■第31話 天邪鬼な神様
『シオリちゃん・・・
あのバカの見舞いに来てくれたの・・・?』
1階の玄関先。
半畳ほどの狭い空間だがきれいに靴が並び、靴箱に柄を引っ掛けて傘が
立て掛けられている。 そんな中ショウタの汚れたスニーカーだけが、
片足ひっくり返ったままになっていて、なんだかくたびれた感じを醸し出す。
母ミヨコが嬉しそうにでもどこか哀しそうに、慌てて走ってやって来たため
息を切らし苦しそうに肩を上下させるシオリを見つめた。
『おばさん・・・ ヤスムラ君は・・・?』 もう既に泣き出しそうな顔を
向けているシオリの細い肩に、ミヨコはやさしく手を置きそっと撫でる。
『ダイジョウブだよ・・・ あんのバカ、大袈裟なんだよ!
ただの寝不足っ! 寝不足~!
いっぱい寝て、たらふく食べたらすぐ元気になるから~!』
『そんなに遅くまで勉強してるの・・・?』
シオリはミヨコが言う ”ダイジョウブ ”も素直に聞き入れる事など出来ず、
心配する哀しげな目は相変わらずミヨコに刺すように向く。
『あー・・・ まぁ、新聞配達がキテるんだろねぇ・・・
でもダイジョウブだよ! 若いんだし、すぐ元に戻るから。』
『新聞配達・・・ してるの・・・?』 シオリが目を見張り、顔が一気に
青ざめる。
医大受験に向けて勉強をしているのは知っていたが、新聞配達のバイトを
しているなんて全く知らなかったシオリ。
(なんで新聞配達なんか・・・。)
”医大に通うのに、いくらお金かかるか分かってるの・・・?
ご両親にムリさせるの? 平気なの? ”
(・・・わ、私が・・・・・・。)
あの日、自分が言った一言がショウタをここまで無理させたという事実を
知り絶句する。
ショックを受けたように立ち竦み、一言も口をきかなくなったシオリ。
眉根をひそめ口をぎゅっとつぐんで、その顔は土砂降りの雨が降る直前の空の
ように哀しく暗く曇って今にも泣き出しそうな不安定なそれ。
俯いたまま黙りつづけるシオリを、母ミヨコは覗き込むように見つめた。
『バイトの事は知らなかったんだね・・・
・・・ごめんね、余計な心配させたね。』
ショウタが内緒にしていた事をうっかり伝えてしまった事に、バツが悪そうに
ミヨコは顔をしかめる。 内緒にしていたショウタの気持ちも、知らされて
いなかったシオリの気持ちも痛いほど分かる。 ふたりの気持ちを思い、
申し訳ないことをしたと胸が締め付けられ痛んだ。
首をもたげうな垂れていたシオリが、ガバっと顔を上げ必死の形相でミヨコの
二の腕に掴みかかった。 肉付きのいいミヨコの二の腕に、シオリの細い指が
食い込むほど強く。
勢いよく上げた顔と連動して、艶のある長い黒髪が流れる水のように揺れた。
『お願い・・・
おばさん、お願い・・・ ヤスムラ君をやめさせて・・・
このままじゃ、ヤスムラ君・・・ ほんとに倒れちゃうよ・・・
ほんとに、病気になっちゃう・・・
私のせいで・・・ ヤスムラ君が・・・。』
ボロボロとその大きな美しい瞳から涙の雫が零れ落ちる。
顔をくしゃくしゃに歪めて目も鼻も頬も真っ赤にして、シオリが泣きじゃくる。
長い髪の毛が涙で濡れた顔に貼り付き、いつも美しくたゆたっているロングヘア
が乱れているというのに、なりふり構わずかぶりを振るようにミヨコへ詰め寄った。
ミヨコを掴むその手は、華奢で細いそれの何処からそんな力が出ているのかと
思う程きつく痛いくらいで、そのまっすぐ過ぎる気持ちに恰幅のいいミヨコも
少したじろぐ。
そっとシオリの震える強張った手を握り両手で包むと、諭すようにミヨコは言った。
『あのバカはね、ああ見えてもの凄い頑固だから、
きっと、まわりが何を言おうが考えは曲げないよ・・・
ショウタが、自分で、とことん納得するまでは
止まらないし、どうにもならないんだ・・・。』
『でも・・・ それじゃ・・・。』 尚も身を乗り出し懇願するような目を
向けるシオリ。
濡れた瞳から溢れる雫はアゴを伝って白く細い喉まで哀しい涙跡をつけてゆく。
ミヨコはシオリの細い体をやさしく抱きしめた。 懸命に息子を想ってくれる
心根のやさしいシオリのことが、ミヨコも大好きだった。 この子がお嫁に来て
くれたらどんなに幸福だろうと、決して口には出来ないがずっと思っていたのだった。
ミヨコにあたたかくやさしく抱きしめられたシオリの華奢な肩は、小さく小さく
震えはじめた。 そして、喉の奥から絞り出したように小さく呟く。
それは痛いほど哀しい色を含んだ声で。
『ごめんなさい・・・
私のせいなの・・・ 私が悪いの・・・
私のせいで、ヤスムラ君はこんなムリしてるの・・・
・・・私のせいで・・・。』
ミヨコのやわらかいふくよかな胸に顔をうずめて、シオリが再び泣きじゃくる。
しゃくり上げ涙に詰まりながらも全ての事情を話したシオリへ、ミヨコがあたた
かくやわらかい目を向けた。
『シオリちゃん・・・?
シオリちゃんは、なあんにも悪くないんだよ。 謝る必要なんてない・・・
それに、これだけはちゃんと分かってほしいな・・・
シオリちゃんのお父さんも悪くない。経営者としての責任があるんだもの。
勿論、お兄さんも悪くない。 従兄弟の彼だって・・・。
ただね、神様が意地悪なだけ。
・・・神様が、天邪鬼なだけなんだよ・・・。』
ミヨコのシャツの胸元がシオリの涙でしっとりと湿り、津波のように押し寄せる
遣り切れない想いも呆気なくシャツを貫通し、ミヨコの心臓を突き刺した。




