夢は虚ろ【弐】
まさにそれと同時だった。
「フヒャッハッアアアハッハッアァァーーーハッ!!」
奇妙な叫びとも笑いともつかない声がすぐそこから聞こえてきたのだった。
それは目の前にいるお侍さんではない。だが、そのぐらいすぐ近くだった。
そして私に向けられ振り下ろされた真剣は目の前でピタリと止まり、すぐさまお侍さんは声の主を探し後ろ向く。
「ギィイヒャッヒャッヒャヒャアーーーーーーーーーッ!」
もう狂っているとしか思えない声が上がり、侍が動いたと思ったら今度は後ろに弾かれたように飛んだ。
一瞬のことでよく分からなかったが、お侍さんがウチの横を通って川に落ちる際に頭がクルクルと回っていたような気がした。
川の水しぶきなのかどうか不明だが頬に少し掛った。冷たいだろうと思い一瞬顔を強張らせたが全く冷たさを感じない。
そして、お侍さんが元居た場所に目を移すとそこには細く、やつれているわけではなさそうだが女性の様なスラッとした顔に身体。それに似あわないボサボサの髪と鈍く光る真剣を携えた男の人が立っていた。
「っ……」
声が出なかった。
それは刀をかざしていたからではない。目が――その目がそうさせていた。
月がその目の中にあるように綺麗な光を放っていたのだ。冷たく見放すような目ではなく、かと言って温かみがある目でもない。ただまんまるな月がその目から輝いていたのだ。
「……」
侍は刀を鞘に納めてフラフラとこちらに歩いてくる。
それは先程狂った声を出していた者の姿とは思えなかった。もしかしたら声の主はこの方ではなかったのかもしれない。見たわけではないのだから言いきれるはずがないのだ。
そしてウチの事など見えていないかのように、お侍さんは目を向けることなくウチの横を通って躊躇なく冷たい川の中へと足を入れた。
「……」
それをボーっとウチは見ていることしか出来なかった。
お侍さんは何かを見つけると川の中に右手を突っ込み引き上げる。そして引き揚げたのは先程川へと落ちたお侍さんの刀だった。ちなみに先程川へと落ちたお侍さんはもう流されて無くなっている。
それを懐から取り出した布で刀身を大雑把に巻き川から上がった。
「……」
そこでようやくお侍さんはウチに顔を向けた。
その表情は何もなく、無表情というよりもどうでもいい小石に目をやったような顔だった。
「あ……!?」
ウチは何を言おうとしたのか分からないが口を開きかけたとき、侍が左手を出しウチの頬を親指でなぞった。
身体が硬直して動かなくなる。別に怖いわけではない。ただ触れられた瞬間動かなくなったのだ。
そしてウチの頬をなぞった時に付いたのか、親指には黒い何かが付いていてそれをペロリと舐めた。
後は何事も無かったかのようにクルリと身を返して歩き去って行ってしまった。
「……」
お侍さんが見えなくなるまでウチは魅入られたように見ていたが、見えなくなると同時に、
「さむッ!」
急に冷えたかのように寒さが全身に伝わって来た。
辺りは当然のことながら静かで、いつもと変わらない景色に雰囲気だ。
そう、まさにそれは何事も無かったかのようであった。
ウチは怖さのためではなく寒いがために走って邪魔な石臼を避けて家に入り、急いで布団に潜りこんだ。
そしてさっきの事を思い出し、一体なんだったのか考えているといつの間にか眠りこけていたのであった。
気が付けば朝になっており、おじいと繭は布団から出ていなかった。それから小一時間この状態が続いている。
今考えれば昨日の夜にあったことは夢だったのではないかと思えてきた。あまりにも現実味がなく、殺されることに対して何の不安も浮かばなかった。それは夏の寝苦しい夜によく見る変な夢に似ていた。
(そういえば)
と思い、昨日お侍さんに振り向いた際に何かが当たったはずの腕を見た。今の今まで忘れていけど、多分振り上げた時の刀が当たったんだと思う。
そして、今は全く痛くない腕を見てみると、そこになんの傷も痕もなかった。全く初めから何も無かったよに無かったのだ。
「…………」
ウチは場所が違ったかと探すが何処にも何も無い。
それを見て、ふむと頷き、
「そう、そうだそうだ。ウチは夢を見ていたんだ」
そう思った。というかそうとしか考えられなかった。そう考えると何だかこの小一時間ウダウダしていたのが何だかバカらしく思えてき、急にお腹が空いてきた。
ばっと布団を捲り起きあがり、
「ウチも七草粥食べる!」
おじいが粥を流し込むように食べ、額を隠すように布を頭に巻いている繭がいる囲炉裏の前まで来てバタリと腰を落とす。
「やっと来たかえ。――ん?」
粥を碗に掬い入れ、手渡そうとしたおじいが何かを見つけた顔をして、
「おまんが持っとったんか」
ウチの手元を見て言った。
「?」
手元に目をやると、なんとそこには柄杓が握られていた。
「……っ!」
驚きまじまじとその柄杓を見てしまう。ずっと持っていたのだろうが全く気が付かなかった。
「どこぞにいったんかと思うたわ。華が持っとったんかえ」
「ウチが……。ということは昨日水飲みに土間に行ったら水が無くて――」
「土間の水? 今朝見たらまだ残ってたぞい。この粥さん出来るくらい」
「え!?」
そう言われおじいの顔を驚き見つめてしまう。
「寝ぼけてたんとちゃうか」
「…………」
その横では繭が「華姉お寝ボケお寝ボケ」と言っている。
「それにどしたんや、その顔。鼻でもイジッて血出たんかえ?」
言っておじいは自分の親指をぺロリと舐め、ウチの頬を二度ゴシゴシと擦った。
それはあの侍と同じだったがおじいの手は大きくゴツゴツし、カサカサで頬が削れるようであったが温かかった。
だが、そんな事よりも今のウチは、
(あれは本当のことだったんだ……)
そっちの方が衝撃的でどう整理していいのか分からなくなっていた。




