第十四話 誰がための門
警戒が強まった屋敷で過ごす朝、私は夢の途中で目を覚ました。
何の夢だったのかは、はっきり残っていない。
ただ、目が覚めたあともしばらく胸の奥にざらついた感じだけが残っていた。怖い夢だったのかもしれないし、家族の夢だったのかもしれない。最近は、どちらも似たような苦しさを残す。
障子の向こうは、もう朝の光で白んでいた。
庭石のあいだを流れる霊力の筋も、いつも通り青白く光っている。けれど、その静かな景色に反して、屋敷の中の気配は昨日からずっと張ったままだ。
傀儡の巡回する足音。
一定の間隔で切り替わる霊力灯のかすかな唸り。
それから、人の声が少しだけ増えたこと。
私は布団の上でしばらく座ったまま、自分の膝を見ていた。
ここにいれば、一番安全。
そう言われたし、それはたぶん本当なんだろう。
でも、一番安全なはずの場所が、昨日からずっと落ち着かない。守られている感覚と、囲われている感覚が、どちらも同じだけある。
「……おはよう」
障子が開いて、紬が顔を出した。
今日は盆のほかに、小さな巻物を一本抱えている。
その時点で、なんとなく胸の奥が嫌なふうにざわついた。
「おはよう」
返すと、紬はいつものように笑おうとして、少しだけ失敗した顔をした。
「朝ごはん、後でもいい?」
「え?」
「先に、白嶺のところへ来てほしいって」
私はぱちりと瞬きをする。
「また何かあったの?」
紬はすぐには答えなかった。
その代わり、手に持った巻物を少しだけ見下ろす。
「……報せが来たんだ」
やっぱり、と思った。
こういう時の“報せ”が、いい知らせだったことは今までほとんどない。
身支度を整えて、紬といっしょに屋敷の中を歩く。
昨日よりもさらに、巡回がきっちりしていた。客間の区画と、それより奥をつなぐ回廊には傀儡が二体ずつ立っていて、床に細く刻まれた霊力路が淡く光っている。庭の端にも新しい灯籠型の装置が増えていた。
「こんなに増やしたんだ」
私が言うと、紬は頷く。
「結界の位相をずらしただけじゃ足りないかも、って白嶺が」
「白嶺が」
「うん。昨夜の侵入、やっぱり偶然じゃない可能性が高いって」
その言葉で、足が少し重くなる。
雲仙様の部屋へ向かうわけではなかった。
通されたのは、その手前にある少し小さな座敷だった。そこにはすでに白嶺がいて、巻物をいくつか広げていた。椿も来ている。腕を組んで柱にもたれ、いかにも機嫌が悪そうな顔をしていた。
「来たか」
白嶺が顔を上げる。
声はいつも通り静かだったけれど、目の動きは速かった。すでに何かをかなり考えている顔だ。
私は紬の隣に座る。
卓の上には地図みたいなものと、霊力路に似た線の書き込み、それからいくつかの文書が並んでいた。
「何があったの」
私が聞くと、白嶺は一枚の紙をこちらへ向けた。
「今朝、外縁区から報せが入った」
その紙には、見慣れない文字と図が並んでいる。読めなくはないが、すぐには理解できなかった。
白嶺はすぐに要点だけを口で続けた。
「一昨夜、屋敷の結界が揺れたのとほぼ同じ時刻、外縁区の一角で徹底抗戦派寄りの下級武官が密かに動いていた形跡がある」
私は息を呑む。
椿がすぐに鼻を鳴らした。
「やっぱり、鬼側かい」
「そう決めつけるのは早い」
白嶺が即座に返す。
「“徹底抗戦派寄り”というだけで、岩砕直属とは限らない。さらに言えば、その連中が本当にその件に関わったかもまだ断定できない」
「でも、時刻が近いんだろ?」
椿が言う。
「偶然にしちゃ出来すぎだね」
「そこまでは同意する」
白嶺はそう言って、別の紙を引き寄せた。そこには屋敷の外周らしき簡単な見取り図が描かれている。
「問題はこっちだ」
白嶺の指が、結界の一角を示す。
「一昨夜、揺らされた場所は、屋敷の外から見ても“弱い”とわかる類のものじゃない」
紬が少しだけ身を乗り出した。
「霊脈の流れを読まないとわからない場所ってこと?」
「そうだ」
「じゃあ……」
私はその先を口にするのが少し怖かった。
でも白嶺は、私が言う前にきっぱりと続けた。
「屋敷の結界構造か、少なくとも弱点の傾向を知る者がいた可能性が高い」
座敷の空気が、しんと冷えた気がした。
私は無意識に、自分の指を握る。
外から来た敵。
それだけでも十分怖いのに、そのうえ“中のことを知っているかもしれない誰か”までいるとなると、急に足元が危うくなる。
「内通者ってことかい」
椿が低く言う。
「その可能性もある」
白嶺の答えには迷いがなかった。
「ただし、“いま屋敷内に裏切り者がいる”と短絡するのも危険だ。古い情報がどこかに残っていた可能性もある。過去の出入り、旧式の結界図、廃された霊路の記録――漏れる経路はいくつも考えられる」
その言葉を聞いたとき、私は少しだけ息をついた。
誰かひとりをすぐ疑う話ではないのだとわかったからだ。けれど、ほっとした分だけ、話の範囲が広いことも怖かった。
屋敷の門は、外だけに向かって閉じれば済むものじゃないのかもしれない。
誰がどこで、何を見ていたのかわからない。
「……それで、どうするの」
私が聞くと、白嶺は視線をまっすぐこちらへ向けた。
「まずは、屋敷の守りを“外からの侵入を防ぐもの”から、“誰がどこを見ているかわからない前提の守り”へ切り替える」
その言い方は少し難しかった。
でもつまり、今までよりもっと複雑に守るということなんだろう。
椿が舌打ちした。
「気に食わないね」
「僕もだ」
珍しく白嶺がすぐ同意した。
その一言だけで、今の報せがどれだけまずいのか、少しわかった気がした。
白嶺は巻物を一つ閉じて、もう一枚を開いた。
「一昨夜の侵入は、成功を目的としたものではない」
それはすでに聞いた話だった。
でも白嶺はあえて、もう一度そこから整理するみたいだった。
「結界の揺れ、傀儡の配置、燈の反応――それらを“見るため”の侵入だった可能性が高い」
「私の反応まで?」
思わず聞き返すと、白嶺は頷く。
「君の霊が、侵入者にどう反応するか。気配を拾うか。揺れるか。そこまで読もうとした可能性はある」
その一言で、胸がいやなふうに冷えた。
私はただ、怖がっていただけだった。
でも、その怖がり方まで誰かに見られるかもしれないのだと思うと、自分の体の中まで覗かれたみたいな気分になる。
紬がそれに気づいたのか、少しだけ私の方へ体を寄せた。
触れはしないけれど、そこにいてくれるだけで少し落ち着く。
「つまり」と椿が言う。
「屋敷の門を叩いたのは、燈を奪うためじゃなく、もっと先のための手探りってわけだ」
「そう考えるのが自然だ」
白嶺はそう答えた。
「なら、今回の報せともつながる。外縁区で動いていた連中は、一昨夜の件そのものの実行役か、あるいは結果を受け取る側だろう」
「どっちにしろ、気に食わない連中だね」
椿が腕を組む。
「その下級武官、名前は?」
白嶺は紙を見た。
「鬼の兵の中でも末端に近い。岩砕直属というより、徹底抗戦派にぶら下がっている連中だ」
その言い方には、わずかに棘があった。
「でも鬼側の名を使って動くには十分ってことか」
椿が言う。
「そうだ」
白嶺は静かに返す。
「問題は、これが本当に鬼側の独断なのか、鬼側に見せかけた別筋なのか、まだ切り分けられないことだ」
私はそのやり取りを聞きながら、頭の中に浮かぶ顔を数えた。
岩砕。
蒼耀。
雲仙様。
椿。
白嶺。
紬。
その誰が味方で、誰が敵か、みたいな単純な話じゃない。
みんながそれぞれの立場で動いていて、そのあいだに私みたいな存在が落ちている。そういう感じがした。
「……蒼耀様は」
紬が慎重に口を開く。
「この件、知ってると思う?」
その名が出たとたん、空気が少しだけ硬くなる。
白嶺はほんの一瞬だけ黙った。
「知っていたとしても不思議はない」
「でも、関わってるとは限らない」
「もちろんだ」
白嶺の答えは速かった。
「現時点で父を疑う根拠はない。だが、父の耳に入れば、この件を“燈の管理を強める理由”に使う可能性はある」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「管理、って」
「より厳格に制限する、ということだ」
淡々とした説明だった。
でも、その“より厳格に”の中に何が含まれるのか、私には想像できてしまう。
部屋を変えられるかもしれない。
会う人を選ばれるかもしれない。
あるいは、別の誰かの手で“保護”されることだってありうる。
「嫌だね」
椿がはっきり言った。
「蒼耀の“保護”ほど息が詰まるもんはない」
「同意する」
白嶺が短く返す。
その二人がすぐ同じ方向を向くのは珍しい気がして、私は少しだけ目を瞬いた。
「では、どうするんですか」
自分でも少し固い言い方になったと思ったけれど、今はそれしか聞けなかった。
白嶺は私を見た。
「まず、燈の位置を固定しない」
「また?」
「昨日よりさらに徹底する」
白嶺の指が地図の上を動く。
「部屋は基本このままでいい。だが、昼にいる場所、夜に休む場所、移動の順番を毎日変える。見張りの配置も規則性を持たせない」
「そんなことまで……」
思わず言うと、白嶺は一度だけ目を伏せた。
「必要だ」
それは、切り捨てるような言い方ではなかった。
むしろ、必要だとわかっているからこそ、余計な慰めを挟めない人の声だった。
「それから、傀儡にも偽の動線を流す」
紬がそこで目を上げる。
「偽の動線?」
「一部の傀儡には、燈が別の区画へ移る前提で巡回させる。見ている者がいれば、そちらへ意識が向く」
私はぽかんとした。
椿が横で感心半分、呆れ半分みたいな顔をする。
「そういうとこなんだよね、アンタは」
「何がだ」
「いやらしい頭の回し方」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないよ」
でも椿の声は、少しだけ楽しそうでもあった。
私も、怖い話をしているはずなのに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
白嶺はこういうとき、ただ難しい顔をして警戒するだけじゃない。ちゃんと一手先、二手先まで読んで、こちらにできることを増やしていく。
「ただし」
白嶺の声がまた静かに落ちる。
「これで万全になるとは思うな。相手が結界を探ってくるなら、こちらも読みを変え続けるしかない」
その現実的な言い方に、私は少しだけぞくっとした。
守られるというのは、壁を一枚立てて終わりじゃない。
相手が見ているなら、その視線そのものを読み返さなきゃいけない。そういう話なんだ。
「燈ちゃん」
紬がやわらかく呼ぶ。
私はそちらを見る。
「大丈夫?」
「……大丈夫、じゃないけど」
「うん」
「でも、わかった方がまし」
そう言うと、紬は少しだけ目を細めた。
「そうだね」
椿も隣で鼻を鳴らす。
「逃げ道が見えないまま怯えるよりは、よっぽどいいさ」
白嶺は何も言わなかった。
でも、その沈黙は否定じゃなかった。
話が一段落すると、白嶺は紙をまとめた。
「この件は、屋敷の中でも知る者を限る」
その一言で、また空気が引き締まる。
「傀儡の配置換えは必要最低限の者だけ。客間の者にも、燈に関わる内容は詳しく伝えない」
「そんなに絞るの?」
私が聞くと、白嶺は頷いた。
「誰がどこで何を見ているかわからない以上、知る者が少ない方がいい」
「でも、それって」
言いかけて、私は少しだけ迷った。
けれど、胸に引っかかったままにするのも嫌だった。
「……私がいるせいで、みんなが疑われるってこと?」
座敷が一瞬だけ静かになる。
紬がすぐに何か言おうとしたのを、白嶺が先に口を開いた。
「違う」
その答えは思ったより速かった。
「疑われる原因を作ったのは侵入者だ。君ではない」
「でも、私を探ってるんでしょ」
「それでもだ」
白嶺は静かだったけれど、言葉ははっきりしていた。
「君がここにいるから狙われた可能性はある。だが、だからといって君が責を負う話ではない」
その言い方は、雲仙様に少し似ていた。
私のせいなんじゃない。そうやって何度も言われても、胸のどこかではまだ“でも”が残る。でも、言葉を重ねてもらえるのはありがたかった。
椿がそこで大きく息を吐く。
「燈はそういうとこ気にするからね」
「気にするよ」
思わず言い返すと、椿はにやっとした。
「知ってる」
その返しが少し悔しい。
でも悔しいと思えるくらいには、少し呼吸が戻っていた。
「それより気に食わないのは」
椿が腕を組み直す。
「“雲仙様の屋敷”の門が、誰かの思惑で試されてるってことさ」
私はその言葉に、ふと庭の向こうを見た。
門。
屋敷の入口だけじゃない。結界も、回廊も、霊力の流れも、全部ひっくるめて“門”なのかもしれない。誰を通し、誰を拒むのか。その判断のための境。
誰のための門なのか。
燈を守るためか。雲仙様を守るためか。屋敷を守るためか。妖魔界を守るためか。あるいは、守るという名目で閉じ込めるためか。
「本来なら」
白嶺が静かに続ける。
「雲仙様の屋敷の門は、雲仙様の意思に従って開閉されるべきものだ」
椿が頷く。
「なのに今は、外の連中が勝手に叩いてる」
「そうだ」
「しかも、中のことまで知ってるかもしれない」
紬の声が少しだけ低くなる。
白嶺はそこで一度だけ目を閉じた。
「だからこそ、門を閉じるだけでは足りない」
そして目を開ける。
「誰が、何のために、その門を使おうとしているのかを見なければならない」
その瞬間、私は少しだけ背筋が伸びた。
白嶺の考え方は、時々難しい。
でも、こういうときにただ怯える方へ引っ張られないのが、たぶんこの人の強さなんだと思う。
「じゃあ、白嶺は」
私は少し迷ってから聞いた。
「誰がやったと思ってるの?」
白嶺はすぐには答えなかった。
考えているというより、言葉を慎重に選んでいるように見えた。
「僕は、三つの可能性を見ている」
そう言って、指を折る。
「一つ。徹底抗戦派の末端が独断で動いた」
椿が小さく舌打ちした。
「二つ。徹底抗戦派を名目にした誰かが、鬼の名を借りて探りを入れた」
紬が息を潜める。
「三つ。古い結界情報が、意図せずどこかから漏れている。つまり、特定の個人の裏切りではなく、屋敷の守りそのものに過去の綻びがある」
私はその三つを頭の中で並べてみた。
どれも嫌だった。どれならまし、という話でもない。
「絞れないんだね」
「まだな」
白嶺はそう言って、少しだけ視線を落とす。
「だが、絞れないからといって闇雲に疑うつもりはない。今必要なのは、相手が次に何を見に来るかを先に読むことだ」
椿が鼻を鳴らした。
「だから、あたしはそういう頭の回し方がいやらしいって言うんだよ」
「また言ってる」
私が思わず言うと、椿は肩をすくめる。
「褒めてるんだって、半分は」
「半分しかないの?」
「残り半分は気に食わない」
その会話に、紬が吹き出した。
緊張した空気の中で、それだけが少し日常みたいに響いて、私はほっとする。
白嶺は立ち上がった。
「燈」
「うん」
「君には今まで通り、感じたことを隠さず伝えてほしい」
「感じたこと?」
「気配の揺れ、胸の冷え、火のざわつき。どんな小さなことでもいい」
私は頷いた。
「わかった」
「それが今の君にできる最善だ」
その言葉は、子ども扱いにも、責任の押しつけにも聞こえなかった。
“今の君にはこれがある”と、ちゃんと見て言っている感じがした。
白嶺が去ったあと、座敷には私と椿と紬だけが少し残った。
椿は腕を組んだまま、白嶺が出ていった方を見ている。
「また難しい顔してるねえ、あいつ」
「でも、少し安心した」
私が言うと、紬が頷いた。
「うん。僕も」
「安心?」
椿がこちらを見る。
「どうしてさ」
「だって、ちゃんと考えてるってわかるから」
そう答えると、椿は少しだけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「まあ、それはそうだね」
紬が湯呑を片づけながら言う。
「燈ちゃん、庭の方へ戻る?」
私は少しだけ考えて、頷いた。
「うん。閉じてても、あそこなら風があるから」
その言葉に、椿が小さく鼻を鳴らした。
「いいじゃないか。閉ざされた庭でも、風が通るならまだましだ」
私はその言い方を、少しだけ気に入った。
閉ざされた庭。
守るために囲われた場所。
それでも風は通る。話すことも、考えることも、たぶんまだできる。
今はここに留まるしかない。
その事実は重いままだ。けれど、その重さの中で何もできないわけじゃないと、少しだけ思えた。
私は紬といっしょに立ち上がり、椿と並んで庭の方へ歩き出した。
門は閉ざされている。けれどその門が誰のためのものなのか、いつか自分でも考えなくちゃいけない気がした。




