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藤と鈴と杉三郎の物語り【四】

「――じ、藤、そろそろ起きる時間だよ」

 その声でウチは目を開けた。肩を揺すっている人物に顔を向けると、そこには言わずと知れた鈴の姿があった。

「……おはよう」

 ウチはゆっくりと起き上がり欠伸をしながら伸びをして、掌で目を擦る。

 昨日の夕方から寝るまではあんなに長く感じたのに、眠ったのは一瞬のようにしか感じられなかった。なんて理不尽な感覚なんだろう。寝る事はかくだんウチに取って楽しい事でもないのに。もうちょっと時間を味わいたいものだ。

 ボーっとする頭と半開きの目と口の状態でもう一眠りしてしまおうかと考えていた時、

「ふ……ふふ、あははっ」

 突然鈴が大笑いし始めた。

「?」

「そ、その顔と頭、あははっ……く、苦しい~」

 ウチの顔を指してお腹を抱えながら笑っていた。そして、ひとしきり笑い終わると、目尻に溜まった涙を拭きながら、

「藤、昨日顔洗わなかったでしょ。それに枕でちゃんと寝てないから頭も凄い事になってるわよ」

 またウチの顔を見て大笑いはしないまでも、「ふふふ」と抑えきれず笑っている。

「…………」

 ウチは近くにあった手鏡を取って自分の顔を見て、

「うげっ!」

 そこに映り込んでいたのは山姥(やまんば)だった。もう化粧も頭もグチャグチャであまりの酷さに手鏡を投げ捨てるところだった。自分の顔なのに。

「洗うの手伝って上げる」

 鈴はそう言ってウチの手を取って井戸へと連れて行ってくれた。優しい鈴だが、その間本人は隠しているつもりだろうが、ずっと笑っていた。


「へ、へ、へっくしゅんっ! …………ああ~」

 ウチは昨日に引き続いてくしゃみをしながら廊下を歩いていた。

「大丈夫?」

 鈴も昨日と変わらず心配そうに聞いてきた。そしてまた変わらず、

「うん、大丈夫……」

 と答えた。

 何故今日もくしゃみをしているのかというと、昨日の水攻め拷問で風邪を引いたというわけではない。今日の朝の水攻め、もとい顔と頭を洗うのに時間が掛って風邪を引きかけているのだ。

 化粧は案外すぐに落ちたのだが、髪に付けた油が断っても断っても諦めてくれない男のようにしつこく取れてくれなかったのだ。……ゴメンなさい。知ったような口を聞きました。そんな事男性に一度もされたとないです。しくしく。

 まあそれはさて置き、外の風吹くところで井戸の冷たい水をずっと掛っていたのだ。もう一回布団に入って暖まりたい。そして……もう一度寝たいです。切実に。

 だが、そんな事はさすがに許してもらえなかったので仕方なく鈴と一緒に掃除へと向かった。

 場所は昨日と変わりなく階段と廊下で、ウチは今日も廊下の方を掃除する。昨日言われた事を守って静かに拭く。

「…………」

 駆ければすぐに終わりそうな廊下を、手を左右に動かしてちょっとずつ拭いて行く。途中で静かに駆けながら拭こうかと思ったけど、それでまた佳耶さんに見つかって怒られるのは嫌だったので止めた。

 ウチだけ怒られるのであればいいんだけど、鈴にまで迷惑は掛けたくない。

 仕方なくそのままちょっとずつ拭いて終わらせた。

 そして決められた事を決められたように洗濯をしてお風呂に入って、お姉さん達の支度の準部も手伝う。

「…………」

 今日で二日目なのでまだ慣れていなく、効率が悪かったり理不尽なことが多々あるのでやっぱりそういう事に対してイライラというか、こんなことをしていられるかという反抗的な気持ちが湧いてくる。

 けど、逆にその気持ちが消えたら終わりのような気がする。

 ウチは人違いでここに入れてしまったけども、それがもし売られたのであれば「借金を早く返してこんなところから出てやる」といった気持ちが無くなり、ずるずると飼われて一生をここで過ごすしかないと諦めに変わってしまうだろう。

 それが物凄く怖かった。

 どんなモノでも慣れはある。嫌なことでも百回もするば慣れてどうってことなくなるだろう。百回で無理なら千回だ。毎日しつづければそれを受けれてしまう。それが怖かったのだ。

 ウチは今は反抗的な気持ちでいっぱいだけど、これからどれだけここにいるのかも分からない。ウチ以外の人間を見ると今の日々を当たり前のように過ごしている。それは正しい気持ちの整理の仕方なのかもしれない。でもウチはそれが嫌だった。

 大切な何かがウチの中から消えてしまいそうだったからだ。

「…………」

 鈴はどうなのだろう。何故ここに入る事になったのかは分からないけど、ここの暮らしを受け入れているのだろうか?

 ウチが鈴をチラリと見るとそれに鈴は気が付き、少し離れたところでお姉様達の支度の手伝いをしながら微笑むような顔を返してくれ、そしてすぐにお姉様達の支度を片付ける。

 ウチは昨日教えてもらったところだから不慣れで、一人終わる間に鈴は五人終わらせていた。

 そして自分達の支度を大急ぎでしている際、

「ごめんね。ウチがもたもたしてるから楽になるはずなのに、いつもと変わらなくて」

 そう化粧をしてもらいながら言うと、

「ううん。まだ二日目だから仕方ないよ。それに藤によく似た華がいてくれるだけで私は心強いんだよ」

 鈴がウチに化粧をしてくれる事を断ったのだが、頑なにお願いされてしまったのだ。あんなに真剣にお願いされたら断りきれなく、仕方なく顔を差し出したのだった。

「ねえ、藤って私が知ってる藤じゃ本当にないんだよね?」

 目元に黒い線を引きながら、妙に真剣な口調で聞いてきた。

「うん、違うよ。ただ凄く似てるだけ。迷惑な話だよ」

 ムスッとして見せると「ふくれたら化粧が出来ないよ」と怒られた。

 やっぱりまだ疑われているんだな、と思ったらそうではなかったらしい。

 おもむろに鈴は自分の顔をウチの顔の横に持って来て、耳に吐息が掛る程近くで、

「それじゃあ――私達とここから逃げ出さない?」

 と呟かれた。

「え……? そ、それ――」

 ウチが口を開きかけた時、鈴に指で口を抑えられた。

「今夜八時に火事が起こるの。その時、今日掃除した階段にいて」

「…………」

 それは間違いなく逃亡計画だった。この遊郭から逃げ出す計画。

 しかも火事が起こると断定しているという事は自分達の手で火を付けるのだろう。この建物に。そしてどさくさに紛れて逃げる。

「その為にはお客を取らないといけないけど、大丈夫」

 大丈夫? 一体何が大丈夫なんだろう。それはお客の男性の相手をしなくちゃいけないことだろうか? それとも火事のことだろうか?

 いや、そんなことよりも、

「そんなことしたら鈴が――殺されるよ……」

 そっちの方がよっぽど大事なことだ。

 藤は一度逃げ出して、その罰を代わりにウチが受けた。罰は苦しかったし、殺されるんじゃないかと思った。拷問を受けた朝、軽く死ねると言ったけど、本当に死ぬんじゃないかと恐怖した。ウチは楽観的だから終わった事はあまり考えないようにしているが、それでもあの時、

『良かったな、藤。今回は長い間見つからなかったが、それでも見つかったことでお前を生かしといてやるってさ。もし逃げ出しても何処までも何処までも追いかけて行って連れ戻すっていう見せしめとしてな。まあ次は誰であろうと殺すことになるだろうから、精々気を付けることだな』

 と拷問を行っていた一人の男が言っていた。

 次に逃げだせばウチに限らず誰であろうと殺されることになる。捕まれば未来はないのだ。

 しかも、火事を起こしてとなれば重罪だ。ここでなくとも役所に捕まって死刑になるだろう。それでもいいのだろうか?

 そして、その問いに鈴は、

「それでもいい。あの人と一緒ならどうなろうと」

 きっぱり言った。

「…………」

「でも藤は、華は巻き込めない。嫌ならそれでも構わない。けど、人違いと言っても華は藤とずっと間違われたまま一生ここで過ごすことになるわ。そうなれば真っ当な人生なんて送れない。それでもいい?」

 馬車馬のように働かされ、客が取れなければ他に売られる。売られた先でも同じことが起こるだろうし、もっと酷い生活が待っているかもしれない。希望に満ちた未来など無く、希望を持つ方がどうにかしている未来。けど、だけども、殺される事はない。拷問を受けて苦痛と恐怖を受けることも、ましてやもういっそ殺して欲しいと願う事もないだろう。

 でも、それでも、

「……それは……嫌。うん、絶対に一生ここで過ごすなんて嫌!」

 拷問の苦痛や恐怖はまだウチの中ではっきりと覚えている。でも、それ以上にこんなところにずっといるなんて嫌だった。死んでも嫌だ。なら、死んだ方がマシだろう。地獄みたいない人生を送るぐらいなら、地獄に落ちた方が諦めが付く。

 真っ直ぐに見ている鈴はそれを聞いて強く頷いた。

 だがこの時、ウチには心のどこかに引っかかるものがあった。何かは分からない。しかし、それはこれから起こる事の不安がそんな引っ掛かりに似た感覚を覚えさせたのだと思う事にした。

 その後聞いたことだけど、さっきの「お客を取るけど大丈夫」というのは、時間的には床に入るには早いので何も無いから大丈夫ということだった。

 そして、ウチと鈴達の逃亡作戦は実行されたのである。


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