第13話「灯りの下で」
≪前回のあらすじ≫
繁葉の日で賑わう市場へ、マルダと共に買い物へ出かけたハルヤ。生薬やハーブ苗を扱う露店を巡る中、彼は“カモミール”によく似た苗――ルメリアと出会う。そして夜、「庭」でエルから渡されたのは、秘密を抱えた不思議な本だった。
家に戻った頃には、すっかり日が傾き始めていた。
市場から持ち帰った荷物をテーブルへと置くと、マルダさんが手早く布袋を開き、中身を確認していく。
「さあ、急ぐよ。今日は仕込みも多いからねぇ」
「はいっ」
返事をしながら、俺も慌てて動き出した。
鍋の火加減を見ながら、野菜を洗い、香草を刻む。市場へ行っていた時間が長かった分、夕食の支度はどうしても慌ただしくなるらしい。
それでも、マルダさんの動きには無駄がない。次に何をするか考える前に、自然と手が動いているようだった。
途中でヴォルクさんも工房から戻ってきて、荷物を置くなり黙々と薪を運び、かまどの火を見てくれる。
気付けば、あっという間に食卓の準備が整っていた。
今日の夕食は、香草のスープと、少し硬めの黒パン、それから香ばしく焼かれた肉だった。
市場を歩き回っていたせいか、腹が減っていたのもある。
いつの間にか、夢中で食べていた。
「……そんな急いで食べなくても、誰も取らないよ」
呆れたようにマルダさんが笑う。
「すみません……でも、美味しくて」
「フッ……今日は随分動いたようだからな」
ヴォルクさんまで少し笑っている。
なんだか、それが少しくすぐったい。
食事が終わった後、食器を水場へ運んでいると、マルダさんが声を掛けてきた。
「ハルヤ、あとでスレートを貸してあげるから、片付けが終わったらリビングで待ってな」
「スレート?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。
水場では、マルダさんが風呂の準備を進めていた。茶色のバスタブへ湯を移しながら、「ちょっと待ってな」と奥へ引っ込む。
その間、俺は食器洗いを続ける。
しばらくして戻ってきたマルダさんの手には、木の枠が付いた黒っぽい板があった。
大きさはタブレットくらいだろうか。
「……黒板?」
思わず、そんな言葉が口から出た。
「黒板?……ああ、島での呼び方かい? この辺りじゃ、みんなスレートって呼んでるよ」
近くで見ると、本当に黒板そっくりだった。 表面は少しざらついた石で出来ていて、端を木製のフレームで補強している。
「文字の練習に使いな。読み書き、困ってるんだろ? なんなら、あたしが見てあげるよ」
「……でも、マルダさん忙しいのに……」
ただでさえ、毎日忙しそうだ。これ以上、甘えていいものか迷う。
「まずは、自分でどれくらい思い出せるかやってみます」
そう伝えると、マルダさんは「ふむ」と頷いた。
「確かに、やってる間に思い出すこともあるからねぇ」
それから、優しい声で続ける。
「読めない字があったら、いつでも言っといで」
「……ありがとうございます」
スレートを受け取り、洗い物の終わった俺は一度部屋へ戻った。湯の準備が出来たマルダさんは、ヴォルクさんを呼びに行く。
借りている部屋にスレートを置き、代わりに寝間着代わりの古着を取り出す。
そうしてリビングへ戻ると、先に風呂へ入っていたヴォルクさんがまだ中らしく、水場から湯の音が聞こえてきていた。
「ヴォルクが出るまで、こっち手伝っとくれ」
「はい」
マルダさんと並んで、明日用のパンの仕込みを始める。
生地を捏ね、発酵したものを分割し、丸めていく。 単純作業ではあるけれど、慣れないと形が揃わない。
俺が少し歪な形にしてしまったパン生地を見て、マルダさんが笑う。
「最初はそんなもんさ」
「パンを綺麗に作るのって難しいんですね……」
「毎日やってりゃ慣れるよ」
そう言って、手際よく生地を整形していく様子は、やっぱり見惚れるほど上手かった。
ふと、市場で漂っていた焼きたての匂いを思い出す。
「そういえば、市場でパンのいい匂いもしてましたけど……今日食べた黒パンって、買ったらどのくらいするんですか?」
俺が尋ねると、マルダさんは少し考えるように視線を上げた。
「今日使ったくらいの大きいやつなら、1個150リーヴァくらいかねぇ」
「150……」
まだ、この世界の物価の感覚が掴みきれない。
今日使った黒パンは結構大きくて、30cm近くあった気がする。日本の食パンと比べるとずっと安いけど、問題はこの王都で生活するなら、1カ月でどのくらいのお金が必要になるか、だ。
「じゃあ、一人暮らしだと……1ヶ月って、どれくらいお金かかるんですか?」
「そうさねぇ……どの区画に住んでるかにもよるけど……」
丸め終えた生地を並べながら、マルダさんが答える。
「だいたい、銀貨10枚くらいだねぇ」
「銀貨10枚……」
思わず、手が止まった。銀貨1枚って……確か、1万リーヴァだったよな?
あれ……? 俺、昨日の買い物だけで、いくら使った……?
――最初の古着屋で、上下2枚ずつが……7,000リーヴァ。トートバッグが2,500リーヴァ、ミニトートが1,800リーヴァだったはず。香草を扱っている露店では、1,100リーヴァくらいだったか……
最後に行った仕立て屋では、制作の依頼をしただけで支払いはしなかったが、出来上がった時に支払う金額はいくらになるのだろう――
あ、服だけじゃなく、靴もあったな……。そう言えば、ヴォルクさんがベルトポーチの注文もしてきたって言ってたな……。
今後、払う予定になる金額が想像つかなくて、若干血の気が引くような思いだ。
この国……特にこの王都の平均月収も知らないどころか、当分収入の目処だってないのに――
この世界や国のことを一切知らない事実が、急に恐ろしいことのように思えて、少しでも情報を得ようと、今聞いてもおかしくなさそうな、収入について聞いてみる――
「あの……それじゃあ、一ヶ月の収入って……」
そこまで聞きかけたところで、水場の扉が開き、風呂から上がったヴォルクさんが、髪を拭きながら出てくる。
「お、ちょうど終わりそうだな」
「ハルヤが手伝ってくれたからね……そういえば、ハルヤ、さっき話の途中だっただろう?」
何だったんだい?と聞いてくれるが、ここでもう一度聞く勇気が、今の俺にはなかった。
なんでもないことを告げれば、「なら、先に風呂、入っといで」と勧められ、先に風呂を借りる。
「――それじゃあ、お先にお風呂入ってきます」
「しっかり温まっておいで」
台所の片付けを始めながら、にこやかに言うマルダさん。
初日に、風呂を借りるときに、「俺は後でいいです」と伝えたが、「水場の片付けがあるから、あたしが最後の方が都合がいいんだよ」と言われてしまったので、俺はヴォルクさんの後に風呂に入ることが定着しつつある。
マルダさんに短く返事をし、俺は水場へと向かう。
街の印象から受けるような中世や近世のヨーロッパとは違い、エルが言っていたように、この国は衛生面に対する意識が高いようで、毎日風呂に入るし石鹸もある。泡立ちはイマイチだけど。
その石鹸を、海綿スポンジでなんとか泡を立てて、体を洗う。
体を流し終わって、日本のバスタブとは違う、茶色のほんの少しざらりとするバスタブに浸かる。
ただ、バスタブが浅いから日本の風呂につかるように入ると肩までつからない。バスタブの縁に頭をのせて、寝そべるようにしてつかる。
そうすると、膝が出るか、足先を外に投げ出すようになるんだけど、これは仕方がない。
それでも、湯につかって体が温まると、今日一日の疲れがじんわりと抜けていく。
市場を歩き回ったせいか、思っていた以上に疲れていたらしい。
風呂から上がってリビングへ戻ると、パンの仕込みはすっかり終わっていた。
「上がりました」
「ああ、ゆっくり出来たかい」
マルダさんが笑いながら返してくれる。
外は、もう完全に夜だった。
電気のないこの世界では、日が沈めば室内は一気に暗くなる。
暖炉やかまどの火が揺らめいている間はまだ明るいが、それも消してしまえば、あとはランタンや蝋燭の火だけだ。
初日に貸してもらったランタンを手に取り、俺は自分にあてがわれている部屋へ戻った。
部屋に入り、キャンドルスタンドの蝋燭へランタンの火を移す。
小さな火が灯ると、淡い橙色の光がゆらゆらと壁を照らした。
ランタンの火はすぐに消す。
蝋燭の金額は分からないけど、なるべく長く使えるように消した方がいいような気がした。
キャンドルスタンドが置かれた机の上に、トートバッグから取り出した二冊の本と羽のついたペンを置く。
一冊は、酒場の二階の部屋から持ち出した、革表紙の神話本。
そしてもう一冊は――エルが生成した本だ。
椅子に座り、辞書みたいに分厚いそれを開く。
一ページ目には、この世界の文字と日本語やアルファベットが並んでいた。
文字、書き順、発音、意味。
どうやら、文字の学習帳らしい。
「……ありがたすぎるだろ、これ」
思わず、独り言が漏れた。
しばらくページをめくっていくと、文字の解説は終わり、その後は日本語でびっしりと文章が続いていた。
ざっと見る限り、この国の歴史や一般常識について書かれているらしい。
正直、かなり助かる。きっと、俺がこれから知っていかないといけないことばかりが書かれているんだろうな――
さらにページをめくる。
次第に、パララ……と紙の音が静かな部屋に響くようになった。
半分を少し過ぎたあたりで、突然、白紙のページが続き始めた。
「……ん?」
最初の白紙のページへ戻る。
そこには、ページ上部に一文だけ書かれていた。
『ハルの知りたいことをここに書いてください。』
「……なら……」
近くに置いていたペンを手に取り、少し考えてから、文字を書き込んだ。
『部屋から借りてきた神話の本の内容を、理解できるように、日本語に訳してくれる?』
書き終えた直後だった。
文字の下へ、新しい文章が浮かび上がるように現れ始める。
『お任せください。』
「うおっ!?」
思わず声が出た。
まるで、パソコンでAIチャットをしていた時みたいだ。
違うのは、画面じゃなく、本に文字が表示されていること。
それがなんだか妙に面白くて、少し笑ってしまった。
しばらくすると、翻訳された文章が書き出されていく。
タイトルは、少し大きめの文字でこう記されていた。
『はじまりの樹と、ひとりぼっちの守り人』
俺は蝋燭の灯りの中、その物語を読み始めた。
世界には、最初、水と土しかなかったこと。
そこへ神が現れ、命の種を植えたこと。
木に住む者。
水をきれいにする者。
実を運び、命を広げる者。
そして、森と海を守る二体のドラゴン。
世界へ命が満ち、人々が生まれ、賑やかになっていく。
まるで、子どもへ語って聞かせる昔話みたいな内容だった。
けれど――
読み進めるうちに、俺の手が止まる。
『誰よりも長く生きる、「黒い髪の人」がいたのです。』
「……黒髪……」
この世界では珍しいと言われた、自分と同じ色。
周囲から怖がられ、居場所を失った存在。
海を渡り、はじまりの樹のある島へ辿り着いた黒髪の人。
その実を食べ、不思議な力を得た存在。
蝋燭の火が、小さく揺れる。
静かな部屋の中で、俺は無意識に自分の髪へ触れていた。
「……なんなんだ、この話……」
偶然、で済ませるには出来すぎている。
けれど、だからといって、自分が特別な存在だとも思えない。
俺はただ、異世界へ来てしまっただけの、普通の人間だ。
それでも――
どこか胸の奥がざわついていた。
窓の外では、夜の風が静かに吹いている。
俺はもう一度、本へ視線を落とした。
蝋燭の灯りに照らされたページの文字が、ゆらゆらと揺れて見えた。
『はじまりの樹と、ひとりぼっちの守り人』
『むかしむかし、世界には「水」と「土」しかありませんでした。
そこへ、一柱の神さまが舞い降ります。
「誰もいなくて、さみしい世界だね」
神さまはそう言って、たった一つの「いのちの種」を植えました。
「さあ、お前の命が続くかぎり、新しい命を増やしておくれ」
種はまたたく間に育ち、大きな実をつけましたが、実はポトリと落ちて腐るだけ。
そこで神さまは、たくさんの仲間を作りました。
木の上でくらす者。
お水をきれいにする者。
実をはこび、遠くの島へ命を広げる者。
最後に、二体の強くて優しいドラゴンを作りました。
羽のある緑のドラゴンは「森」を、長い体の青いドラゴンは「海」を守ります。
神さまは彼らを『守番』と呼びました。
守番たちが実をはこぶと、世界は緑でいっぱいになりました。
虫たちが踊り、動物たちが駆け回ります。
神さまはもっと賑やかにしようと、いろんな「人」を作りました。
魔法が使える人。
便利な道具を作る人。
動物のように力持ちな人。
お花とおしゃべりができる人。
みんな仲良く混ざり合って、楽しそうに暮らしました。
「うん、これで安心だ」
神さまは満足して、遠い空の向こうへ帰っていきました。
神さまがいなくなってから、少しだけ悲しいことが起こりました。
誰よりも長く生きる、「黒い髪の人」がいたのです。
黒髪の人は、魔法も使えず、力もありません。ただ、とても長く生きるだけ。
周りの人たちは、自分たちと違う彼を怖がり、仲間はずれにしてしまいました。
「ぼくの居場所は、どこにあるんだろう……」
黒髪の人は、みんなに隠れて海を渡りました。
あらしの中、やっとの思いで辿り着いたのは、神さまが最初に植えた「はじまりの樹」がある島でした。
お腹を空かせた彼がその実を一口かじると、体に不思議な力がみなぎりました。
それは、神さまがこっそり残した「生き抜くための勇気」だったのかもしれません。
黒髪の人は、その遠い大地で、今も静かに暮らしています。
他の人たちも、それぞれの場所で、今日を一生懸命に生きています。
世界がどこまで続いているのか、黒髪の人がどこにいるのか、それは誰も知りません。
でも、この広い世界のどこかで、みんな同じ太陽を見上げているのです。』
次回:第14話「朝の鐘」 5月28日(木)20:30公開です|ૂ•ㅿ•̀ )




