君が心配
中学校は夏休みに入った。
恵美さんの葬儀も無事に終え、香苗さんと朋絵ちゃんの姉妹はうちに住むことになった。
と言っても引っ越しはまだ。夏休み中に進める予定だが、生活拠点は既にこちらに移している。開いている部屋は二つ。姉貴の部屋と祖父母の和室。朋絵ちゃんは姉貴の部屋に、香苗さんは祖父母の部屋に布団を買ってきてそれを敷いて寝起きしてもらっている。
時刻は朝六時。洗面所で歯ブラシをしゃこしゃこやっていると親父がやって来て歯ブラシを手に取った。
「紀行」
「何」
「聞くの忘れてたんだが、管理職はなんて言ってた?」
本来親族が通う学校には勤務できないのがセオリー。だが朋絵ちゃんは俺たちが入学式で顔を合わせるよりも前に離婚によって縁戚関係ではなくなっている。互いに互いを知らなかったので仕方が無いのだが、状況だけを切り取ってみれば非常にまずい。
「相談はした。状況も理解したし納得もした。でも教師と生徒が同じ家に住んでるのはイレギュラーだから今年度で多分飛ぶ」
「そうか」
「あと公にするなって言われた」
「そりゃそうだ」
その後無言でしゃこしゃこする。口をゆすぎ、顔を洗ってスキンケアもする。
髪は寝癖だけ直して、リビングへ。
テーブルには二つの弁当と皿に乗ったジャムパンが置かれている。
座りながらパンをかじり、もぐもぐと咀嚼する。
「母さん、ジャム頂戴」
「まだ乗せるの?」
そう言いつつも母さんはジャムの瓶とスプーンを渡してくれる。
スプーンでジャムをたっぷり掬って足す。
口に入るジャムの量が増えて甘みが強くなったことを感じつつ、その甘みを消す様にブラックの珈琲を傾ける。
ドリップなんて買ったことありませんよ。いつもインスタントのチープ野郎です。
珈琲派閥は少ないんだよな、うち。母さんも親父も紅茶党だし。あと親父に至っては紅茶も基本は翌日が休みの日にしか飲まない。
対して強くもないくせに酒が大好きでブランデー入り紅茶が大好きだからだ。もちろんお茶請けは洋酒にたっぷり浸かったパウンドケーキ。
そういや数日の間珈琲の減りが早かった気がするんだよなぁ。
一回の消費量がそんなでもないから分かりづらいけど。
まぁ、気のせい……か? うん気のせいだな。俺も一日に数杯飲むこともあるし。
しばらくして香苗さんが起きてくる。親父は食事中。歯磨きも髪のセットもおえた香苗さんは俺の隣に座る。
朋絵ちゃんは多分まだ夢の中。今日の女バスの練習は午後だからだ。
席順は椅子を一個増やして三脚側に俺と二海姉妹が座る。だが親父と母さん以外の席はまちまちだ。だが俺が真ん中であることは状況を見て回避するので滅多にない。ちなみに俺が隣かどうかで朋絵ちゃんの態度があからさまに変わる。
親父と母さんは分かった上で傍観する構え。できればやんわりと諦めるように言ってほしい。俺はロリコンじゃない。そもそも二十歳になった子でも年齢差を考えるときついんだよなぁ。
せめて二十五……いや八。プラスマイナス五歳差。これがラインだろう。
うちの職場だと高橋先生辺りがゾーンなんだけど好みじゃない&既婚者。高橋先生には失礼な言い草だけどこればっかりは仕方がない。
「おはようございます」
「ええ。おはようございます」
「おはよう」
「んぐ。ん。……おはよう」
挨拶を交わした香苗さんの視線は俺の二杯目を入れた珈琲カップに注がれている。
珈琲飲みたいのかな?
……いや、それを気にするのは俺の仕事じゃないな。
彼女たちはあくまで同居人。同じ家に住んで同じ食事をしていたとしても、線引きは必要だろう。
踏み込むべきではない。家に迎え入れる。それが俺の出来る、いや、していい最大のライン。
それ以上は学校での朋絵ちゃんとの距離感が狂う。姉妹で差をつけるのは駄目だと思う。
だから家族として受け入れ、他人として扱う。そんな歪なところに着地点を作る。
それが二人にとっていいのか悪いのかは、数日たった今もさっぱり分からないけど。
無責任に責任をもつのは親父と母さんに任せる。
でも、朋絵ちゃんが卒業した時は。
……。どうするつもりだったんだろう。もしかして変えるつもりだった?
卒業しても教え子たちとの関係は変わらない。元がつくだけで、あくまで教師と生徒。それは俺の中では永遠だ。
じゃあ香苗さんはどうなるんだろう。家族なのに、他人行儀のままなのだろうか。でも朋絵ちゃんとの関係を変えられないなら香苗さんだけ無責任に責任を負い合う関係になってはいけない。じゃあずっと歪な関係のまま?
それでもいいか。
そう思うのに、少し頭の中が曇った気がした。
時間が迫って来たのでいつもの格好で職場に向かう。夏休みでも教師は休みではないのである。部活顧問は部活指導があるし、そうでなくても勝手に休めば無断欠勤になる。ちゃんと勤務日なのだ。
といってもやることは無い。担当学年を初めて持った時は板書計画を延々と作っていたが、何年もやっていると昔の板書計画を使い回せるので教科書の内容が変わらない限り手を加えることも少なくなる。
次案はテストだ。と言ってもテスト用紙を作り込んで行くわけではない。問題集のように問題を作っていくだけだ。できてストックされたそれを使ってテストの範囲が決まってから問題を足し引きして調整して一つのテストに仕上げる。その土台作り。
問題のストックはなんぼあってもいいですからね。
ここは進学校寄りだから問題集の問題をちょっと弄って出しただけだと平均点爆上がりするし。
ということで問題づくりをちまちま進めていく。
ペース? 一日に一問できればいい方。そもそも今までにすでにいくらかストックはあるんですよ。重箱の隅をつつくように新規の問題を作るのはほぼ無理。
と言う訳で活動的な部活を持っていない限り、基本的に来なければいけないだけで割と暇なのである。
もちろん忙しい人もいる。それは分署や係、学校の行事や規模によってまちまちなので地域学校教師の数だけ千差万別なのである。
昼まで休憩しつつPCを眺めて、いったん閉じて弁当を開ける。
おかずはほぼ冷凍だが、卵焼きは母さんの手作り。
いや、何かこの枝豆違う気がする。何と言うか、テカリが……。
一つつまんで口に放り込む。
……漬物?
クーラーは利いているがこの怠い季節にさっぱりしていていい感じだ。
覚えてたら母さんに聞こう。
午後も適当に過ごして就業時間になる。
「お疲れ様です」
出退勤に記録してから定型文を口にして職員室を出る。
なんとなく、本当になんとなく、家の最寄り駅を乗り越して二駅先の中心街に行く。街をぶらぶらと歩き、珈琲のいい匂いがしたところで見知った顔を見つけた。
ガラス張りの向こう側には業務用の焙煎機。その大きな機械とメニューに視線が行ったり来たりして艶やかなロングストレートの黒髪が揺れる。
かき上げた髪の下からちらりと覗くイヤリングが色っぽいが、ファッションがパンクなので少々イカツい。でも美人には違いないのですれ違う男が声をかけたそうにしながら諦めて通り過ぎていく。
あ、でも声掛けそうな同系統ファッションの男グループが来るな。
変なことになる前に声をかけておこう。
「香苗さん」
「はい?」
酷く気の抜けた声が上がった。いつもの凛とした感じではなく、とても可愛い感じだった。もしかしたらこっちが本来の彼女なのかもしれない。
「あ。……紀行、先生」
若干間があるのは気にしない。おずおず遠慮がちに声をかけられるところから普通に声をかけられるようになって、名前で呼ばれるようになったのがつい先日の事。彼女なりに馴染もうと頑張っていることを俺はちゃんと知っている。だから嬉しく思いこそすれその呼び方を否定しない。ちなみに呼び方の遷移は“あの……”から“先生”を経て“紀行先生”となる。だから俺もまだ彼女を朋絵ちゃんの保護者として扱う。
ちなみに朋絵ちゃんは一貫して先生呼びだ。俺の名前を言ったことはまだない。多分彼女は自分の気持ちをちゃんと理解していないのだろう。だから姉が俺の名前を呼ぶとき自分が少し表情を曇らせていることをきっと知らない。
「こんなところでどうしたんですか。入らないんですか?」
「ちょっとお値段が」
そう言う彼女の視線の先にある珈琲の値段は一杯650円。ケーキは季節のケーキのみで1000円。ケーキセットは1500円。サンドイッチも1000円。
うん。まぁ学生には高いよね。それに加えて彼女は居候の身。母の死に対して妹のために耐えきった自制心の強い彼女は珈琲一杯の贅沢すらも躊躇うのだろう。
でもここ昔からある店で美味いんだよなぁ。メニューはマジで少ないけど。
珈琲とケーキ以外はサンドイッチしかない。食べるなら二択の店なので悩まなくて済む上に味は保証されているのでいい店なのだ。店の内装と反比例するような強気の値段にさえ目を瞑れば。
「……今日は帰ります」
「分かりました。俺は店に寄っていこうと思うので、また」
俺は名残惜しそうな香苗さんを見送ってから、ガラス張りで木製フレームの重い扉を開けて店に入る。
「いらっしゃいませ」
バリトンボイスがやや薄暗い店内に静かに響き、マスターは一礼する。
「マスター。豆の持ち帰り出来ましたよね?」
「はい。できますよ。挽き方はどうなさいますか? ミルを持っておられるならば豆のまま販売もしております」
「初心者なんで何も持ってません。ここの味が多少劣るにしても家でも飲みたいと前に思ってようやく踏ん切りがついたんです」
「左様でございますか」
マスターは静かな笑みを浮かべる。だがその表情は悲しそうで、できれば店で最高の状態のものを飲んでほしいとしっかりと顔に書いてあった。
「では一般的に行われているペーパードリップなど如何でしょう。適した挽き方はこちらになります。適したペーパーも販売しておりますのでご入用であればご一緒に如何でしょうか」
いろいろと説明を聞き、必要な機材も店で揃えて購入。
自家製のケーキも五つ購入したためなかなかの出費になったが、個人的には無駄な買い物ではなかったと思っている。
支払いを終えて豆を挽いてもらっている間は待機席で待たせてもらう。
客もまばらな店内。目を閉じればミルが豆を挽くゴリゴリと言う音とインスタントとは違う素晴らしい香りが俺を包む。
いい珈琲を語れるほど舌は肥えてないし鼻も良くないけど、この瞬間は素直に楽しいと思える。
いや、楽しいとは少し違うか。多分これは期待だ。この音が終わり、理科の実験のようなサイフォンが動きを止める時。自分の元に最高の一杯が運ばれてくるのだと言う高揚感。
ただおいしいと感じるためだけの、準備期間。
その空気感が好きで大学時代は無理してよく通った。
今でもたまに来るが、もうちょっと頻度を上げようかしら。いや、ケーキ食べたら太るか。店で珈琲だけってのもなんとなく味気ないし。
ちなみにこの店、ドリンクはホットのブレンド一つしかないが、単品、ケーキセット、軽食セット、さらにはその三つを季節で微妙に淹れ方を変えているらしい。
個人的にはケーキセットが至高。異論は認める。みんなちがってみんないい。
豆に違いは無いので後は入れる人の腕次第だそうだ。さっきマスターが簡単に説明してくれた。
ミルの音がやむ。粉が袋に詰められて、丁寧に空気を抜きながら袋が閉じられる。ショーウィンドウの中のケーキが五つ紙箱に移り、これも丁寧に閉じられる。
「お待たせ致しました」
「ありがとうございます」
「またお越しください」
オーナーに礼で見送られて店を後にする。時計を見れば、思ったより時間が経っていた。
家に帰ってみると、香苗さんがちょっと不機嫌だった。
でも生徒やその保護者カテゴリの人に奢るのは違う。誘って割り勘はもっと違う。
だからこれが、最適解。
「お土産ー」
「あんた何買って来たの」
「エスポワールのケーキ」
「えすぽわーる……?」
「俺が大学時代よく通ってたメニューがブレンドとケーキとサンドイッチしかない店」
「あー、あの美味しいケーキがあるのに紅茶のない陰気臭い店」
オウ、喧嘩か? いい値で買うで?
……。
オーケー。ビークール。俺はキレてない。まだ大丈夫。
「母さん行きつけの美味いベーグルがあるのに頑なに珈琲置かないつまでもいちっちゃい屋台よりマシ」
「……」
「……」
静寂。一転。
「この糞ババァやんのかああん⁉」
「母親の息子に対するエロ系の把握率舐めんじゃないわよ! あんた最近脇にハマってるでしょ!」
「マジスンマセンしたぁーっ‼」
俺は素早くかつし慎重にテーブルにケーキを置いた後全力で土下座をかました。
いつまでたってもオカンに喧嘩で勝てる気がしない。いやでも女子が居るところで性癖暴露はマジ勘弁。
と言うか何で知ってるんだよ! 趣味変えたのここ数週間だし、ブラウザのシークレットモード使った上で履歴も足跡も全部徹底的に消してんのに!
ちらりと女子二人を見ると香苗さんは興味なさげに、朋絵ちゃんはあからさまな態度で二人とも耳を少し赤くしていた。
うーん姉妹。態度に違いこそあれど赤くなるところが一緒。
晩飯を食べ、テーブルが片付いたので俺は皆に聞く。
「珈琲飲む人ー」
「私とお父さんが飲まないの知ってるでしょ」
「分かってるよ。でも豆買ってきたから一応な」
「豆? 私が茶漉しが無いのに茶葉を買ったときの二の轍を踏んだの?」
「いや、全部買って来た」
そう言って俺は鞄の中身をテーブルに開ける。
中細引きブレンド珈琲豆200g。陶器製ドリッパー。ペーパーフィルター。珈琲サーバー。
「アンタこれ全部買って来たの?」
馬鹿じゃないのとでも言いたげな母の視線が痛い。
だが俺が許容できるギリギリを考えた結果だから許してほしい。
ケーキはあくまでおみやげ。買う以上全員に買わないとおかしい。珈琲は自分が淹れるついで。「お茶飲むけどいる?」くらいの話だ。
分かってる。詭弁だってのは。面倒くさい性格してるのも分ってる。
でも、線引きばっかりして触れ合わないのは寂しいじゃないか。
俺の下手な考えに気づかなくてもいい。気づいた上で無下にしてもいい。そんなことを考えながら、俺は気づかれないようにお節介を焼く。
でも、隠しながらでもせっかく差し出してみた手に気づかれないのも寂しいから。
俺は彼女と目が合った一瞬だけ、表情に感情を乗せる。
「ぁ」
そのか細い声は、声にすらなっていなかった。漏れ出た吐息。それが音を持っただけの、意味なんて無い音。でもその音を奏でるのに必要な感情はいくつあったのだろうか。
「ずるい」
「意地悪」
「お店で誘ってほしかった」
様々な文句がその小さな音に含まれている。
でも分かる。その文句の包み紙に何重にもぐるぐる巻きにされた、目にも見えないかもしれないほど小さな小さな粒。
願っていなければ。予想していなければ。見逃していたかもしれないほんの一握りのありがとう。
その感情を自分で咀嚼して、自分で見つけられないならそれでいい。わざわざ背中を押す気はない。
俺はただ、しっかりと前を閉じた外套の内から少しだけ表面を盛り上げる様に差し出した、というよりも前に出してみただけの手を、彼女の眼前でちらつかせるだけだ。
誰の感覚かは分からないが、その一秒は永遠のように長い様に思えた。
「珈琲、下さい」
そう言った彼女の表情は一面の悔しさに塗れていたが。布越しで、指先だけだったかもしれないけど。彼女は、確かに俺の手を取る選択を、自分で下した。
全員の返事を聞いて俺は珈琲の準備をする。珈琲サーバーは約五杯分。淹れるのは三人分。俺と、香苗さんと、朋絵ちゃんの三人。
朋絵ちゃんは無自覚なので葛藤は無い上に、子供なので与えられることに対する抵抗感が少ない。
「朋絵ちゃんはどうしますか?」と聞くと素直に欲しいと言った。
三人分を、マスターのアドバイスを思い出しながら入れていく。
その横で母さんが紅茶の準備をしていた。
会話もなく、器具を扱う音だけが響く。それで充実感があるのがうちだとおもう。下手な会話をしなくてもいい。なんとなく、フィーリングで通じ合えるこの家族が俺は好きだと胸を張って言える。
珈琲が出来上がった。不揃いのカップに注ぎ、テーブルへ。
「お待たせしました」
俺も親も必要としないが、砂糖とミルクもテーブルに。準備が終わるころにはウキウキとブランデーの瓶を抱えて帰ってくる親父。
飲むってことは明日年休取ったのか。
悪いが今日は付き合えない。気分じゃないからな。二日酔いには注意してくれ。
そう思って母さんの方を見ると親指を立てて見せる。
そういや冷蔵庫に2リットルのスポドリ入ってたな。
ケーキもそれぞれ行き渡り、手を合わせる。
ケーキのフルーツはマンゴー。今年の夏はこれらしい。
エスポワールは四季それぞれに一種類のケーキを用意する。この季節だからこれが食べられるというわけではないのである。
去年の夏は確かメロンだったか。
ケーキの前に珈琲を一口。香りはいい。唇をつける。強い香りが鼻に抜け、口の中に少量を含んで、俺はカップを置いた。
思わず右隣の朋絵ちやんを飛び越して香苗さんと目が合う。
「……ぷっ」
「……ふふっ」
俺たちは同時に小さな笑いを漏らした。同じ気持ちで、それも面白さに拍車をかけていた。
もう一口自分で淹れた珈琲を味わう。
不味い。
飲めるか飲めないかで言えば十分飲めるしインスタントよりは満足感が高い。でもエスポワールの珈琲の味を知っている手前、同じような香りをさせながらここまで期待外れに仕上げた事実が面白かった。
挽いた豆を買うことはもうないかもしれないな。
ケーキを一口。甘い。マンゴーの特徴のある甘みと滑らかな口当たりが珈琲に合わせるときっとおいしいのだろう。
珈琲を一口。うん。不味い。
口の中で笑い声を転がしながら食べ進める。すると珈琲の期待値が現実に修正されてきたのか味を楽しめるようになってきた。
やっぱあそこのマスター凄いわ。俺が下手に入れた珈琲でもちゃんと味自体は合ってるもん。
だからこそ可笑しい。完全に珈琲がケーキに負けているのに、何故かどこかで合っていると感じられるから。
俺と同じような、しかして鈴を転がす様な堪えたような笑いがずっと右から聞こえ続けている。
何も喋って無いのに、何となくこの中の誰かと通じ合っている。そんな心地よさが自分の心を充たしていく。
その感覚は、俺と香苗さんが同時に最後の一口を飲み切ったカップをソーサーに置いた音がかちゃりと重なるまで続いた。
デザートを食べ終え、しばらく食休み。
適当にテレビを見てダラダラして、俺がそろそろ風呂は沸けただろうかと考えていたその時。
「香苗ちゃん、先にお風呂入っちゃって」
あ、沸いてはいたのね。
「はい」
香苗さんは前に比べると大分素直になった。慣れた、と言ってもいいかもしれない。
着替えを取りに自室になっている和室に向かおうとして腰を上げる。
そのタイミングでふと昼間の事を思い出して口を開いた。
「母さん、今日の弁当の枝豆なんだけどさー」
「枝豆?」
「あれ何? すげーうまかったんだけど」
「さぁ?」
「……さぁ、って。自分で作ったか買ったんじゃないのかよ」
「だってあれ作ったの香苗ちゃんだし」
「へー……え?」
「二海家の味だって」
「なるほど。じゃあ毎日は無理か」
「何、気に入ったの?」
「割と」
「私は作れないわよ」
「香苗さんに頼んどいてよ」
「自分で作った漬物って防腐剤とか入って無いから足速いのよ? 弁当用にそんな頻度で作れなんて言えないわ」
「そんなに早いの?」
「長くて一週間くらいしか保たないらしいわね。浅漬けだと最悪一日で腐るってネットには書いてあった」
「マジか。じゃあ無理かー」
「欲しいなら自分で頼みなさい」
「へいよ。機を見て頼むわ」
「あんたが素直にそう言うなんてよほど気に入ったのね……」
「まぁ美味かったしなぁ。夏場だから特にだろうけど」
俺がしみじみそう言った瞬間、リビングのすぐ外辺りからバタバタと足音が聞こえた後勢いよく襖を開け閉めしたスパンッという音が聞こえた。
「母さん、俺マズったかなぁ」
「あー、全部聞いてたみたいね。でも大丈夫でしょ。悪いことは言ってないんだから」
「そか……」
脳が気にする問題ではないと判断して生返事を返してテレビの画面に視界を戻す。
流れているのは割と長寿のバラエティ番組。昔は面白くて見ていた気がするが、今のテレビのバラエティは見る価値が無い。一部農業や養蜂の勉強になる訳の分らん番組は除くが。
価値があるのは……駄目だ。全てネットが存在価値を掻っ攫う。
バイアス対策をしながら多角的にネットの情報を精査できるならば、情報の精度、早さ、信憑性の全てにおいてネットが勝る。
「テレビ番組って今存在価値あんのかなぁ」
そんな感想がぼそりと口をついた。
「先生はテレビあんまり好きじゃないんですか?」
俺の言葉に口を挟んだのは並んでソファに座っている朋絵ちゃんだった。
「何を見ても面白くないって感じますからね」
「バラエティは動画配信者のほうがおもしろいこと多いですね。でも音楽番組は私割と見ます」
「音楽番組? ネットにタダで落ちてるこのご時世にですか?」
「いえ、ネットの音楽って基本的に好きなのばっかり聞くじゃないですか。そうするとAIのアルゴリズムで好きそうな曲ばっかり出会うじゃないですか」
「それは、いいことなんじゃ?」
「そうでもないですよ。これだとロックが好きな人はロックばっかり、バラードが好きな人はバラードばっかり表示されて他のジャンルがあまり表示されません」
「あー、それで音楽番組でちゃんぽんされたのを見て新ジャンルを開拓するわけですか」
「はい。曲名なんかほぼ知らないですけど、おかげで今じゃロックもテクノも聞きますよ」
「今はって、朋絵ちゃんは元々どのジャンルから音楽に触れたんですか?」
「うーん……。私、元は多分クラシックなんですよね」
ほう、クラシック。そういえば。
「ピアノ経験者でしたっけ」
「はい。下手ですけどね」
流石にこの家にピアノは無い。二海家にも無いそうだ。小さいころ、レッスンに通っていただけの、実ることのなかった、色づくことさえ叶わなかった小さな蕾。
去年の合唱コンクールでも、ピアノが弾けるらしいと言うだけでその後話題にも上がらなかった欠片。本人も捨ててしまっていた可能性。
レッスンを止めても、もし好きだったなら触って遊ぶくらいいいのではなかろうか。
そう思ったのは、彼女の笑顔が未だ曇っていたからだ。
学校ではいつも以上ににこにこしている。でもそれは、本心を隠すための壁で、休み時間を見ても彼女から会話を振ることは無いように見える。
今でこそ家で外行きの仮面を脱いで、いろんな表情を見せる様になってきた。でも以前のようなはつらつさは鳴りを潜めている。
どこかのんびりとした、おしとやかな面が顔を出しているように感じる。
今だってそうだ。同世代の仲間の前では文字通り跳ねまわっていた彼女が、ソファの上で膝を抱えて大人しくし画面を眺めている。
きっと友達の皆は気づいている。事故のことはみんな知らない。でも感じていることはあるはずだ。この地域の子はある程度気を回せるから、気づいて、その上で合わせてそっとしていてくれている。
そんな空気を一番肌で感じて、一番理解しているのは朋絵ちゃんだ。
泣き叫んだりはしていないが、夜中に飛び起きて寝不足なのを知っている。
それこそ、いつもパッチリお目目だった俺の授業で寝こけるくらい。
彼女の傷は癒えてはいない。癒えるわけがない。それはきっともう一人も同じで。
線引きしている俺には直接的には何もできない。ただ少し、きっかけを与えるだけ。
俺は「ちょっと待っててください」と言いながら二階の俺の部屋の前に行き、廊下の天井を見上げる。
そこについている扉を開けて、倉庫と化している屋根裏からあるものを引っ張り出す。
袋に入ってはいたが少しホコリを被っていたので一旦自分の部屋でPCクリーナーを使って全体を拭く。
白いところが黄ばんでいる。でも欠けているところは無い。コンセントに繋いで触れると、しっかりとレスポンスが返ってくる。
親父にも、その前の持ち主にも大切に使われていた証拠だ。
俺の手垢もちょっとはついているだろうそれを抱えてリビングに行く。
「うわ……」
「あら、懐かしいもの出して来たわね」
母さんのあらあらとでも言いそうな声を無視して彼女の元へ。
端に詰めていた彼女を手招きして真ん中に近く座らせる。コンセントにプラグを差し戻って、彼女の膝の上にそれをゆっくりと置く。
「重くない?」
「大丈夫です。でも、これ、キーボード……?」
「骨董品ですけどね。親父が学生時代に中古で買ってバンドで使ってた奴ですから。だからほら、イヤホンジャックも対応してない」
そこで俺は一緒に持って来た変換アダプターを刺して、予備に買っていたさらの有線イヤホンを差し込んで朋絵ちゃんに差し出す。
「新しいやつだから大丈夫」
「いや、あの、え?」
テンパった感じは割といつも通りだな。少し安心した。
朋絵ちゃんが俺の手からイヤホンを受け取る。それを片耳に刺して、もう片方は持ったまま。
何を考えているかは分かるが、彼女が自分で口にするまで待つ。
逡巡したのは数秒。その後、おずおずともう片方を俺に差し出した。
俺はソファの後ろに回り込み、それを無言で受け取って、耳へ差し込む。
細く長く、白魚のような指が黄ばんだ鍵盤に触れる。撫でる様に触り、黒鍵の縁をなぞり、決まっていたかのようにその位置で指を押し込む。
ポーンと、懐かしく感じる音が響く。
「ふふっ。変な音。ちょっとくぐもってる」
鍵盤を指が順番に叩いていく。
レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
ピアノとは全く違うかもしれない。でも今、彼女は意識を自分の内面に向いている。
散発的な音。それが徐々に早くなり、徐々にメロディーを奏でる。
聞こえてきたのは、超スローテンポな“猫踏んじゃった”と“きらきら星”。
俺もこいつで弾いたことがある。楽譜が読める訳じゃない。親父に引いてもらって、押す位置だけを覚えただけの演奏。たどたどしく、音もいくつか外していたと思う。
でも、ただ楽しかった。自分の指が音を奏でるのが、この押したら音が鳴る変な箱が、とても面白かった。
そんな俺と重なるような下手な演奏。でも完全初心者だった俺と違い思い出しながら弾いている彼女はきっと、数日も練習していけば勘を取り戻すのだろう。
実際にテンポがどんどん速くなっている。
無言で鍵盤に指を這わせ続ける朋絵ちゃん。その音を、俺は黙って聞き続ける。
二人だけの静かな演奏会は、数分の間続いた。




