同僚
俺は何か悪いことをしただろうか。
いや、きっとしたんだろう。昨日、良かれと思って朋絵ちゃんにキーボードを弾かせてみたが、余計に落ち込ませてしまったみたいだから。
朋絵ちゃんも今日は早起きみたいだったのでそのフォローをしようとしたのだが、あからさまに避けられている。
これが夏休み明けまで続いたらヤバい。一人の女子の評価を落とすとすぐに全体に伝播するから。影響力がある子の場合は特に。
朋絵ちゃん? ええ。影響力のある子ですよ。クラスの人気者。明るくて、元気で、皆に分け隔てなく優しい。男子人気が高い上に女子人気も落とさない立ち回りができる器用な子。
そんな子に嫌われたらマジでヤバい。死活問題。
だからどうにかしたいのだが、取りつく島がなかった。
何かしらの汚名を返上する時間もなく出勤の時間に。
とりあえず仕事をする。でも不安は晴れない。
「はぁ……」
「でっかい溜息っすね。なんかあったんすか?」
午前の部活を終え、そのまま午後も仕事をしていた内藤先生が声をかけてくる。
「すいません。不景気で」
「いや、それはいいんですけど、こう、連発してると珍しくて流石に心配で」
「……そんなにしてました?」
「今ので俺が暇つぶしに数え始めてから28回目っすね」
マジか。
「すいません」
「いやだからいいんですけどね。こうなったらいつも愚痴聞いてもらってる礼に飲みにって言いたいところなんですけど、今ちょっと財布が寂しくて」
「またなんか買ったんですか?」
「タイヤっす」
内藤先生の趣味はバイク。通勤にも使っているが、聞いたところそれ以外にツーリング用に一台持っているらしい。よくわからん世界だ。
「タイヤって高いんでしたっけ」
「三万と五万飛びました」
八万。八万かぁ。分けて言ったってことは通勤用とツーリング用の両方買ったのか。
本当によく分からん。車の免許は持ってるけどペーパーだし。
でも酒かあ。家ではよく親父と飲んでるけど、たまには一人で行ってみても良いか。
就業時間を終えて、俺は中心街へ向かう。
そうだ、家に連絡しとかなきゃ。
スマホを取り出し、母さんのスマホにかける。
……。繋がった。
「……もし、もし?」
……。……? あれ⁉
「朋絵ちゃん?」
「は、はい」
「母さんは?」
「今、電話に出れないらしくて、か、代わりに私が」
「そう」
「……」
「……」
会話が続かない。いや、用件を伝えるだけだ。
普通にしてりゃあいいんだ。うん。生徒に嫌われてようが対応を変えたりはしないからな。すごく精神には来るけど。
「じゃあ伝言を頼みます。今日は晩御飯要らないって。ちょっと遅くなることも」
「……分かりました」
「じゃあよろしくお願いしますね」
「はい」
「……」
「……」
少しの沈黙の後、俺は何かから逃げるように電話を切った。
帰ったらどうしよう。なんとなく朋絵ちゃんと顔を合わせるのが気まずい。
そんな思いを抱きながら、俺は店に向かう。
悩んだ挙句に選んだのは居酒屋華吉だった。
「いらっしゃーせー!」
流石は居酒屋。威勢がいい。
「何名様ですか?」
「一人です」
「カウンターの方どうぞー」
案内されるまま席に着き、メニューを見る。運ばれてきた水に口をつけ、おしぼりで手を拭く。
飲み会ではないので一杯目はビールという自分ルールは無い。好きなのはブランデーなのだが、この店には置いていないのでハイボールを頼む。
運ばれてきたハイボール口をつける。メニューは多岐にわたるが、この店のメインは魚介系だ。
晩飯も兼ねるつもりなのでがっつり行きたい。なので米は外せないが、はてさて白米と刺身にするか、丼ものにするか。
いや、刺身だ。刺身がいい。
刺身の盛り合わせと白米を頼む。
運ばれてきた盛合せの内訳はマグロ、アジ、スズキ、タコ、ホタテ。
実に美味そうだ。
食べ進めながら、何に対してか分らない言い訳を考える。どうにも家に帰りにくい。考えた言い訳も、誰に言う訳でもない。
気まずくなるのは基本的に自分の問題だ。原因がどこにあるにせよ、自分がそう思っているからこそ気まずくなるわけで。
今自分が気まずいのは何故か。朋絵ちゃんに嫌われたと思っているからだ。その上で、関係改善を考えて、どうするか迷っている。
理由を察せる洞察力はない。だからこそ何を言えばいいのかわからなくて迷っているのである。
「海鮮串揚げの盛り合わせとサバの竜田揚げ。あとハイボールのおかわりをお願いします」
素直に聞けばいいのだが、それは悪手である。生徒を前にして分かりませんはご法度なのだ。だからこそ、ちゃんと理由を知らなければいけないのだが、考えは巡ってばかりで答えにたどり着けない。
喉が渇いて、ハイボールを喉に流し込む。
炭酸と薄いアルコールで喉を焼く。何度も何度も。
会計を済ませて店を出る。飲み足りない訳ではないが、まだ家には足が向かなかった。
逃げ惑って、ぶらぶらして、時間を見ればもう終電もない時間。そろそろ諦めて家に帰るかと思った時、声をかけられた。
「あ、あの」
振り返ってみれば一人の女の子。大学生だろうか。青いリボンの付いた白いノースリーブのブラウスに包まれた巨乳が目を引く。
気弱そうな様子を見るにカツアゲではないだろう。どちらかと言うと美人局を警戒すべき状況だ。
逆ナン? ないない。
「時野、せんせ」
「……卒業生かな? 君のような可愛らしい生徒なら忘れないと思うんだけど……」
そう言うと彼女は一瞬変な顔をして、何かに気づいた様子で慌てて鞄を探る。
取り出したのは眼鏡。それをかけた彼女の顔は知り合いと完全に一致した。
「ああ。処辺さんでしたか」
そして気づく。
ヤバい。可愛らしいか言っちゃった。セクハラとか言われませんように。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「えと、あの、独りで、飲みに」
「こんな時間から?」
「早いと、その……、男の人が、来るので」
ああ、ナンパか。目を引くだろうからなぁ、この胸。顔も良いしスタイルもいい。軽い男はとりあえず声をかけてみるだろう。
「理解しました。ちなみに声をかけられたときはどう対応してるんですか?」
この子が言い返せるとは思えない。
「足は、速いので」
逃げるのか。無難な選択だな。
「殴って、相手が、びっくりしている隙に」
おいおい。
「教師が暴力はいろいろと問題になるから止めましょうね」
「最近は、してません、よ? この時間帯は、そう言う人、もうホテルか、家です、から」
随分と生々しいことを仰る。
「……お一人、ですか?」
「ええ。もう帰ろうかと思ってたところなんですけど……」
俺の歯切れが悪くなる。
「帰りたく、ない?」
「その……、まあ、はい」
「一緒に、行きますか、お店」
明日は土曜。断る理由を、俺は見つけられなかった。
処辺先生と入った店は、雑居ビルのワンフロアにあるバーだった。ステージがある店内にはゆったりとしたジャズが流れ、会話のない店内の雰囲気を決定づけている。
二人で並んでカウンターへ。椅子に座り、メニューを見る。
「ショコラマティーニを」
「ヘネシーをお願いします。ストレートで」
俺と同年代くらいのバーテンダーに注文を終え、処辺先生のカクテルが出来るのをジャズに耳を傾けながら眺める。
カクテルが差し出され、今度は俺のブランデーがグラスに注がれるのを眺める。
注文が来て、グラスを二人で持ち、少し掲げて口をつける。
ジャズバーもいいもんだ。
初めて来たが、生演奏に美味い酒。目を閉じて曲を肴に酒を楽しむ。こういうのが贅沢なんだろう。
そうしていると、ことりとテーブルで音が鳴った。
俺たちの間には、チョコレートの乗った皿。
「え、お兄ちゃん、頼んでないよ?」
お兄ちゃん?
「サービス。琴葉が彼氏を連れてくるとは思わなかったから」
「ち、ちがあうあうあうあう」
「お客様、店内ではお静かにお願いいたします」
いや、あなたのせいだと思うんですけど。
「お兄ちゃん?」
「あうえうおうあう」
「琴葉はちょっと落ち着け。初めまして。琴葉の従兄の刑部修治です」
「初めまして。時野紀行です。処辺さんには職場でお世話になっています」
「ああ、職場の方。あの、琴葉は迷惑かけてませんか?」
「大丈夫ですよ。授業はしっかりしてますから」
言葉に嘘は無い。処辺先生の授業を見に行ったこともあるが、普段のおどおどしている様子からは考えられないくらいしっかりとしている。ただアドリブには弱いのでよく生徒に授業を崩されている印象だ。協力的な生徒も多く軌道修正はできているので今のところ問題は無い。
「これで?」
刑部さんの視線の先にはあわあわおろおろしている処辺先生の姿。
「授業はちゃんとしてるんですよ」
「そうですか。で、琴葉とは付き合ってるんですか?」
「ただの同僚ですよ」
「あう……」
「これっぽっちも恋愛感情はない?」
何だこの人。えらいぐいぐいくるな。
「そんなの抱かれても迷惑でしょう」
「そう言うの抜きにして女としての感想を言えば?」
本当にぐいぐい来るなぁ。
俺はグラスの縁を一周撫でて、ほとんど減っていない中身を一気に飲み干す。
味わえる酒を一気飲みするのはもったいないが、流石に素面でこの先のセリフは言えない。
喉が焼けるような強いアルコールを感じ、その熱が頬に集まるのを感じながらグラスを置く。
「女性としての魅力はまだ半分しか分かりません」
「半分?」
「内面はまだ出会って数か月ですから。でも外見についてはすぐに言えるでしょう?」
「なるほど」
続けてと促されて腹を括る。
「美人だと思います」
背中にかかるひと房のゆるい三つ編みは綺麗だと思う。身長は高くも低くもなく。手は小さくて可愛らしい。おどおどしているところも庇護欲をそそられる。眼鏡とメイクで印象が変わるが、今見えている顔はタレ目丸顔でそのくせ小顔で可愛い。まさしく守ってあげたい女の子と言う感じだ。その主張の激しい胸さえ控えめなら。
胸のせいでどうしてもエロいが先行する。露出は低いのに、エロい。
学校のスーツ姿だと胸はあんまり目立たないんだけどね。私服の時は、うん。割と目立つ。
「エロいってさ」
「ちょっ」
「はう……」
処辺先生が呻いて俯く。事の発端になった刑部さんは「ごゆっくり」と言ってこの場から逃げた。
何がしたかったんだ、あの人。
最初は処辺先生に変な虫がつかないように見張ってるのかと思えば俺に感想を言わせようとするし、俺がエロいと思っていた事を看破していながら敵意もない。
気まずい雰囲気になった俺と処辺先生に会話は無い。ただグラスを開けるペースだけが早くなっていく。
互いにだいぶ酔いが回ったところで、処辺先生が口を開く。
「時野先生」
「はい」
「先生も、私の体、えっちだと思ってるんですか?」
「んぶっ」
思わず吹き出しそうになった酒を寸でのところで抑える。
「ソンナコトナイデスヨ」
「……私、初めてだったんです。性欲を感じさせないまま優しくしてくれた人」
ああ、まあ、うん。その胸目立つからね。俺は意識して見ないようにしてるだけだ。でもそう言う人は他にもいると思うけど。
「どんな人も、二人っきりになったりすると欲に塗れた目で見るんです。酷いときは触ろうとして来て」
「美人も大変ですね」
「でも先生は一度もそんな目で私を見ませんでした。二人っきりになった時も」
そう言えばそんなこともあったな。
あれは授業が始まる前の日。明日から子供たちが来ると意気込んで教室を見に行った時だ。
「明日からもう新学期か」
歳をとると時間が経つのが早い。そんなことをしみじみと感じる。
就業時間も近くなり、職員室に戻ろうと廊下に出た時だ。
「……、……。…………」
誰もいないはずの校舎から声が聞こえた。その声は微かだが、ずっと一方的に喋っているようだ。
確認しない訳にはいかないわな、と階段を上がって一年生のフロアへ。すると声がはっきりと聞こえてくる。
声の内容は授業っぽい。内容は、一年理科。身近な生き物といったところか。と言うことは声の主は新任の女の先生か。確か名前は、処辺琴葉。
確か現役合格だから社会人一年目。気張ってるんだろうなぁ。
教室のドアについた小さな窓から中を覗き込む。中には件の先生一人だけで、他に人の姿は無い。
独りきりの模擬授業を終えた彼女は授業用に配備されている端末を操作して一つため息をつく。そんな彼女と、窓越しに目があった。
「ぴゃ⁉」
どっから声出したんだよ。
そんな感想を抱きつつ俺はドアを開ける。
「お邪魔してすいません。初めての授業はうまくいきそうですか」
「あの、えと、あの、あの、あの」
あ、そう言えばこの子会話の時どもる癖があったな。
「落ち着いてください。ほら、深呼吸深呼吸」
何とか落ち着かせて話を再開する。
「授業の練習ですか」
「あの、えと、あの……、はい」
「相談してくれれば見たのに」
教師になって初めての年。先輩の先生にお願いして授業を見てもらった思い出が蘇る。自分たちもそうだったと、快く俺の練習に付き合ってくれて、不安を消してくれた先輩。
あの時は他教科の先生も面白がって来てくれたおかげで生徒役が五人もいてその分緊張したけど。
先輩たちは次はこっち側になってやれと言っていた。あの時の恩を次世代に繋げる時だ。
そう思ったのだが。
「ご、めんな、さい」
俯く処辺先生。どうやら委縮させてしまったらしい。
「怒っている訳でも強制をしている訳でもありませんよ。お邪魔なら退散します」
無言のまま十秒ほど待ち、何もアクションが無いので踵を返す。
手をドアにかけたところで、遠慮がちなか細い声が背中にかけられる。
俺は振り返り、言葉を待った。
「……」
「……」
「……あの」
「はい」
「助けて、ください」
言い方が大げさだなぁ。でもまあ言いたいことは伝わった。
俺は教室の窓際一番後ろの席に座る。それを見た彼女は一つ深呼吸をしてから教壇に立ち、授業を始めた。
授業用の彼女の声は、とても綺麗だと思った。適度な大きさで、よく通る声。普段猫背でおどおどした感じは消え、堂々と胸を張り、はきはきとした様子で授業を進める彼女は別人のようだ。
授業を終え、彼女が猫背になる。
「あの、どう、でしょうか」
「いいんじゃないですか? ただ本番は思ったより早口になりがちなのでもっとゆっくり喋ることを心掛けた方がいいかもしれませんね」
「わかり、ました」
「それで、一発目はどうするか考えてますか?」
「?」
「あれ、ノープラン?」
「今の、です、けど」
この子、一発目からガッツリ授業する気だったのか!
「ダメとは言わないですけど、生徒が疲れますよ? あと余る」
「あまる?」
「ちょくちょく遊びを入れて時間稼ぎしないと新年越えたあたりで教科書終わってやることに悩みますよ」
これは経験談である。ペースを考えないと教科書なんてあっという間に終わるのだ。だから俺は関連する要らない話をしたり、グループディスカッションの時間を多く取ったりして時間稼ぎをしている。その上で二月の頭には終わらせて残りの時間を一年間の総復習に充てるのが自分に無理のないスタイルになっている。復習なら削れても問題ないし、余ったら余ったで教科書にない実験をやったりする。
水酸化ナトリウム水溶液を使って銅板と亜鉛粉末から真鍮を作る錬金術と銘打ったお楽しみ実験は割と人気だ。あとスライムも。
「あう……」
「あー、落ち込まない落ち込まない。初回はオリエンチェーションをしてやればいいんですよ」
「オリエン、テーション?」
見せた方が早いかと処辺先生と場所を交代する。
「初めまして。君たちの理科を担当する時野紀行です。まずは自己紹介から」
そう言って簡単に自己紹介をしていく。それで十分ほど。質問を入れて十二分から十五分と言ったところ。続いて授業についての説明。必要なもの、その中で自分で用意しなければならないもの。授業の進め方を説明していく。それが3分。続いて自分の中の教科に対する考えを語る。
俺の中での理科は全ての教科の応用にして基礎でもある。具体的に言えば、他教科との横のつながりがいくらでもあると言うこと。
国語は全教科の基礎。読解力が無いと教科書と問題文が読めない。社会は地理分野が重なるし、歴史は科学技術の発展に密接に関係している。数学は科学や物理の基礎であり、突き詰めるとその先にある教科だ。英語は国語と似たようなものだ。論文を読もうと思うと英語が多いし、理科で習う用語のいくつかは日本語ではない。
主要5教科だけでこれだ。そんな話を、簡単に。
あと大事な話としてスポーツバカ用に野球を例に物理の話も。それが終われば残りの時間はグルーディスカッションに充てる。議題は何でもいい。よくやるのは教科書の内容を見てどの単元が楽しそうor難しそうだ。楽しそうのほうでやると生徒の興味がどこにあるかわかるし、難しそうでやると生徒の苦手意識がわかる。
「と、まあこんな感じですね。残った時間は簡単な実験をして遊びます」
「実験、ですか?」
「俺の手札は二つですね。シャボン玉を磁石で弾き寄せて遊ぶのと、水に浮かべたインクを静電気で動かすやつ」
「?」
俺は手招きしてスマホにストックしてある実験動画を見せる。
前者は酸素ボンベは学校にあるので百均でシャボン玉液と強力な磁石を揃えればできる。後者は学校にあるものでできる。水性マーカーは備品であるし、静電気を溜め込むエボナイト棒も実験器具として揃っている。無ければ無いで細い塩ビパイプで代用可能。
「ありがとう、ございます」
「別にこの通りやれって話じゃないですからね。自分で考えて、使うもよし、使わないもよし」
「……はい」
大丈夫だろうか。
若干の不安を覚えつつ、その日はそのまま別れたのである。
その後も、何だかんだと相談に乗ったり去年に俺が使った教案を見せたり。学年の先生と同等以上に喋る一人になった。二人っきりになる機会は、もしかしたら一番多かったかもしれない。だいたい彼女の相談に乗るのは俺が半分居ついている理科準備室だったから。
職員室に居ろとよく言われるけど、いろいろ捗るからいいんだよ。あんまり邪魔も入らないし。
だから分かっている生徒は俺を探す時まず理科準備室を探す。いいことではないが、その分気分替えにと準備室の整理や理科室の掃除、薬品の管理、台帳への記入などを一手に引き受けているので管理職には黙認されている。
もう一度言うが、決していいことではない。理解してやってる確信犯なので質が悪いとは自分でも思ってる。でも一番落ち着くのだ。薬品の匂いに囲まれながら仕事するのが。
実験器具も手の届くところにあって小ネタも考えやすいし。
準備室には色々あるのだ。予算の関係でとりあえず買ったカエルのホルマリン漬けセットとか。
使わないと来年度の予算削られちゃうからね。学校で貰える予算の他に抽選で貰えるお金もあるし。まあそっちは当たったら当たったで報告書が面倒くさいので俺は電源装置を全部買い替えるなど大きな買い物をするときくらいにしか申し込まないが。
「大学生の時の話でしょう? 大人はちゃんと自制心ありますよ」
そう言って俺はグラスの中身を呷る。処辺先生もカクテルに口をつけ、目線を落とす。
「内藤先生とか、割と露骨ですよ?」
内藤先生ェ……。あの時の飲み会の後のセリフはガチの方か。
「説教しときますか?」
「いえ、いいです。もう慣れました」
慣れるほど視線に曝されたのか。それを自尊心に変えられない性格だろうから、慣れるまで辛いこともあっただろう。その感想を。
「そうですか」
その一言で飲み込んだ。
また沈黙がおり、心地いいジャズに耳を傾ける。
傾けるペースが遅くなったグラスの中で少し小さくなった氷を転がし、琥珀色の水面を蕩けた目で見つめる。
いい雰囲気だ。あ、いや、俺と処辺先生がではなく、店の話。
ずっとこのままアルコールと音楽に浸っていたい。
そう思って、またグラスを傾ける。
「ときの、せんせ」
隣から聞こえてきたのは、とても甘く蕩けるような声だった。
「わたし、がんばりますから」
「……」
「みてて、くださいね」
そのはにかむような笑顔は、とても魅力的に思えた。
店を出て、ふらつく足を叱咤しながらコンビニに向かう。コンビニでスポーツドリンクを購入して店の外に出て、一気飲み。
「ぷぁ……。あー……飲み過ぎた……」
異常酩酊一歩手前まで飲んだのは大学の時以来だ。雰囲気に呑まれてカパカパと行き過ぎた。おかげで財布の金では足りずカードを出す始末。でもいい酒だったので文句はない。
いい飲み方かどうかは、賛否がわかれるとこだろうけど。
俺はふと隣を見る。そこには並んでくぴくぴとスポーツドリンクを飲んでいる処辺先生の姿。頬はアルコールで上気し、暑くてはだけさせた胸元から覗く深い谷間がエロい。
色っぽいとか艶めかしいとかじゃなくて、エロい。
視線に気づいた処辺先生がこちらを向く。胸元の暗がりを手で隠しながら。
「胸、みてました?」
「あ、いや、その、えっと……、ハイ。すみません……」
しどろもどろになる俺を見て、処辺先生はくすくすと笑う。
「いいですよ、べつに。時野先生からは、嫌な感じしませんから」
「嫌な感じ?」
「ギラギラとか、そういうの」
ああ、色欲か。俺もないわけではないが、昔から隠すのが巧いと言われている。そのおかげでどれだけ「そんなつもりじゃなかった」とお付き合いを断られたことか。かといって出せばいいというものではないのが難しい所。
「隠してるだけですよ。襲われないうちに帰って下さい」
冗談めかして俺は彼女のマンションの方を指さす。「それじゃあ」と言って帰ろうとしたのだが、シャツの背中を握られてたたらを踏む。
「何か?」
「もう一軒、行きませんか?」
「もう一軒って、流石にもうお開きにしたほうがいいんじゃ……」
開いている店はあるだろうが二人ともフラフラだ。流石にこのままはしごは良くないと俺の理性が言っている。
「ヤ」
「あ、ダメだ。この子完全に酔ってる」
目はとろんとし、焦点が合っていない。でも視線は力強く、確固たる意志を感じる。
背中の手が離され、無理やり腕を組まれた。俺の腕が彼女の大きな胸を押しつぶしているが、気にした様子はない。
と言うか力強ぉ⁉ 振りほどけない! 待って待って! 引きずらないで!
柔らかい胸の感触を楽しむ余裕もなく、俺は抵抗空しく引きずられるままにどこかへ連れられて行く。
いや。ちょっと待て。この方向って……!
店のある方向からは外れている。でもこの方向は知っている。
着いたのは、処辺先生の自宅があるマンション。
「ダメダメダメダメ!」
「ヤ」
抵抗空しくエレベーターへ。そのまま処辺先生の家へ。
処辺先生は俺を片手でホールドしつつポケットから鍵を取り出し、開錠。
俺は入り口に突っ張って抵抗するが、酔いが回っているため思うように力が出ずに連れ込まれる。
力んだことで余計に酔いが回って、俺はその場に倒れ込んだ。処辺先生は玄関に鍵をかけ、家に上がろうとして足をもつれさせてコケる。俺の上に。
「んぶっ⁉」
「あっ……」
上半身への衝撃は凄まじかったが、それよりも顔面に押し付けられた柔らかさに意識が持っていかれた。
ブラ越しの胸の感触は姉貴のせいで知ってるけど、もっと硬かったはず。もしかしてノーブラ? いや、ブラっぽい感触はするな……。
混乱した頭がそんなことを考える。あと柔軟剤と汗の混じった甘い匂いで余計にいろいろと考えられなくなる。
酔いが回っているのと血が上ってきたことで、俺の意識は、そこで途切れた。
意識が覚醒する。身体は痛いし頭も重い。風邪でも引いたのかと思ったが、どうにもそういう感じではない。
うっすらと目を開けると、目の前には小山のように突っ張った白い布とそこから延びる適度に日焼けした腕。あと舐め回したくなるような脇。
いかんいかん。
ガンガンする頭を抑えながら体を起こす。パキポキと背骨を鳴らしながら俺が見たのは、仰向けに寝転んだ大学生ぐらいの女の子。
「……。だれだ、このAVに出てそうなエロいねーちゃん…………」
俺は腹を掻きながら辺りを見回す。
知らない天井。知らない玄関。知らない廊下。
どこだ、ここ。
一緒に寝ていたこのお姉ちゃんが何か知っているかもしれない。短絡的にそう考えた俺の頭は目の前で大きな胸を上下させながら規則正しい寝息を立てている女性に声をかける。
「すいません、あのすいませっ⁉」
大きい声をかけようとして頭に走った酷い頭痛に顔を顰める。だがそのおかげで少し思い出した。
そうだ。昨日は処辺先生に誘われて。バーでしこたま飲んで。その後別れて。
……別れたっけ?
俺の頭がようやく回転を開始する。
思い出した。処辺先生に無理やり連れ込まれて玄関で気を失ったんだった。と言うことは目の前に居るこの子は処辺先生で。ここは処辺先生の家で。
え、ワンナイトやっちゃった?
俺は冷汗をだらだらと流す。
落ち着け。そもそも俺たちはそう言う関係じゃない。それに服もそこまで乱れてないし、脱がしたり脱いだ形跡もない。大丈夫。事案は発生してない。
処辺先生の姿を見ても乱暴されたような様子はない。ただブラウスの裾はめくれあがって日焼けしてない綺麗な白いお腹と可愛いおへそが覗いているが。
というか今気づいたけど腹筋エグ……。シックスパックじゃん。全体的にアスリート体型だこの子。
処辺先生を見て初めてエロいが引っ込んだ。いや、この筋肉もエロいんだけど、単純に凄いという感想が先行する。
体を絞ると脂肪が減るから胸は小さくなるんじゃなかったっけ。いや、減ってこのサイズなのか。これで肉感が増えたら……。やめよう。流石に失礼だ。
逃げようかとも思ったが、止めた。状況確認をしてからのほうがいい。
「処辺先生。処辺先生」
下手に触れる訳にはいかないので声をかけ続ける。その甲斐あって、処辺先生は目を覚ました。
「ん……。おあよう……シュウにぃ……」
シュウにぃ。多分刑部さんかな。従兄の。
「ぅぅ……。からだいたぁい……」
「ちゃんと起きて下さい」
「ごぁん」
「その前に起きて!」
「おこしてぇ」
寝ぼけ眼で突き出される腕。それは俺の頭の両隣を素通りし、そのまま崩れるようにして俺にもたれかかる処辺先生。
頭からいい匂いがするぅ。じゃない。これじゃあ収集がつかん!
「処辺先生」
俺の口元に処辺先生の側頭部があるのでおのずと耳元で囁くようになる。
「んう」
「起きて下さい」
「おきてう……おきてう……」
「起きてないでしょ、ほら、しゃんとして。今の状況分かってますか?」
「……おばあちゃんちでぇ……シュウにぃとすいかたべてぇ……おひるねぇ……」
「昔の夢でも見てんのかこの子は。俺は刑部さんじゃありません。時野です」
「とき、の……?」
「はい」
「ときの……先生…………?」
だらんと俺の肩に投げ出されていた処辺先生の両手がゆっくりと引っ込んで行き、俺の胸に当てられる。ぐっと力が込められ、徐々に体が離れていく。
互いの胸がこすれ合うくらいの距離で処辺先生が顔を上げた。唇が重なりそうな距離で、俺と彼女の目が合った。
「ひゅっ」
「あ、こら! 気絶するな!」
白目を剥きかけた頬を軽く叩く。
「ぁ……う……?」
「ったくこの子は……。意識をしっかり持つ!」
「は、はいっ!」
俺の言葉に処辺先生は意識を取り戻す。目を瞬かせて、俺の顔を確認する。
ゆっくりと顔を離し、体を離し、座ったまま距離を取り、廊下の向こうで深々と土下座をした。
「すみ、ま、せん、でし、た!」
「あー、謝罪はいいです。多分お互い様だと思うんで。昨日のことは覚えてますか?」
「……なに、も」
「気になるところは無いですか。俺も昨日の記憶がはっきりしなくて。もしかしたら欲に任せて乱暴なことをしたやも……」
「乱暴……ぁ」
何か心当たりが⁉
彼女は体をまさぐり、不安そうな顔をしながら部屋に入っていく。
ついては……行かないほうがいいな。
そう思ったとき、部屋の方でゴトンと何かを落としたような音がした。
シャッター音が聞こえ、しばらくするとカチャカチャとベルトを締めるような音がして処辺先生が出てくる。
「大丈夫、です。昨日は、何も、ありません、でした」
「その様子を見るに、何か確証が?」
「……」
何故そこで顔を赤らめる。と思ったが気づいた。
写真に撮って確認したんだな。と言うことは処女か。AVに出てそうとか思ってすまん。
何もそこまでせんでもと思うが、体の違和感が無いことや変な臭いがしないだけでは不安だったんだろう。
本当に済まないことをした。俺がちゃんと帰っていれば。……あれ? そういえば馬鹿力で引きずり込まれたような……。いや、多分俺が悪い。
「すいませんでした」
俺は素直に頭を下げる。そんな俺に、処辺先生は目を白黒させた。
「ぇう、な……だ……」
「酔っていたとはいえ、一人暮らしの女性の家に上がり込むものではありませんでした。この通り反省してますので通報だけはご容赦を……。あと職場への報告も。あと刑部さんへの報告も」
「は、恥ずかしいし、言えませんよぅ……。それ、に、気にして、ませんから」
とっても気にしてないようには見えないのだが。いや、そこをほじくり返しても互いの傷口が抉れるだけだ。素直に甘えておこう。
その後気まずいことは気まずいが、なんとか普段通りを装いながらお暇することにする。だが、玄関を出た俺の後ろにはぴったりと処辺先生がついてきていた。
「……何か?」
「えと、朝ごはんを、買いに」
ああ、そういえばこの子、冷蔵庫の中がすっからかんだったな。
「なににするか決めてるんですか?」
「サラダチキン、です」
「……それだけ?」
「……? はい」
マジか。いや、人の食生活に文句をつけるべきではない。とっても心配だけど、無視しよう。うん。ここに踏み込むのは俺の領分じゃない。
俺も二日酔いが辛いのでスポーツドリンクと柑橘系を求めてコンビニへ向かうことにする。
東雲の空を眺めながら、欠伸を噛み殺して静寂に包まれた道を歩く。
歩幅は小さく。同行者が、ちゃんとついて来れるように。
小さな足音が二つ、閉められたシャッターに反響する。
会話は無い。気恥ずかしさがこみあげてきて、上手く会話ができる気がしなかった。
やる気のないいらっしゃいませを聞いて、ショーケースからスポーツドリンクを取り出す。果物を探して、青果物は置いていなかったのでクエン酸とビタミンCたっぷりの栄養ドリンクを探す。
目当てのものを持ってレジへ。すると丁度処辺先生と一緒になった。彼女の手にはサラダチキンが二つだけ。
「朝、それだけでいいんですか?」
「あ、一個は、お昼ごはん、です」
マジか。いや、気にしない気にしない。
レジに並んで財布を取り出す。支払いを済ませ、横にはける。さっさと帰っても良かったが、なんとなくそれは良くない気がした。
「では来週、学校で」
「はい、おつかれ、さまでした」
ぺこりと頭をさげる処辺先生に背を向けて駅に向かう。そろそろ始発が動き出している頃だ。
がらがらの電車に揺られ、全然取れていない疲れに寝落ちそうになる意識を無理やり起こそうとしてエロいことを考える。
エロことを考えると目が覚める。男子諸兄は身に覚えがあるだろう。
家まで持てばいいと思って妄想にふけろうとしたが、脳裏に浮かぶのは処辺先生の脇だったのでそっと脳内フォルダを閉じる。
同僚で妄想するのは流石にイカン。
自分を脳内で殴っているとすぐに最寄り駅についた。
家に帰り、なんで帰らなかったのかを忘れたまま家の鍵を開ける。
「ただいまー」
そろそろ親父と母さんは起きていてもいいころだ。リビングには電気がついている。
母さんが朝食の支度でもしているのだろうと思って廊下を進むが、音が一切聞こえない。
「ただいま……あれ?」
ソファに誰か座っている。あのストレートヘアは、香苗さんだろうか。
ソファの側に寄る。香苗さんは座ったまま寝ていて、その膝では朋絵ちゃんが寝ていた。
状況が分からず、とりあえず付けっぱなしのテレビを消す。その時リモコンを置いた僅かな音で、香苗さんががばっと顔を上げた
「……!」
「こんなところで何してるんですか。部屋で寝ないと疲れが取れませんよ」
そんな特大ブーメランをぶん投げた時だ。
目を見開いた、憔悴しきった顔の香苗さんが俺の袖を掴み、引き寄せる。たたらを踏んだ俺はソファの背もたれに手を突き、香苗さんと至近距離で見つめ合う。触れ合うほど近い彼女の目尻に涙が浮かび、その顔がくしゃりと歪んだ。
え、ちょ、なんで⁉ 何で泣く⁉ 俺が朝帰りしたのがそんなに不満だった⁉
慌てる俺に対してぼろぼろと涙を流す香苗さん。その頬を伝って滴った雫が、朋絵ちゃんを起こす。
飛び起きた朋絵ちゃんは、俺の姿をその両眼に捕らえて、俺に抱き着いて香苗さんと同じようにわんわん泣き出した。
だからどういう状況なんだよと思ったが、その答えを朋絵ちゃんの言葉で理解することとなる。
おいていかないで。
ああ、そうか。俺は甘く見ていたんだ。二人が受けた傷の深さを。
ある程度元気にしていることで、もう大丈夫なんだとどこかで勝手に思っていた。でも全然そんなこと無かったんだ。
俺の行動は、完全に二人のトラウマを抉る行為だった。
彼女らの母は帰ってくるはずの夜、居なくなった。
俺は昨日、遅くなるとは連絡したが日付が変わる前までに帰るつもりで、その後連絡を怠った。
俺の失態だ。
「心配かけて、すいませんでした」
無き縋る二人に、俺は謝る。その裏で、もう二度と朝帰りはすまいと心に誓った。




