第十二話 侵すもの
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
理由ははっきりしない。
昼間に何かあったわけでもないし、紬と話したあとの気持ちも、前より少しだけ軽くなっていたはずだった。家族のことを口に出したせいで胸が痛くなることはあったけれど、それでも、言わなければよかったとは思っていない。
それなのに、布団に入って目を閉じると、どうにも胸の奥が落ち着かなかった。
夜の屋敷は静かだ。
昼間は庭を渡る風の音や、どこかを歩く傀儡の気配、遠くの回廊を行き来する人の足音なんかが細く続いている。けれど夜になると、それらがいっぺんに薄くなって、まるで屋敷そのものが息をひそめるみたいに静かになる。
耳を澄ませば、聞こえるものはある。
庭石のあいだを流れる霊力のかすかな音。枝先を揺らす風。障子の向こうで葉がこすれる気配。
でも、それだけだった。
私は布団の上で寝返りを打った。
部屋の隅には、買ったばかりの小さな鏡と櫛、髪紐を入れた袋、紬が用意してくれた湯呑がきちんと置いてある。白嶺が持たせてくれた簡易の守りも、枕元に置いたままだ。
ここに来たばかりの頃なら、その一つ一つがひどく借り物みたいに見えたかもしれない。
でも今は、まだ完全には馴染まなくても、とりあえず“私のそばにあるもの”として認識できるくらいにはなっていた。
それなのに、胸の奥がざわつく。
「……変だな」
小さく呟いても、返事はもちろんない。
眠れないなら少し起きていようかとも思ったけれど、夜中に勝手に部屋を出るのも気が引けた。屋敷の中を全部把握しているわけじゃないし、紬にも遅い時間の一人歩きは避けた方がいいと言われている。
だから私は、もう一度目を閉じた。
そのときだった。
胸の奥が、ふっと冷えた。
「……っ」
さっきまでざわざわしていたのとは違う。
今度のは、もっとはっきりしている。嫌な感じだ。誰かに見られているとか、後ろに立たれているとか、そういう種類の、背中をなぞられるみたいな気配。
私は反射的に上体を起こした。
部屋の中は変わらない。
障子は閉まっているし、庭にも異変は見えない。夜の光に浮かぶ木の枝と、青白い霊力の筋が静かに流れているだけだ。
でも、違う。
何かが、いる。
“いる”というより、“近づいている”のかもしれない。
その瞬間、胸の奥の火が、ぴくりと揺れた。
怖い。
その一言が頭に浮かぶより先に、私は枕元の守り札を掴んでいた。
白嶺が「念のため持っておけ」と渡した、小さな箱。中の紙束みたいなものに触れると、指先にかすかな熱が伝わる。
私はごくりと喉を鳴らした。
どうする。
大声を出す?
でも何もなかったら、ただ夜中に騒いだだけになる。
それでも――
また、胸の奥が冷えた。
今度はさっきよりはっきりと、部屋の外、回廊のどこかからだった。音ではない。足音も聞こえない。なのに、何かが“いる”としか思えない。
私は布団から出て、障子の前までそろそろと近づいた。
開ける勇気はない。代わりに耳を寄せる。
静かだ。
静かすぎる。
普段なら、夜でもどこかに傀儡の気配くらいはある。けれど今は、それすら遠い。
そのこと自体が、もうおかしかった。
「……紬くん」
ほとんど息みたいな声で名前を呼んでも、もちろん届かない。
私は部屋の中を見回して、何か手元に持てるものを探した。
武器なんてない。あるのは湯呑と、小物と、守り札。それだけだ。
そのとき、障子の向こうを、黒い影が一度だけ横切った。
「っ!」
息が止まる。
人の影ではなかった。
背が低いとか高いとか、そういう感じですらない。もっと輪郭が曖昧で、すっと流れるように動いた。見間違いかもしれないと思う間もなく、胸の奥の火が強く揺れる。
駄目だ。
怖がると揺れる。揺れると漏れる。漏れると――
以前までなら、そこで頭が真っ白になっていたかもしれない。
でも今は、雲仙様と白嶺の声が少しだけ残っていた。
火を消すんじゃない。
包む。
こぼさない。
私はぎゅっと守り札を握って、胸の奥に意識を向けた。
揺れる。熱い。でも、散らさない。外へ弾かせない。薄い布をかけるみたいに、内へ押し戻す。
苦しい。
それでも、少しだけ、ほんの少しだけ、前よりはましだった。
その瞬間だった。
「燈!」
今度は障子の向こうから、本物の声がした。
椿だ。
私はほとんど転ぶように障子を開けた。
そこにいた椿の顔は、普段みたいな豪快な笑い顔じゃなかった。目が鋭くなっていて、片手には棍棒を持っている。
「椿……!」
「よかった、無事だね」
その言い方は乱暴なのに、ほっとした響きが混ざっていた。
「部屋の中に入んな。そこにいな」
「何、何かいるの?」
「いるよ」
椿は即答した。
「屋敷の結界が一瞬だけ揺れた。下っ端か、その類いが入りこんだらしい」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
下っ端。あの鳥居で見た黒い影が、頭の奥にすぐ浮かんだ。
「何で、屋敷の中に……」
「それを今、白嶺が見てる」
椿はそう言って、廊下の向こうを鋭く睨んだ。
「紬くんは?」
「屋敷の中の傀儡と人を動かしてる」
その言葉の通り、遠くで何かが動く気配がした。
傀儡の足音。人の声。抑えられてはいるけれど、普段の夜の屋敷にはない緊張が走っている。
「燈、よく聞きな」
椿が声を低くする。
「今は部屋から出るな。何か見えても呼ばれても、あたしか紬か白嶺の声じゃなきゃ絶対に開けるんじゃないよ」
「え……」
「いいね」
私はこくこくと頷いた。
椿はそれを見て、少しだけ息をつく。
でも、すぐにまた棍棒を握り直した。
「ちょっと様子見てくる」
「椿!」
思わず呼び止めると、椿は振り返る。
「なに」
「……気をつけて」
言ってから、自分で少し驚いた。
でも椿は目を丸くしたあと、にっと笑う。
「誰に言ってんだい」
そのいつもの調子に、少しだけ救われた気がした。
椿が去ると、廊下はまた暗くなった。
障子を閉めても、もう安心できる感じはしない。
私は部屋の真ん中まで下がって、守り札を握ったまま耳を澄ませた。
何かが、動いている。
遠くで短い声がした。
何かがぶつかる鈍い音。風が走るような音。椿の気配とは違う、ひやりとしたものが回廊の向こうを撫でていく。
白嶺だ。
私は息を止めた。
次の瞬間、庭の青白い霊力の筋が、一度だけ強く明るくなった。
その光は、一瞬だった。
けれど私には、それがただの明かりの揺れじゃないとわかった。
屋敷の中を流れている霊力が、何かに反応してざわめいたみたいだった。
それから少しして、回廊を走る足音が近づいてくる。
私は身を固くした。椿か、紬か、それとも――
「燈ちゃん!」
障子の外から紬の声がした。
私はすぐに開けた。
紬は少し息を切らしていたけれど、大きな怪我はなさそうだった。ただ、いつものやわらかい顔は消えていて、尻尾の先までぴんと張っている。
「無事でよかった」
「紬くん、何が……」
「説明は後。今は部屋を移るよ」
「え?」
「客間のこの区画が一番外に近いんだ。念のため、もう少し奥へ」
紬はそう言って、私の手首ではなく、袖口の先だけを軽くつまむ。直接引っ張らないのは、たぶん私が驚かないようにだろう。
私は急いで守り札を持ち直し、部屋を出た。
回廊には、普段より多くの傀儡がいた。
でも、ただ立っているわけじゃない。三体ずつくらいで区画の角に配置され、青白い霊力の線がその足元から細く伸びている。いつもは人に似た静けさが少し不気味に思えるのに、今はむしろ、その整った動きが頼もしく見えた。
「結界が揺れたって椿が……」
歩きながら聞くと、紬は短く頷く。
「うん。揺れたっていうか、正確には“揺らされた”」
「え……」
「中からじゃなくて、外から。誰かがどこかを突いたんだと思う」
私は思わず足を止めそうになる。
「誰かって……」
「まだわからない」
紬の声は落ち着いていたけれど、完全に余裕があるわけじゃないのがわかった。
「でも、ただの下級妖怪が偶然入りこんだんじゃない。タイミングがよすぎるし、結界の弱いところを狙った形跡がある」
それはつまり、最初から“入れるつもり”で動いた者がいるということだ。
私は喉が乾くのを感じた。
「燈ちゃん、さっき何か感じた?」
紬が聞く。
「うん……最初に、胸が冷たくなった。影も見た」
「やっぱり」
紬は小さく息を吐く。
「燈ちゃんの霊が、侵入者の気配に先に反応したんだと思う」
「それって、いいことなの?」
「気づけたって意味ではね」
紬はそう言ったけれど、声の端には複雑な響きがあった。
「でも、向こうにも燈ちゃんの気配は届きやすい」
その一言で、また胸の奥が冷える。
私たちは客間の区画を抜けて、もう少し奥まった小部屋へ移った。
そこは前より狭かったけれど、壁や柱に細い霊力の筋が何本も通っていて、むしろ守られている感じは強かった。
「ここにいて」
紬が言う。
「今は白嶺が侵入経路を追ってる。椿はその補助と、万一こっちに流れてきたものの足止め」
「紬くんは?」
「僕は屋敷の中の流れを整えてる」
紬はそう言って、少しだけ苦笑した。
「案内役だけじゃないからね、一応」
その言い方に、私は少しだけ呼吸がしやすくなった。
「……白嶺、大丈夫かな」
ぽつりと漏らすと、紬は一瞬だけ目を細める。
「大丈夫」
その答えは、今まで聞いたどの返事より迷いがなかった。
「こういう時の白嶺は、一番強いから」
その言葉が終わるより少し早く、また風が走った。
今度は近い。
部屋の外の回廊を、冷たいものが一息に抜けていく。私は思わず肩をすくめたけれど、紬はすぐに障子の前へ出て、耳を澄ませた。
そして、次の瞬間。
「終わったみたい」
「……え?」
あまりにもあっさりしたその言葉に、私は目を丸くする。
紬が部屋の外へ出る。私はすぐには続けなかったけれど、少しだけ間を置いてから後を追った。
回廊の角を曲がると、そこに白嶺がいた。
翼の先に、夜の湿った空気がまとわりついている。
服に乱れはない。呼吸も乱れていない。けれど、そのまわりの空気だけが妙に鋭く澄んで見えた。
足元には、黒いものがあった。
最初、影だと思った。
でも違う。影というには濃すぎて、泥というには輪郭がありすぎる。人の形をしそこねたみたいなものが、敷石の上に押さえつけられるように広がっている。
私は反射的に一歩下がった。
「……これ」
「名もない下級妖だ」
白嶺が言う。
「ただし、偶然入りこんだわけじゃない」
その声はいつも通り落ち着いていた。
でも、父に呼ばれた時の冷えた硬さとは違う。今は思考がすべて前へ向いている感じがする。
椿がその横に立って、棍棒の先で黒いものをつつく。
「見た目どおり、ただの下っ端だね。でも確かに、入ってくる場所が妙すぎる」
「だろう」
白嶺はしゃがみこみ、黒いものの輪郭をじっと見た。
「屋敷の結界は外側から均一に張られているわけじゃない。霊脈の流れに合わせて強弱がある。こいつは、その“弱い場所”をほとんど迷わず突いている」
私は言われたことの半分も理解できなかった。
でも、“迷わず”という言葉だけははっきりわかった。
「それって、誰かが教えたってこと?」
私が聞くと、白嶺がこちらを見る。
「そう考えるのが自然だ」
「しかも、ただ教えただけじゃないね」
椿が鼻を鳴らす。
「この下っ端、自分で道を覚えてたっていうより、流されたみたいな入り方してる」
「ああ」
白嶺が短く答える。
「こいつ自体は捨て駒だ。結界の一点を揺らすためだけに押しこまれた」
その言葉に、私は背筋が寒くなる。
捨て駒。
ただ入りこんで、屋敷を乱して、見つかって終わるためだけに使われた存在。
「……じゃあ、ほんとの狙いは別?」
紬が聞く。
白嶺は立ち上がった。
「狙いは二つ考えられる」
そう言って、敷石の上に走る霊力の筋を指で示す。
「一つは、純粋に燈の所在を確かめること」
私は息を止める。
「もう一つは、屋敷の結界の癖を測ること」
紬の表情が引き締まった。
「試し打ち、ってこと?」
「そうだ」
白嶺の声は静かだった。
「今回の侵入は、成功するつもりのものじゃない。どこまで揺れるか、どの区画の反応が早いか、どの傀儡が動くか。そういうものを見たかっただけだろう」
私は、胸の奥がまたざわつくのを感じた。
成功するつもりがない。
つまり、これは前触れかもしれないということだ。
「……誰がそんなことするの」
聞きながら、自分でも答えを恐れていた。
白嶺はすぐには答えなかった。
その代わり、黒いものを見下ろして、少しだけ目を細める。
「今の段階で断定はできない」
それから、きっぱりと言う。
「だが、徹底抗戦派の誰かが絡んでいる可能性は高い」
椿が舌打ちした。
「やっぱりね」
「ただし、雑に鬼の仕業だと決めつけるのは愚かだ」
白嶺は淡々と続ける。
「鬼の手先に見せかける方が都合のいい者もいる」
その一言で、場の空気が少し変わった。
私は思わず白嶺を見た。
頭の中では、まだ“鬼の頭領・岩砕”くらいしか具体的な名前は浮かばない。けれど白嶺は、最初からもっと広く見ているのだとわかった。
「じゃあ、どうするの」
紬が聞く。
白嶺は迷わなかった。
「結界の弱点を一部ずらす。傀儡の巡回も組み替える。客間の配置はそのままでいいが、燈の移動経路は当面固定しない」
「固定しない?」
私は聞き返す。
「同じ動きを続けると読まれる」
白嶺は私を見る。
「君が不安なのはわかる。だが、読まれないことが今は最優先だ」
その言い方はいつも通り事務的なのに、今はそれが少しも冷たく感じなかった。
状況を見て、必要なことをすぐに決めている。白嶺はたぶん、こういう時に一番自分でいられるのだ。
「それから」
白嶺は少しだけ間を置いた。
「今夜の件は、屋敷の中でも知る者を絞る。無用な混乱を広げたくない」
「雲仙様には?」
紬が言う。
「もちろん報告する。けれど今は、先に穴を塞ぐ」
椿がそこでようやく、少しだけ口元を上げた。
「そういうとこだよ、アンタは」
「何がだ」
「頭が回るとこ」
白嶺はそれに答えなかった。
でも、否定もしなかった。
私は少しだけ、胸の奥の緊張がほどけるのを感じた。
怖いことに変わりはない。
屋敷の中ですら、もう絶対安全じゃない。誰かがこっちを見ていて、探っていて、また何かを仕掛けてくるかもしれない。
それでも今、白嶺がここに立って、何をどうすべきかをもう考え終えていることが、たしかに心強かった。
白嶺は最後に私へ視線を向ける。
「燈」
「……うん」
「最初に異変に気づいたのは君だな」
私は少しだけ息をのんでから、頷いた。
「胸が……冷たくなった」
「それでいい」
白嶺は短く言う。
「君の霊はまだ不安定だ。だが、不安定だからこそ拾える気配もある。怖がるなとは言わない。だが、今みたいに感じたことを隠すな」
その言葉は、命令というより確認に近かった。
「……わかった」
そう答えると、白嶺は一度だけ頷く。
「ならいい」
遠くでまた風が鳴った。
でも今度の風は、さっきまでみたいに嫌な感じがしなかった。結界の巡りが変わり始めているのかもしれない。目には見えないけれど、屋敷全体が静かに身構え直しているような気配がある。
椿が棍棒を肩に担ぐ。
「じゃあ、あたしは外回りをもう一周してくる」
「頼む」
「紬は?」
「傀儡の配置替え見てくる」
二人がそれぞれ動き出す。
私はその場に立ったまま、敷石の上に残る黒い跡を見た。
もう動かない。ただの汚れみたいに見えるのに、ほんの少し前まで、あれは屋敷の中を侵していた。
外から来るものだけじゃない。たぶん、不安も、疑いも、恐れも、少しずつ中へ入りこんで広がる。
でも、それを防ぐものもある。
風。
知恵。
結界。
そして、誰かがちゃんと見ていること。
私は白嶺を見上げた。
白嶺はもう次の手を考えている顔をしていた。
父に呼ばれたときみたいな閉じた冷たさはなく、ただ鋭く前を見ている。
その横顔を見ながら、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
今夜は、眠れないかもしれない。
でも少なくとも、ただ怖がって震えるだけじゃない夜になった気がした。




