第十三話 閉ざされた庭
事件のあった翌朝、屋敷の空気は明らかに変わっていた。
目を覚ました瞬間、それがわかったわけじゃない。
天井はいつもと同じで、障子の向こうには朝のやわらかい光があって、庭石のあいだを青白い霊力の筋が静かに流れている。ぱっと見たかぎり、何も変わっていないように見えた。
でも、耳を澄ませたときに違いがあった。
足音が多い。
しかも、その足音は人のものより、傀儡のものが多かった。一定の間隔で、ぴたり、ぴたり、と回廊の向こうを通っていく。昨日までにも傀儡の気配はあったけれど、ここまで頻繁じゃなかった。まるで、客間の区画そのものを囲うみたいに、決まった巡回路を行き来している。
「……起きた?」
障子の外から、紬の声がした。
「起きてる」
返事をすると、障子が開く。
入ってきた紬はいつも通り盆を持っていたけれど、その後ろには給仕用の傀儡が二体ついてきていた。私はそれを見た瞬間、反射的に背筋をこわばらせる。
紬はすぐにそれに気づいたらしく、「大丈夫」と小さく言った。
「この子たちは食器を下げるだけ。部屋の中まで勝手に入ったりしないよ」
「……増えてるよね」
私が言うと、紬は少しだけ眉を下げた。
「うん」
否定しないところが、かえって現実味を持たせた。
「昨日のことがあったから、しばらくはこの区画の警戒を上げるって」
私は布団の上に座ったまま、障子の向こうを見た。
回廊の角にも、いつの間にか見慣れない細長い灯籠みたいなものが置かれている。青白い光が中で静かに揺れていて、たぶんあれも結界かなにかに関わるんだろう。
守られている。
そのはずなのに、胸の奥では“増えた”という感覚の方が先に立つ。
「朝ごはん、食べられそう?」
紬が聞く。
「うん」
「よかった」
紬はそう言いながら、盆を置く。
今日の朝ごはんはいつもより少しだけ豪華だった。汁物に、小さな焼き魚みたいなもの、それからやわらかい白い蒸しものがある。
「これ、誰が決めたの?」
「椿」
「椿?」
「“燈が昨日あんな目にあったんだから、朝くらいちゃんと食わせな”って」
その言い方が目に浮かんで、私は少しだけ笑ってしまった。
紬もつられて笑う。
「白嶺は“普段通りでいい”って言ったんだけど、椿が譲らなくて」
「それも目に浮かぶ」
少しだけ笑っただけなのに、胸のつかえがほんの少しやわらいだ気がした。
食べ終わると、紬は盆を持って立ち上がった。後ろの傀儡たちも同じタイミングで動く。やっぱりまだその正確さには少し身構えてしまうけれど、前みたいに露骨にびくっとするほどではなくなっていた。
「今日は……どうなるの?」
私が聞くと、紬は少しだけ考えるように視線を横へ流した。
「基本的には、いつも通り過ごしてほしいって」
「いつも通りって」
「屋敷の中で、って意味」
私は小さく黙った。
それはつまり、外へ出るなということだ。
いや、もともと自由に出歩いていたわけじゃない。けれど昨日までは“行かない方がいい”くらいだったものが、今日はもう少しはっきり“行けない”に近づいている気がした。
紬はその沈黙を見て、やわらかく言う。
「ごめんね」
「紬くんが謝ることじゃない」
「そうだけど……でも、息苦しいよね」
その一言に、私は少しだけ驚いた。
言葉にしていなかったのに、もうそこまで伝わっていたからだ。
「……ちょっとだけ」
正直に言うと、紬は小さく頷く。
「白嶺もそれはわかってると思う」
「でも、変えないんでしょ」
「今はね」
その返事は曖昧に慰めるんじゃなくて、ちゃんと現実を認める言い方だった。
朝食のあと、私は言われた通り客間の区画の中だけを歩いた。
同じ場所なのに、昨日までと見え方が違う。
回廊の曲がり角ごとに傀儡が立ち、巡回する足音が途切れない。青白い霊力の筋も、今日はいつもより濃く見えた。灯籠のような装置も増えていて、庭と回廊の境目を見えない線で何重にも囲っているみたいだった。
守りが厚くなった、と言えばそうなのだろう。
でも、私にはどうしても“囲まれている”感覚の方が強い。
中庭の縁側で足を止めると、風が吹いた。
昨日までなら気持ちいいと思えたはずなのに、今日は風の通る場所が狭くなったように思える。庭は同じ広さのままなのに、どこか閉じて見えた。
「そんな顔しなさんな」
声がして振り向くと、椿が立っていた。
今日は鍛錬の最中じゃないらしく、いつもの着流し姿だ。けれど、腰には棍棒が下がっている。あの格好で庭に立っているだけで、普段よりずっと警戒しているのがわかった。
「変な顔してた?」
「してた」
椿は遠慮なく言う。
「庭にでも閉じ込められた猫みたいな顔」
「それ、あんまりいい意味じゃないよね」
「いい意味じゃないね」
そう言って、椿は私の隣にどさっと座った。
「気に食わないだろ」
私は少し迷ってから、頷いた。
「……うん」
「だろうね」
「でも仕方ないのも、わかる」
そう続けると、椿は鼻を鳴らした。
「偉いじゃないか」
「偉くないよ」
「偉いよ。あたしなら、もっと露骨に文句言ってる」
「椿はいつも露骨だもんね」
私がそう言うと、椿は一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「燈、ちょっと慣れてきたじゃないか」
「悪い?」
「いいや。むしろその方がいい」
笑いながらも、椿の目は少しだけ鋭かった。
回廊の端に立つ傀儡や、庭の向こうの灯籠をちらちら見ている。
「椿も嫌なの?」
「嫌だよ」
あっさり言う。
「守るために必要なのはわかる。でも、こういうのってね、守ってるうちに檻と変わらなくなることがある」
その言い方に、私は胸の奥をつかれた気がした。
檻。
まさに今、私がうまく言葉にできなかった感覚だった。
「椿なら、どうするの」
「ん?」
「屋敷じゃなくて、どこかに隠すとか」
聞くと、椿は少しだけ目を細めた。
「それも手だろうね」
「じゃあ、何でそうしないの?」
「今のとこ、ここが一番ましだからさ」
私は黙った。
まし。
安全、ではなく。
「外に出りゃ、燈を連れて動くってだけで目立つ。隠れ家があるとしても、そこまでの道で狙われるかもしれない。屋敷の外は、こっちが思ってるよりずっと見られてる」
椿は棍棒の柄を軽く叩いた。
「だから、今はここにいた方がいい。……気に食わないけどね」
その“気に食わない”の中には、私への同情だけじゃなく、もっと大きい苛立ちがあるように聞こえた。
椿はきっと、強い側が“守るため”を理由に相手の自由を狭めることにも敏感なんだろう。
そのとき、縁側の向こうから白嶺がやってきた。
今日の白嶺は、父に呼び出された夜の冷えた感じではなかった。
でも普段よりは忙しそうだった。視線の動きが早く、考えることが多い人の顔をしている。
「ここにいたか」
「いたよ」
椿が先に答える。
「燈、暇そうだったからね」
「暇そう、って」
「違うかい」
違わなかったので、私は何も言い返せなかった。
白嶺は私の前に立つと、少しだけ視線を落とした。
「具合はどうだ」
「具合?」
「昨夜のあとだ。霊が不安定になっていないか」
私は少しだけ胸に手を当てた。
揺れは、確かにある。怖さもまだ残っている。でも昨夜みたいな強い冷えやざわつきは、今のところない。
「たぶん、大丈夫」
「“たぶん”では判断しづらいな」
相変わらず少し言い方が固い。
でも今日はそれがいつもより少しだけおかしく感じて、私はつい言ってしまった。
「白嶺、そういう聞き方しかできないの?」
言った瞬間、椿が吹き出した。
「はは、言うねえ」
白嶺は一瞬だけ黙ってから、ほんの少し眉を寄せた。
「……では、言い直す。苦しくはないか」
その律儀さが意外で、私は目を瞬いた。
そして少しだけ笑う。
「それならわかる。苦しくは、ない」
「そうか」
白嶺は短く頷いた。
けれど、その返事にはちゃんと安堵が混じっていた。
「当面、客間の外へは出るな」
「やっぱり」
「不満か」
「ちょっとは」
私は正直に言った。
白嶺はそれを聞いても咎めなかった。
「理解はしているか」
「……してる」
「なら今はそれでいい」
その言い方は、優しいわけじゃない。
でも“わがままを言うな”でもなかった。私が不満を持つこと自体は否定しない。ただ、必要だからやる。それだけだ。
それが少しだけ、白嶺らしいと思った。
白嶺はそこで、庭と回廊を見回した。
「巡回は二重にした。客間の外縁は傀儡を三列、内側は霊具を増やしている。今夜以降は結界の位相もずらす」
「位相って何」
思わず聞くと、椿が横から口を挟む。
「ほら始まった。白嶺の難しい話」
「必要なら説明する」
「燈が寝るよ」
「寝ないよ」
私が即座に言い返すと、椿がまた笑った。
白嶺は少しだけ考えてから、噛み砕くように言った。
「簡単に言えば、“昨日と同じ場所を弱くしない”ということだ」
「……ああ」
それなら少しわかる。
「相手が一度見た道を、次も同じように使えると思わないようにする」
「それって、向こうがまた来る前提なんだ」
「可能性は高い」
白嶺は即答した。
「昨夜のは様子見だ。成功するつもりの侵入ではない。なら、次があると考える方が自然だ」
その頭の回り方は、やっぱりすごいと思う。
怖い出来事があったあと、私はまだ“また来るかもしれない”で止まっているのに、白嶺はもう“来るならどう読んでいるか”の方まで考えている。
椿が腕を組んだ。
「それで、いつまで燈をここに置いとくつもりだい」
白嶺の視線が椿へ向く。
「現時点では、移動の方が危険が大きい」
「わかってるよ。聞いてるのは“今後もずっとか”ってことさ」
「ずっととは言っていない」
白嶺は静かに答える。
「だが、次の打ち手が見えないうちに外へ出す気もない」
「だろうね」
椿は納得半分、不満半分みたいな顔をした。
私は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥に小さく沈むものを感じていた。
ここにいるのが一番まし。
でも、ここにいる限り狙われるかもしれない。
外へ出ればもっと危ない。
だから、今は閉じるしかない。
それは頭では理解できても、簡単には息がしづらかった。
白嶺がその沈黙に気づいたのか、少しだけ声を落とした。
「燈」
「……うん」
「閉じこめたいわけじゃない」
その言葉に、私は顔を上げた。
白嶺はまっすぐこちらを見ている。
表情は大きく変わらない。でも、今の一言はたぶん、いつもの必要事項の説明だけじゃない。
「今は、守ることを優先している。それだけだ」
私は少し迷ってから、頷いた。
「わかってる」
ほんとうに、わかってはいる。
でもわかることと、平気でいられることは別だ。
そのことまで言葉にする前に、紬がこちらへやってきた。
「お昼、こっちへ持ってこようか?」
その問いかけが、妙にありがたかった。
たぶん紬は、空気を読んで話を切ってくれたのだ。
「そうだね」と椿が先に答える。
「今日はその方がいいかも」
「白嶺は?」
「構わない」
紬は私の顔を見て、やわらかく笑った。
「じゃあ、少しだけ庭で食べよう。閉じてても、風くらいは通したいし」
その言葉に、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
閉ざされた庭。
守りの内側。
出られない場所。
それでも、風が通るなら、たぶんまだ完全な檻ではない。
私はそう思いながら、もう一度、庭の向こうを見た。
青白い霊力の筋が静かに流れている。その流れの外には出られない。でも、その内側で、私はまだちゃんと息をしていた。




