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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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12/21

第十一話 狐の尾

椿の鍛錬を見た次の日、私は朝から少しだけ変な気分だった。


怖い話を聞いたはずなのに、嫌な感じだけが残っているわけじゃない。

椿がどうしてあそこまで強くなったのか、なぜ強くなり続けるのか、その理由の一端を知ったせいかもしれなかった。


兄に勝ちたい。

強いやつが好き勝手していいみたいな世界が嫌いだ。

そう言った椿の声は、怒っているのに、どこかまっすぐだった。


白嶺の父のことも、椿の兄のことも、私にはまだ遠い。

でも、二人のそばにいると、その遠いはずのものがだんだん形を持ちはじめる。妖魔界って、きれいで不思議なだけの世界じゃないんだと、今さらみたいに思い知らされる。


朝の支度をしていると、障子の向こうから紬の声がした。


「燈ちゃん、起きてる?」


「起きてる」


返事をすると、紬がいつもの盆を持って入ってきた。今日のお椀からは湯気と一緒に、少し甘い匂いがする。


「今日は少しだけゆっくりできそう?」


盆を置きながら、紬が言う。


「たぶん」


「ならよかった」


紬はほっとしたように笑った。


「昨日、椿の鍛錬見てたんでしょ」


「うん」


「どうだった?」


「すごかった」


それしか言えなかった。

本当に、すごかったのだ。棍棒を振る音も、拳で丸太を打つ音も、椿の体の動きも、全部が強かった。


紬はくすっと笑う。


「椿、張り切ってた?」


「張り切ってたのかな……」


「燈ちゃんが見てたなら、たぶんちょっとは」


「なんで?」


「見せたがるから」


その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。


紬は「今日はちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」と言った。


「どこ?」


「この前行った中庭、覚えてる?」


覚えていた。

少し奥まっていて、木の影がやわらかく落ちる場所。都の真ん中の屋敷なのに、あそこだけ少し田舎の縁側に似た空気があった。


「うん」


「じゃあそこ」


紬はそう言って、私が食べ終わるのを待ってくれた。





中庭は今日も静かだった。


葉の影が縁側に揺れて、青白い霊力の筋が庭石のあいだを静かに流れている。風が吹くと、枝がこすれてさわさわと鳴る。その音がなんだか落ち着いて、私は自然と肩の力を抜いた。


「ここ、僕けっこう好きなんだ」


「たしかに、落ち着くかも」


私が言うと、紬は「でしょ」と笑った。


その横顔を見て、私はふと思った。


紬はいつもやさしい。

やさしいけど、自分の話はあまりしない。


屋敷のことも、都のことも、傀儡のことも教えてくれるのに、自分のことになると、なんとなく一歩引く感じがある。


それが悪いわけじゃない。

でも、少しだけ気になっていた。


「……紬くんって」


口を開くと、紬がこちらを見る。


「お姉さん、いたんだよね」


一瞬だけ、紬の表情が止まった。


聞いてはいけないことを言ってしまったかと思って、私はすぐに後悔した。


「ご、ごめん。嫌なら、いい」


「ううん」


紬は首を振る。


「嫌っていうより……どう話そうかなって思っただけ」


私は何も言わずに待った。


紬は少し黙ってから、ぽつりと言う。


「姉さんは、すごい人だったよ」


その言い方は静かだった。

自慢するみたいでもなく、でも誇りがないわけでもない。


「きれいで、頭もよくて、誰と話してもすぐに相手の懐に入れた。僕が見てるだけでも、いろんな人が姉さんを頼ってた」


「……朱蘭(シュラン)さん」


「うん」


紬は頷く。


「朱蘭」


名前を口にしただけで、少しだけ声の温度が変わった気がした。


「妖狐の盟主だったし、財の流れにも強くて、雲仙様のところにもよく出入りしてた。宥和派と徹底抗戦派、どっちの顔も立てながら話をまとめることができたのなんて、たぶん姉さんくらいだったと思う」


私は紬の横顔を見ていた。


すごい人。

その一言では足りないくらい、たくさんのものを背負っていたのだろうと思う。


「紬くんは、お姉さんのこと好きだった?」


聞いてから、変な聞き方だったかなと思った。

でも紬は気を悪くした様子もなく、ほんの少し笑った。


「好きだったよ」


その答えは、驚くほどまっすぐだった。


「優しかったし、僕のことすごく可愛がってくれたし。僕が何か失敗しても、怒る前に“次はどうしたらいいと思う?”って聞いてくれる人だった」


私はお母さんを思い出す。

怒る時は怒るけれど、最後にはちゃんと話を聞いてくれる人。


それと同じとは違うだろうけど、紬がその姉を大事に思っていたことは、言葉にしなくても伝わってきた。


「でも」


紬の声が少しだけ低くなる。


「みんな姉さんのことを“すごい人”って言うたびに、僕はちょっとだけ息が苦しくなる」


私は黙った。


「だってほんとにすごいんだ。否定のしようがない。僕が見てもそう思う。姉さんはきれいで、賢くて、交渉もうまくて、みんなに必要とされてた」


紬の指先が、湯呑の縁をそっとなぞる。


「だからこそ、僕はずっと思ってた。僕は姉さんみたいにはなれないって」


その言葉が、思ったより深く胸に刺さった。


姉がすごいから、自分は足りない。

比べられているわけじゃなくても、勝手にそう思ってしまう。


「尻尾の数だって、血筋だって、まわりから見れば僕も十分恵まれてるんだと思う」


紬は苦く笑う。


「でも、だから余計に駄目なんだ。そんなふうに言われるたびに、“それなのに姉さんほどじゃない”って思う」


私は膝の上で手を重ねた。


それは、少しだけわかる気がした。

私の場合は姉じゃないし、誰かと比べられたわけでもない。

でも、“特別だ”と言われた途端に、今までの自分が急に小さくなる感じは、少し似ていた。


「私も」


気づいたら、そう言っていた。


紬が顔を上げる。


「私も、なんか、少しだけわかる」


「燈ちゃんも?」


「うん……」


私は視線を庭に落とした。


「特別だって言われても、嬉しくない」


紬は何も言わずに聞いていた。


「だって、自分では普通だと思ってたから。家でも、学校でも、別に何かすごい子だったわけじゃないし、テストでいつも一番だったわけでもないし、足が速いわけでもないし……」


話していて、ちょっと変だなと思う。

比べているものが、紬の姉とはまるで違う。


でも、言いたいことの形は似ている気がした。


「なのに急に、“あなたは特別だよ”って言われても、どうしたらいいかわかんない」


「うん」


紬が小さく頷く。


「むしろ、今まで普通だった自分が間違いみたいで」


そこまで言って、私は口をつぐんだ。

それはたぶん、本音だった。


燈は普通の女の子だと思ってた。

家族と一緒に帰省して、スケッチブックを持って、川へ行って、桃を食べて、夜は虫の声を聞きながら眠る。そういう子だと。


それが全部、嘘になるわけじゃない。

でも、その下に最初から知らないものがあったのだと知ってから、前の自分の輪郭が少し曖昧になってしまった。


「普通だった自分を、なくしたくないんだよね」


紬が静かに言った。


私ははっとして顔を上げた。


紬はやわらかく笑っていた。

でもその笑い方は少しだけ寂しかった。


「僕もそうだったよ。高位の妖狐だとか、尻尾が三本あるとか、そういうことを言われるたびに、“いや、僕は僕なんだけど”って思ってた」


「紬くんでも?」


「僕だからだよ」


その言い方が、少しだけ意外で、私は瞬きをした。


「姉さんの弟だとか、高い血を引いてるとか、そういうのって、僕の一部ではあるけど全部じゃないでしょ」


紬はそう言って、空を見た。

木の枝のあいだから、午後の淡い光がこぼれている。


「でも、まわりはそういうところから先に見る。僕自身が何を思ってるかより、“どうあるべきか”を先に置かれる」


その言葉に、私は何も返せなかった。


燈は霊力を持つべき子。

紬は偉大な姉に続くべき弟。

そんなふうに言われたら、息苦しいに決まってる。


「姉さんは、僕にそんな思いをさせたくなかったんだと思う」


紬がぽつりと言う。


「いつも“大きくならなくていい”って言ってた。無理して誰かの代わりになろうとしなくていい、って」


「……やさしいね」


「うん」


紬は頷いた。


「でも、その姉さん自身は、誰かの代わりばっかりしてた」


その言葉がひどく重く落ちる。


宥和派と徹底抗戦派のあいだを取り持つ。

どちらかだけの味方にはなれない。

きっと誰にでもやれることじゃなかったし、だからこそ朱蘭は必要とされたのだろう。


でも“必要とされる”ことは、時々人を追い詰める。


「……どうして、死んじゃったの」


聞いてしまってから、私はまた後悔しかけた。


紬は少しだけ目を伏せる。

それでも、怒ったり黙ったりはしなかった。


「正確には、僕も全部は知らない」


その答えに、私は少し驚いた。


「知らないの?」


「うん。姉さんはあまり弱いところを見せなかったから。最後まで、僕には“大丈夫”って言ってた」


紬の指先が、そっと自分の膝を掴む。


「でも、今になって思う。たぶん、姉さんはずっと限界だった」


風が吹く。

木の葉が揺れる音だけが、しばらくあいだを埋めた。


「みんなが姉さんに頼った」


紬の声は静かだった。


「雲仙様も、宥和派も、徹底抗戦派も、財を動かす連中も、みんな姉さんがいれば何とかなるって思ってた。姉さん自身も、それを断れなかった」


私は自分の胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


優しい人ほど、断れない。

頼られる人ほど、壊れるところを見せられない。


それは妖魔界でも、人間界でも、きっと同じなんだと思った。


「僕はたぶん、姉さんみたいにはなれない」


紬が言う。


「なりたくない、って思う時もある」


その本音に、私は少しだけほっとした。

それは冷たい言葉じゃなくて、むしろ生きてる人の言葉に聞こえたからだ。


「でも、なれない自分が情けなくなる時もある」


私は小さく頷いた。


「それも、わかる」


「ほんと?」


「うん」


私は少しだけ笑う。


「私も、自分のことなのに全然わかってなくて、情けないなって思う」


「燈ちゃん、それはまだ仕方ないよ」


「でも、みんなは知ってる感じなのに、私だけ何も知らないし」


「僕だって知らないこといっぱいある」


紬が言う。


「白嶺も椿も、たぶんそうだよ。あの二人、わかった顔してる時あるけど、意外と知らないことはちゃんと知らないから」


その言い方がおかしくて、私はふっと笑った。


たしかに、椿は勢いで進むし、白嶺は何でも知ってそうに見えるけど、全部を知ってるわけじゃないんだろう。


その“全部わかってる人はいない”っていう当たり前のことが、少しだけ私を楽にした。


「燈ちゃんはさ」


紬が言う。


「家族に会いたい?」


「会いたい」


私は即答した。

その問いには迷いようがなかった。


「お母さんにも、お父さんにも、祖父母にも」


言いながら、胸の奥が少し熱くなる。


「何してるかな、とか、私がいなくなってどうしてるかな、とか、ずっと考える」


「そっか」


「夢に出てくる時もある」


本当は昨日も見た。

縁側で西瓜を食べている夢だった。振り向いたら、お母さんがいた。でも声をかける前に目が覚めた。


「家に帰ったら、何したい?」


紬に聞かれて、私は少し考えた。


「……お母さんのごはん食べたい」


それを言った瞬間、なんだか急に泣きそうになった。


もっと大きなことを言うべきだったかもしれない。

でも、本当にそうだった。お母さんが普通に作ってくれるごはんを、何も考えずに食べたい。


紬は笑わなかった。

ただ、小さく頷いた。


「うん。いいね、それ」


その言い方がやさしくて、私は鼻の奥がつんとするのを感じた。


「紬くんは」


少し間を置いてから聞く。


「戻ってきてほしいって、思う?」


誰が、と言わなくてもわかったみたいだった。

紬はしばらく黙ってから、答えた。


「思うよ」


声は小さい。


「でも同時に、戻ってきてほしいって思うのも酷いのかなって考える時がある」


私は黙る。


「だって、もし姉さんが本当に苦しかったなら、また同じ場所に戻したいわけじゃない」


その言葉が、あまりにも静かで、胸に痛かった。


「だから僕はたぶん、“戻ってきてほしい”より、“姉さんがいなくても生きていけるようにならなきゃ”って思ってる」


紬はそこで少しだけ笑う。


「全然できてないけど」


「……そんなことないよ」


気づいたらそう言っていた。


紬が目を丸くする。


「だって、私、ここで紬くんにすごく助けられてる」


私は言葉を探しながら続けた。


「朝ごはん持ってきてくれたり、部屋を整えてくれたり、屋敷を案内してくれたり、私が傀儡にびびっても怒らなかったし」


紬は何も言わない。


「お姉さんみたいじゃなくても、紬くんがいてくれてよかったって、私は思ってる」


言い終わったあと、少しだけ恥ずかしくなった。

でも、嘘ではなかった。


紬はしばらく黙っていた。

それから、ふっと目を細める。


「……燈ちゃんって、時々すごくまっすぐだよね」


「え」


「たぶん、そういうところ、白嶺とか椿にも効くと思う」


私にはよくわからなかった。

でも紬が、さっきより少しだけやわらかい顔をしていたのがうれしかった。


そのとき、縁側の向こうで足音がした。


振り向くと、椿が縁側の向こうに立っていた。

その後ろには、少し遅れて白嶺もいる。


「何だい、二人でしんみりしてるじゃないか」


椿が言う。


私は少しだけ肩を揺らしたけれど、前みたいに慌てはしなかった。


「普通に話してただけだよ」


紬が答える。


「普通、ねえ」


椿はにやっとしたあと、私たちのあいだを見比べた。


「燈、泣いてないかい」


「泣いてない」


「ほんとかね」


「ほんと」


椿は面白そうに笑って、それから紬の頭を軽く小突いた。


「変なこと吹き込んでないだろうね」


「何その言い方」


紬が眉を寄せる。


そのやりとりを見ていると、さっきまでのしんみりした空気が少しだけほどけた。


白嶺は最後に近づいてきて、私たちを順番に見た。


「邪魔をしたか」


「してないよ」


紬が言う。


「ちょうど一区切りついたところ」


「そうか」


白嶺は短く頷いた。


でも前より少しだけ、その短さに温度があるように思えた。


「じゃあ、今日はここまでだね」


紬が言う。


「うん」


立ち上がる前に、私はもう一度だけ中庭を見た。

木の影が少し伸びていて、風の匂いも少し変わっている。


ここは祖父母の家じゃない。

でも、こうして誰かと話して、誰かのことを知って、少しだけ自分のことも話せる場所になってきている。


それはきっと、悪いことじゃない。


私はそっと膝の上の手を開いて、立ち上がった。

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