アルビトリウム
アルビトリウム
空には星が広がっていた。丘の上にはもう人気が殆どなくなり、護たちの座っているガゼボを外灯の明かりが僅かに照らしていた。彼らは屋根の影で互いの表情が確認できるほどの薄暗さの中にいた。
そしてファルは話を始めた。
あなたが持っているあの『クラヴィス』は『アルビトリウム』の扉を開く鍵なんです。そして『アルビトリウム』とはこの世界の裏側にあります。あなたは今生きている世界が全てだと思っているかもしれない。でも真実は『アルビトリウム』が表の世界、そして今あなたがいるこの世界はその裏の世界なのです。『アルビトリウム』ではこの世界を『マテリア』と呼んでいます。しかしこの『マテリア』に住む者たちは『アルビトリウム』へ行くことも知ることもできません。でも『アルビトリウム』からは『マテリア』へ扉を通って自由に来ることができます。ただ『マテリア』から『アルビトリウム』へ帰るためには閉じられた扉を開くための『クラヴィス』という鍵が必要になります。それがあなたの持っている『クラヴィス』の役割です。
もし『アルビトリウム』に住む者が『クラヴィス』を持たずに『マテリア』に来てしまうと、『アルビトリウム』に帰るために『マテリア』の者になって人間として一生を送らなければならなくなります。そして、そのために多くのものを犠牲にしなければならない。それは『アルビトリウム』で持っていた肉体、記憶、そして能力、つまりその存在の全てをです。
『マテリア』の者になるとはそういうことなんです。『マテリア』で生まれようとする新しい命を探しだし、そこに自分の魂を宿して『マテリア』の者となって一生を過ごす。その肉体に死が訪れた時、漸く『アルビトリウム』に帰ることができるんです。
「まるでお伽話や神話の世界の話だ」
護はこれまでファルの話を聞いていてそう思った。だが彼女が作り話をしているようには思えなかった。しかも『アルビトリウム』という言葉を彼女から聞かされた時は驚いた。香の手紙や遥の話にもあった言葉を彼女も知っているということは、彼女も『アルビトリウム』に関係のある人間だということになる。そんな言葉を普通の人が知っている筈がないからである。
それに彼女は香たちのことも知っていた。俺の全てを知っていると言っていたことからそれは想定できる範囲内だ。でも香たちからはこの『ファル』という女性の話は聞いていない。単に彼女らが言わなかっただけなのか。いや、知っていたらきっと話していた筈だ。つまり、彼女らはファルを知らなかったということだ。だが俺には彼女の話がどこまで本当か嘘か判断できる材料を持っていない。
「きっとあなたは今、私の話を半信半疑で聞いている筈です」
ファルはそう言って笑顔を作った。彼は心を見透かされたように思ってドキリとした。
「え、ええ、まあ、そんなところです。正直、初めて会った人から香たちのことや彼女たちが言っていた『アルビトリウム』という言葉を聞かされるなんて思ってませんでしたから」
護は苦笑して言った。
「ウフフ…そうでしょうね。でもあなたには知って貰わねばなりません。本当の自分がどういう存在なのか。そして……」
ファルはそこまで言うと目を伏せた。
「そして…何ですか?」
護は不思議そうに彼女を見つめた。
「いえ、まだ知る必要のないことです。でも、いずれはあなたも知ることになることです」
ファルはそう言って再び彼を見つめた。
「そう…ですか…」
護は少し残念な気分になった。
「話を続けましょう。あなたはあなたが本当は『アルビトリウム』の者だったと言われたら信じますか?」
ファルは探るような目つきで訊ねた。
「えっ!!? ……い、いや、信じられません……」
護は度肝を抜かれた気分だった。自分がこの世界の人間じゃないなんて思ったこともなかった。彼は確かに『アルビトリウム』に行こうとは思っているが、それは香に会うためだった。
「やっぱりそうよね。でもそれは本当なんです。そして桜木姉妹も元は『アルビトリウム』に住んでいた」
「そ、それは、一体、ど、どういう事なんです!?」
護は身を乗り出して彼女に詰め寄った。
「それではお話します。一体あなたたちがどういう存在で、どうしてこの世界に来ることになったのか――」
ファルは再び真剣な目つきをした。




