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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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第十五話 交わる思惑、踊らぬ会議 前編

あれから翌々日、屋敷の空気は朝からどこか張りつめていた。


警戒が強まってからというもの、私はもう、目を覚ました瞬間にその日の空気の違いをなんとなく感じ取れるようになっていた。傀儡の足音の数、庭を渡る霊力の流れの濃さ、回廊を行き来する人の気配。そういう小さな変化の積み重ねが、その日が静かなのか、それとも何かを迎える日なのかを、まだぼんやりとだけど教えてくれる。


そしてその朝は、明らかに“迎える日”だった。


障子の向こうでは、いつもより早い時間から足音がしていた。

それも巡回の傀儡だけじゃない。人の足音も混ざっている。低い声で交わされる指示、器を運ぶ音、回廊の角で一度止まってからまた動き出す複数の気配。まるで屋敷全体が、見えない来客のために息を整えているみたいだった。


私は布団の上で身を起こし、しばらくじっと耳を澄ませた。


「……今日だ」


小さく呟く。


上位層の会議がある。

紬から聞いてはいたし、椿も「今日は屋敷がいつも以上につまらない顔をするよ」と言っていた。白嶺は白嶺で、「不要な移動は控えろ」とだけ告げて、それ以上は余計なことを言わなかった。


でも、頭で知っているのと、実際にその朝を迎えるのは全然違う。

屋敷の中なのに、どこか外から大きな波が近づいてくるみたいな感じがした。


障子が叩かれる。


「燈ちゃん、起きてる?」


紬の声だった。


「起きてる」


返事をすると、紬が盆を持って入ってくる。

今日の紬はいつもよりきちんとした格好をしていた。衣の襟元も裾も乱れなく整っていて、髪も普段より少しだけきっちりまとめられている。もともと丁寧な子だけど、今日はそれ以上に“表に出てもいい顔”をしていた。


「……なんか、いつもよりすごいね」


私が言うと、紬は一瞬きょとんとしたあと、少しだけ自分の袖口を見た。


「そう?」


「うん」


「今日は会議の日だからね。さすがにいつも通りとはいかないよ」


そう言って笑うけれど、笑い方は少しだけ固い。


盆の上には、湯気の立つ汁物と小さめの蒸し菓子、それに果実を薄く切ったものが並んでいた。いつもより軽めなのは、たぶん私のことを考えてだろう。緊張しているときに、たくさんは食べられない。


「燈ちゃんは今日は、自室か客間の区画の中にいてほしいって」


「やっぱり」


「うん。今日はいつもの会議より人が多いらしいから」


私はお椀を手に取ったまま、少しだけ眉を寄せた。


「武官とか文官とか、財界の人とか、企業の代表とか、技術職の人とか……そういうのが来るんだよね」


「そんなにたくさん?」


「全部が一堂に会するわけじゃないけど、普段よりは多いね」


紬は少しだけ声を落とした。


「岩砕様も来るし、蒼耀様も来る」


その二つの名前が並ぶだけで、私はなんとなく背筋を伸ばした。

どちらもまだまともに顔を見たことはない。けれど、名前だけで屋敷の空気が一段変わる相手だということは、もうわかっている。


「……紬くんは、会議に出るの?」


「僕は出ないよ。世話係だし、案内とか、必要な伝達とか、そういう周りの仕事」


「そっか」


少しだけ、ほっとした。

紬まで会議の中に入ってしまったら、今日は本当に誰とも話せない一日になる気がしたからだ。


食べ終わって、紬が盆を片づけていると、外の回廊を風が抜けていった。

ただの風じゃない。白嶺の気配だ、とすぐにわかる。


障子が少し開いて、白嶺が顔を見せた。


「起きていたか」


「起きてるよ」


「今日はこの区画を出るな」


挨拶より先にそれだった。

でもまあ、白嶺らしい。


「……わかってる」


「ならいい」


そう言う白嶺の格好も、いつもよりきっちりしていた。

羽織の合わせに隙がなく、帯の結びも整っている。翼も普段よりきれいに畳まれていて、ただ立っているだけで、“迎える側の人間”だとわかる。


「白嶺、今日はずっとそっち?」


紬が聞く。


「ああ。門前の確認と、列席順の調整、それから会議の前段まで」


「忙しそうだね」


「忙しい」


即答だった。


そのまま去っていくかと思ったのに、白嶺は一瞬だけ私を見た。


「燈」


「なに」


「不用意に障子を開けるな。知らない気配が近づいてもだ」


「……うん」


「紬、燈のいる区画の巡回を一つ増やしておけ」


「わかった」


それだけ言って、白嶺は本当に風みたいに去っていった。


あとには、整えられた気配だけが残る。


私は障子の向こうを見ながら、ぽつりと言った。


「白嶺って、こういう日ほんとに白嶺って感じだね」


紬が吹き出した。


「それ、すごくそのままだけど、なんかわかる」





昼に近づくにつれて、屋敷の中の気配はさらに濃くなっていった。


客間の区画にいても、今日はさすがにわかる。

外門の方から幾重にも重なるような霊圧が近づいてくるのだ。目に見えるわけじゃない。でも、誰かが来るたびに空気の密度が変わる。重い石を一つずつ池に落とされたみたいに、屋敷全体に波が伝わってくる。


最初の何度かは、ただ落ち着かないだけだった。

でも、五度目くらいにその波を感じたとき、私はもう部屋の中に座っていられなくなっていた。


「……気になる」


言葉にしたところで、もちろんどうにもならない。

でも気になるものは気になる。


障子の向こうを何度見ても、客間の庭しか見えない。回廊を通る傀儡の足音も、いつもより多いだけで、誰が来たのかまではわからない。


そのとき、控えめに障子が開いた。


顔を覗かせたのは、椿だった。


「暇そうだね」


開口一番それである。


「暇っていうか……気になる」


素直に言うと、椿はにやっとした。


「だろうと思った」


その後ろから、紬もそっと顔を出す。

なぜか二人とも、声を潜める必要もないのに少しひそひそしていた。


「何その顔」


私が聞くと、紬が口元に指を立てる。


「ちょっとだけ、様子見に行かない?」


「え?」


「行かないっていうか……見えるところまで」


椿が横から言う。


「燈はここにいなきゃだめだから、外門までは無理。でも、客間の北側の廊下なら、正面の庭越しに来客の姿くらいは見えるかもしれない」


私は目を丸くした。


「そんなの、白嶺に怒られない?」


「怒られるだろうね」


椿は楽しそうに言う。


「でも怒鳴りはしないよ、あいつは」


「そういう問題?」


思わず言い返すと、紬が肩を揺らした。


「たぶん、問題ではある」


「じゃあやめようよ」


「でも気になるだろ?」


椿のその一言が、ずるかった。


気になる。

すごく気になる。

岩砕も蒼耀も、私はまだちゃんと見ていない。屋敷にどんな顔をした重鎮たちが入ってくるのかも、自分の存在がどれほど大きな波の中にあるのかも、ほんとは知りたかった。


「……ちょっとだけなら」


そう言うと、椿が満足そうに笑った。


「よし」


「ほんとにちょっとだけだよ」


「わかってるって」


その返事はあまり信用ならなかった。


私たちは客間の区画の中を、なるべく音を立てないように進んだ。

といっても椿は全然こそこそするのが向いていなくて、隠れているつもりでも存在感が大きい。紬の方がよっぽど静かに動ける。


「椿、もう少しかがんで」


紬が小声で言う。


「何でさ」


「そのままだと普通に見える」


「見えてもいいだろ」


「よくないよ」


二人のやり取りが、こんな時なのにちょっと可笑しい。


たどり着いたのは、客間の北側にある細い廊下だった。障子が半分だけ開けられていて、その先の庭越しに、正門へ続く石畳の一部が見える。ここならたしかに、遠目にはなるけれど来客の姿を捉えられそうだった。


私たちは三人並んで、障子の陰からそっと覗いた。


ちょうどその時、次の一団が門をくぐってきたところだった。


先頭に立っていたのは、背の高い大男だった。

最初に思ったのは、“重い”だった。大きいとか、怖いとかより先に、空気がその人の周りだけ沈むような感じがある。歩幅は決して大きくないのに、一歩ごとに石畳の色まで濃くなるみたいに見えた。


角がある。


鬼だ。

遠目でも、それだけはすぐにわかった。


着流しのような武官装束を纏っているけれど、椿みたいな荒っぽい華やかさとは違う。もっと実戦のために削られた感じだ。背後には数人、いかにも武官然とした者たちが従っている。


「……岩砕?」


息をひそめて聞くと、椿が隣で小さく頷いた。


「兄貴だよ」


その言い方は平坦だった。

でも、その平坦さの下に力が入っているのが、少し離れていてもわかる。


岩砕は周囲を見回しもせず、まっすぐ前だけを見て歩いていく。迎えに出てきた者が頭を下げても、頷くことすらしない。その代わり、道そのものが勝手に空くみたいだった。


私は無意識に息を止めていた。


強い。

それも、椿の強さとはまた違う。椿の強さは熱や勢いを感じるけれど、岩砕のそれはもっと重くて、近づくだけで押し潰されそうな圧がある。


「……やだな」


思わず漏らすと、椿が少しだけ口元を歪めた。


「だろうね」


そこへ、また別の気配が近づく。


今度は岩砕の時と違って、風が静かに変わった。

重いというより、張る。場の輪郭そのものがぴんと引き締まるみたいな気配だ。


「来た」


紬が小さく呟く。





次に現れた一団は、岩砕の時より人数が少なかった。


けれど、少ないからといって気配が薄いわけではまったくない。むしろ逆だった。先頭を歩く男が門をくぐった瞬間、周囲にいた者たちが目に見えない糸で一度に姿勢を正したみたいに見えた。


薄紫色の羽織。

長い髪。

そして、静かすぎる歩き方。


あれが蒼耀だと、誰にも教えられなくてもわかった。


白嶺に似ている、と思ったのは顔立ちそのものじゃなかった。

空気だ。あの人もまた、動きを大きく見せない。けれど、その静けさ自体が周囲を従わせるみたいだった。


蒼耀は誰かに威圧的な言葉をかけるわけでも、あからさまに偉そうな顔をするわけでもない。ただ視線を一度流すだけで、迎えに出た者たちの呼吸が変わる。その感じが妙に怖かった。


「……優しそうに見えるのに」


私が小さく言うと、椿が鼻を鳴らす。


「そこが嫌なんだよ」


「椿」


紬が少したしなめるように言う。


「事実だろ」


そう返す椿の目は、岩砕を見ていた時よりさらに険しかった。


蒼耀の後ろには、文官らしい者たちが控えていた。武官とは違って、装束の線は細く整っていて、持ち物も巻物や薄い板状の霊具が多い。まるで戦場に来たのではなく、最初から“言葉で場を支配するつもり”でいる一団だった。


私は知らず知らずのうちに、自分の袖口を握っていた。


あの人が、白嶺の父。

白嶺が幼い頃から絶対として育てられた相手。

父の前では、昔の抑圧の感覚に引き戻される――設定として聞いたその話が、急に体温を持った気がした。


その蒼耀が視線を上げた瞬間、私は思わず障子の陰に少しだけ身を引いた。

こっちが見えているはずなんてない。距離もある。なのに、目が合ったと思ってしまったのだ。


「燈ちゃん?」


紬が小声で呼ぶ。


「……なんでもない」


そう答えたけれど、心臓は少し速かった。


蒼耀の一団が去って少ししてから、今度はまた空気の質が変わった。


重いでも、張るでもない。

するり、と滑るみたいだった。


現れたのは、見たことのない衣をまとった男だった。

屋敷の者たちとも、岩砕の一団とも、蒼耀の一団とも違う。襟の重なり方、袖の広がり、刺繍の意匠。どれも中華風で、紬の普段の衣に少し通じるものがある。でも紬よりずっと洗練されていて、ゆるやかなのに崩れがない。


「……あれは」


私が呟くと、紬がこくりと頷く。


明清(ミンシン)


その名を口にした紬の声には、少しだけ複雑な響きが混じっていた。


明清は、岩砕みたいな武の圧も、蒼耀みたいな統制の圧も持っていなかった。なのに、気を抜ける感じもしない。ただ、周囲の誰とも違う温度でそこを歩いている。


付き従う者の数も多くない。財の大物だと聞いていたから、もっと華やかな一団を想像していたのに、むしろ質素なくらいだった。けれど、その質素さが“控えめ”なのではなく、“無駄がない”ように見える。


「何考えてるかわかんないね」


思わずそう言うと、椿が小さく笑った。


「それはそう」


「でも、姉さんとは全然違うんだよ」


紬が静かに続ける。


「姉さんなら、もっとこう……場に入る前から空気を整える感じがあった。明清は、整えるというより、最初から少し離れたところに立ってるみたい」


その表現は、なんとなくわかる気がした。

明清は誰かに合わせるでもなく、誰かを押しのけるでもなく、最初から自分の立つ位置をずらしているみたいだった。


明清はそのまま通り過ぎるかと思ったのに、ふと視線だけをこちらの方へ流した。

いや、正確には、紬のいるあたりへ。

紬がほんのわずかに息を止めた気がした。

けれど次の瞬間には何もなかったみたいに視線を戻し、するりと屋敷の奥へ消えていった。


そのとき後ろから冷えた声が落ちてきた。


「君たちは何をしている」


三人そろって肩が跳ねた。


振り向くと、そこには白嶺が立っていた。

怒っている、というより、本気で呆れている顔だった。


「見ればわかるだろ。見物だよ」


椿が言う。


「堂々と言うな」


白嶺が即座に返す。


「だって実際そうだろ」


「燈まで巻き込むな」


「巻き込んだんじゃないさ。燈も気になってた」


そこで白嶺の視線が私に向く。

私は少しだけ身を縮めたけれど、嘘をつくのも違う気がして、こくりと頷いた。


「……気になってた」


白嶺は一瞬だけ黙った。

それから深く息をつく。


「否定はしないのか」


「だめ?」


聞くと、白嶺はこめかみを押さえるみたいな仕草をした。


「だめに決まっている。今日はいつも以上に人の出入りが多い。見つかったらどうするつもりだった」


「見つかってないじゃないか」


「今、見つけた」


「白嶺に見つかるのは別だろ」


椿のその理屈に、紬が肩を震わせる。

私は笑ってはいけない気がしたのに、少しだけ口元がゆるんでしまった。


白嶺はそれを見て、さらに呆れたような顔になった。


「君たち……」


「でも」


私は少しだけ真面目な声で言った。


「見てよかった」


白嶺が目を細める。


「なぜ」


「だって、名前だけじゃわからないから」


私は庭の向こうを見た。

もう三つの一団はそれぞれ別の棟へ入っていて、石畳には誰もいない。けれど、さっきまでそこを通っていた圧だけはまだ残っている気がした。


「岩砕も、蒼耀も、明清も、全然違った」


そう言うと、白嶺は少しだけ黙った。


そして意外なことに、それを完全には否定しなかった。


「……それはそうだ」


小さくそう言ってから、すぐに続ける。


「だが、見るなら見るで、もっとましなやり方を選べ」


「ましなやり方って何だい」


「少なくとも、廊下の角から三人で並んで覗くことではない」


「並んでたのが駄目なのかい?」


「そこじゃない」


そのやり取りが妙に可笑しくて、今度は紬がはっきり笑った。


白嶺はもう一度深く息をつくと、私たちを順に見た。


「会議はこれから始まる。燈は部屋へ戻れ。紬、ついていけ。椿は……」


「何だい」


「不用意に歩き回るな」


「言われなくてもわかってるよ」


「わかっていないから言っている」


そう言いながらも、白嶺の声音にはさっきまでの強い呆れだけじゃなく、少しだけ諦めの混じった柔らかさがあった。


私は立ち上がって、最後にもう一度だけ庭の向こうを見た。


会議はまだ始まっていない。

でも、もう十分に何かが始まりかけている感じがした。

重いもの、静かなもの、読めないもの。いろんな思惑が、同じ屋敷の中へ入ってきたのだ。


それを思いながら、私は紬といっしょに廊下を戻りはじめた。


背後では、白嶺が会議の方へ向かっていく気配がする。

あの人はこれから、父とも、岩砕とも、明清とも、同じ場に立つのだ。


そう考えたとき、胸の奥がまた少しざわついた。

でもそのざわつきは、ただの怖さだけじゃなかった。次に何が起こるのか、もう目をそらしてはいられないような、そんな前触れにも思えた。

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