第十六話 忘れられた声
会議が終わってから三日ほど経っても、屋敷の空気は完全には元に戻らなかった。
表向きは静かだ。
傀儡はいつも通り決まった道を巡回しているし、庭の霊力路は青白く穏やかに光っている。紬は朝になると湯を運び、昼には用事の合間を縫って私の様子を見に来る。白嶺は忙しそうではあったけれど、少なくとも会議の直後のような張りつめ方はしていない。椿も口ではあれこれ言いながら、鍛錬場と客間の区画を行き来していた。
でも、だからこそわかることもあった。
静かになったんじゃない。
みんな、静かな顔をしているだけなんだ。
会議の日以来、私はときどき、自分の名前が自分のいないところで別の意味を持っているように感じることがあった。実際に耳にするわけじゃない。けれど、回廊の角でひそめられる声や、知らない傀儡の視線が一瞬だけ客間の方へ向くこと、白嶺が前よりも私の移動の順を細かく考えるようになったこと。そういう小さな変化が、「燈」という一人の少女が、ただの迷い子では済まされないものになっているんだと教えていた。
それが、少しだけ息苦しかった。
その日の昼も、私は客間の縁側に座って庭を見ていた。
秋へ向かう途中の空は高く、庭木の葉はまだ青い。けれど風の匂いは前より少し乾いている。屋敷の中に閉じていると、季節の変化だけが時間の進みを教えてくれるようだった。
膝を抱える。
ここにいるのが今は最善。
そう白嶺は言ったし、私もそれを頭では理解している。けれど、“理解している”と“平気でいられる”は別だった。会議で何が話されたのか、どれほど自分が議論の中心にいたのか、紬と椿から少し聞いただけでも胸がざわついた。もし全部を聞いていたら、たぶんもっと苦しかっただろう。
庭の隅に置かれた霊力灯が、小さく明滅する。
私はその青白い光をじっと見つめた。
「……ほんとに、これでいいのかな」
小さくこぼした声は、風に溶けて消えた。
「何が?」
後ろから返ってきた声に、私は肩を揺らした。
振り向くと、紬が立っている。今日は屋敷用の落ち着いた衣ではなく、少し動きやすそうな短めの上着に着替えていた。袖口や裾に中華風の刺繍は入っているけれど、普段よりずっと軽い格好だ。
「びっくりした」
「声かけたよ」
「聞こえてなかった」
「だろうね」
紬はそう言って、私の隣に腰を下ろした。
狐耳がぴくりと揺れる。
「それで? 何が“これでいいのかな”なの」
私は少し迷った。
でも紬に隠しても仕方ない気がして、庭を見たまま答えた。
「ここにいること」
「まだ気にしてるんだ」
「……するよ」
「うん」
紬は否定しなかった。
「するよね」
その一言に、私は少しだけ肩の力を抜く。
大丈夫だよ、と慰められるより、その方が今は楽だった。
「会議のあと、余計に」
「そっか」
「だって、私のことを話してたんでしょ。ここに置くとか、移すとか、危険だとか」
「うん」
「そうやって決められてるの、仕方ないのはわかるけど……変な感じ」
紬は少しだけ黙った。
「燈ちゃん」
「なに」
「ちょっと、外へ行かない?」
私は目を丸くした。
「外?」
「うん。もちろん都の真ん中じゃないよ。屋敷の用事があるんだ」
「でも、私……」
「白嶺には話してある」
即答だった。
「正確には、屋敷の届け物をするついでに、少しだけ外の空気を見せたいって言った」
「……それ、許可されたの?」
「渋い顔はされた」
「それ許可なの?」
「最終的にはね」
紬は悪びれもせず言う。
「ただし条件つき。人の多い中央区は避けること。変な気配を感じたらすぐ戻ること。日が落ちる前に帰ること。あと椿には一応伝えること」
「一応って」
「椿はさ、伝えなくても勝手に気づくし」
それはたしかにそうかもしれない。
私は自分の膝の上で指を組んだ。
外へ出られる。会議の日以来、ずっと閉じた空気の中にいた身には、その響きだけで少し胸が鳴る。けれど同時に、不安もあった。屋敷の外は危険だと何度も言われている。中央区ですらそうなのに、紬が連れていく“別の場所”とはどこなんだろう。
「どこへ行くの?」
そう聞くと、紬は少しだけ笑った。
「外縁区」
「外縁区?」
「都のはずれ。中央区みたいに綺麗なところじゃないよ」
その言葉に、私は少しだけ身を固くした。
外縁区。都へ着く前、遠くから見たあの巨大な都市の、もっと端の方。白嶺たちが通った正面の整った道ではなく、旅人や雑多な商いが集まる区域だと聞いている。
「なんでそこに」
「見てほしいものがあるんだ」
紬の声は軽いようでいて、少しだけ真面目だった。
「会議のあとだからこそ、燈ちゃんに見てほしい」
私はしばらく黙っていた。
見てほしいもの。会議のあとだからこそ。言葉の意味はまだわからない。でも、紬がただの気まぐれで言っているのではないことだけはわかった。
「……行く」
そう答えると、紬の耳がぴんと立つ。
「ほんと?」
「うん。見てほしいものがあるんでしょ」
「ある」
「じゃあ、見たい」
紬は少しだけ目を細めて笑った。
「よかった」
それから立ち上がり、手を差し出す。
「じゃあ急いで支度しよう。燈ちゃん、今日はあんまり目立たない格好の方がいい」
私はその手を取って立ち上がった。
屋敷を出るのは久しぶりだった。
怖さがないわけじゃない。けれど、閉ざされた庭の中で息をひそめるばかりだった数日を思うと、その怖ささえ少しだけ風みたいに感じられた。
外縁区へ向かう道は、中央区の道とはまるで違っていた。
雲仙様の屋敷がある最奥から中央へ向かう時は、道も建物も整っていて、空気にすら格があるようだった。けれど紬が選んだのは、正面の大きな通りではなく、脇へ脇へと抜けていく細い回廊だった。
途中までは、私も見知った景色だった。
買い出しへ行った時に通った商業区の近くまでは、賑わいはあってもまだ“都らしい秩序”の中にある。店先の灯りは明るく、傀儡も新しい型が多い。商品を並べる声、呼び込みの声、香の匂い、甘い焼き菓子の匂い。人間の町と完全に同じではないけれど、どこか共通する活気があった。
けれど、そこをさらに抜けると、少しずつ空気が変わっていった。
通りの幅が狭くなる。
建物の壁は同じ木造でも傷みが目立ち、軒先に吊るされた提灯の光も弱い。青白い霊力路はまだ通っているけれど、中央区のように均一ではなく、ところどころ明滅していた。行き交う傀儡も、腕や脚の関節部が少し古びていて、動きにわずかなぎこちなさがある。
「ここから先が外縁区」
紬が小声で言った。
私は思わず周囲を見回した。
そこは、にぎやかではあった。
でも中央の“洗練された賑わい”とは違う。音が近い。匂いが濃い。形を成している者もいれば、少しだけ輪郭の曖昧な者もいる。顔の片側だけ獣じみた者、足元が煙みたいに揺らぐ者、どう見ても人の姿を保ちきれていない小さな妖まで混ざっていた。
屋台も雑多だった。
薬草を束ねて吊るす店、妖具の欠片を並べる店、傷んだ傀儡の部品を山積みにして修繕している店、何に使うのかわからない骨や牙を売る店。通りの端では、鍋から濃い匂いの湯気が上がっている。中央区の美しい店先とは違い、どれもぎりぎりのところで形を保っているようだった。
「……すごい」
思わずそう呟いた。
「うん。すごいとこだよ」
紬はそう返しながらも、あたりを気にしている。
私は自然と紬の袖に近づいた。
「怖い?」
「少し」
「だよね。でも、見た目ほど危ないわけじゃない……と言いたいけど、ちょっと危ない時もある」
「どっち」
「どっちも」
紬は困ったように笑った。
通りを歩いていると、何人かの視線が私に向くのがわかった。
はっきり見てくる者もいれば、ちらりと見てすぐ逸らす者もいる。中央区で向けられた視線とは違う。好奇や警戒だけじゃない、もっと切実なものが混じっている気がした。
「紬くん」
「うん」
「見られてる?」
「見られてる」
「なんで?」
そう聞いた時、紬は少しだけ言葉を選ぶように黙った。
「燈ちゃん、人間だから目立つっていうのもある」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
その先を私が聞く前に、紬は路地の角で足を止めた。
「こっち」
表通りから少し外れた、狭い横道だった。
そこには屋台というより、半分崩れかけた小屋みたいな建物が並んでいる。軒先に布が垂れていて、その下で数人の妖怪が黙って座りこんでいた。
私は、そこで初めて、外縁区の“静けさ”に気づいた。
表通りはにぎやかだ。けれどそのすぐ裏には、声を上げる元気すらない者たちがいる。小屋の壁にもたれた老人のような妖は、体の端が少し透けていた。別の者は耳だけ獣のように大きく、顔色がひどく悪い。形を保つのに力を使っているのか、輪郭そのものがぼんやりしている者もいた。
「……あの人たち」
私が声をひそめると、紬は頷いた。
「外縁区の、もっと端の方にいる人たち」
「具合が悪いの?」
「そういう言い方も、間違いじゃない」
紬はゆっくり歩き出した。
私もその隣をついていく。
「昔はね、もっとちゃんとしてた人たちも多いんだよ」
「ちゃんと?」
「形とか、力とか、暮らしとか」
紬の声は軽くなかった。
「でも、人の信仰が薄れて、名を呼ばれなくなって、役目を失って、少しずつ力が足りなくなると、外から崩れてくる」
私は言葉を失った。
崩れてくる。
それは死ぬ、とは少し違うんだろう。もっとゆっくりで、もっと残酷なもののように聞こえた。
紬は一軒の小さな店の前で立ち止まった。
店といっても、棚に乾いた木の実や薬草を並べただけの粗末なところだ。奥に座っていた小柄な妖怪が、顔を上げた。
「あれ、紬坊じゃないか」
しゃがれた声だった。
「坊じゃないよ、もう」
紬は少しだけ笑ってそう返す。
「これ、雲仙様のお屋敷から。頼まれてた薬草」
「おやおや、ほんとに持ってきてくれたのかい」
相手は受け取った包みを胸に抱えた。
猿にも狸にも少し似た顔をしたその妖怪は、年を取りすぎた人間みたいに背中が曲がっている。けれど尻尾のような影が足元に揺れていて、完全に人ではないとわかった。
「この子は?」
その妖怪が私を見る。
私は少しだけ身をこわばらせた。
けれど紬が自然に一歩前へ出る。
「屋敷の客人」
「へえ」
妖怪は目を細めた。
「ずいぶん、あったかい子だねえ」
その言い方に、胸がざわつく。
あったかい。前にも似たような言われ方をされた気がした。下級妖怪に襲われた時、彼らは私の中の霊力に反応していたのだと白嶺は言っていた。
「驚かせないでよ」
紬が少しだけ声を低くする。
「わかってるよ」
妖怪は苦笑した。
「食っちまおうってんじゃない。ただ、久しぶりに見たもんだからさ」
その言葉は乱暴なのに、妙な生々しさはなかった。
私はそれでも少しだけ怖かったけれど、同時に、その妖怪の目の奥にあるものが単純な敵意ではないこともわかった。
乾ききった井戸を見ているような目だった。
「……久しぶりって?」
思わず聞くと、妖怪は私を見たまま答える。
「昔は、人の世の近くにいたからねえ。祠に供えもあったし、山を通る子どもが怖がってくれたりもした。そういうので力をもらって、形を保ってた」
しゃがれた声が、乾いた路地に響く。
「でも今は、山道も舗装されちまって、祠も忘れられて、怖がる前に笑われる。名を知る者も減った。そうなると、だんだん薄くなるんだよ」
薄くなる。
消えるのではなく。死ぬのではなく。薄くなる。
私は言葉を返せなかった。
妖怪は包みを抱えたまま、小さく笑った。
「紬坊の姉御は、こういうのをよう気にしてた」
紬の耳がぴくりと動く。
「……朱蘭姉さんが?」
「ああ。薬やら何やら、たまに回してくれてね。まあ、あの人ひとりでどうにかなる話じゃなかったけどさ」
紬は少しだけ目を伏せた。
私はその横顔を見た。
朱蘭のことは聞いている。美しく、優れた交渉者で、宥和派と徹底抗戦派の間を取り持って、それでも最後には死んだひと。その姉が、外縁区のこういう場所を気にかけていたのだと思うと、胸の中に重いものが沈む。
店を離れて、さらに奥へ進む。
紬は別の家でも、古びた札や小さな包みをいくつか受け渡した。どうやら本当に屋敷の用事だったらしい。けれど、ただの届け物なら私を連れてくる必要はなかったはずだ。やっぱり、見せたかったんだろう。中央区の整った道や会議の座では見えないものを。
私は外縁区の風景を目で追った。
表通りではまだ売り買いの声がする。
でもその脇には、座りこんだまま動かない者がいる。子どものように小さいのに顔だけ老人のような妖、肩口から先が煙になって揺らぐ妖、耳だけやたら大きく、目だけがぎらぎらしている妖。誰もが同じように苦しいわけではないんだろう。けれど、中央区の明るい華やかさの外側に、こういう場所があるのだと私は初めて知った。
「紬くん」
「うん」
「みんな、怖いんだね」
自分でも、ひどく子どもっぽい言い方だと思った。
でも紬は笑わなかった。
「うん」
「消えるのが……」
紬はしばらく答えず、歩きながら路地の先を見ていた。
「消える、っていうより」
やがて静かに言う。
「自分が何だったのかわからなくなるのが、たぶん一番怖いんだと思う」
私はその言葉を飲み込む。
「妖怪って、人からどう見られて、どう呼ばれて、何を恐れられてきたかで、かなり形が変わるから」
「うん」
「それが全部なくなっていくと、自分の輪郭まであやふやになる」
紬の金色の目は、まっすぐ前を見ていた。
「上位の人たちは、なんだかんだで強いからね。名もあるし、家もあるし、歴史もある。でも、下の方にいる人たちは、そういう支えが少ない」
私は中央区の会議を思い出した。
岩砕。蒼耀。明清。雲仙様。白嶺。椿。彼らの話す内容は重かったし、私には理解しきれないことも多かった。けれど、その話の先にいる“守るべきもの”は、もしかしたら、こういう存在なのかもしれない。
その時だった。
通りの向こうで、ざわりと気配が動いた。
私は反射的に足を止める。
小さな影が、二つ、三つ、こちらを見ている。子どもほどの大きさしかないのに、輪郭が曖昧で、目だけがやけに大きい。黒いものを見た時の怖さが、一瞬だけ胸の奥を引っかいた。
「紬くん」
「うん、見えてる」
紬の声が少し低くなる。
影たちはすぐに襲ってはこなかった。
ただ、じっと私を見ている。飢えた獣みたいに飛びかかる目ではない。もっと別の、乾いた井戸の底から見上げるような視線だった。
「何……」
私が言い終わる前に、そのうちの一つが一歩近づいた。
小さい。
狐にも鼠にも見える顔。けれど身体の後ろ半分は霞みたいに薄い。維持しきれないのか、尻尾らしきものが途中でほどけている。
「あ、」
私は息を詰めた。
影は、確かに私に向かっていた。
でも、敵意ではない。少なくとも最初に私が感じたのは、怖さよりも――縋るような切迫だった。
「だめ」
紬が一歩前へ出る。
「それ以上来ちゃだめ」
その言葉は厳しくはないけれど、はっきりしていた。
影は足を止める。けれど視線だけは私から逸らさない。
私は胸の奥が熱を持つのを感じた。
あの影は、私の中の霊力を感じているんだろう。白嶺や椿と一緒にいた時に襲ってきた下級妖怪たちと同じように。けれど今のそれは、喉元を狙う獣の目ではなかった。
寒さの中で火を見つけた者の目だった。
「紬くん」
私は小さく呼んだ。
「……あれ、苦しいの?」
紬は少しだけ唇を引き結んだ。
「苦しいと思う」
「私の、霊力がほしいの?」
「たぶん」
その“たぶん”は、ほとんど肯定だった。
私は怖かった。
でも、ただ怖いだけではもういられなかった。あの影の薄い体を見てしまったからだ。半分ほどけて、形を保つことすら難しそうな姿を。
「助けられないの?」
聞くと、紬はすぐには答えなかった。
そしてゆっくり首を振る。
「簡単には」
「どうして」
「燈ちゃんの霊を分ければいいって話じゃないから」
紬の声は静かだった。
「一時的に楽になることはあるかもしれない。でも、それで根本が変わるわけじゃない。下手をすると、燈ちゃんの霊に依存させるだけになる」
その現実的な言葉が、かえって胸に痛かった。
影はなおもじっとこちらを見ている。
その後ろにも似たような気配が二つ、三つあった。私の存在が、彼らにとってどれほど眩しく見えているのか、想像するだけで苦しくなる。
紬は影に向かって、少しだけ声をやわらげた。
「今日は薬草しか持ってない。霊を分けることもできない。ごめん」
影はそれを聞いているのかどうかわからなかった。
けれど、しばらくして、少しずつ後ろへ下がっていった。名残を惜しむように、何度も私の方を振り返りながら。
私はその姿を見送った。
襲われたわけじゃない。
手を出されたわけでもない。
なのに、胸の奥には重たいものが残った。
「……あれが」
声がかすれる。
「私を襲ってきた妖怪たちと、同じ……?」
紬は少し考えてから答えた。
「全部が同じじゃない」
「うん」
「でも、近いものもあると思う」
外縁区の空は、中央区より少しだけ低く見えた。
建物が密集しているせいかもしれないし、ここにいる者たちの気配が重いせいかもしれない。
「燈ちゃんが前に襲われた時は、確かに危険だったかもしれない。でも、ああいう子たちを見てると、ただ悪意だけで燈ちゃんに引かれたわけじゃないんだってわかる」
紬は私を見た。
「飢えてたんだよ」
その一言が、胸に深く落ちた。
飢え。
それは食べ物の話じゃない。存在を保つための何かが足りなくて、足りなくて、だから霊力の濃い私に反応してしまう。そういう飢えだ。
私はしばらく何も言えなかった。
表通りへ戻る頃には、外縁区の喧騒が少しだけ遠く感じられた。
いや、音は相変わらず大きい。呼び込みの声も、鍋の煮える音も、修繕中の傀儡の軋みもある。けれど、そのにぎやかさの下に、さっき見た静かな路地が重なって離れなかった。
「帰ろうか」
紬が言う。
私は頷いた。
帰り道、私たちはしばらく無言だった。
中央区に近づくにつれて道はまた整い、霊力灯の明かりも明るくなる。新しい傀儡が規則的に歩き、店先の布も綺麗だ。けれど私にはもう、その景色だけをそのまま見ることができなかった。
「紬くん」
やがて私が口を開く。
「なに」
「岩砕も、蒼耀も」
「うん」
「外縁区のこと、知ってるよね」
「知ってると思う」
「でも、会議で話してたのは私のことだった」
紬は少しだけ困ったように笑った。
「そうだね」
「なんでだろう」
その問いは、子どもっぽく聞こえたかもしれない。
でも、私にはほんとうにわからなかった。あんなに苦しそうな妖怪たちがいて、消えたくないともがいているのに、会議では私の置き場や管理の話ばかりだった。
紬は少し歩いてから答えた。
「たぶん、燈ちゃんのことが“わかりやすい問題”だから」
「わかりやすい?」
「うん。目に見えるし、議題にしやすいし、立場を決めやすい」
紬の声は静かだった。
「でも、外縁区の人たちの苦しさって、すぐにどうにかなる形じゃないんだ。だからこそ、後回しにもされやすい」
私は唇を噛みそうになって、やめた。
後回し。
その言葉が嫌だった。
「……守るって、難しいね」
ぽつりとそう言うと、紬は少しだけ目を細める。
「うん。すごく難しい」
「私、会議の話を聞いた時、自分ばっかり見られてる気がして嫌だった」
「うん」
「でも今日、外縁区を見たら、それも違うんだって思った」
私は前を向いたまま続ける。
「私が見られてるのは本当だけど、それだけじゃない。あの人たちも、ずっと見られないまま苦しいんだね」
紬は何も言わなかった。
でも、その沈黙は否定ではなかった。
屋敷が近づいてくる。
最奥へ向かう静かな道に戻ると、さっきまでの外縁区の匂いや音が嘘みたいに遠くなった。けれど、私の中では消えていない。むしろ今の方が鮮明だった。
青白い霊力路。
外縁区の薄暗い路地。
半分ほどけた影の妖怪。
「あったかい」と私を見た目。
屋敷の門をくぐる前に、私は一度だけ振り返った。
都は大きい。
華やかな中央区も、冷たい会議の座も、忘れられた外縁区も、全部を抱えてひとつの都なんだろう。だとしたら、守るべきものは何なのか。変えるべきものは何なのか。
まだ私にはわからない。
けれど、わからないままでいるには、今日見たものはあまりにも重かった。
「燈ちゃん」
紬が小さく呼ぶ。
「なに」
「連れてきてよかった?」
私は少しだけ考えた。
怖かった。
苦しかった。
でも、見なければよかったとは、思わない。
「……うん」
私はゆっくり頷く。
「よかった。ちゃんと、見てよかった」
紬はその答えに、ほっとしたように笑った。
「そっか」
「でも、ちょっと苦しい」
「だろうね」
それだけ言って、私たちは門をくぐった。
閉ざされた庭の内側に戻っても、もう私の中で外縁区は遠くならなかった。
忘れられた声は、まだ耳の奥に残っている。
その夜、客間の縁側で風にあたりながら、私はひとり静かに考えていた。
もし、あの会議の席に今日の路地裏がそのまま現れたら、岩砕は何と言うだろう。蒼耀は何を切り捨て、何を守ると言うだろう。明清はあの調子で笑うんだろうか。雲仙様は、どこまで知っているんだろう。
わからないことばかりだ。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
あの妖怪たちは、ただの“名もない下級妖怪”ではなかった。
誰にも見えないところで、消えたくないと戦っているものたちだった。
私は膝を抱え、庭の霊灯の明かりを見つめる。
会議の中で交わされた言葉と、外縁区の路地で聞いた声。
そのあいだに、どれほどの隔たりがあるんだろう。
風が吹いた。
白嶺の気配ではない、ただの夜風だった。
それでも私は、その風に向かって小さく息を吐く。
「……忘れたくないな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
けれど、その呟きはたしかに私の中に残った。
この都のいちばん外側で聞いた声を、見たものを、消えかけた輪郭を。いつか何かを選ばなければならない時、今日のことを忘れていたくない。
庭の向こうでは、青白い光が静かに流れ続けていた。
その穏やかさの下に、忘れられた声がある。
私はそのことを、もう知ってしまったのだった。




