香苗の限界
朋絵ちゃんを受け入れ……あれは受け入れたと言っていいのだろうか。受け入れたって言うと別のニュアンスに聞こえるし……。
とりあえず朋絵ちゃんとの関係性を一部改めてから数日。当たり前のように、朋絵ちゃんは俺の部屋に入り浸っていた。
「ユーキ兄」
ハートが飛びそうな甘い声で朋絵ちゃんは俺を呼ぶ。それが合図。
夕飯を終えて、風呂も終えて。後は寝るだけの時間。いつものように来た朋絵ちゃんをベッドの上で受け止める。
狭いベッドに横に並び、朋絵ちゃんが身を寄せる。
基本俺からは何もしない。が、前にそうしていたら不満顔で怒られたので、何も言われずとも体に腕を回すことはする。
顔を上げた朋絵ちゃんがちらりと俺を見た。
はいはい。もっと強くね。
ぎゅーっと抱きしめると、朋絵ちゃんは満足そうに鼻を鳴らす。
会話は、したりしなかったり。若干、いや、甘え方を見るとかなり幼児退行している気がするのが心配だが、この部屋以外では普段通り。いや、母親が無くなる前と同じかさらに落ち着いた雰囲気になっているので大丈夫だと思いたい。
……大丈夫か? この状況、完全に俺に依存させてる状況だし。徐々に自立させていく予定ではあるのだが。
とりあえず安定はしたらしいので現状維持。様子を見て友達と遊びに行くように仕向けよう。
あ、でも男友達は禁止。
恋愛感情が同世代に向くのはいいのだが、この間の様子を見るに安易な性的欲求に逃げかねない。
決して独占欲がある訳ではない。
朋絵ちゃんがうつらうつらし始めたので、俺は彼女に自室に帰るように促した。
「ん……。ユキにぃ、服」
目をコシコシしながら朋絵ちゃんが自分のパーカーを脱ぐ。俺も暑いのに着ていたパーカーを脱ぎ、朋絵ちゃんに手渡した。
「きせて」
今日は甘えたい気分が強い日か。
俺は朋絵ちゃんの後ろに手を回し、パーカーの袖に腕を通してやる。
一緒に寝ない代わりに朋絵ちゃんが求めたのがこれだ。
服の交換……ではないな。俺が直前まで着ていた服を着て寝る。一人でいる不安が和らぐそうだ。
「すぅー……」
「あの、何度も言ってるけど目の前で吸わないでほしいんだけど」
「臭くないよ?」
「そーゆー問題じゃないんよ……」
半分諦めて、襟元を引っ張って顔を埋めている朋絵ちゃんの背中を押して彼女の部屋に送る。ゆっくりベッドに向かったのを見て、俺は朋絵ちゃんの部屋のドアを閉めた。
自分の部屋に戻って、部屋の隅にある猫ちぐらの中で丸まっている姉猫を引きずり出す。
「にゃー!」
「おー嫌か嫌か。でもちょっと吸わせてな~」
脇を掴んで抱き上げ、ベッドに寝転んで猫の腹に顔を埋める。
あー、落ち着く。
とりあえず、喜んではいられないが朋絵ちゃんは何とかなった。時間をかけて軌道修正をしていけばちゃんと成長できるだろう。多分。
だが問題はまだ残っている。それは朋絵ちゃんではなく、お姉さんの方。
香苗さん。朋絵ちゃんの姉で、背格好はモデルみたいな女性。母を亡くす前の普段の彼女は知らないが、イメージは服の趣味が派手なだけで真面目でおしとやかな子。朋絵ちゃんが余裕を持って落ち着いたらこうなる、といった雰囲気の子だ。
普段の生活は至って普通。大学生らしくバイト三昧なのはちょっと心配だが、自分で稼げる分は稼ごうという腹積もりらしい。うちに生活費を入れているようだし。
母さんも親父もいらないと固辞したが、香苗さんの気持ちがおさまらないので仕方なく受け取っている。だが使うことは無く、口座を作って貯めている。家を出ていくときに返すつもりで。
そんな香苗さんだが、俺と親父にはなんとなくわかってしまう。所謂職業病。教師の勘といったところか。
どこもおかしくないからこそ抱く違和感。心労が祟って、心を閉ざしてしまった状態。程度の差はあれどヤングケアラーの子に多い症状だ。
会話もするし、笑いもする。だがそれは受動的で、少し陰が差している。
バイトも、一人の時間を減らすためにしているように見えてしまう。
別に放っておいてもいいのだが……。
朋絵ちゃんがいるから崩れはしないだろうけど、どこで感情が反転して朋絵ちゃんを傷つけるとも限らないしなぁ……。
俺が彼女をどうカテゴライズしているかはともかく、一度家族として迎え入れている手前家を出て目の届く範囲から外れたとしても潰れられると後味が悪い。
朋絵ちゃんと違って、彼女が誰かに依存していようが何を言うつもりもない。学生ではあるが、既に成人した大人の女性だ。男に溺れていようがなんだろうが、彼女が助かっていると感じるなら俺が口を出す問題ではない。
まぁその様子もなく一人で抱え込んでいるように見えるから心配している状態なのだが。
でも俺が「大丈夫?」って聞くのは多分駄目。きっと余計に隠すだけになるから。
吸っていた猫を解放し、部屋の電気を消す。
明日も仕事。早く寝ようと、俺は意識を闇の中に落とした。
仕事を終えて、家に帰って。晩飯は何かと思いながらリビングに入ると、母さんが料理している音も、匂いも無かった。
当の母は、奥のソファで猫を膝に乗せながらぐでーっとしている。
あ、今日はダメな日か。
家庭を預かる母親という職業は過酷だ。だから母さんは、極まれに全ての家事をストライキする。
「親父は?」
「まだ学校ー。もうすぐ帰るってー」
「朋絵ちゃんと香苗さんは?」
「香苗ちゃんはバイトー。朋絵ちゃんはあんたの部屋ー」
おいおい。俺が居ないときは部屋に入らないって約束なのに。
「何故朋絵ちゃんが俺の部屋に居ることを容認している」
「え? 今更でしょ。毎晩イチャイチャしといて」
「断じてイチャイチャはしとらん。というか何故知ってる」
「ベッドでくっついて服まで貸してるのに? あんた、それで付き合ってないって言うのはちょっと……」
「だから何故知ってる。というかそう思ってんならまず30超えたおっさんが中学生、それも教え子に手を出してることを詰問しろよ」
「朋絵ちゃんが卒業するまでは隠し通しなさいよ? あと責任も取ること」
「だから付き合ってないっちゅーに」
「四年後には早く孫の顔が見たいわぁ」
「だから違う言うとろうがドタマカチ割るぞ。冗談言ってないで今日どうするのか教えろ。また俺が作ればいいのか?」
「んー。そうしてー」
「分かった」
冷蔵庫の中には卵とベーコンがあったはず。カルボナーラでも作るかと思って食材を確認したら、パスタの乾麺が無かった。
「ちょっと買い物行ってくるー」
「はぁーい。いってらっさぁーい」
リビングを出て、玄関には向かわず二階へ。
多分もう今は大丈夫だと思うが、朋絵ちゃんに声をかけておかないと後で面倒くさい。
母さんは朋絵ちゃんが俺の部屋にいると言っていたが、実際には朋絵ちゃんは俺の部屋には居なかった。
声をかけようと朋絵ちゃんの部屋のドアをノックしようとしたら、その前に扉が開く。
「先生、お帰りなさい」
「ただいま、と言いたいところですけど、また買い物に出かけてきます」
「一緒に行っていいですか?」
「ダメだって分かってて聞いてますよね? 校区から外れているとはいえ、みんなの活動圏内なんだから」
「ふふっ、はーい」
「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい」
朋絵ちゃんに見送られて家を出る。駅前のスーパーでタリアテッレとスパゲッティとちょっといいパルミジャーノチーズをカゴに。
……牛乳も買っとくか。
会計を済ませて店を出る。
「あ」
「あら」
このスーパーは駅から家までの通り道にある。だから彼女がいることに何の不思議もないのだが。
なんとなく香苗さんには会うはずないと思い込んでいて、思わず固まってしまった。
「買い物ですか?」
「ええ。母さんがストライキの日なので」
「ストライキ?」
「たまにあるんですよ。三、四か月に一回くらい。ほら、主婦って休みないから」
「そうですか」
並んで歩く。会話は途切れてしまっている。なんとも気まずい空気を感じつつ家路を進む。
話題がない。俺と同じで珈琲党なのは知っているが、俺は彼女についてそれ以上のことを何も知らない。
まぁ、知る必要もないし知ろうとも思わないのだが。本来ならば。
「今度、エスポワールに珈琲でも飲みに行きませんか?」
朋絵ちゃんとの関係が緩くなったからこそ出た言葉だ。
俺には、それ以外に彼女にかけられる言葉を持ち合わせていなかった。
とっかかりがね。ないんよ。この人。だから珈琲飲みながら雑談でもって考えたワケ。
「……もしかしてデートのお誘いですか?」
ものすごく胡乱な目で見られた。その目には確かな嫌悪感。
あ、無理。キツイ。この目で気持ちよくはなれない。
いや、うん。その前に俺の言葉が悪かった。
「違う違う。近いうちにまた行こうと思ってるからどうかなって思っただけです。うちでは貴重な珈琲党の仲間だし。あと、ちょっとうちで孤立気味に見えるから。吐き出したいものも吐き出せてないんじゃないかなと」
あまり向けられたことのない嫌悪の感情に焦ってつい本音が出た。生徒に言ったら生徒の性格によっては意固地になるやつ。正確には意固地というか、困っている事を悟られたのを信じたくなくてひた隠しにするパターン。
分かっていたのに俺のバカ!
だが帰ってきた言葉は。
「そうですか」
その一言だけだった。
家に帰ってキッチンに立つ。とりあえず新しい牛乳は冷蔵庫に。必要なものを並べる。ちゃちゃっと調理して皿に盛り付け。パスタなんて別に難しいものじゃない。簡単な料理だからよく作る訳だが、思い返せばパスタしか作っていないような気がする。
いや、他の料理も作れるんですよ? カレーをスパイスから作ったこともあるし。メンドクサイ男になるからやめろって言われたけど。
「夕飯ー」
呼ぶとみんながわらわら集まってくる中、ソファから動かないのが一人。
「母さん! 俺に飯作れって言ったのあんただろ! 作ってやったからちゃんと食え!」
「んー」
「あ、今日本当に駄目な日だ。親父ー」
俺の声に親父が皿を二つ持ってソファへ。母さんに食わせる。
年甲斐もなく「あーん」とかやってる訳だが、我が家ではたまに見る光景。字面だけ見ればまだまだラブラブの熟年カップルだが、的確に様子を言い表すならあれは介護だ。
とりあえず母さんは親父に任せて放っておこう。
「食べますよ」
「先生、おばさんほっといていいんですか?」
「まぁ、ああなったら親父に何とか機嫌取ってもらうしかないから……」
「へぇー……」
朋絵ちゃんは夫婦のすることに興味があるのか親父と母さんをガン見しながら席に着く。
「よそ見してるとこぼすよ」
「はーい」
食事を終えて風呂待ちの時間。入る順番はだいたい香苗さん、朋絵ちゃん、俺、親父、母さんの順。香苗さんと朋絵ちゃん、俺と親父が入れ替わるが、母さんは最後に軽く掃除をしてあがってくる。だが今日は母さんのストライキ日。俺と親父でジャンケンして俺が負けたので、掃除は俺の役目。
だから洗い物の後のんびり映画を見て待っていると、後ろに気配がした。
「あの……」
香苗さんだった。朋絵ちゃんは入浴中。親父と母さんは多分部屋でイチャついてる。だから薄暗い部屋に二人だけ。
香苗さんはお風呂上がりで、格好はスウェットパンツにぶかぶかのバンドTシャツ。ちょっと太っているように見えるのは盛り上がった胸のせいか。
実際、彼女の腹回りは細い。バイトに行くときの服装を見ると、腹だしかタックインしてるからよくわかる。
「いつですか?」
何のことかわからずに首を傾げる。
「エスポワール、行くんですよね?」
ああ、その話……。え、来んの?
「あ、あぁー……」
どうしよう。気が向いた時のつもりで全くの無計画だった。
「いつがいいとかありますか?」
「明日のバイト、十八時上がりです」
「あ、じゃあその後にでも……」
「わかりました」
香苗さんはそれだけ言って、すたすたと廊下に消えて行く。
何だろう。ただ珈琲飲みたいって感じじゃないよなぁ、アレ。
そんなことを思いながら、俺は流しっぱなしの映画に視線を戻した。
香苗さんとエスポワールに行く約束をした翌日。つまり約束の当日。俺は仕事帰りのまま、家の最寄り駅を乗り過ごして中心街で電車を降りた。
時間はまだ午後五時半。エスポワールは香苗さんのバイト先であるファミレスの先にあるので、ついでと思い香苗さんのバイト先の店先で彼女が出てくるのを待つ。
五十分ほど待って、香苗さんが出てきた。
一瞬誰か分からなかった。
黒のワイドパンツにへそ出しの白のチューブトップ。黒のショートレザージャケット。ゴツイベルトには四角いリベット。右耳に鎖のイヤリング。指にはゴツイ指輪。女性がつけるには太めなシルバーのネックレス。
やっぱこの子、いかちぃ~……。
と言うか、この前より威圧感増してない? 気のせい? 家では装飾品身につけてなかったよね?
「香苗さん」
「あ?」
怖っ⁉ ガン飛ばされたんだけど⁉
「あれ、紀行先生?」
香苗さんが発していた威圧が俺を視認して引っ込む。
なんなのよもー。この子こんなだったっけ?
「お疲れ様です。行きましょうか」
「あれ、エスポワールで待ち合わせで……。あれ?」
「ああ、通り道なんでなんとなくこっちで待ってただけです」
「そうですか」
二人歩き出す。エスポワールまでの道程を香苗さんに合わせてゆっくり歩く。
目線が同じくらいだと思ったら厚底の靴を履いているようだ。
あれ? 人に歩幅を合わせるのは自信あるんだけど、ズレた。俺もまだまだだな。
しばらく暑い中を歩いてエスポワールに入る。エアコンに冷やされた店内は少し寒いくらいで、汗が冷たくなっていく。
片側が長椅子になっている奥の二人席に座り、メニューを見る。といっても覚えるまでも無いメニューなのだが。
「どうしますか?」
「……。じゃあ、ケーキセットで」
視線をマスターに向けると、呼ばずとも来てくれる。
「お決まりですか?」
「ケーキセットを二つ、お願いします」
「畏まりました」
目を閉じて、ゴリゴリと豆を挽く音を聴く。それが止まったら、次はサイフォンを目で楽しむところなのだが、今の座席では背中側なので我慢。
珈琲とケーキが運ばれてきて、俺たちは揃って珈琲に口をつけた。
一息。ケーキを口に含み、また珈琲を一口。揃って無地の白いカップを置いて、俺たちは見つめ合った。
「何で誘ったんですか?」
「んー。もうこの間言ったも同然だからはっきり言いますね。君に壊れられると困る」
「壊れ……? 別に病んでませんよ?」
「まだ、ね。俺には一歩手前に見えます」
そう言って俺は珈琲を啜る。
「完全に様子が無理してる子なんですよ。元の君を俺は知らないけど、うちでの君はいい子過ぎる。子供らしくないっていうと成人している女性に対して失礼だけど、母親を失ったにしては君の見た目で感じるダメージが少なすぎる」
「……」
香苗さんはかちゃりと小さな音を立ててフォークを置いた。
うん。格好はアレだけど所作に品があるね、この子。根はどっちかって言うと大和撫子なんだろうな。
「無視してくれてもいいし、頼るにしても俺じゃなくていい。あと、君はもう大人だからそう何度もは言わない。俺はお人好しじゃないから。だから、聞くのは一度だけ」
大丈夫かと聞けば、大丈夫と答える。無理していないかと聞けば無理してないと答える。だから。
「お母さんが居なくなって、ちゃんと泣けた?」
したのは、ただの事実確認。嘘を吐こうと思えば吐ける。でも、自分の心の内側をさらけ出すよりはハードルが低いと思った。
俺は別に返答を求めちゃいない。だから別に彼女が何を思っても気にしない。
多分うっすら、いや、普通に嫌われてるし。
後が無いから気楽なもんだ。
ケーキを食べ、珈琲を啜る。
最後の一滴を味わって、彼女のケーキと珈琲が減っていないことに気が付いた。
あー。言葉選びマズったかなぁ……。
「何で、誘ったんですか?」
先ほどと同じ問い。だがちょっとニュアンスが違うような気がした。まるで責めるような、そんな口調。
「これでも教師なんですよ。生徒の家族に何かあったら割喰うのは生徒なんです」
「つまり、朋のため?」
「と、思ってたんですけどねぇ……」
俺は姿勢よく座っていた体を弛緩させる。斜め上を見上げて、息を吐きだす。
「普通、だからと言って生徒の身内に手を差し伸べたりはしません。したとしても、SOSがあってからの話です」
「じゃあ、何故」
「多分、見ていられなかったんだろうなぁ」
手を組んでテーブルに置き、こすり合わせた親指を眺める。
「香苗さんはもう大人の女性だけど、君はまだ子供であっていい。朋絵ちゃんを独りで背負わなくていい。俺も、親父も、母さんもいる。だから、自分で一人ぼっちになろうとしなくていい。そう思ったんだ」
俺は、そう言って顔を上げた。香苗さんの顔は、前髪で隠れて見えなかった。
時間が経ち、香苗さんのカップに残ったコーヒーがすっかり冷めて冷えてだいぶ経った頃。俺は待つのを諦めて伝票を手にカウンターに向かった。
「ごちそうさまでした」
「お連れの方は宜しいのですか?」
「もう閉店時間過ぎているでしょう?」
「まだ居て頂いても構いまいませんが……」
「いえ。お暇しますよ」
後ろを振り返ると、香苗さんがバッグを持ってこっちに来るところだった。テーブルの上には、食べかけのケーキがまだ残っている。
「左様でございますか。またのご来店をお待ちしております」
店を出て、駅までの道を歩く。
香苗さんの足取りは重く、限界までゆっくり歩いてなんとか歩幅を合わせられる。
今度は……ズレないな。さっきのは偶然か?
駅に入ろうとして、香苗さんがその歩みを止めた。
振り返って彼女を視界に入れる。
ずっと視線は足元に向けたまま。目元は前髪で隠れ、その表情は駅の明かりで照らされていても見えない。
なんとなく。右手を差し出した。帰ろう? そう心で言いながら。
香苗さんは左手で俺の手を取って、でも俺の意図は伝わらなかった。
遠慮がちに、でもしっかりと手を握られて引っ張られる。
親指の少々装飾過多な指輪が食い込んで痛かった。
連れていかれたのは、安い居酒屋。前に来たことあるけど、値段相応の店だ。
満足は出来ないが、安いのというのはそれだけでそれなりの需要があるものだ。
席を立って絡んできそうな酔いが回っているおっさん連中や若造を牽制しつつカウンター席に着く。
この面倒くさい時に絡まれてたまるか。
ちなみに面倒事を抱えた女性をつれて飲みに行って絡まれたことはまだない。酔いが覚めるほど顔が怖いのだろうか。
とりあえず揃ってビールを注文する。あと枝豆。
運ばれてきたジョッキをしばらく眺めた香苗さんは、それを両手で持って一気に喉に流し込んだ。
家に連絡をしながら大丈夫かと心配するが、お構いなしに香苗さんはどんどんジョッキを空けていく。
三杯ジョッキを飲み干して、香苗さんは熱い息を吐きだした。
「何も、言ってくれないんですか?」
あ、これは始まったか? とりあえず自己暗示自己暗示。
「何か言った方がいい? 何か言いたいのは、君の方に見えるけど」
「……」
「その気が無いなら今じゃなくていい。必要な時に呼んでくれればいいから」
そう言って俺はアルコールを体に入れる。
ただ待つ。体の接触はまだ早い。香苗さんには多分嫌われているから、悪手になる。でも寄り添っているよと言うアピールのために、テーブルに置かれた手に並べるように自分の手を置く。その手を取るも取らないも、本人の自由。
と、思っていたのだが。
ん……?
香苗さんの左手が動いて、俺の右手に触れた。小指が小指の上に乗って、薬指との間に滑り込んだ。
少し体を寄せて、肩越しに体温だけ伝える。少し開いていた距離が、俺の意識とは別にゼロになった。
ああ、やっぱりか。この子はずっと一人で立っていて、足場が崩れて、もう倒れそうになってたんだ。
無言で肩を貸し、空いている左手でジョッキを傾ける。しばらくそうしていると、香苗さんがいっぱいいっぱいの顔で俺の袖を引いた。
場所を変えよう。
会計を済ませ、俺の腕にしがみついた香苗さんを抱きかかえながら人気のない裏路地に消える。この先はラブホ街なのだが、そこに行くつもりは毛頭ない。ただその周辺なら女性を泣きつかせていても不思議に思われないという算段だ。
ビルの隙間の路地で足を止める。
「ここならもう誰もいないよ」
「え……?」
「あー、この先には行かないから。ここでしようって話でもない」
と言うか、思っている通りなら追い詰められた時の思考が朋絵ちゃんと一緒だなぁ。まぁこうなった後に肉体的接触を求める子は一定数いるんだけど。でも絶対後悔するから応じたことは無い。
「今は俺しかいないし、必要なら耳を塞ぐ。何を思って、何を言っても誰も咎めることは無いよ。俺が、全部許すから」
肩まで手が届かないので、代わりに頭をこちんとぶつけた。
香苗さんが俺の腕を掴んだまま正面に回る。額を俺の肩につけ、とん、と俺の胸を叩いた。
とん。とん。とん。……ぎゅ。
あー、また皺になる……。別にいいんだけどさぁ。びりびりにされるよりはマシだし……。
「きらいだ」
「うん」
「みんなきらいだ。朋なんかきらいだ! 自分だけ救われて! みんな私に押し付けて!」
「うん」
「私だって泣きたかった! でも私が! 泣いたら! 朋が壊れるから! 許されなかった!」
「でも今ここに、朋絵ちゃんはいない」
「どうして⁉ どうして私を泣かそうとするの⁉ 頑張ってるのに! いいお姉ちゃんでいたいのに‼」
もう泣いているのに、泣きたくないと泣き叫ぶ香苗さん。その背中を、撫でようと思って撫でられるところが無かったので頭を抱え込む。
あー、髪の毛サラッサラだこの子。めっちゃ手触りがいい。いや、違うって俺。
髪を梳くように後頭部を撫で、涙を受け止める。
状況的には抱きしめてあげた方が効果的なんだけど……。後から嫌われる可能性があるんだよなぁ。あれ? 今更か?
俺は頭を撫でる手はそのままに背中に手を回し、抱き寄せた。香苗さんの顎を肩に乗せ、頬をつける。
朋絵ちゃんにはない感触が胸板で潰れる。多分今まで触れた中で一番大きな……いや、感触を知っている中では処辺先生がダントツか?
「わたし、は、まだ、がんばれる……から……」
「分かってる。でもたまには振り返るといい。誰かがきっと見守ってるから」
「……」
「俺も、見てるから。見てたから。だから昨日、声をかけた」
「わたしに、やさしくしないでよぉ……」
泣いて泣いて、泣きはらして。泣き止んだ香苗さんは、俺から距離を取った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。今はこれが俺の役目ですから」
回していた腕を外し、香苗さんを解放する。
まだ不安は残るが、顔は少しすっきりしている。しばらくは多分大丈夫だろう。
大学の時はずるずると引っ張る前に女の機微が分かってる風の男が掻っ攫っていってくれたが……。
まぁ香苗さんも美人だし相手くらい探せばいるだろう。あ、でも今は大学も夏休み中か。中学校はもうすぐ開けるけど、大学はまだしばらく続くからなぁ。
大学の友達と遊んでる様子もないし、二回目三回目と続くパターンか?
面倒くせぇ~……。
朋絵ちゃんは半分仕事の延長みたいな気分だから割り切れるけど、香苗さんはそんなしがらみがない分独身貴族の俺は今更女性の面倒を見るのが面倒になっていた。
いや、頼られるのはいい気分なんですよ? 役得なところもあるし。でも仕事初めてからプライベートで女性の面倒を見ることが無くなったからなんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだという気持ちが先行する。
親父と母さんには悪いが、俺はもう結婚を諦めていたりする。こういう愚痴聞きでしか女性と関係を持ったことが無い上に、そのせいで女性が胸の内に抱えているものを一緒に背負うのが怖い。
親父が爆発した母さんをずっと慰める様子を見ているのもあり、「あ、女って面倒くせぇな」っていう思いがずっとある。
え? なんで大学まで愚痴聞きしてたかって? モテたからだよ! 彼女は出来なかったけど! 肩を抱いたりしても怒られないし!
今? この歳になると女性に触れようという気も起らないので面倒くさいだけですよ。ええ。コンプラとかもあるし。
でも一緒に住んでいる人にふさぎ込まれる方がもっと面倒くさい。
親父じゃ歳が離れすぎていて話を聞くしかできないし、性格的に母さん以外には自分で手を差し伸べたりしないだろう。母さんは母さんで最近割といっぱいいっぱいだ。もちろん原因は二海家を受け入れたこと。姉貴を育てた母さんだが、気軽に拳骨を落とせないのでフラストレーションが溜まっているのがよくわかる。
落ち込んでいたらよく「くよくよするな!」と言って拳骨を落とされた。でもその後は好きなものを作ってくれて、頭を撫でてくれた。
母さんはうじうじする奴が嫌いなのだ。昨日駄目になったのもそれが関係している。そんな母さんに、二人の澱みを吐き出させる余裕はない。いや、吐き出させることはできるのだが、自分が息を抜くスパンが短くなるのが分かっているからやらない。
たぶんそれも、フラストレーションになっている。母さんも気づいてはいるから。それでも、母親を亡くして傷心の二人に拳骨を落とさない分別はあった。
だから、俺が手を差し伸べるしかないのだが。
ハンカチを取り出し、香苗さんの目尻に溜まった生暖かい水滴を吸わせる。
その手がパシンと弾かれた。
「ぁ……、ごめ、な……」
俺は落ちたハンカチを拾い上げ、畳んでポケットに入れる。
「帰りましょうか」
俺は背を向けて路地から出た。
香苗さんがついてくるのを足音で確認しながら家路を歩く。家に帰って、夕食の残りをつまんで、お風呂に入って。部屋のベッドに寝転ぶと、すぐに朋絵ちゃんが来た。
「ユキ兄」
「いらっしゃい」
いつもならすぐにベッドに寝転がってくるのだが、今日は少し様子が違う。
朋絵ちゃんはベッドの横に立ち、俺を見下ろしている。
「遅かったね」
「ああ、まぁ、ちょっと」
「お姉ちゃんとのデートは楽しかった?」
怖い。怖いよ朋絵ちゃん。ハイライト消さないで。
「デートじゃないよ」
「お姉ちゃんをバイト先に迎えに行って喫茶店でコーヒー飲んでその後お酒も飲んでお姉ちゃんと抱き合ってたのに?」
見てたのか? え、またつけてきてたの?
「先生は意外と気にしぃだからきっと迎えに行くだろうし、コーヒーとお酒の匂いがしてるし。それに。すぅー」
朋絵ちゃんが俺の首筋に鼻を埋めて深く息を吸い込む。
「はぁー。うん。お姉ちゃんの匂いがこびりついてる」
「メンヘラ度が上がって来たなぁ。GPSアプリ入れてとか言わないでね?」
「……だめ?」
「ダメだよ! ほら、代わりに抱っこしてあげるからおいで」
「うふふ。今は誤魔化されてあげる。でもはやく連絡先くらい頂戴ね?」
朋絵ちゃんが俺の腕の中に納まる。死んだような目をしながら頬を擦り合わせる。
この状態も早く何とかしないとなぁ……。
「香苗さんもそろそろ限界だと思ったからね。ガス抜きはさせとかないと。朋絵ちゃんも、香苗さんが倒れたら困るでしょ?」
「じゃあ、私のため?」
「まぁ、それもある」
「ふーん……」
朋絵ちゃんが俺の上によじ登り、俺の首筋をカプッと噛んだ。
「こら。舐めたり噛んだりは禁止って言ったでしょうが」
「ぷぁ……。お姉ちゃんのこと好きになっちゃだめだからね」
「はぁ?」
思わず素の反応が出た。
俺が? 香苗さんを好きに? 無い無い。
一緒に住んでるから意識はするけど、二十歳の小娘に恋愛感情は抱けんて。
「歳考えてよ。十三歳差だよ?」
「ユキ兄。歳の差問題は私にもブッ刺さるから禁止ね。次言ったら手錠で繋いじゃうから」
「何で手錠なんか持ってんのさ……」
「百均に売ってるよ?」
ああ。玩具の手錠か。安全装置を折ってもボールペンで外せるから安心。
この辺はまだまだ子供だな。
「結束バンドもあるよ?」
「……」
この子は、分かってて言ってんのか? それとも百均グッズのくくりで言っただけか?
「約束破ったら、親指を後ろ手に縛って手錠でベッドに繋いじゃうから」
あ、ガチのやつだコレ。
「ちなみに拘束した後はどうするご予定で?」
俺にそう聞かれて朋絵ちゃんが頬に手を当て耳を染める。
こういうところはまだ純情だなー。腕と足をもいで一生介護するとか言われなくて良かった。
「朋絵ちゃん」
「なに?」
「その方向に行っちゃあいけない」
「?」
「縛られて喜ぶのは変態さん。OK?」
「ユキ兄も変態さんだよね? 胸やお尻よりも脇なんでしょ? おかげで私は助かってるけど」
「ぐふっ。げふっ、ごほ」
俺にクリティカルダメージ!
「ユキ兄?」
「あーうん。もうそれでいいや。とりあえず愛情の裏返しで人を拘束するのはやめようね」
「はぁーい」
そう言う朋絵ちゃんは俺から離れ、パーカーを脱ぎだした。
「あれ、今日はもういいの?」
「うん。たまにはね」
手渡したパーカーを着て、朋絵ちゃんは自分の脱いだ服を丸めて持つ。そしてそのまま、自分の部屋に戻っていった。
ちょっと依存が外れたか? いや、人間こんな早くに立ち直りはしない。
気にはなるが、悪いことではないと思い気にせず俺は目を閉じた。
朝起きて、身支度をして出勤。今日は金曜日。週の最後でなんとなく気合を入れるが、やることはいつも通りなので特にやることは無い。いや、始業式以降は秋の行事があるからそろそろ本格的に準備が始まる。
そんな雰囲気を感じていたからだろうか。
「あれ……?」
リュックを漁るが、入っているはずのものがない。
弁当忘れた!
財布を探して、見つける。中身を確認して、財布を閉じて、席を立つ。そしてコンビニに行こうと他の先生、具体的に言えば内藤先生あたりに声をかけようとしたときだ。
ピンポーン。
学校のインターホンが鳴った。
珍しいこともある。無いわけではないが、鳴らすのは普段学校に関わりがない人だ。普通、勝手に入って職員室に行くから。
なんとなく教頭先生が応対するのを見る。応対はすぐ終わって、俺と目が合う。
「時野先生ー」
え、俺? ホントに何?
「今日、お弁当忘れた?」
「え? あ、はい。なんで今買いに行こうと思って……」
「ご家族が持ってきてくれたって。職員室に来られるから出て」
「はあ……?」
母さんか? いや、母さんは忘れたら家で晩飯と一緒に食わせるタイプのはずだが……。
俺が固まっていると職員室のドアがノックされて開く。「失礼します」と言って入って来たのは、いつもの格好ではなく、濃紺のベルト付きワンピースに身を包み、麦わら帽子を抱えた香苗さんだった。
一瞬固まる。だが再起動してすぐにドアに走った。香苗さんの背中を押して外へ。
「何で来たんですか!」
「え? だってお弁当無いと困ると思って」
「いや、確かに助かりますけど! 卒業生でしょ⁉ 知ってる人が居たらどうするんですか!」
「私と面識がある先生はもうみんな離任してますよ」
そう言われて今年この学校に勤務している面子を頭に思い浮かべる。香苗さんが卒業したのは五年前。五年以上赴任している先生は、居ない。
安堵した俺は深く息を吐きだした。
「とりあえず、ありがとうございます。無駄な出費をしなくて済みました。それに……」
「それに?」
「ああ、いや。割と気に入ってるんですよ。香苗さんが作ってくれる枝豆の漬物」
「……そうですか。じゃあ、私は帰ります。……あの」
「はい?」
「いつも通り、枝豆の漬物も、入ってるので」
「ありがとうございます。今から頂きます。外はまだ暑いですから、気を付けて帰って下さい」
「はい。それじゃあ」
去っていく香苗さんを見送り、職員室に弁当を持って入るとみんなの視線が生暖かい。
我慢して席に着くと、こういうイベントにすぐ飛びついてくる輩が声をかけてきた。
「時野先生」
「何ですか、内藤先生」
「彼女っすか?」
「ニヤニヤすんな鬱陶しい! 親戚の子ですよ」
「弁当持ってくる親戚って……もしかして同棲中?」
「同居と言ってください。事情があって一時的に預かってるんですよ 知ってるでしょ?」
「……ということはあれがお姉さんか。弁当はやっぱ手作りっすか?」
「ええ。うちの母さんの、ですけど」
「おもしろくねぇー」
そんな会話をしながら弁当の蓋を開ける。
……なんだろう。ちょっと違和感がある。
弁当は基本的にチンしなくてもいいお弁当用の冷凍食品だ。そうじゃないのは香苗さんの枝豆の漬物と、母さん謹製の卵焼き。
あ、そうか。いつもと違って卵焼きに焦げ目がついてるんだ。
その卵焼きを、一口。味はそう変わらないように思う。だが。
いや。まさかな。
そんなことをする理由が見当たらないし、もしそうならその日に限って弁当を忘れたことに対して面目がなさすぎる。
でも、そうなら香苗さんが弁当をわざわざ持って来た理由になんとなく説明がついてしまう訳で。
「えぇぇ……?」
「なーんか面白そうな顔してますね」
「ん、まぁ……」
「今日飲みに行きません?」
「内藤先生すっごいニヤニヤしてるからヤダ」
「えぇー、行きましょうよぉ」
「嫌です」
内藤先生や手が空いて寄って来た加藤先生に話しかけられながら食事を終える。普段と違って少し焦げ目がついた卵焼きは、なんだかとても美味しかった。




