが白嶺らしくて、苦しそうだった。


しばらくして、白嶺が低く言う。


「……外縁区のことは、改めて僕の方でも見直す」


「見直す?」


私が聞くと、白嶺は頷いた。


「父の配する文官筋の報告だけでは足りない。実情と差があるなら、そこを自分で確かめる必要がある」


椿がすぐに口角を上げた。


「へえ。父上の用意した帳面だけじゃ信用できないって?」


「そういうことになるな」


「やっとかい」


「君に言われたくはない」


白嶺の返しはいつも通りだった。

でも私には、その“いつも通り”が少し変わって聞こえた。白嶺は今まで、父のやり方に対して手段の面で疑問はあっても、用意された宥和そのものの枠には立っていた。けれど今、その枠の外にある現実を、無視できないものとして見始めている。


それはきっと、小さな変化だ。

でも、小さいからこそ本物のような気がした。


「燈ちゃん」


紬が呼ぶ。


「なに」


「話してくれてよかった」


その言葉に、私は少しだけ目を瞬いた。


「紬くんが連れてってくれたんでしょ」


「うん。でも、見ただけじゃ届かないこともあるからさ」


紬は笑う。


「燈ちゃんがちゃんと、自分の言葉で話したから、今ここまで来たんだよ」


私は何か返そうとして、うまく言葉が見つからなかった。

代わりに小さく頷く。


障子の外では、昼の風が庭を渡っていた。

青白い霊力路の光は変わらず穏やかだ。けれど私には、昨日までと同じ風景には見えなかった。守りの内側にいるからこそ見えなくなっていたものがある。そのことを知ったあとでは、同じ庭も少し違う意味を持ってくる。


「ねえ、白嶺」


私はふと思い立って聞いた。


「なに」


「会議の時、みんな“守る”って言ってたんだよね」


「そうだな」


「それなら、守りの外にいるもののことも、ちゃんと見ないとだめだよね」


白嶺はしばらく私を見ていた。


それから、静かに答える。


「……ああ。たぶん、そこから目を逸らした時点で、それはもう守りではないんだろう」


その言葉を聞いたとき、私は胸の奥で何かが少しだけ落ち着くのを感じた。


まだ答えは出ていない。

外縁区の現実が明日すぐ変わるわけでもない。蒼耀も岩砕も、今日この瞬間に考えを変えることはないだろう。都の仕組みも、守りの形も、そんなに簡単に組み替えられるはずがない。


それでも、見たものを見たままにしておかない人がいる。

白嶺が疑問を持ち始め、椿が怒りを隠さず、紬が橋をかけるように言葉を添える。その中に私もまた、自分の見てきた現実を差し出せた。


それだけで、昨日までより少しだけ違う場所へ来た気がした。


椿が立ち上がる。


「さて、湿っぽい話はこのへんでいいだろ。あたしは鍛錬に戻るよ」


「湿っぽいと自分で言うな」


「事実じゃないか」


そう言いながらも、椿の顔にはまだ少しだけ険しいものが残っていた。

たぶん椿は、これからも外縁区の話を思い出すだろう。兄の武の論理も、蒼耀の綺麗な宥和も、どちらにも吐き気を覚えながら。


紬も立ち上がる。


「僕も一回、帳場の方行ってくる。今日は届け物の記録つけないと」


「忙しいね」


「世話係だからね」


紬は笑い、障子の方へ向かった。


残ったのは私と白嶺だけだった。


少し気まずい沈黙が落ちる。

でも、前のように何を話せばいいのかわからない沈黙ではない。お互いに少し考えすぎている時の、静かな間だった。


白嶺が先に口を開く。


「燈」


「うん」


「昨日、外縁区へ行って怖かったか」


私は少しだけ驚いた。


「……怖かったよ」


「そうか」


「でも、怖いだけじゃなかった」


そう言うと、白嶺は小さく頷いた。


「ならよかった」


「よかった?」


「怖いだけなら、見た意味が半分になる」


その言い方は相変わらず少し固い。

でも私は、そこにちゃんと気づかいがあるのを知っていた。


「白嶺」


「なんだ」


「昨日のこと、忘れないでね」


白嶺は私を見た。

その目は静かだったけれど、逃げていなかった。


「忘れない」


短い返事だった。


けれど、その短さの中に嘘はなかった。


庭の向こうで風が吹く。

守りの内側にいても、その風は外から吹いてくる。外縁区の路地を撫で、中央区の楼のあいだを抜け、雲仙様の屋敷の庭まで届く。同じ都の風だ。


私はそのことを、ふと不思議に思った。


守りの外で擦り切れているものたちと、守りの内側で議論を重ねる者たち。そのどちらの上にも、同じ風が吹いている。なら、完全に切り離された世界なんて本当はないのかもしれない。


まだ答えは出ない。

でも、答えの形を考えはじめるための言葉は、少しずつ集まりつつあった。


私は庭を見つめたまま、胸の奥でそっと呟く。


守りの外にいるものを知らずに、守るなんて言いたくない。


その言葉はまだ誰にも聞かせていない。

けれど、いつか必要になる気がした。都の行く末を決める誰かの前で、あるいはもっとずっと先、自分が何かを選ぶ時に。


白嶺はもう机の上の紙へ目を戻していた。

でも、その横顔は昨日までとは少し違って見えた。父の用意した宥和の内側に立ったまま、その外を見ようとしている顔だ。


椿はたぶん、今ごろ鍛錬場でいつもより強く棍棒を振っているだろう。

紬は帳場で何事もなかった顔をしながら、姉の言葉を心のどこかでなぞっているかもしれない。


私は静かに息を吐いた。


外縁区で聞いた声は、ここまで届いた。

それだけでも、昨日より少しだけ、世界は違っている。

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