第十一話 狐の尾
椿の鍛錬を見た次の日、私は朝から少しだけ変な気分だった。
怖い話を聞いたはずなのに、嫌な感じだけが残っているわけじゃない。
椿がどうしてあそこまで強くなったのか、なぜ強くなり続けるのか、その理由の一端を知ったせいかもしれなかった。
兄に勝ちたい。
強いやつが好き勝手していいみたいな世界が嫌いだ。
そう言った椿の声は、怒っているのに、どこかまっすぐだった。
白嶺の父のことも、椿の兄のことも、私にはまだ遠い。
でも、二人のそばにいると、その遠いはずのものがだんだん形を持ちはじめる。妖魔界って、きれいで不思議なだけの世界じゃないんだと、今さらみたいに思い知らされる。
朝の支度をしていると、障子の向こうから紬の声がした。
「燈ちゃん、起きてる?」
「起きてる」
返事をすると、紬がいつもの盆を持って入ってきた。今日のお椀からは湯気と一緒に、少し甘い匂いがする。
「今日は少しだけゆっくりできそう?」
盆を置きながら、紬が言う。
「たぶん」
「ならよかった」
紬はほっとしたように笑った。
「昨日、椿の鍛錬見てたんでしょ」
「うん」
「どうだった?」
「すごかった」
それしか言えなかった。
本当に、すごかったのだ。棍棒を振る音も、拳で丸太を打つ音も、椿の体の動きも、全部が強かった。
紬はくすっと笑う。
「椿、張り切ってた?」
「張り切ってたのかな……」
「燈ちゃんが見てたなら、たぶんちょっとは」
「なんで?」
「見せたがるから」
その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。
紬は「今日はちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」と言った。
「どこ?」
「この前行った中庭、覚えてる?」
覚えていた。
少し奥まっていて、木の影がやわらかく落ちる場所。都の真ん中の屋敷なのに、あそこだけ少し田舎の縁側に似た空気があった。
「うん」
「じゃあそこ」
紬はそう言って、私が食べ終わるのを待ってくれた。
中庭は今日も静かだった。
葉の影が縁側に揺れて、青白い霊力の筋が庭石のあいだを静かに流れている。風が吹くと、枝がこすれてさわさわと鳴る。その音がなんだか落ち着いて、私は自然と肩の力を抜いた。
「ここ、僕けっこう好きなんだ」
「たしかに、落ち着くかも」
私が言うと、紬は「でしょ」と笑った。
その横顔を見て、私はふと思った。
紬はいつもやさしい。
やさしいけど、自分の話はあまりしない。
屋敷のことも、都のことも、傀儡のことも教えてくれるのに、自分のことになると、なんとなく一歩引く感じがある。
それが悪いわけじゃない。
でも、少しだけ気になっていた。
「……紬くんって」
口を開くと、紬がこちらを見る。
「お姉さん、いたんだよね」
一瞬だけ、紬の表情が止まった。
聞いてはいけないことを言ってしまったかと思って、私はすぐに後悔した。
「ご、ごめん。嫌なら、いい」
「ううん」
紬は首を振る。
「嫌っていうより……どう話そうかなって思っただけ」
私は何も言わずに待った。
紬は少し黙ってから、ぽつりと言う。
「姉さんは、すごい人だったよ」
その言い方は静かだった。
自慢するみたいでもなく、でも誇りがないわけでもない。
「きれいで、頭もよくて、誰と話してもすぐに相手の懐に入れた。僕が見てるだけでも、いろんな人が姉さんを頼ってた」
「……朱蘭さん」
「うん」
紬は頷く。
「朱蘭」
名前を口にしただけで、少しだけ声の温度が変わった気がした。
「妖狐の盟主だったし、財の流れにも強くて、雲仙様のところにもよく出入りしてた。宥和派と徹底抗戦派、どっちの顔も立てながら話をまとめることができたのなんて、たぶん姉さんくらいだったと思う」
私は紬の横顔を見ていた。
すごい人。
その一言では足りないくらい、たくさんのものを背負っていたのだろうと思う。
「紬くんは、お姉さんのこと好きだった?」
聞いてから、変な聞き方だったかなと思った。
でも紬は気を悪くした様子もなく、ほんの少し笑った。
「好きだったよ」
その答えは、驚くほどまっすぐだった。
「優しかったし、僕のことすごく可愛がってくれたし。僕が何か失敗しても、怒る前に“次はどうしたらいいと思う?”って聞いてくれる人だった」
私はお母さんを思い出す。
怒る時は怒るけれど、最後にはちゃんと話を聞いてくれる人。
それと同じとは違うだろうけど、紬がその姉を大事に思っていたことは、言葉にしなくても伝わってきた。
「でも」
紬の声が少しだけ低くなる。
「みんな姉さんのことを“すごい人”って言うたびに、僕はちょっとだけ息が苦しくなる」
私は黙った。
「だってほんとにすごいんだ。否定のしようがない。僕が見てもそう思う。姉さんはきれいで、賢くて、交渉もうまくて、みんなに必要とされてた」
紬の指先が、湯呑の縁をそっとなぞる。
「だからこそ、僕はずっと思ってた。僕は姉さんみたいにはなれないって」
その言葉が、思ったより深く胸に刺さった。
姉がすごいから、自分は足りない。
比べられているわけじゃなくても、勝手にそう思ってしまう。
「尻尾の数だって、血筋だって、まわりから見れば僕も十分恵まれてるんだと思う」
紬は苦く笑う。
「でも、だから余計に駄目なんだ。そんなふうに言われるたびに、“それなのに姉さんほどじゃない”って思う」
私は膝の上で手を重ねた。
それは、少しだけわかる気がした。
私の場合は姉じゃないし、誰かと比べられたわけでもない。
でも、“特別だ”と言われた途端に、今までの自分が急に小さくなる感じは、少し似ていた。
「私も」
気づいたら、そう言っていた。
紬が顔を上げる。
「私も、なんか、少しだけわかる」
「燈ちゃんも?」
「うん……」
私は視線を庭に落とした。
「特別だって言われても、嬉しくない」
紬は何も言わずに聞いていた。
「だって、自分では普通だと思ってたから。家でも、学校でも、別に何かすごい子だったわけじゃないし、テストでいつも一番だったわけでもないし、足が速いわけでもないし……」
話していて、ちょっと変だなと思う。
比べているものが、紬の姉とはまるで違う。
でも、言いたいことの形は似ている気がした。
「なのに急に、“あなたは特別だよ”って言われても、どうしたらいいかわかんない」
「うん」
紬が小さく頷く。
「むしろ、今まで普通だった自分が間違いみたいで」
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
それはたぶん、本音だった。
燈は普通の女の子だと思ってた。
家族と一緒に帰省して、スケッチブックを持って、川へ行って、桃を食べて、夜は虫の声を聞きながら眠る。そういう子だと。
それが全部、嘘になるわけじゃない。
でも、その下に最初から知らないものがあったのだと知ってから、前の自分の輪郭が少し曖昧になってしまった。
「普通だった自分を、なくしたくないんだよね」
紬が静かに言った。
私ははっとして顔を上げた。
紬はやわらかく笑っていた。
でもその笑い方は少しだけ寂しかった。
「僕もそうだったよ。高位の妖狐だとか、尻尾が三本あるとか、そういうことを言われるたびに、“いや、僕は僕なんだけど”って思ってた」
「紬くんでも?」
「僕だからだよ」
その言い方が、少しだけ意外で、私は瞬きをした。
「姉さんの弟だとか、高い血を引いてるとか、そういうのって、僕の一部ではあるけど全部じゃないでしょ」
紬はそう言って、空を見た。
木の枝のあいだから、午後の淡い光がこぼれている。
「でも、まわりはそういうところから先に見る。僕自身が何を思ってるかより、“どうあるべきか”を先に置かれる」
その言葉に、私は何も返せなかった。
燈は霊力を持つべき子。
紬は偉大な姉に続くべき弟。
そんなふうに言われたら、息苦しいに決まってる。
「姉さんは、僕にそんな思いをさせたくなかったんだと思う」
紬がぽつりと言う。
「いつも“大きくならなくていい”って言ってた。無理して誰かの代わりになろうとしなくていい、って」
「……やさしいね」
「うん」
紬は頷いた。
「でも、その姉さん自身は、誰かの代わりばっかりしてた」
その言葉がひどく重く落ちる。
宥和派と徹底抗戦派のあいだを取り持つ。
どちらかだけの味方にはなれない。
きっと誰にでもやれることじゃなかったし、だからこそ朱蘭は必要とされたのだろう。
でも“必要とされる”ことは、時々人を追い詰める。
「……どうして、死んじゃったの」
聞いてしまってから、私はまた後悔しかけた。
紬は少しだけ目を伏せる。
それでも、怒ったり黙ったりはしなかった。
「正確には、僕も全部は知らない」
その答えに、私は少し驚いた。
「知らないの?」
「うん。姉さんはあまり弱いところを見せなかったから。最後まで、僕には“大丈夫”って言ってた」
紬の指先が、そっと自分の膝を掴む。
「でも、今になって思う。たぶん、姉さんはずっと限界だった」
風が吹く。
木の葉が揺れる音だけが、しばらくあいだを埋めた。
「みんなが姉さんに頼った」
紬の声は静かだった。
「雲仙様も、宥和派も、徹底抗戦派も、財を動かす連中も、みんな姉さんがいれば何とかなるって思ってた。姉さん自身も、それを断れなかった」
私は自分の胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
優しい人ほど、断れない。
頼られる人ほど、壊れるところを見せられない。
それは妖魔界でも、人間界でも、きっと同じなんだと思った。
「僕はたぶん、姉さんみたいにはなれない」
紬が言う。
「なりたくない、って思う時もある」
その本音に、私は少しだけほっとした。
それは冷たい言葉じゃなくて、むしろ生きてる人の言葉に聞こえたからだ。
「でも、なれない自分が情けなくなる時もある」
私は小さく頷いた。
「それも、わかる」
「ほんと?」
「うん」
私は少しだけ笑う。
「私も、自分のことなのに全然わかってなくて、情けないなって思う」
「燈ちゃん、それはまだ仕方ないよ」
「でも、みんなは知ってる感じなのに、私だけ何も知らないし」
「僕だって知らないこといっぱいある」
紬が言う。
「白嶺も椿も、たぶんそうだよ。あの二人、わかった顔してる時あるけど、意外と知らないことはちゃんと知らないから」
その言い方がおかしくて、私はふっと笑った。
たしかに、椿は勢いで進むし、白嶺は何でも知ってそうに見えるけど、全部を知ってるわけじゃないんだろう。
その“全部わかってる人はいない”っていう当たり前のことが、少しだけ私を楽にした。
「燈ちゃんはさ」
紬が言う。
「家族に会いたい?」
「会いたい」
私は即答した。
その問いには迷いようがなかった。
「お母さんにも、お父さんにも、祖父母にも」
言いながら、胸の奥が少し熱くなる。
「何してるかな、とか、私がいなくなってどうしてるかな、とか、ずっと考える」
「そっか」
「夢に出てくる時もある」
本当は昨日も見た。
縁側で西瓜を食べている夢だった。振り向いたら、お母さんがいた。でも声をかける前に目が覚めた。
「家に帰ったら、何したい?」
紬に聞かれて、私は少し考えた。
「……お母さんのごはん食べたい」
それを言った瞬間、なんだか急に泣きそうになった。
もっと大きなことを言うべきだったかもしれない。
でも、本当にそうだった。お母さんが普通に作ってくれるごはんを、何も考えずに食べたい。
紬は笑わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「うん。いいね、それ」
その言い方がやさしくて、私は鼻の奥がつんとするのを感じた。
「紬くんは」
少し間を置いてから聞く。
「戻ってきてほしいって、思う?」
誰が、と言わなくてもわかったみたいだった。
紬はしばらく黙ってから、答えた。
「思うよ」
声は小さい。
「でも同時に、戻ってきてほしいって思うのも酷いのかなって考える時がある」
私は黙る。
「だって、もし姉さんが本当に苦しかったなら、また同じ場所に戻したいわけじゃない」
その言葉が、あまりにも静かで、胸に痛かった。
「だから僕はたぶん、“戻ってきてほしい”より、“姉さんがいなくても生きていけるようにならなきゃ”って思ってる」
紬はそこで少しだけ笑う。
「全然できてないけど」
「……そんなことないよ」
気づいたらそう言っていた。
紬が目を丸くする。
「だって、私、ここで紬くんにすごく助けられてる」
私は言葉を探しながら続けた。
「朝ごはん持ってきてくれたり、部屋を整えてくれたり、屋敷を案内してくれたり、私が傀儡にびびっても怒らなかったし」
紬は何も言わない。
「お姉さんみたいじゃなくても、紬くんがいてくれてよかったって、私は思ってる」
言い終わったあと、少しだけ恥ずかしくなった。
でも、嘘ではなかった。
紬はしばらく黙っていた。
それから、ふっと目を細める。
「……燈ちゃんって、時々すごくまっすぐだよね」
「え」
「たぶん、そういうところ、白嶺とか椿にも効くと思う」
私にはよくわからなかった。
でも紬が、さっきより少しだけやわらかい顔をしていたのがうれしかった。
そのとき、縁側の向こうで足音がした。
振り向くと、椿が縁側の向こうに立っていた。
その後ろには、少し遅れて白嶺もいる。
「何だい、二人でしんみりしてるじゃないか」
椿が言う。
私は少しだけ肩を揺らしたけれど、前みたいに慌てはしなかった。
「普通に話してただけだよ」
紬が答える。
「普通、ねえ」
椿はにやっとしたあと、私たちのあいだを見比べた。
「燈、泣いてないかい」
「泣いてない」
「ほんとかね」
「ほんと」
椿は面白そうに笑って、それから紬の頭を軽く小突いた。
「変なこと吹き込んでないだろうね」
「何その言い方」
紬が眉を寄せる。
そのやりとりを見ていると、さっきまでのしんみりした空気が少しだけほどけた。
白嶺は最後に近づいてきて、私たちを順番に見た。
「邪魔をしたか」
「してないよ」
紬が言う。
「ちょうど一区切りついたところ」
「そうか」
白嶺は短く頷いた。
でも前より少しだけ、その短さに温度があるように思えた。
「じゃあ、今日はここまでだね」
紬が言う。
「うん」
立ち上がる前に、私はもう一度だけ中庭を見た。
木の影が少し伸びていて、風の匂いも少し変わっている。
ここは祖父母の家じゃない。
でも、こうして誰かと話して、誰かのことを知って、少しだけ自分のことも話せる場所になってきている。
それはきっと、悪いことじゃない。
私はそっと膝の上の手を開いて、立ち上がった。




