第十八話 朱の残響
翌日から、屋敷の中の空気は目に見えないところで少しずつ変わった。
表立って何かが動いたわけではない。
相変わらず客間の区画には傀儡が巡回し、庭の霊灯は静かに灯り、白嶺は忙しそうに書類と向き合っている。椿は鍛錬場で棍棒を振り回し、紬はいつものように世話係として回廊を行き来していた。
でも、私にはわかった。
白嶺が、考えている。
ただ漠然とじゃない。
何かを確かめようとしている時の白嶺は、普段以上に口数が減る。けれどそれは閉じているんじゃなくて、内側で糸を張り巡らせている感じだった。机の上の文書を読む目が、以前よりもずっと鋭い。ひとつの報告を見て終わらせず、別の帳面や地図と照らし合わせて、何度も立ち止まる。
私はそれを、少し離れたところから見ていた。
前なら、そんな白嶺には声をかけづらかった。
でも今は少し違う。外縁区から戻ったあと、自分が見たものを話し、それがちゃんと届いた実感があったからだ。
昼下がり、私が客間の縁側で絵を描いていると、紬がそっと顔を出した。
「燈ちゃん、ちょっといい?」
「いいよ」
私が筆を置くと、紬は回廊を気にするようにちらりと後ろを見た。
「白嶺がね、もう一度外縁区へ行くって」
私はすぐに筆を置き直した。
「ほんとに?」
「うん。文官筋の報告と実際の状況に食い違いがないか、自分の目で見たいって」
白嶺らしい。
でも、それをほんとうに実行に移すのは、私が思っていたより早かった。
「僕も一緒に行くよ」と紬は続ける。
「案内と、顔つなぎが必要だから」
「……私も行っていいのかな」
そう聞くと、紬は少しだけ笑った。
「それ、白嶺に先に聞いてみた?」
「まだ」
「じゃあ今から聞こう」
紬はそう言って、あっさり踵を返した。
白嶺は書庫に近い小部屋にいた。
相変わらず紙と向き合っていたけれど、私たちが入ってくるとすぐに顔を上げた。私の顔を見る前に紬を見て、それから二人そろっている理由を察したみたいに一度だけ目を細める。
「なんだ」
「外縁区、燈ちゃんも連れていく?」
紬がまっすぐ聞く。
白嶺は私を見た。
「行きたいのか」
私は少しだけ迷って、それから頷く。
「うん。前に見たところだけじゃなくて、もっと知りたい」
「危険がある」
「わかってる」
「前回のように、ただ見て終わるとは限らない」
「それもわかってる」
私は白嶺を見返した。
「でも、知りたい。あのままにしたくない」
部屋が少しだけ静かになる。
白嶺はすぐには返事をしなかった。
断る時の間とも違う。たぶん、私を連れていくことの危険と、連れていかないことの意味を秤にかけているんだろう。
やがて、白嶺が言った。
「条件がある」
「うん」
「前回より奥へ入る。紬の案内なしでは一歩も勝手に動くな。違和感を覚えたらすぐ言え。危険だと判断したら、その時点で引き返す」
「わかった」
「それから」
白嶺の藍玉色の目が少しだけ鋭くなる。
「今回は、ただ好奇心で来るなら連れていかない」
私はその言葉に、背筋を正した。
「……好奇心だけじゃないよ」
「ならいい」
白嶺は短く言った。
話はそれで決まりだった。
椿には出発前に一応伝えられたが、予想どおりというべきか、露骨に嫌そうな顔をされた。
「また外縁区かい」
鍛錬場の柱にもたれたまま、椿は白嶺を睨む。
「好きにしな。ただし綺麗ごとで帰ってくるんじゃないよ」
「そのつもりはない」
「ふん」
椿は私の方を見る。
「燈、変に背負うんじゃないよ。あそこは、見れば見るほど腹が立つ場所だ」
「うん」
「それと白嶺」
「なんだ」
「帳面の中の都と、本物の都が同じだと思うな」
白嶺は少しだけ目を伏せた。
「……もう思っていない」
外縁区へ向かう道は、前回と同じところまでは私にも見覚えがあった。
商業区の賑わいを抜け、傀儡の型が少し古び、霊力灯の明かりがまばらになる。だが今日は、私の見る景色が少し違う。隣に白嶺がいるからかもしれなかった。
白嶺はいつもの装いではあるけれど、羽織の色を少し抑え、頭襟も簡素なものに替えていた。翼はきっちり畳まれている。立ち姿の気品までは隠しようがないが、それでも中央区の重鎮の子として目立ちすぎないようにしているのがわかった。
それでも、道行く妖怪たちは白嶺をちらちら見る。
目立つのは仕方ないんだろう。
「……やっぱり目立つね」
私が小声で言うと、紬が笑う。
「そりゃそうだよ。白嶺だもん」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
白嶺は軽く息をついた。
でも今日は、そのやり取りに少しだけ救われた。白嶺は外縁区へ行くと決めた時から、ずっと考え込んでいるようだったからだ。中央区を抜けるあたりまでは、その横顔もかなり固かった。
外縁区に入ると、前と同じ雑多な空気が三人を包んだ。
油の匂い。薬草の匂い。焦げた甘い匂い。
傀儡の軋む音。鍋の煮える音。怒鳴り合いにも笑い声にも聞こえるざらついた喧騒。
私は前よりも少し落ち着いてそれを見た。
前回は何もかもが初めてで、ただ圧倒された。でも今は、そのにぎやかさの裏に、声を失ったような静けさが隠れていることを知っている。
白嶺もまた、辺りをゆっくり見回していた。
ただ眺めているんじゃない。
霊力灯の配置、傀儡の巡回頻度、通りの補修状態、店の密度。そんなものまで目で数えているのがわかる。
「……報告で読むより荒れている」
白嶺が低く言った。
「どのへんが?」
私が聞くと、白嶺は前を見たまま答える。
「霊力路の明滅が多い。傀儡の型が古い。補修の痕跡も均一じゃない。中央の文官が上げる記録では、外縁区の保守は“最低限維持”とされていたが、実際は“維持の体裁を保っている”に近い」
その言い方が、ひどく白嶺らしかった。
でも、帳面の向こうにあった外縁区が、今は目の前で崩れかけの壁や古い傀儡として見えている。その差に、白嶺自身が少なからず衝撃を受けているのも感じられた。
紬が先に立って裏路地へ入る。
「今日は、前よりもう少し奥」
私は頷いた。
前回も通ったあの静かな路地をさらに抜けると、通りの気配が目に見えて薄くなる。建物は低くなり、壁板は歪み、屋根の端は欠けている。霊力灯も、もう光っているというより、かろうじて明かりを残しているだけだった。
そんな中に、小さな祠があった。
私は思わず足を止める。
祠は半分ほど崩れていて、鳥居も色が剥げ、片方の柱が少し傾いている。けれど前には新しい花が一輪だけ供えられていた。どこかで摘んできたらしい、名も知らない白い花だ。
「ここ……」
私が小さく呟くと、紬が振り返る。
「うん。ここ、姉さんが気にしてた場所のひとつ」
白嶺の視線が紬へ向く。
「朱蘭が?」
「そう。ここにいた人たち、昔は山際の小さな社の主みたいな存在だったんだって。でも人の道が変わって、山も削られて、社も失くなって、都の端に流れてきた」
祠の脇には、小柄な妖怪が一人座っていた。
年齢は判別しづらい。人間の老人のようにも見えるし、子どものように小さくも見える。長い耳が垂れ、目元に深い皺が寄っている。身体の輪郭は人型を保っていたが、指先が少し霞んでいた。
「やあ」
その妖怪が紬に気づいて笑う。
「今日はまた珍しい取り合わせだねえ」
「こんにちは、婆さま」
紬がしゃがみ込む。
「具合はどう」
「よくはないねえ。でも悪くもない」
それは、良くないんだろう。
紬は持ってきた包みを渡した。
婆さまと呼ばれた妖怪はそれを受け取ると、今度は私と白嶺を順番に見た。
「そっちの嬢ちゃんは知ってるよ。前にも来てたね」
私は小さく会釈する。
「は、はい」
「今日は天狗の坊も一緒か」
白嶺が少しだけ眉を動かす。
「僕が天狗とわかるか」
「わからいでかい」
婆さまはからからと笑った。
「風の匂いが違うよ。都の真ん中の、綺麗に整えられた風だ」
白嶺は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頭を下げた。
「……白嶺だ」
「知ってるよ」
婆さまは細い目をさらに細くした。
「蒼耀の倅だろう」
その言葉に、私は思わず白嶺を見た。
白嶺は驚いたようではあったが、否定はしなかった。
「知られているんだね」
私が小さく言うと、婆さまが肩を揺らして笑う。
「上の方の名前は、こういうとこにも流れてくるさ。恩恵はなかなか流れてこないけどね」
その言い方には、苦味と皮肉が同じだけ混ざっていた。
白嶺は正面からその言葉を受け止めた。
「……そうかもしれない」
「ふん、そうかもしれない、か」
婆さまは白嶺をじっと見る。
「否定しないだけ、親よりはましだね」
私は思わず息を呑んだ。
こんなふうに、蒼耀への不満を面と向かって口にする者がいるとは思わなかった。中央区ではありえない言い方だ。
でも白嶺は怒らなかった。
ただ静かに問う。
「あなたは、父のことをどう見ている」
婆さまは包みを膝に乗せたまま、少しだけ空を見た。
「賢いお人だよ。立派で、落ち着いていて、都を回すにはああいう人がいるんだろうね」
そこまで言ってから、目を細める。
「でも、賢すぎる人ってのは、切る線も上手いからねえ」
紬の耳がぴくりと動く。
「切る線?」
「守るものと、守りきれぬものを分ける線さ」
婆さまの声はしゃがれているのに、妙にはっきり響いた。
「こっちみたいな連中は、最初から“守りきれぬ側”に入れられやすい。そうして最低限だけ回されて、消えない程度に薄く生かされる」
胸が痛んだ。
前に見たものが、別の言葉で目の前に置かれた気がした。
「……それでも、都に残っているのはなぜだ」
白嶺が聞く。
「残るしかないからだよ」
婆さまはあっさり言った。
「元いた山も社も、もうない。人の世にも戻れない。だったら都の端で、名残だけでも繋ぐしかない」
名残。
その言葉に、私は祠の前の白い花を見た。崩れかけた祠に、たった一輪だけ供えられた花。あれもきっと、名残を繋ぐためのものなんだ。
紬が静かに口を開く。
「姉さんは、ここに時々来てたんだよね」
「ああ」
婆さまの目元が少しやわらぐ。
「朱蘭様は、忙しいのによう顔を出してくれた。薬だけじゃなくて、話も聞いてくれたよ。上の方の連中は、困ってる話を聞くのは好きでも、消えていく話は嫌うからね」
「消えていく話?」
「終わりが見えてる話ってことさ」
婆さまは、指先の霞んだ手を見た。
「救える話の方が気分がいいだろう? でも朱蘭様は、救えないかもしれない話でも、ちゃんと聞いた」
その言葉を聞いたとき、私は朱蘭というひとの姿を見た気がした。実際に会ったことはない。けれど、紬の語る姉、外縁区の者が懐かしむ存在、その輪郭が少しだけわかった。
「……明清は?」
紬が聞く。
その名が出た瞬間、婆さまは少しだけ笑った。
会議の話で聞いた“明清らしさ”を、私はその笑い方に感じた。
「明清様かい」
「うん」
「来ないねえ、あの人は」
婆さまは肩をすくめる。
「少なくとも、朱蘭様みたいには来ない。わざわざ座って、話を聞いて、慰めたりはしない」
白嶺が黙って聞いている。
「じゃあ、何もしないのかっていうと」
婆さまは紬の持ってきた包みを軽く叩いた。
「こういうのが、時々、名もなく回る」
私は目を見開く。
「それって」
「誰の差配か、こっちは知らされないよ。でも、朱蘭様がいなくなってからも、完全には切れなかった」
紬が少し息を潜める。
「明清……」
「表で善人ぶらないだけさ」
婆さまは淡々と言った。
「でも、朱蘭様の最後の言葉は、あの人が預かったって聞いたよ」
その場の空気が、わずかに止まった。
私は紬を見る。
紬もまた、目を見開いて婆さまを見返していた。
「最後の言葉……って、遺言?」
「さあね。遺言かもしれないし、ただの頼みかもしれない。でも、あの人が朱蘭様の死に目にいたのは本当だよ」
胸がどくりと鳴る。
明清は、朱蘭の遺言を知っている。
その事実だけで、どこにも立たないように見えた彼の輪郭が、急に別の色を帯びた。
「何を託されたかは知らないの?」
紬の声は、少しだけ強かった。
婆さまは首を横に振る。
「そこまではね。でも、あの人が何にも興味がない顔してるのは、半分ほんとで半分嘘だよ」
白嶺がそこで、初めて口を開いた。
「どういう意味だ」
「興味がないんじゃない」
婆さまは白嶺を見る。
「興味を持ちすぎた末路を、よう知ってるってことさ」
その言葉に、紬の顔がこわばる。
朱蘭。
派閥のあいだを取り持ち、背負い、そして死んだ姉。
明清は、その最期を知っている。だから朱蘭のようには動かない。そういう意味なのかもしれなかった。
しばらくして、婆さまが小さく笑った。
「ま、あの人が善人か悪人かなんて、こっちにはどうでもいいよ。物が来るならありがたいし、来なきゃ困る。それだけさ」
現実的すぎる言葉だった。
でも、だからこそ本物に聞こえた。
紬は少し俯いたまま、祠の前の花を見た。
「姉さんは、ここで何を話してたの」
「いろいろさ」
婆さまは優しく言う。
「昔の山の話。人間の子が怖がって泣いた話。祭りの夜だけ社が明るかった話。そういう、消える前の話だよ」
私はその言葉を聞いて、胸の奥がじんと熱くなった。
消える前の話。
それはたぶん、民俗誌や伝承の中にだけ残るようなものだ。けれど、ここではまだ生きた声として語られている。
白嶺はしばらく黙っていた。
それから、祠と婆さまと、傾いた鳥居を順に見た。
「……報告書では、このあたりの祭祀系小祠は“機能停止済み”とあった」
「停止はしてるさ」
婆さまが言う。
「でも、止まったのと、消えたのは違うだろう?」
白嶺はそこで何も返せなかった。
私は、その沈黙の意味が少しわかった。
白嶺は今、帳面の言葉では切り捨てられるものを、目の前で見てしまっている。停止済み。機能停止。補修対象外。そういう記号の向こうに、まだ花を供え、話を覚え、名残を繋いでいる者がいる。
それはたぶん、白嶺にとって予想以上に重い現実だった。
帰り道、私たちはしばらく黙って歩いた。
外縁区の雑多な喧騒を抜けても、その沈黙は解けなかった。紬も、いつもより軽口を叩かない。私も何を言えばいいかわからなかった。
ようやく中央区に近づき、霊力灯の明かりが整ってきたところで、白嶺が低く言った。
「停止済み、か」
それが独り言ではないとわかって、私と紬はそちらを見る。
「記録の上ではそうなのだろう。祠は崩れ、祭祀は途絶え、人の信仰も失われた。文官の帳面には、それで終わりだ」
白嶺の声は静かだった。
でも、その静けさの底に、昨日までとは別の硬さがあった。
「だが、あそこにはまだ花があった」
紬が小さく頷く。
「うん」
「まだ名残を繋いでいる者がいて、まだ消えていない声がある。それを停止済みと書いて終えるなら、帳面の方が現実を見ていない」
私は白嶺の横顔を見た。
白嶺は怒鳴らない。椿みたいに露骨に怒りを見せることもしない。けれど今、その横顔には、たしかな怒りがあった。静かで鋭い、白嶺らしい怒りだ。
紬が少しだけ笑った。
「それ、姉さんが聞いたら喜んだかも」
「喜ばれても困る」
「でも近いよ」
白嶺はそれには返事をしなかった。
私は思い切って聞く。
「明清のこと、どう思う?」
白嶺は少しだけ目を細めた。
「わからない」
率直な答えだった。
「何もしていない顔をして、実際には切っていない。だが、朱蘭のように前へ出る気もない。善人とも悪人とも言い切れない」
「うん」
「ただ」
白嶺は空を見るように少しだけ視線を上げた。
「朱蘭の遺言を知っているのなら、今の明清の振る舞いも、それを抜きにしては見られない」
その言い方が妙に印象に残った。
白嶺は人を簡単に善悪で切らない。明清のことも、腹黒いで済ませず、かといっていい人とも決めない。その間にある理由を見ようとしている。
私は前を向いた。
朱蘭の遺言。
それが何なのか、まだわからない。けれど、外縁区の崩れた祠の前で、その不在の人の気配がたしかに残っていた。
屋敷へ戻る門が見えた。
私は足を少し緩める。
守りの内側へ戻っていくんだ。でも今日は、その内側の空気が前と違って感じられた。外を知ったからだけじゃない。白嶺もまた、外の現実を帳面の向こう側ではなく、自分の目で見て戻ってきたからだ。
門をくぐる前に、紬が小さく言った。
「燈ちゃん、今日連れてきてよかった」
「私も」
私は頷く。
「……前より、もっとわからなくなったけど」
そう言うと、紬が少しだけ笑う。
「それでいいんだと思うよ」
白嶺は門の方を見たまま、低く言う。
「いや。わからなくなったままにはしない」
その声は静かだった。
でも、はっきりしていた。
「父の帳面と外縁区の現実にずれがあるなら、そのずれを放置するわけにはいかない」
私は思わず白嶺を見た。
「どうするの」
「まず調べる」
白嶺は短く答える。
「どこで線が引かれ、誰が何を切っているのか。帳面の上の停止済みが、何を意味しているのか」
それはすぐに世界を変える言葉ではない。
でも、世界を変える側へ向かう最初の一歩みたいに聞こえた。
紬はそんな白嶺を見て、ほんの少しだけ目をやわらげた。
たぶん、朱蘭の残したものが、今ここで別の形に触れたのだと感じたんだろう。
私もまた、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。
外縁区で聞いた忘れられた声。崩れた祠に供えられた白い花。朱蘭を知る者の語る、消える前の話。明清という、善人とも悪人ともつかない人物の影。
まだ何も解けてはいない。
でも、消えていくものの方から伸びてくる声に、こちらが耳を澄ませた時、世界は少しだけ別の姿を見せるのだと私は知った。




