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椿と東次郎の物語【五】

「ただいま戻りましたー」

 蕎麦屋に戻り暖簾を潜る。

「おかえり、やたらと遅かったな」

 東次郎さんが一人客席に座り、囲碁の盤を机において考え込むようにして黒の碁石を右手で遊ばせていた。

 店内にはお客は一人もいていないし、来てもいそうになかった。

「うん、ちょっとね」

 ウチは誤魔化すように言って始めたばかりの碁盤を見て、黒の碁石をヒョイと取って碁盤の上に置いた。

「おっ……そう来たかぁ~」

 「ふふ~ん」とウチは得意げな笑みを浮かべる。

「どうだ。これでもおじいと百戦して百敗の実力なんだぞ」

「……百敗って負け通しじゃないか」

「分かってないねえ東次郎さん。百回やってまだ挑もうという精神がすごいんだよ」

 胸を張って威張ってみた。本当はもっと負けているけど、五百とか言い出すと本当に悲しくなるから言えない。

「なるほどね。オレは椿とやってだいたい勝ってたぜ」

 ニヤリと笑うがそのまま苦笑いになり、

「まあ大抵、椿が勝たしてくれたようなもんだけどな」

 と言う。

「ということは東次郎さん弱いんだ」

 よしよし、良いこと聞いたぞ。

「まあ弱いな。だがしかし、今日こそ借りを返してやる!」

 言って白の碁石を勢いよく差す東次郎さん。

「いやいや、初の一勝は東次郎さんから頂くよ」

 ウチも碁石を威勢よく鳴らす。

「それにしても懐かしいなあ。椿が居た頃は毎晩店を閉めてからよくこんな風にやったもんだ」

「ふ~ん」と言って白を黒で囲んで中の白を取る。

「椿も華のように一年半前ぐらいにふら~っと店に入ってきて、かけ蕎麦を食べるなり『厨房を貸してくれ』と言って汁を作り始めたんだよなあ」

 懐かしそうに、愛おしそうに言う東次郎さんの顔を見て、なるほどと思った。だからウチが厨房を貸してくれと言ったときも嫌な顔せず、逆に椿さんと同じことをウチがして驚いたのか。

「椿の汁は最高だった。本当に美味し過ぎて、ずっとココに居てくれって言ってしまった程だからな」

 恥ずかしい思い出を打ち開けながら、それを「へ~」と聞き流しつつ、黒が囲まれる。

「それに性格も申し分なくてな。優しくて面倒見も良かった。この囲碁も二人の趣味を持とうとどこからか貰ってきたものだしな。それにどんなに忙しくて疲れても弱音も吐かずいてくれ、いつもオレの事を想っていてくれた。何をやっても気を使ってくれたし、それでいて頼ってもくれた。本当に感謝している」

「今でも想い続けているんだねぇ」

 何となく思いついたことを口にするが、東次郎さんは即答で、

「ああ、愛している」

 と躊躇いなく言った。もうそんなお相手がいないウチからしたらイラだね。くそ~、一度でいいから惚気てみたい。

 そんな春の訪れを想像しているうちにまた黒が囲まれる。

「だが――」

 東次郎さんはおもむろに言葉を区切り、

「椿には椿なりの事情があったのは知っていたから、本当にずっと一緒に居られるというのは無理だとはどこか薄々わかっていた……」

 東次郎さんの打つ石が弱々しくなり、その石を恋しそうになかなか手放さなかった。

 そしてようやく石から手を放して話し始めた。

「そして椿と出会って一年が訪れようとした日、正確にはその前日の夜だな。その夜に椿は居なくなっていた。朝オレが目を覚まして、そして見ると布団の中には椿の姿はなかったんだ」

 寂しそうに東次郎さんは言って次の石を置く。

「前日に、唐突に汁の作り方を教えて上げると言われ、なんだか嫌な予感はしていたんだ。もうすぐ椿が居なくなるんじゃないかと思った。けど、椿は約束は守る人間だ。汁の作り方を教えてくれるまで居なくなる事はないと思っていた」

「…………」

「だからオレははじめただ朝食の準備でもしているのかと思った。けど、土間も店の厨房にもいてなくてな。全くどこにも椿の気配が感じられなかったんだ。だからオレは懸命に探したよ。その日は日が暮れるまであちこち探した。けど結局見つけることも出来ず……家に帰ればいつものように優しく『おかえり』と迎え入れてくれると願って帰ったが、それでもやっぱりいなかった……」

「…………」

 その時ウチも心臓が締め付けられる様に苦しくなった。それはおじいと繭に椿さんと同じ事をしたからだ。置手紙を書いたとはいえ、起きるともういなくなっていた。それは本当に寂しい物なんだと東次郎さんを見ているとよく分かる。

 でも、だからと言ってこのまま辞めるわけにはいかない。折角決心をして出たのだ。それにウチの場合もう会えないってわけじゃないし、一ヶ月もすれば侍に会えるだろう。そうすればまたおじいと繭と三人で暮らすこともできる。

 そうだ。椿さんもウチと同じようにちょっと旅に出ているだけかもしれない。

 帰るところがここではないかもしれないが、それでもそんなに良い子が汁の作り方を教えると言っていたのだから、そのうちここにもまたひょっこり帰って来るだろう。

「東次郎さん! きっと椿さんはまた来るよ。ウチに似てるなら絶対会いに来るだろうし、それまではウチの味で店を繁盛させてよね」

 笑顔で言った。満面の笑みで。東次郎さんに向かって笑い掛け、立ち上がって励ますように言った。

「椿さんが戻って来た時に悔しくなるぐらいの汁をウチが教えて上げるからさ。その時にまたお互い笑って会えるように頑張らないと! 今ここで立ち止まってちゃダメだよ」

 今のはちょっぴりウチのことでもあった。自分で自分の励ましだ。また笑顔で会いたい。このままでは、あの侍に会えないときっとウチ自身、笑っておじいと繭に会えない気がするのだ。何故そう思うのかは分からないが何かモヤモヤするし、目的も果たせず帰るというのはなんだか恥ずかしさもあった。しかもまだ出てから一日。ここで帰ればいい笑いモノだ。ウチが笑ってなんて帰れない。

「そうだな。椿がいた時よりも繁盛させて、悔しい顔をさせないとあいつが居ないと何も出来ないと思われてしまう。それはちょっと男として情けない」

 東次郎さんはグッと握り拳を作り、気合を入れる。

 『愛している』と言葉にするのは簡単だが、それがどれくらい想っているのかの度合いはわからない。けどこんな東次郎さんを見ていると、一年一緒に過ごした椿さんをどれだけ『愛している』のかよく分かった。

 ウチにも異性間の愛ではないが、その事はよく分かる。繭がそうなのだから。繭はウチと血の繋がった姉妹ではない。けど我が妹のように接して、我が妹以上に愛おしく思ってきた。たぶん本当の妹だったらあそこまで愛おしく思えなかったと思う。

 だから東次郎さんが椿さんに次に会えた時には、今まで以上に『愛し合って』欲しい。

「それじゃあ、早速汁の作り方を教えてもらおうかな」

 言って東次郎さんは気合を入れて立ち上がった。

「ん? まだ途中だ――」

 よ、と言いかけて気が付いた。盤が真っ白になっている事に。

「……あれ?」

 どうやらウチの完敗みたいだ。


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