わたしはがんばれるから
最近、妹の、朋の様子がおかしい。
悪い意味じゃない。落ち着いて、大人びたと言ってもいいかもしれない。それ自体はいいことなんだけど、それが今の自分と重なった私はみんなが寝るくらいの時間に朋を訪ねることにした。
廊下に出て、二階に向かう階段に足をかける。階段のつくりはしっかりとしていて、ギシリと音を立てることもない。
でも。盛大に音が鳴ってくれた方が、私にとっては良かったのかもしれない。
「ユーキ兄」
そんな妹の、媚びたような甘ったるい声が二階から聞こえてきた。
思わず私は階段に身を隠す。
妹は、自分の想い人である学校の先生に女として甘えていた。
ベッドがギシギシと鳴っている。一瞬交わっている姿を想像したが、喘ぎ声は聞こえてこなかった。そのことにまずは安堵して、私は会話に聞き耳を立てた。
会話の内容は、なんというか朋が今日会ったことを話して紀行先生が聞いている感じだった。でも一方的ではなくて、何となく雰囲気が甘い。
もしかして、付き合ってる?
その結論に至った、至ってしまった私は、激しく嫌悪した。
どっちを? どっちも。親が死んだというのに彼氏に媚びて猫なで声を上げている子供も、そんな子供を本気にさせて部屋に連れ込んでいる大人も。
朋が眠そうな声を上げた。衣擦れの音をさせて、どうやら会話から察するに服を着せてもらっているらしい。
え、もしかして裸でいたの? 教師と生徒が? 裸でベッドの上?
吐きそうになりながら私はトイレに駆け込む。案の定夕飯を口から出して、洗面所で口をゆすいだ。
「はぁー、はぁー……うぇっ……」
部屋に戻り、布団の中に潜り込む。目を閉じて、耳を塞ぐ。頭の中にこびりついた朋の媚びて甘えた声を聞きたくなくて。
許せない。
何を?
朋が好きな人と一緒になって、なれて、安定してくれるならそれはいいこと。でも、それが、何故だか私には許せなかった。
母が死んで、大変だった。心を閉ざして、あるいは泣き叫ぶ朋を傍らに事務手続きや時野家への相談、やらなければいけない諸々をしたのは私。助けを求めていただけ朋と違って苦労したのは私。
でも、いま助けられているのは、私じゃなくて。
朋ばかり、助けてもらって。
妹ばかり、気にしてもらえて。
お姉ちゃんの私は、がまんができてあたりまえで。
イモウトサエイナケレバワタシガナグサメテモラエルノニ。
「っ⁉」
自分の思い至った考えにびっくりして目が覚めた。
浅い呼吸を深呼吸して整える。
母が亡くなった今、妹を守るのが私の役目。
朋を守れるのは、私しかいない。
そう言い聞かせて、私は再び眠りについた。
朝起きて、身支度を整えて、バイトに行く。母が死ぬ前から続けている大学生の夏休み。
いや、バイトはみっちり入れるようになったかもしれない。
家に居たくない。いや、本当は違う。呑気に泣いている妹の顔を見たくなかった。
落ち着いた、いつも通りの朋。ちょっと大人っぽくなって、でも夜な夜な男の側で甘えた声を出しているかと思うと吐き気がする。
でも私に朋の恋愛に口出しする権利は無いから。我慢して、今日もちゃんとおはようを言えた。
家に居たくない。でも、ちゃんとバイトが終わってすぐ帰らないと朋が不安になるから。
そう、心を押し殺して帰っていた時だ。
「あ」
「あら」
買い物に出ていたらしい妹の想い人に出会った。
彼が買い物に出ているなんて珍しい。思わず聞くと、今日はおばさんがダメな日らしい。
まぁ、迷惑をかけている自覚があるから何も言えない。
しばらく歩いていると、彼が中心街の喫茶店に誘ってきた。
え、デート? 嘘でしょ? 朋と付き合ってるくせに?
「違う違う。近いうちにまた行こうと思ってるからどうかなって思っただけです。うちでは貴重な珈琲党の仲間だし。あと、ちょっとうちで孤立気味に見えるから。吐き出したいものも吐き出せてないんじゃないかなと」
態度は、普通。私の態度に不信感が乗っていたはずだから焦っているのもわかる。
でも、それ以上に。いつも朋に向いていたと思っていた目が、私にも向けられていると分かってびっくりした。
え? なんで? この人は朋の彼氏で。えっと……、え? どういうこと?
私も狙ってる……訳ないよね。男の性欲って言うのはよく分かるから。この人からはそういうのは感じない。何と言うか、枯れている印象。
単純に、私のことも朋と同じように心配してるの? この人……。
そんな人はいくらでもいる。おじさんも、おばさんも、友達も。でも、的確に、「大丈夫?」以外の言葉をくれたのはこの人が初めて。
多分、嬉しかったんだと思う。
ううん。そんなもんじゃない。それはきっと、光の差さない闇の中で蠟燭の灯を見つけた気分だった。だからだと思う。
「いつですか?」
そう言って、流れた話を蒸し返したのは。
次の日にエスポワールに行く約束をして、迎えた当日。
約束をしたのは私のバイト終わり。いつも九時から十八時の勤務だから行くのは十八時半くらい。
バイト先のファミレスに行って更衣室に入ると、勤務開始の時間が同じだったらしい同年代の子が着替えながら話しかけてきた。
「あ、二海さん。チーッス」
「おはよう。相変わらず怠そうな顔だねー」
「あはは。顔は生まれつきー。整形したーい」
「すればいいじゃん。お金が問題だろうけど」
「二海さんはいいよねー。顔整いだから」
「自分じゃ分かんないからそれに関してはノーコメント」
「というか二海さんさぁ。前から思ってたけどコーデいかつくなった? 服とかアクセとか。メイクは元からだけど、これも若干」
「そう?」
そう言いながら今日の服装を思い返す。
今日のコーデはいつも通り辛口。黒のワイドパンツに白のチューブトップ。黒のショートレザージャケット。全体的に黒のイメージに白の差し色で引き締めている。アクセは鎖のイヤリング。指輪、ネックレス。すべてシルバー、と言いたいところだけど、残念ながらステンレス。
確かにアクセは一個にしてたのを最近は全乗せしている気がする。
いつからだっけ……?
「うん。今日は特に攻撃的」
「……そう?」
「うん。あ、先ホール行ってるねー」
「あ、うん」
私も勤怠に打刻してホールへ。心を殺して給仕をこなす。
そして働いているとごくごくまれに客に声をかけられる。今日もそんな日だった。
ナンパの言葉とともに、手を掴まれる。
気持ち悪い。
適当にあしらって、結構しつこかったので店長に報告。
うちの店長は割と強い。報告しておくとちゃんと対応してくれる。言ったら監視カメラですぐ確認して、以前にも迷惑行為をしてた汚客だったらしい。
目出度く出禁になった。ザマーミロ。
休憩中。掴まれた手をウェットティッシュで拭っていると、声をかけられる。
「二見さん、災難だったねー。今月何回目?」
「まだ一回目」
「正直モテるのは羨ましいなー」
「好きでもない人にモテても嬉しくないよ……。むしろキモイ。吐き気がする」
「ん? その言い方にその表情、好きな人いる感じー?」
そう言われて私は顔を上げて相手の顔を見る。
私に好きな人?
確かに彼氏くらい居たことはある。体も、唇も、許したことは無いけど。
愛する人として私の心に居た人はいない。今私の心の多くを占めているのは、朋と、その想い人である今日約束した彼。でもその感情は……、なんだろう。
朋は、多分愛憎。憎らしい。でも、心から愛している。でもあの人は、分からない。朋を通して信頼している。朋に手を出したことを軽蔑している。優しい人だと思う。私には手を差し伸べてくれないけど。でも。昨日の私を向いて発せられた言葉は耳を塞いでいた私の中にするりと入ってきて、まだ私の中に残っている。
「いるんだぁー?」
「いや、あれは違うと思う」
それに妹と男を取り合う趣味は無い。
休憩を終えて、その後も働いて。終業時間が来て、着替える。
「お疲れ様でーす」
そう言って店を出た時だ。
「香苗さん」
名前を呼ばれて、バイト中絡まれたこともあって弱っていた私は声の主をねめつけた。
声の主は、エスポワールで待ち合わせているはずの人だった。
あれ? なんでここに? 行く道すがらだから待ってた? ……そうですか。
並んで暑い街を歩く。会話は無い。べらべらと話しかけられるのは苦手だから有難いと言えば有難いけど、なんとなく不安がこみ上げてくる。その不安を包み込むように、後ろに目でもあるのかと思うほど正確に私の歩きやすいペースに合わせてくる彼に少しイラっとして、わざと歩みを乱した。
「……?」
私が歩調を変えた瞬間、あれ? という顔をして振り返った彼の顔は多分しばらく忘れないだろう。
店に入って、クーラーの利いた店内で席に座る。
何にする、と言われてケーキセットを選んだ。大丈夫。お金は少し余裕がある。
ミルの音が聞こえてくる。それを、目の前の彼は目を閉じて聴いている。
気持ちは分かるけど、目の前でこうも空気に浸られるとちょっと引く。この店で珈琲を音から楽しんでる自分カッコイイ感が、ちょっと。うん。
珈琲が出来て、ケーキと一緒に運ばれてくる。
珈琲を一口。ケーキを食べ、また珈琲を啜る。
「何で誘ったんですか?」
片目を開いた彼と見つめ合い、沈黙に耐えかねて私は問うた。すると彼は、私に壊れられると困ると言った。
私は元気だ。そりゃ母が亡くなって落ち込んではいるけど、精神疾患を患うほどではない。でも、彼の目に映る私は一歩手前なのだそうだ。
私は普通。いつも通り。
母親を突然失った人が普通でいられる?
人によるけど、そういう人もいるでしょ。
私はそんなに薄情だった? お母さんの愛を感じてなかった? お母さんを愛してなかった?
そんなわけない。私はお母さんが大好きで、お父さんが死んで、義父さんが死んで、お母さんの手だけは放すまいと縋ってたほど。
それなのに、普通に居られるのは変じゃない?
……変じゃない。私が強いだけ。
「お母さんが居なくなって、ちゃんと泣けた?」
そんなの決まってる。泣いて泣いて、大声で泣き叫んで。そうすることが普通なのに、私は一滴の涙を流すことも、叫ぶことも、まだ出来ていなかった。
「何で、誘ったんですか?」
殺していた感情を顕にされた怨みを込めて、私は再度問うた。
やめてほしい。私が揺らぐから。
彼の答えは、遠回しだったけど、朋のため。いや、生徒のためというものだった。
嬉しかった。妹に心を割いてくれる人がいることが。中学生に手を出す大人は軽蔑の対象だけど、そこら辺の他人よりはこの人は信用できる。でも。
気の抜けた彼から出てきたのは、肯定でも否定でもない、そうでありそうでもないという答え。彼の視線の先が、朋から私に替わる。
「香苗さんはもう大人の女性だけど、君はまだ子供であっていい。朋絵ちゃんを独りで背負わなくていい。俺も、親父も、母さんもいる。だから、自分で一人ぼっちになろうとしなくていい。そう思ったんだ」
嘘だ。私が縋れる先なんて実質一つしかない。おじさんは気づいても素通りした。おばさんは私たちのせいで無理させている。膝を抱えて隠れてうずくまっている私に声をかけて手を差し伸べてくれたのは。あなたが言った言葉の意味は。
俺が側に居る。
その意味が分かって、私はフリーズした。
その手はすぐに引っ込められてしまうかもしれないのに、私は手を伸ばすことが出来ないでいる。
助けを求めることは許されない。それが彼ならなおさら。
私は朋のためにも強くなきゃいけない。妹の彼氏に縋ってはいけない。
そう、思っていたのに。
珈琲とケーキを残して店を出て、外。駅の目の前で、彼の手のひらが眼前に差し出される。
私の手は、私の意思と関係なく、その手を取ってしまった。私の手は彼の手をしっかりと握ったまま、自分の足が勝手に彼を引きずっていく。
無性に酔いたくなって、とりあえず目についたお酒の飲める店に入りビールを飲む。酔いを回して、彼にダル絡みする。
雰囲気が変わった彼は、私を挑発するように私の言葉を待つ。
「その気が無いなら今じゃなくていい。必要な時に呼んでくれればいいから」
彼は語らない。私の言葉を、あくまでも待ち、待ち続ける。差し伸べた手を、いつまでも差し出していると、そう言った。
彼は語らない。代わりに、横並びに座った私の、テーブルに置いた手の横に自分の手を置く。体をずらし、体温だけ伝える。決して触れない。触れてこない。それがもどかしくて、酔いが回った私は小指を絡めて肩をぶつけた。
暖かい。
その温もりで、私の心が凍っていることに気が付いた。是非もない。心を凍てつかせたのは、他でもない私なのだから。
そうしなければ、私が真っ先に壊れていた。それに引きずられるように、きっと朋までも。
私が揺らいでいく。でも倒れかかったところに彼がいてくれる。その安心感が、私に私を忘れさせる。
私の手が、また勝手に彼に伸びる。
私は、どんな顔をしていたのだろうか。
胸の中身を吐き出したくて、でもそれは許されなくて。彼に支えられて店を出る。
今日の会計を全て押し付けていることを気にする余裕もなく、夜道を人気のない方へ進んで行く。
余裕がないはずの私だけど、その方向の先にある施設だけははっきり頭に浮かんだ。
この人を愛したわけじゃない。でもなんとなくこのまま身を委ねてしまえば楽になれる気がして。けれどもそれだけは駄目だと歯を食いしばって。でも気丈なのは意識だけで。
歩を、進めてしまった。
「ここならもう誰もいないよ」
そう言われてあたりを見れば、ビルの隙間の細い路地。思っていた場所と違った。
ただ話しやすいように人気のない所に来たと分かって、私は自分の考えを恥じた。
彼の言葉を聞いて、嫌な顔一つせず吐瀉物を手で受け止めるように受け入れられて。私は八つ当たりのように、彼の胸を叩いた。
言ってはいけない心の内を吐露する。
「でも今ここに、朋絵ちゃんはいない」
そう言われて、私のギリギリで頑張っていた堰は決壊した。
泣きたくないと、泣き叫ぶ。
頭を撫でられ、抱き寄せられた。子供のように泣きながら、私は強がりたいと泣き言を言い続ける。
彼の目は私を見ている。私だけを見ている。私だけを見つめて、私だけに手を差し伸べている。今この時だけは。
私に優しくしないで。弱い心が、もっと弱ってしまうから。一人で立てなくなってしまうから。
母が死んでから作って来た私が、否定されていくようで怖かった。
だからかもしれない。ハンカチで目尻に残る涙を拭ってくれた優しい手を、振り払ってしまったのは。
そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい。そんな言葉さえ言葉にできず、言われるままに歩き出した。
家に帰って、お風呂に入って、すぐに自分の部屋に引っ込む。
今日も二階では二人が仲睦まじくしているのだろう。そう思いながら日課のスキンケア、マッサージ、ストレッチを終えて横になった時だ。
「たのもー」
朋が部屋の襖を勢いよくスパンと開けた。
あの声掛け、道場破りのシーンでも見たのだろうか。
いそいそと開けっぱなした襖を閉めて固まっている私の頭の上で朋が仁王立ちする。
「何よ急に」
「お姉ちゃん、先生とのデートは楽しかった?」
その言葉は、私の中でふわふわと熱を持ち始めていた部分に冷や水をぶっかけた。
「あれを世間一般ではデートとは言わないと思うよ」
「世間一般では二人でお茶してたらデートだと思うけど」
沈黙。射貫くような視線に耐えかねて私は朋から目を逸らす。
感じた感情はきっと、後ろめたさ。
強いお姉ちゃんでいられなかったことに対して。
誰かに寄り掛かってしまったことに対して。
そして。
妹の彼氏を借りてしまったことに対して。
「朋」
「何?」
「あの人の、どこが好きなの?」
朋がひとつ息を吐きだして、場所を開けてといいながら私の布団に潜り込んでくる。間近で顔を突き合わせて、澄んだ瞳で見つめられる。
「どこだと思う?」
「わかんないから聞いてるんだけど……」
「ほんとに?」
思い当たる節が無いわけではない。でも、妹の口からちゃんと聞きたかった。
「最初はね、パパと同じ匂いがしたんだ」
「パパって……祥吾さん? あの人はタバコの匂いなんてしないけど……」
「ううん。そういう匂いじゃないの。お日様の匂い。なんていうか、優しい匂い」
朋が語ったのは、淡い初恋の物語。
起こったのは、些細な喧嘩。朋ががんばって調整していて、でも止めきれなくて。火種は先生の手に移った。もしかしたら朋の方が上手く事を収められたかもしれない。でもそんなことは関係ない。彼は部外者として放置されていた朋に視線をやって、密かに労ったそうだ。誰にもわからない陰の努力を、彼はほめてくれた。それがきっかけ。
朋は、彼に義父の姿を重ねていた。
父の姿を求めて絡み、言葉をもらってその姿を重ねていく。
その中で生まれた小さな灯が、大きくなるのは時間の問題だった。だって彼は、求めれば一定の所までは与えてくれたから。
彼に父親の姿を重ねるのは私にもなんとなく覚えがある。
温かい、父性。見守られているという安心感。でも、それに浸ることは私には許されない。朋たち彼の生徒だけが貰える、ぬくもり。
そのはずなのに、なんで彼は私を見たんだろう。
きっと朋越しに、いや、違う。最初にあの人が私を見たのは、初めてこの家に来た日の帰り。前の家のマンションに入る前。不器用な笑顔を見せて、確かに私の名を呼んだ。
私のことも、ちゃんと見てくれていた。
もしかして、ずっと見守られてきた?
そうか。だから、朋は……。
「お姉ちゃん」
「ぅえ、あ、何?」
「先生の事、好きになった?」
「いや、それは無い」
「じゃあどんな人に見えてる?」
「どうって……」
優しい人だとは思う。私と同じ珈琲党。ちょっとナルシストの気がありそう。あと、歩幅を合わせてくれる人。手を引いてくれる人でも、背中を押してくれる人でもない。並んでいっしょに歩いてくれる人。
総合すると……。
「変な人?」
「ああ、まぁ、うん。言いたいことは分かるよ。でも、その変な人に助けられた。私が好きになったのも、お姉ちゃんならわかるよね?」
「まぁ……、うん。認めるよ。朋の気持ちは」
「お姉ちゃんは先生のこと好きになっちゃ駄目だからね」
「妹の彼氏を取る趣味はないよ」
私がそう言うと、朋はその綺麗な目をパチクリさせた。
「私と先生、まだ付き合ってないよ?」
「服脱いでベッドでイチャイチャしてるのに? ウソでしょ?」
「服は脱いでないよ! と言うか何で知ってるの⁉」
どうやら認識に齟齬があるらしい。
互いに話し合って、実際を認識する。
「分かったけど、教師が生徒をベッドで抱きしめるってどうなのよ……」
「部屋の中の先生は先生じゃないもん! ユキ兄だもん!」
「朋、詭弁って言葉知ってる?」
「分かってるよ。でも、私からユキ兄を奪ったら許さないから」
そういう朋の目は湧き水のように澄んでいて、奥の濁りが良く見えた。
その粘つくような濁りに私は恐怖する。朋は目が見えなくなっている。視力の話じゃなく、比喩的表現での話。そんな朋の伴走者が、彼。彼を失えば朋が怪我をする。怪我だけで済むなら排除も考えるけど。今の朋は、きっと。
脆い。
そもそも彼を排除する必要はある?
分からない。
きっと今の朋は、幸せだから。
ありがとう。朋を救ってくれて。私も救おうとしてくれて。
でも私はいい。その情は、全て朋に注いであげてほしい。
私は、まだがんばれるから。
私は朋の頭を一つ撫でて、いつものように眠りについた。
翌日起きて、時計を見るとまだ四時前だった。
横で寝ている朋を起こさないように起き出し、着替えてリビングに行くと、おばさんがキッチンに入るところだった。
「おはようございます」
「あらおはよう。早いわねぇ」
そう言いながらおばさんはお弁当箱を二つ並べていた。
「お弁当ですか?」
「そうよ。暇なら作ってみる?」
「え?」
変な声を上げてしまったが、料理は別に嫌いじゃないしそもそも一品である枝豆の漬物は私が作っているので別に変りはしないかとキッチンに立つ。
「じゃあ卵焼き作って。うちは砂糖もみりんも醤油も入れるから。砂糖はそっちの三温糖ね」
「あ、はい」
言われた通り卵焼きを作る。
母から教わった卵焼きのレシピにはみりんが入らない。だからその分この卵焼きは焦げやすい。
綺麗に巻いて、お皿の上に置く。
それをおばさんが切って、冷凍食品といっしょにご飯が入ったお弁当箱に詰めていく。私の作り置いている枝豆の漬物もいっしょに。
蓋を閉めずに重ねて放置。冷めるまで待つ。そのまま流れで朝食の準備をするおばさんを手伝っていると、彼とおじさんが起きてきた。寝間着のまま、お腹を掻きながら洗面所に消えて行く彼の姿はまさしくおじさんだった。
髪の毛を跳ねさせて大欠伸をしている姿は、なぜかちょっと可愛いと思ってしまった。
朋を除いた四人で朝食を取る。食べ終えて、朋を起こしに部屋に。
「んー……」
「今日部活は?」
「……オフ」
「寝るなら朝ごはん食べて自分の部屋で寝な?」
「分かったー……」
とりあえず身支度があるので二階の部屋に放り込む。しばらくして朋が降りてきて、遅れて朝ごはんを食べる。
彼とおじさんが出勤し、朋が二階に向かったのを確認する。
今日は私もバイトは休み。早起きの反動なのか眠気が来たので有難く惰眠を貪らせてもらおうと部屋に向かって布団に寝転ぶ。
しばらくして。
「んあ……?」
結構寝てしまったらしい。時計を見ると午前の十一時。喉が渇いて水を飲みにキッチンに入ると、見覚えのある包みが置いてあった。
「お弁当……」
どっちか忘れた? 包みの色は青。と言うことは彼の方か。
私が作った卵焼きが入ったお弁当を忘れられた。そう思うとなんだかイラっとした。
ちょっと違うかもしれないけど、なんとなく旦那に作った晩御飯が要らないって言われた時の奥さんの気持ちが分かった。
でもどうしよう。届けて上げた方がいいよね……?
私は自分の部屋に戻り、タンスの中を漁った。
いつもの服で学校になんか行ったら他の先生たちがびっくりする。
えーっと、確か……、あ、あったあった。
イメチェンしようと思って買ってはみたもののやっぱり趣味じゃなくて封印していたおとなしい紺のワンピース。帽子は麦わら帽子をチョイス。靴は……ヒールサンダルまだ残ってたっけ?
サンダルを確認し、朋にも一緒に行くかどうか声をかけようとしてやめた。
在校生が先生のお弁当を持ってきたら色々とややこしい。
でも声をかけない訳にはいかないので二階に上がると、朋は彼の部屋のベッドで突っ伏して寝ていた。
それでいいのか妹よ。
部屋に帰って両手両足の爪をネイビーの単色で彩る。二、三分待って速乾マニキュアが渇いている事を確認。
シンプルなトートバックにタオルを敷き、保冷剤を詰めてもう一枚タオルを敷く。その上に彼が忘れたお弁当を入れて、私は家を出た。
暑い中を歩く。駅のホームの後ろの方で電車を待っていると、何となく目が合ってしまった人たちが向かってきた。
私は素早く左中指に付けていたシンプルなリングを左薬指に付け替える。
「おねーさん」
「はい?」
「一緒にお茶でも飲みに行きませんか?」
「すみません。お弁当を忘れた夫に職場まで届けに行くところですので」
にこっと微笑んで左手の薬指に付け替えたリングを見せつける。
「え、人妻?」
「マジかよ」
「次いこう次」
ナンパが去っていく。こういう大人しい姿限定だけど、人妻作戦は効果がそこそこある。
息を吐きだして、また電車を待つ。
電車に揺られて、母校の最寄り駅で降りて。校外学習で通った道を思い出しながら歩く。
母校につくと、門は開け放されていた。
入って……いいんだよね?
卒業生だけど私を知っている先生はもういない。それに今日、私は卒業生としてきたわけじゃない。迷った私は、門の横についているインターホンを押した。
「はい」
返答がある。
「あ、二……時野紀行の家族の者です。教師の。お弁当を忘れて行ったみたいなので……」
「職員室までどうぞー。場所は分かりますか?」
「あ、はい。大丈夫です」
存外あっさりと中に入る許可を貰える。懐かしい校舎に入り、職員室へ。
二回ノック。この辺の癖は卒業しても抜けることは無い。
「失礼します」と言って職員室の中に入ると、数人の先生から興味深そうな視線が飛んできた。特に一番近くにいるスーツの先生。私を凝視している。
なんだろう……。
疑問を浮かべる前に彼がやって来て、私は職員室から押し出された。そして怒られた。
せっかくお弁当を持ってきてあげたのに。ちょっとムッとしたけど、彼は相当に焦っている様子だったので私が卒業生と気づく先生が既にいないことを伝える。すると明らかにほっとした様子の彼は、いつもの調子でお礼を言った。
それに。
「ああ、いや。割と気に入ってるんですよ。香苗さんが作ってくれる枝豆の漬物」
二海家の味を気に入っていると言ってくれた。母の味を気に入っていると言ってくれた。だから、この人が望むから、まだ母を感じていても許してもらえる。
別れて、校舎を出て、さっきの彼の慌て方がおかしくてくすりと笑って、目の前に上げた左手の薬指に光るリングを見てはっとする。
さっきスーツの先生が見てたのはこれか!
え、ちょっと待って。男性にお弁当持って来た女性が左手の薬指にリング嵌めてたらそれは完全に嫁か婚約者なのでは?
もしかして、やらかした?
謝りたいけど、謝り方が分からない。そもそも、どう謝ればいい? 職場に嫁か婚約者と勘違いさせたかもしれないなんて。
どうしようかと少し落ち込みながら、私はなんとなく左手のリングはそのままに家への道を帰って行った。




