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処辺琴葉

 私、処辺琴葉は男性が苦手でした。

 私は小学生の頃から胸が大きくて、よく男の子にからかわれていました。中学生になってからは、全校で一番抱き心地が良さそうな女と言われていたことも知っています。知らない男の人に後をつけられたことも何度かあります。そんな私の武器は、逃げ足の速さでした。

 まずは単純に足の速さ。私が本気で走れば追い付ける人はあまりいませんでした。でも本当に役に立ったのは、精神的な逃げ足の速さです。

 男の子が苦手だから、徹底的に逃げました。怖い女の子からも、逃げました。怖いこと、嫌なことからは徹底的に逃げました。代わりに、部活の陸上と勉強に打ち込みました。

 部活はユニフォームと胸のこともあって逃げたいこともありましたが、走っている間は忘れられたので何とか続けることが出来ました。

 でも大学では、そうもいきませんでした。

 参加しようと思った陸上競技のサークルの男の人が、怖かったからです。軽薄で、ちゃらちゃらしてて。ちらちらと胸ばかり見て。身の危険を感じたので逃げました。

 空きコマに声をかけられるのが怖くて、授業をいっぱい入れました。その中に、教育課程も含まれていました。四年生になり、就活が怖かった私は教員への道に逃げました。いえ、こういうと真面目に教師を目指した人に失礼ですよね。でも、私は確かに逃げたんです。無理して教育実習まで済ませて、教員採用試験も受けて。卒業した日には、教員免許状と市の教員採用試験の合格通知が揃ってしまっていました。

 何の覚悟もないまま言われた学校に行って、なんとなく挨拶をして。不安を抱えながら、先輩たちと顔合わせ。

 一人で手持無沙汰にしていた私に声をかけてきたのは、若い男の先生でした。

「処辺先生」

「っ、はい」

「アンダー40くらいで飲みに行こうと思うんですけど、どうっすか?」

 その人は、私の胸に話しかけていました。今まで見たこともないような遠慮のないガン見です。

でも、嫌な気はしませんでした。私の了承を取った彼はすぐに次のターゲットを決めたようで嵐のように去っていきます。ちゃんと男性も女性も隔てなく誘っているのを見て、別に私に興味がある訳じゃないことを知ってホッとしました。

 初めての飲み会は楽しくて、でもお酒の失敗は怖くて、ビールを一杯だけで済ませてあとはソフトドリンクを飲んで様子を伺います。

 そこで感じたのは、孤独でした。だれも話しかけてくれなくて、胸を見られることも無くて。安心しながらも、ほんのちょっぴり寂しさを感じていました。

 ちびちびソフトドリンクを飲んでいると、私を誘った男の人が別の男の人を連れてきました。二人は赤ら顔で、もう酔っているみたいでした。

「もう酔ってますから! 立つと危ないですから!」

「時野さんこの程度じゃ酔わないでしょ。同じ教科なんだから面倒見てあげて下さいよ」

 そう言って私を誘った彼は連れてきた人を私の横に座らせます。

「ったく。あ、ごめんなさいね。急に誘われてビックリしたでしょう」

「え、ぅぁ、う……」

「あ、自己紹介は会議でしたけど分からないか。同じ理科の時野です」

 時野さんは三十代くらい。なんというか、透明な人でした。透明と言うか、空気と言った方が正しいかもしれません。私に挨拶をして、私の気が動転してるのを見て、薄く笑って気配を消したから。

 第一印象は変な人。会話もせず、目を閉じてお酒を飲んで。私がなにかしようとするとちゃんと私を見てくれて。

「あ、あの」

「はい」

「えと」

「ゆっくりでいいですよ」

「……はい」

 ソフトドリンクをぐびっと飲んで、覚悟を決める。

「こ、こういうの、よく、あるん、ですか?」

 かみかみな私の言葉を聞いて、その人は自分を無理やりこの位置に座らせた人を見ます。

「俺を連れてきた彼をどう思いますか?」

「え、えと、あの」

 さわやかえっち? 体型はボディビルのひとみたいだけど。

「彼が飲みに誘うとみんな集まるんですよ。人徳なのかなぁ。言動はただのエロ助なんですけど、不思議と嫌われなくて。たぶん不躾な視線を送ったと思います。すいません」

 そんな答えのような、そうでないような答えを聞きながら、時野さんを観察します。

「こういう集まりは彼の気分次第です。みんな好き勝手するんで嫌なら断っても誰も気にしません」

 その言葉は気遣いだと分かりました。多分私が見られるのを嫌がってるのにも気づいて、ずっと視界から外したまま私を見ている。

 変な人だなぁと思って、その日は別れました。

 次の日の教科会で、また時野先生と顔を合わせました。

 この学校の理科の担当は三人。一年は私。二年は時野先生。三年は再任用のおじいちゃん先生です。

 時野先生が教科主任をするらしく、聞いているだけでどんどん話が進んで行きます。

「とりあえずこんなもんですか。大野先生、他に何かありましたっけ」

「いや、無いとおもうよ。今年も主任をよろしく」

「はい。処辺先生は何か気になるところはありましたか?」

 いきなり話をふられて私は混乱します。正直よく分かりません。なので。

「ない、です」

 その言葉を絞り出すのがやっとでした。

「そう。分からないことがあったら遠慮なくいってくださいね。協力が欲しい時も」

 教科会はそこで終わり、二人の先輩は何やらよくわからない話をしながら理科室を出ていきます。私も追いかけるように慌てて理科室を出ようとして、ドアの段差に躓いてつんのめります。

「おっと」

 私を受け止めてくれた細いと思っていた腕は、案外しっかりしていました。

「大丈夫ですか? あとごめんなさい。咄嗟で」

 大丈夫は分かります。でもごめんなさいの意味が分からなくて、私はきょとんとします。

「分かって無いならいいか……」

 そんなつぶやきが聞こえましたが、それを問いただす勇気は私にはありませんでした。

 その日以降も会議やら教室の準備やらいろいろあって、その中でなんとか一回目の授業の準備をして。

 そして明日が始業式と言う日になって、生徒を見ることに不安を覚えた私は教室の鍵を借りて授業の練習をしようと思いました。

 できれば逃げたい。でも、社会人となったからには逃げることは許されません。なのでイメージトレーニングをして慣らしておこうと思った次第です。

 教室に入って、教科書とノートを開いて。端末に作ったスライドも用意して。誰もいない教室に私の声が響きます。

 私は授業の時は人が変わるそうです。自覚はありませんが、いつもと違って堂々としているそうで。多分、長年の生活の中で逃げられなかった勝負所でかぶれるようになった分厚い皮なんだと思います。日常でも被りたいところですけど、たぶんそうすると心が死んじゃうんだと思います。

 チョークも用意していましたが、綺麗に掃除された黒板を汚すことは申し訳なくて、書くふりだけをして授業を進めます。

 授業が終わって、人前に立たなければいけないことの憂鬱さにため息をついて。何とはなしに廊下の方に目をやると、目が合いました。

「ぴゃ⁉」

 自分の声に自分でびっくりします。扉の向こうの人は、ドアを開けて入ってきました。

 時野先生でした。

「お邪魔してすいません。初めての授業はうまくいきそうですか」

 おろおろする私を時野先生は宥めてくれます。そのあと授業を見ようかと言ってくれて、でも私は答えを出せなくて。諦めた時野先生が踵を返します。

 手が扉にかかって、時野先生はこのまま職員室に帰るのでしょう。もう終業時間も近く、そのまま帰るのかもしれません。それがなんとなく寂しくて、思わず私は声を上げました。

 普通なら聞こえないくらいの小さな声。でも人気のない校舎にはよく響いて、時野先生は足を止め、振り返ってくれました。

 永遠にも思える長い時が経って。でも時野先生は優しげな顔で私の言葉を待ってくれていて。

 ゆっくりと考えて、私は助けを求めました。

 授業を見てもらって、意見を貰います。

 早口なこと以外は問題は無いようでほっとしました。

「それで、一発目はどうするか考えてますか?」

 その言葉に私の目が点になります。

 話を聞くと、どうやら初回から教科書の内容をするのは良くないそうです。

 そう言えば、記憶の中の学校生活でも最初から授業をする先生はいなかったように思います。

 初歩的な見落としに落ち込んでいると、時野先生が具体例を見せてくれることになりました。

「初めまして。君たちの理科を担当する時野紀行です。まずは自己紹介から」

 その言葉から始まったのは、時野先生のプロフィール暴露でした。パスタとお酒とコーヒーが好きで、シイタケが苦手だそうです。家ではお母様とコーヒー紅茶で喧嘩をし、休みの日にはお父様とブランデーを飲むそうです。水泳とバスケットボールの経験者で、野球やテニスなど用具を使ってボールを打つ球技が苦手だと言っていました。好きな言葉は「It takes all the running you can do, to keep in the same place」。日本語訳は「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。ルイス・キャロル作、鏡の国のアリスで赤の女王が勘違いをした主人公のアリスに向かって言った言葉ですが、私たちのような生物をかじっている人間には赤の女王仮説として有名な言葉でした。

 自己紹介が終わり、続いて授業に必要なものの説明。その次は理科とは何かというお話でした。

 簡単に言えば、教科間の繋がり。理科が好きな子には他教科を勉強する意味を。理科が嫌いな子には好きな教科からの取っ掛かりを。そもそも勉強が嫌いな子には、趣味や部活を勉強に繋げる話を。少しこじつけのような話もありましたが、それぞれの教科を独立したものとして考えていた私には興味深い話でした。

 最期にグループディスカッションを指示して模範を終わらせ、時野先生が雰囲気を崩します。

 残りの時間は実験をするそうです。シャボン玉と水に浮かべたインクでどうやって時間を潰すのか疑問に思っていると手招きされたので時野先生の居る教壇に向かいます。

 見せられたのは、誰かがネットに上げている実験動画。シャボン玉は磁石に吸い寄せられてふよふよして、水に浮かべたインクは塩ビパイプから逃げまどっています。

 シャボン玉は中の酸素が常磁性を持っているからで、インクが逃げるのは静電気です。

 理屈が分かっているので特に何が面白いのか分かりませんが、子供たちは動くと楽しいと感じるそうです。確かに思い出して見ると、中学校で作ったコイルモーターは回った時とても楽しかった思い出があります。エナメル線の削るところを間違えて、先生に直してもらって。自分で巻いたコイルがくるくる回って。

 確かに自分のアクションでモノが“動く”というのは面白いのかもしれません。

 無理して採用しなくていいと言われましたが、叩き台すらないので参考にさせてもらうことにします。今年はインクの方をされるそうなので、有難いことに強力磁石をお借りすることが出来ました。後はシャボン液を買って、実験室からシャーレと酸素ボンベをお借りして。

 後日シャボン玉を実際に動かしてみて、ちょっと夢中になっている自分を恥じました。

 そして授業当日。

 ほぼ時野先生が見せてくれた流れの通りに、授業を進めます。自己紹介で恋愛遍歴を聞かれたり今好きな人がいるのかを聞かれた時は面食らいましたが、なんとか乗り切ることができました。結果的には担当している三クラスとも大成功。時野先生には感謝しかありません。

 そんな私は、事あるごとに時野先生を頼るようになりました。授業が不安だから板書計画を見てもらう。教案も借りる。授業を見せてもらって、見てもらって、意見を貰う。そんな折でした。私が校長室に呼ばれたのは。

「どうですか。仕事を初めて三か月になりますが」

 校長先生は優しそうなおじさんの先生です。教科は社会科を担当されていたそうです。

「あ、だ、い、じょうぶ、です」

「そのどもりはなかなか治りませんねぇ。授業は大丈夫なんだから、自信を持ちましょう」

「は、い」

「困っていることはありませんか。その、会話以外で」

「あ、ない、です。」

「授業の方は、教室の様子を見る限り大丈夫だとは思いますが、どうですか。不安に感じることなど、ありませんか」

 授業で、不安を感じたことはありませんでした。だって時野先生が自信をくれるから。あの人の言う通りにしていれば大丈夫。絶対の安心が、私にはありました。

「ふむ。時野先生には私からもお礼を言っておきましょう。処辺先生も、お礼はもう言ったでしょうが、改めて感謝の気持ちを持つようにしてください。社会人になって、あそこまで手厚く見てもらえることは幸運ですから」

 その言葉に私ははっとしました。私は時野先生の時間を奪っていたのです。毎日のように。時野先生は自分の仕事を止めて、私の相談にのってくれました。

だからだと思います。内藤先生が時野先生に「今年度は遅いっすね」なんて言っていたのは。

私のせいで、時野先生は残業をしていた。

「ああ、すいません。そんな顔をさせるために言ったんじゃないんです。申し訳ない。気に病むことはありません。きっと処辺先生の授業づくりを手伝うのは時野先生のためにもなっていますから。彼は嫌なことは嫌だと口にするタイプです。渡辺先生とよくケンカをしているでしょう」

 それは、確かによく見ます。渡辺先生が一方的に仕事を押し付けて、時野先生が断って。後で「出来てない」って渡辺先生が怒って、時野先生が文句を言いつつ手伝って。

 渡辺先生の言い分は今職員室にいるんだからやっておいて。時野先生の言い分は職員室にいるけど優先順位は高くないから後で。そんな意見の食い違いは見ていてドキドキするけど、最後は仲良くしているからあれが二人のコミュニケーションなんだって最近わかりました。

 時野先生は何も思ってないかもしれないけど、私が迷惑をかけているのは事実で。

 そんなことはないって校長先生は言ってくれたけど、もしかしたら内心嫌われてるかも、そこまでじゃなくても面倒くさい子だと思われているかも。そう思うと、とても不安になりました。それこそ、授業で抱える不安以上に。

 時野先生に聞くのを止めて、不安と戦いながら授業をして。もうすぐ板書計画のストックが尽きそうな頃、内藤先生が声をかけてくれました。

「処辺ちゃん、飲みにいかない?」

 もしかしたら、私の不安を見抜いてくれたのかもしれません。メンバーは内藤先生と佐藤先生。加藤先生はお休みなので誘えなかったそうです。若手会と銘打たれたその飲み会ですが、なんとなく前の飲み会を思い出して、隣にいる時野先生を思い出して、思わず口にしていました。

「時野先生は、来ないん、ですか?」

「時野先生? アンダー30にしようと思ったんだけど、別にいいよ。来てくれるかは分からないけど。あの人断るときは容赦なく断るし」

 その言葉を聞いて、都合の悪いところを聞き流した私はお酒の力を借りて時野先生にお礼を言うプランを練りました。でも。

「処辺ちゃん、時野先生来ないって」

 その言葉に、私は頭が真っ白になりました。その後何を言ったか覚えていません。でも、最終的に時野先生は来てくれることになりました。

 仕事を定時で終えて、会場が自宅の近くなので一旦家に帰って。なんでか分からないけど精いっぱいおめかしして。まだ時間があったから近くのデパートでクッキーを買ってラッピングしてもらって。それを持って会場に着いたのが午後八時。でももう内藤先生と佐藤先生がいました。

「お疲れー」

「お疲れ様です」

「お疲れ、さま、です」

 予約をしているわけではないらしいのでもうお店に入ることになりました。

 席に着いて、私と佐藤先生はビールを、内藤先生は清酒を注文します。料理はとりあえず枝豆と季節の小鉢を人数分。返答に困っていると私のあいまいな答えを肯定と取られて冷奴も注文されてしまいました。

 別にいいんですけどね。冷奴は好きですから。

 お酒が来て、乾杯をします。ビールをゴクゴクと飲んで、枝豆をもそもそと食べます。小鉢はタコとトマトの和え物でした。

 ビールジョッキ一杯では酔えそうにありません。なので一番度数が高そうな焼酎を頼みます。一番上に書いてあった、芋焼酎をロックで。

 運ばれてきたのは、透明なお酒。アルコールの匂いがキツくて、お芋の匂いは……してるんでしょうか。

 初めて飲んだ焼酎は、喉を焼くようで、美味しかった。

 私はグラスの中身を飲み干して、おかわりを頼みます。何度も。何度も。二人が心配して見てきますが、無視します。五杯目に手を付けた時、目的の人が現れました。

「おまたせ」

 時野先生が私の隣に座り、ビールとおつまみを頼みます。注文が運ばれてきて、また乾杯。グラスの中身は飲まずに唇だけ湿らせて。私は緊張で震えて膝の上で両手を握りました。

 きっと一人では言い出せなかった。でも、内藤先生が助け舟を出してくれました。

 私はグラスの中身を一気に飲み干して、鞄の中のクッキーを差し出しました。

 フォローもあってなんとか受け取ってもらって。申し訳なさそうな時野先生のはにかみを見て、私は、心の奥底に変な痛みを感じながら、とってもとっても安堵しました。

安心して、さっき感じた痛みが広がらないように、不安が広がらないように。私は気に入った焼酎を頼み続けます。その横で三人は恋バナ……のようなものをしていました。

時野先生の話題になって私の耳が反応します。どうやら生徒にモテる先生のようです。二海さん。どんな子か気になります。

何度も焼酎をおかわりして、酔いが回った私はとんでもないことを口走りました。

「今までお付き合いした方とかは?」

 失礼な質問。でも時野先生は「いない」と答えました。それが何でか嬉しくて、上機嫌で私は存在を忘れていた冷奴にお箸を伸ばしました。

 何が起きたか分かりませんでした。揺れる視界の中に、お箸に乗った冷奴は無くて。視線を下に向けると、お気に入りの白いシャツに白い塊と茶色いシミがありました。

 シャツは高いものではありません。でも一番に近いお気に入りで。ついた汚れが悲しくて。私は泣き出してしまいました。

 時野先生がポケットティッシュを差し出して染み抜きをするように言ってくれますが、汚れたらクリーニングにぽいしている私は染み抜きのやり方なんてわかりません。そんな私を見て、時野先生はまた世話を焼いてくれました。

 私に触れないように気をつけながら、私の服のシミを消してくれました。服は濡れてしまったけど、お醤油の茶色はすっかり消えていて。

 世話を焼かれた嬉しさと、泣きじゃくった恥ずかしさに耐えられなってお酒に逃げた私は、この日、人生で初めてお酒で失敗をしました。

 ぼーっとする頭を押さえてソファから起き上がって、そこが自分の家だと気づきます。

テレビとソファの間にあるテーブルには、見たことない、いえ、正確には他の人が使ってるのを見たことがあるメモ用紙が置かれていました。

「おはようございます。冷蔵庫にスポーツドリンクを入れておきました。飲んでください。鍵は閉めて郵便受けに入れておきます」

 簡潔に書かれたその字は見覚えがありすぎて、私は昨日の自分を恥じました。

 反省したいのに、時野先生にお礼のクッキーを渡した以降の記憶がありません。とりあえず時野先生にお礼とお詫びをと思いましたが、そう言えば連絡先も知りませんでした。

何も入っていないはずの冷蔵庫を開けると、スポーツドリンクが二本入っていました。

一本を取って、ソファに寝転びながらペットボトルを傾けます。その時でした。私の視界に、部屋に吊っていた洗濯物がうつったのは。

「ああああああ~~~~~っ⁉」

 シャツはいい。バスタオルもいい。でも下着は駄目。しかも可愛くない奴です。いや、勝負下着がある訳ではないんですけど。

 でも古くなってヨレヨレなのは見られたくなかったッ。

 いえ、後悔しても仕方ありません。すべて自分の蒔いた種です。とりあえず、私は鍵を回収しに行きました。

 週明けに学校で時野先生にお礼とお詫びをして。なんとなく時野先生の様子を眺めていると、二年学年団の様子が少しおかしいことに気づきました。会話に聞き耳を立てていると、二海さんという生徒のお母さんが亡くなられたらしいというのが分かりました。

 どうしようもないので、気にしないようにして仕事をします。

 何もない日が続いて、慣れもあったのかもしれません。私はミスを犯しました。

「処辺先生! 授業!」

「え、今、空きコマ……」

「時間割変更あったでしょ! メール見てないの⁉」

 パニックになった私に丁度いた時野先生が今週の時間割を見せてくれて、私は自分のミスにやっと気が付きました。

 今日使うプリントの印刷が出来ていない。今しようと思っていたから。そのプリントをもってあわあわしていると、時野先生がそのプリントを奪いました。

「まず教室に行って授業を始めて下さい。プリントは……えっと、2組か。届けます」

「え、あ」

「早く」

 珍しい強い口調に心臓をバクバクさせながら、必要なものを持って教室に走ります。

 教室に入って、代わりに教室に居てくれた空の先生と交代し、私は教壇で頭を下げました。

「ごめん、なさい。遅れ、まし、た」

 生徒の皆は、いい子たちばかりです。みんな心配したと言ってくれて、代わりの先生が来なかったら呼びにきてくれていたそうです。

 私はノートで授業をしています。用意できていなかったプリントは、資料として渡そうと思っていたものです。別に無くても良くて、生徒によってはファイルに挟んで一生見ないかもしれないもの。

「おまたせしました」

 時野先生が少し息を切らせて持ってきてくれたそのプリントは、そんなものでした。そんなもののために時野先生を走らせてしまったことを、すごく私は後悔しました。

 その日の仕事を憂鬱な気分で終わらせて。終業時間で帰ろうとした時です。

「処辺ちゃん」

「あ、内藤、先生」

「若手会。なんなら奢るし飲まなくてもいいから処辺ちゃん強制参加ね」

「え、え、え?」

 内藤先生に誘われて、なんだかわからないうちにそのままいつもの居酒屋華吉に連れていかれました。

「カンパーイ」

「乾杯」

「いぇーい」

「か、かん、ぱい」

 今日はみんなビールです。私はお酒の気分じゃなかったけれど、勝手に注文されてしまいました。

「ということで、第一回処辺ちゃんが授業すっぽかした記念若手会にお集まりいただきありがとうございます」

「何ですかそれぇ!」

 私は思わず叫びました。そんな不名誉な会だとは聞いてません。

「お、処辺さん元気出て来たねぇ」

 加藤先生が既に真っ赤にした顔で私をからかいます。

「いや、時野さんはこっちから誘わないと飲みニケーション絶対しないから。呼んで押し付けようとしたけどいつの間にかもう帰ってるし」

 何故、時野先生がここで出てくるのでしょうか。

疑問でいっぱいになって鎮火した私はすとんと椅子に腰を落ち着けました。

「内藤、佐藤」

「分かってます」

「これ多分自覚ないよ」

「だから分かってますって!」

 内藤先生はそう言って乱暴にタコの唐揚げを口の中に放り込みました。

 しばらく和やかに食事をして、程よく酔いが回ったところで本題が始まります。

「処辺さん」

「はい、なん、ですか。加藤、先生」

「今日授業すっぽかした件だけど」

「ぁぅ」

「頻発すると拙いけど、誰もが一回はやらかすから。安心してって言うのも変だけどあんま気にしなくてもいいよ。それよりも気にしすぎて他のミスをする方がダメ」

「誰でも……加藤、先生も?」

「うん。やらかしたことある。私は出張の時間割変更入れ忘れて後でしこたま怒られた」

「俺は処辺ちゃんと同じ状況だったよ」

「僕はまだすっぽかしたことはありませんね」

「おま、バカ! 空気読め!」

「痛い痛い。先輩痛い。でも一年目の講師時代に初めて苦情の電話を取ってそれの何が悪いんですかって素で言って相手をブチ切れさせたことはあります」

「お前……それはダメだろ。ちなみにどんな苦情?」

「自主練でボールダムダムやってる音がうるさいって。部活じゃ自主練は推奨してましたし。ちゃんと自分の家の敷地でやってるんですよ? しかも苦情入れて来たのは最近引っ越して来たヤツ」

「あー……」

 私には状況が分かりません。なのでなんとなく大きな失敗なんだなと言うことだけは分かって、三人が私を励まそうとしてくれていることがようやくわかりました。

「時野先生も、ミス、するのかなぁ……」

 私の小さなはずの呟きは、何故か完全に音がやんだタイミングで発してしまって。完全に聞き取られてしまいました。

「時野さん? うーん……、あの人は、ねぇ?」

「俺が一番長くて三年っすけど、トチったのは見たことな……いや?」

「何かあったんですか?」

「いや、見たんじゃなくて本人から聞いた話なんだけど、授業すっぽかしたことは普通にあるらしい。あと実験で生徒がビーカー割って、高濃度の水酸化ナトリウム水溶液を使ってたらしくてその班の所の家に謝りに行ったとか」

「前者はともかく後者は時野さん悪く無くない?」

「それでも授業中の事故の責任の所在は教員にあるらしいっす。体育でもそうでしょ?」

「ああ。まあ、うん。実技教科の宿命だね」

 時野先生もミスをすると聞いて、私はまた少し心が軽くなりました。

「じゃーそろそろ本題に入ろうかー」

 加藤先生が一泊おいて拳を振り上げます。

「恋バナー!」

その掛け声に、乗り気なのが一人。乗り気でないのが一人。訳が分からないのが一人。訳が分からないのはもちろん私です。

「じゃあまずジャブで内藤君、いってみよー」

「うわー加藤さんだいぶ酔いが回って来てる……。まあいいんですけどね」

 内藤先生はビールのジョッキを空けて、私の方を見ます。

「処辺ちゃん狙ってたけど諦めました。また新たな恋を探してます」

 さらっと爆弾発言をされました。

「え、あ、ぅえ?」

「はーい処辺ちゃん深呼吸深呼吸。諦めたって言ってるでしょ。今は狙われてないから」

 呼吸を落ち着かせて、内藤先生を見ます。冗談なのか本気なのかよくわかりません。いつも告白されたら逃げてたけど、なんとなくちゃんとお断りをした方がいいような気がして私は口を開きました。

「あの、ごめん、なさい」

「あー、うん。分かってるけど、ちゃんと振られるとやっぱクルなぁ……」

 陰が差した内藤先生の肩に手を置き、佐藤先生が慰めます。

 悪い人ではないし、むしろいい人なんですけど。お付き合いする気にはなれません。

「じゃあ次、佐藤君いってみよー」

「僕はあんまり語ること無いですよ」

 そう言いながら佐藤先生は口を開きます。壊れた蛇口のように。

「今の彼女は可愛いです。家事全般上手で料理がうまくてきんぴらが絶品。あでも卵焼きも捨てがたい。合える日すぐに調整してくれて何回デートしても飽きないです。見た目はけっこう強めなんですけどふにゃっと笑う表情がまた可愛くて。あとデートに絶対弁当とおかずを入れたタッパー持ってくるんですよ。いっつもちゃんとしたもの食べてるかって気にしてくれてて、心配する表情も可愛くて。ちょっと怒られたいがために冷蔵庫の中身を抜いたりしますね。あ、また今週末合うんですよ。今度は水族館に行く予定です。映画とか、水族館の水槽とか、何かに魅入ってる横顔もまた可愛いんですよ。あと遠慮がちに手を繋いできたりとかそのまま腕組んだりしてくるのもまた可愛くて」

「多い多い。情報量が多い」

「佐藤、お前今何回可愛いって言ったよ。ベタ惚れじゃねーか。何が語ること無いだ爆ぜろ」

「軽く十倍の時間は話せますが?」

「お前、愛が重いところあったよな……」

 佐藤先生は少々……変な人のようです。でも、彼女さんが羨ましい。

私もそんな風に想われるのを想像して、相手のことを考えて、浮かびそうになった顔が誰だかわからなくて、でも浮かんでほしい相手は決まっているような気がして。赤くなった頬を、お酒のせいにしました。

「じゃあ次私ー。彼氏募集中! 以上!」

 ……それだけ?

「俺とかどうっすか」

「内藤はタイプじゃないんよ。あと言うなら本気で言ってほしい。というかゴリマッチョはモテないよ?」

「筋肉は全てを解決する」

「言ってることと見た目が完全に体育教師なんよ。ずっと思ってたけど、なんで国語なの?」

「和歌が好きなんですよ。失恋大喜利とか見てると面白いっす」

「へーぇ。今ドンピシャじゃん。何か詠んでよ」

「うーわ、無茶ぶり……。好きなのと詠めるのとは違いますからね」

 そう言いながら内藤先生は腕を組んで天井を見上げます。

「あもりつく、手にこそ触れね 香具山の、想ふ心に、言の葉はなし」

「……どういう意味?」

「大きな山には恐れ多くて触れることは出来ず、その神々しさを想像はするけど言葉にはできないってところですかね。裏の意味はどんなに想っても処辺ちゃんは居ないっていう嘆き。言の葉と処辺ちゃんの名前を掛けてます。上の句はそのままで女性で山を連想する部分を思い浮かべてもらえれば」

「内藤……あんた流石にそれは……」

「俺が助兵なのは周知の事実でしょう! 飲みの席では特に自称オープンエロなんだから! 俺に詠めって言ったのは加藤さんっすよ⁉」

 私は内藤先生が詠んだ和歌の意味を咀嚼します。女性で、山。盛り上がっている部分。……、胸? 私の大きな胸には触りたかったけど触れないし告白しても振られて悲しい、ってこと?

「セクハラ……」

「処辺様本当に申し訳ございませんでした」

 しばらく内藤先生にジト目を送った後。

「いえ、冗談、です」

 そう言って私は笑いました。

「じゃあラスト! 処辺ちゃん!」

 名前を呼ばれて変な声が出ました。

「えと、あの、いません、よ? 好きな、人」

「ダウト」

「ぇ、えぇ……?」

「うん処辺ちゃんの言葉が嘘じゃないのは分かってる。でもそれはダウトなんよ」

 訳が分からず縮こまる私の耳に、優しく声がかけられます。

「処辺ちゃん。さっき内藤にセクハラされてどう思った?」

 どうも何も、特に何も思いません。ちょっと恥ずかしいけど、内藤先生が嫌味のない助平なのは知ってるから。話しかけてくれる機会も多いので、それが彼のコミュニケーションの取り方だって今は理解してます。ちゃんと慣らし期間もくれましたし。

「別に、何も。内藤先生、は、そういう、人、ですから」

「うん、そうだよね。でもあの歌を時野先生が詠んだところを想像してみ?」

 時野先生が私の胸を触りたいと思っていて、私のことを想っていて、でも私はそこに居なくて。そんな歌を、時野先生が。

「~~~ッ」

 顔が、熱いッ!

 胸を触られるのはとってもとっても恥ずかしい。私のことを想ってくれるのは嬉しい。でも私がそこに居ないのはあり得ない。多分、いや絶対、自分で見てもらいに行くから。

 頬を抑える私に向かってスマホが向けられ、シャッター音が鳴りました。加藤先生はそのままスマホを私に向けて、画面の中の私を見せつけてきます。

「変、ですか?」

「ううん。ちっとも変じゃない。でも、こういう顔をなんていうか知ってる?」

「……いえ」

「世間一般にはね、恋する乙女の顔って言うんよ」

 言われて画面の中の自分をもう一度見ると。その表情は、学生時代、恋路を応援してきた友達に、よく似ていました。

 飲み会を終えて、家について、皺になるのにスーツのままベッドでゴロゴロします。

 私は時野先生が好き。

 自覚すると、自分の行動の意味を理解して悶絶します。

 意味もなく時野先生を目で追って、何度も何度も理由を見つけて話しかけに行って。絶対迷惑な子だった。

 自分の恋愛から逃げてきたから、こんなときどうしたらいいか分かりません。

 告白する? 無理無理。でも、いろいろしてみたい。

 いろんな妄想が頭の中を駆け巡ります。年相応に耳年増ですので。エッチなことは苦手ですけど、エッチな子ではあるんです。自分の気持ちいい所もちゃんと知っています。汚れていてごめんなさい。

 他人から見せつけられた自分の恋心を自覚して、私の世界は色づき始めました。

 翌日から時野先生に見てもらいたくて、でも迷惑はかけたくなくて。

 私は仕事を頑張りました。恥ずかしくなって時野先生と話す機会は減ったけど、その分充実した毎日を過ごしました。

 一学期の授業が終わって、終業式が終わって。学校は夏休みに入りました。

 夏休みに入ってすぐの金曜日。大学に入ってから利用している従兄が経営しているジャズバーに向かおうとしている途中。私は想い人を見つけて思わず声をかけました。

 声をかけたら、警戒されてしまいました。処辺琴葉だと気づいてもらえなくて悲しくなって、でも可愛らしいと言われて嬉しくなって。きっと私は変な顔をしていたと思います。

 時野先生は何故か帰りたくないそうで、私のお誘いを聞いてもらうことができました。

 バーに行ってシュウにぃ……従兄の修治お兄ちゃんに冷やかされて。でも楽しくて。私は何杯もカクテルを飲みました。

 意識を朦朧とさせながらお店を出て、コンビニへ。スポーツドリンクを飲んで一息つきます。

 何か嬉しいことを言われて、時野先生が私を警戒させるために出した雄の部分をほんの少し感じて。時野先生がお別れを言って去ろうとしたところを、物理的に引き留めました。

 胸が大きいのがコンプレックスで、脂肪を減らすためだけに鍛えているので力は強い方です。私はもう一軒と嘘を言いながら、時野先生を自分の家に引きずり込みました。

 私にこんな強引なところがあったのは驚きです。多分妄想が爆発して、気持ちが抑えられなくなったんだと思います。

 一夜の過ちでもいいから無性に肌を重ねたくなって。逃がさないように鍵をかけて。

 倒れ込んだ時野先生に近づこうとして、私も躓いてコケました。

 時野先生を下敷きにして、胸に時野先生の頭が埋まってるのを感じて。

 今日、柔らかいブラで良かった。ワイヤーの入った硬いやつだと怪我をさせてたかもしれないから。

 体を起こして時野先生に抱いてもらおうとしました。でも時野先生は気を失っていて、寝顔が子供みたいに可愛くて。かたい胸板に手を這わせて、初めての男の人を堪能します。

 私の手が時野先生のお腹に伸びていって、生暖かいベルトの金具を触って。震える手でジッパーを探しながらバクバクと激しく脈打つ心音を聞きます。そして世界が回って、私の意識は、そこで途切れました。

 夢を見ました。田舎のおばあちゃんのスイカ畑で、用水路で冷やしたとれたてのスイカを食べて、シュウにぃにおんぶされて帰る夢。小学校低学年くらいの思い出。

 なつかしくて、ほんわかして。男の人として見ることは無かったけど、大好きなシュウにぃとのひと時。

 そんな夢の中のシュウにぃが私を呼びます。でも眠くて、減ったお腹は晩御飯を想像して。

 状況が分かってるかと聞かれました。私にとっては畑までがおばあちゃんの家です。家の中で、のんびりしているだけ。シュウにぃの麦わら帽子が頬にちくちくしてこそばゆい。

 でも。私を背負ったシュウにぃが自分は時野だと名乗りました。

 背負われていた私の姿が、急に大人になりました。シュウにぃの背中が消えて、目の前に白い壁がありました。視界の端には黒い髪が揺れていて、知らない男の人の匂いがして。その匂いにどうしようもなく安心して、現実が私に襲い掛かりました。

 ゆっくりと体を離して、間近で顔を見つめて。ちょっと押し込めばキスが出来そうな距離だけど、体内のアルコールが分解されてアセトアルデヒドになり、ほとんど酢酸に代わっているであろう私にはそんな強引さはもうありませんでした。

 あ、意識が。

 頬をぺちぺちされて、叱咤されて。意識を現実に繋ぎ留めます。

 顔を離して、体を離して、ずりずりと廊下の奥に行って、土下座をします。

 時野先生も私に謝ってくれて、乱暴したかもしれないと気にしてくれたところで昨日の私の痴態が蘇りました。

 乱暴したなら多分私の方です。

 服は……脱いでない。汚れていたりすることも……ない。

 でもどうしようもなく不安になって、私は寝室に向かいました。

 ベルトを外してジーンズを脱いで。汗とそれ以外の体液で少し汚れている下着も脱いで、フローリングにお尻をつけて、足を広げてスマホで写真を撮りました。

 匂いも、私の匂いだけ……。いえ、時野先生の汗の匂いも交じっていますが、それ以外の匂いはありませんでした。

「大丈夫。一線は超えてない」

 流出など怖いことがいっぱいなので撮った写真をすぐ消して。下着を履いてジーンズを履いて。身だしなみをちょっと整えて、時野先生の所に戻りました。

 何もなかったと伝えて、多分私の確認方法はバレていて。恥ずかしさでいっぱいになりながら時野先生が謝ってくれたことに悔しさを覚えて。

 まだ一緒に居たくて、私は帰ろうとした時野先生の背中についていきました。

 ほとんど下を向きながら、それでも時野先生の背中を視界に入れて。袖をつまむ勇気もないので胸の前で手を組みながら歩を進めます。

 私が早ければすぐにでも頭が背中にぶつかります。遅ければ離されてしまいます。でも私の頭の先は時野先生の背中からぴったりと10センチをキープし続けています。

 私は普通に自分のペースで歩いているだけです。きっと時野先生が歩幅を合わせてくれている。勘違いかもしれないけどその事実が嬉しくて、勘違いなら勘違いで勝手に歩幅が合っていることに喜んで。

 私は年甲斐もなく浮かれながら、好きな人との朝の散歩を楽しみました。


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