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■第54話 縛るための輝く輪


 

 

そして、時は流れ。


シオリは医大を卒業し、研修医として病院で目まぐるしい日々を送っていた。

 

 

 

寝る時間もない程に慌ただしい毎日の中で、それでもシオリはまっすぐ前を

向いていた。


あの頃の背中にたゆたっていた長い黒髪は顎のラインまで短く切り、凛とした

空気をまとう。 少し痩せたその頬は相変わらずツヤツヤで、透き通るように

白くて美しさに磨きがかかったように見えたが、その前髪だけはあの頃と同じ

几帳面に一直線に揃えられていた。

 

 

白衣姿のシオリがせわしなく病院廊下を駆ける。 白衣の裾は翻り、ひっきり

なしに病院職員やら患者やら行き交う廊下に靴底が擦れる音を立てて、首から

提げたネックストラップの院内連絡用の携帯電話が、胸ポケットの中で窮屈そう

にしている。

 

 

すると、後ろからふいに声を掛けられた。


『シオリ先生~・・・』  その声に小さく溜息を落とし、渋々足を止めた。

シオリが気怠く振り返ると、外科医のコウが廊下の真ん中で嬉しそうに目を

細めて腕組みをしている。

 

 

まるで医療ドラマから飛び出して来た俳優のような、白衣をまとう長身のコウの

目映い姿に入院患者のほか外来患者や見舞い客も、うっとり目を輝かせ遠く眺める。


看護師たちの間でも、コウに関する噂話をする黄色い声色が連日のように詰所で

聞こえ看護師長が何度それを呆れ顔で注意したことだろう。

コウが外来担当する日の外科患者が以前より増えたという噂は、あながちただの

噂ではないのだろう。

 

 

そんな熱視線など一切無視して、コウはシオリだけをまっすぐ見ている。

 

 

 

 『そんな駆けずり回ってたら転んでケガするよ~・・・。』

 

 

 

上機嫌に微笑んで、走った為にすっかり乱れてしまっているシオリの前髪に

そっと指を伸ばす。 少し背を屈めてその顔を覗き込むように、愛おしそうに。

 

 

そして、おでこに覗いている困ったハの字の眉を隠すように、前髪を梳いた。

 

 

 

 『美人が台無しだろ・・・。』

 

 

 

まるで完璧な自分の隣に立つシオリにも、完璧でいてくれないと困るとでも

言いたげにコウはやれやれと呆れたような笑顔を向ける。

 

 

シオリは哀しげにそっと目を伏せた。


微かにおでこに触れたコウの短く爪を切り揃えられた美しい指先は、あまりに

冷たくてどこか身が竦む。

 

 

 

 

  ”その、情けないまゆ毛見えてたほうがゼッタイかわいいってのー!”

 

 

 

     (彼は、可愛いって言ってくれたのに・・・。)

 

 

 

 

ショウタのゴツい指先のぬくもりを思い出していた。


一瞬おでこに触れられただけで、頬まで熱くなる程にあたたかかったそれ。

一気に心臓まで伝うその歯がゆい熱を、今でもはっきり覚えている。

 

 

途端にぎゅっと口をつぐみ沈んだ表情をつくったシオリを、コウが冷静に

見つめた。

 

 

いつまで経ってもシオリは自分に心を開かない。


あのしょうもない八百屋から離れて何年も経つというのに、シオリはあの頃と

なにも変わらずに自宅の自室には情けない顔のぬいぐるみを飾り、今だって

白衣のポケットに擦り切れた暗記カードを大切そうに忍ばせている。 

薄汚れたセンスの欠片も無い幼稚園児が描いたような、それを。


疲れた時、落ち込んだ時には必ずそれをめくってひとり哀しげに微笑む姿を、

コウは煮えたぎるような腹立たしさを堪えてずっと見ていた。

 

 

 

 

  (一日でも早く、俺のものにしなきゃ・・・。)

 

 

 

 

 『婚約指輪、どうしよっか・・・?


  どうせなら、シオリが欲しいものにした方がいいだろ・・・?』

 

 

 

頬に上手に笑みをつくり、コウが明るくシオリを覗き込む。

 

 

 

 『カルティエでも、ティファニーでもシオリが好きなの買いに行こうよ。』

 

 

 

すると、シオリは数回首を横に振り抑揚ない声色で呟いた。


その目は決してコウを見ようとしない。 以前の様に ”コウちゃん ”とすら

呼ばなくなってもう何年経つのだろう。

 

 

 

 『 ”そんなの ”で縛らなくても、もう諦めてるから平気だよ。』

 

 

 

ひとこと呟いて、シオリは廊下の奥へ再び駆けて消えた。

冷たく硬い白衣の華奢な背中が、完全にコウを拒絶するように小さく遠ざかる。

 

 

コウはひとり廊下の磨き上げられた床に目を落とし白衣の裾を握りしめていた。

シワひとつない美しい真っ新な白衣に握りジワがしっかりと刻まれる。

 

 

力が入り過ぎたその指は、真っ白になって震えていた。

 

 

 


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