あなたが、時野紀行
母が亡くなった。私、二海香苗がその連絡を聞いたのは、バイトから帰ってきて靴を脱ぎ、母の帰りが遅いことを気にしながら自分の部屋に向かっている時だった。
知らない番号からの電話。取らないしコールバックもしないが、国際番号ではなく末尾が110番で、ずっと鳴り続けるから出ることにした。
「もしもし?」
電話口の人は警察を名乗った。淡々と、でも気遣うような口調で母の本人確認のため来てほしいと言う内容だった。
電話を切り、祈ると言うよりも縋る気持ちで警察の番号を調べてかけた。
私の祈りは、神様に届かなかった。
私は朋、妹の朋絵にいまあった話をそのまま伝えた。朋の第一声は「詐欺じゃないの?」だった。
妹と二人祈りながら母の元へ向かう。
別人であってほしい。他人の空似であってほしい。私たちの連絡先をその他人がたまたま持っていただけであってほしいと言う私の二度目の祈りも、神様に届かなかった。
見せられたのは母ではなかった。
ぐちゃぐちゃになったバッグ。その中の小物。装飾品。
どれもこれも見覚えがあった。
私が初めてバイトで貰ったお金で送ったもの。妹と一緒に選んだ誕生日プレゼント。要らなくなったからとあげたコスメ。
「あの、母には、会えないんですか?」
その答えはやんわりとした制止だった。でも私は食い下がり、朋といっしょに冷たくなっているらしい母に会った。
顔には白い布がかけられ、でも鼻があるはずの突起はなくて。身体も大きな布がかけられていて。不自然にでこぼこしていて。唯一綺麗で寝ているだけじゃないかと思える左手には二人目の父親である祥吾さんとの結婚指輪がきらきらと輝いていて。その腕には、妹を守るために付けた大きな火傷の痕があって。
「お、かぁ、さん」
その掠れた声に妹の目をしっかりと見て、私は感情を閉ざした。
「確かに、母です」
そう言って私は朋を抱きしめた。
ぷるぷる震える朋を支えながら家に帰って、後はどうしたか覚えていない。
寝ようとして寝れなくて。ご飯を食べる気も無くて。でも妹の食事は作らなくちゃと朋を訪ねて、心を閉ざした朋の姿に何かをちくりと痛めて。でも何とかしなくちゃいけないと思って使うはずの無かった一応登録していた電話番号にかける。
電話の向こうの能天気な声に怒鳴りたかった。でもそれは間違いってわかってる。だから私は無感情に、務めて平静に母の死を伝えた。
祥吾さんのはとこの人。祥吾さんのお葬式で一回会ったことがある。気のいいおばさんだ。
自分だけなら一人でなんとかした。でも私には妹がいる。妹のために、助けを求めた。
その日はそれだけで気力が尽きてしまった。
もう一回星空と東から上る太陽が真上になるのを見届けた後、一度顔くらいださないといけないと思った。幸い二駅はなれてるだけの距離。日帰りできるとちょっと安心して、メンタルが少し回復していると感じた。
物言わず、家では跳ねっ返りだったくせに変に従順になった妹を連れて家を出る。
お世話になる人たちの名前が時野さんであることを道すがら伝えると硬く握られて痛かった手にかけられていた力が弱まった。
時野。そう言えば妹の理科の担当教員もそんな苗字だったはず。
時野、紀行。妹の想い人。まぁ関係ないだろうと重い足取りを無理に進める。
目的地についてインターホンを押す。すぐにおばさんが迎えてくれた。
連れられてリビングに向かう。妹の手をしっかり握りながら。
リビングで出迎えてくれたおじさんは怖そうな人だけど本当は優しい人だって祥吾さんのお葬式の記憶が教えてくれる。
席に着くと、もう一人入って来た。程よく筋肉の付いたやせ形で、背が私よりもちょっと高くて。白いシャツにジーンズというラフな格好。顔は中の上? いや、上の下くらいかな。なんとなくやさしそうなお兄さ……いや、おじさ……。どっちだろう。見た目は若いけど、雰囲気がおじさんっぽい。その人が朋の顔を見て目を丸くしている。
その人が私たちの苗字を口から発したことで私は確信した。
ああ、この人が妹の想い人なんだって。
妹の様子を見ながら今後の生活について相談を進めた。信用できる人たちだとは思うけど、役所に提出する書類なんかは教えてもらいながら自分でやってみることにした。
その他にもとてもいい提案をたくさんしてもらえた。でも一人では決められなくて、持ち帰ることにする。
「……少し、考えさせてください」
私は立ち上がり、妹の肩に手を置く。すると朋も立ち上がってとぼとぼと廊下に向かって歩いていく。
あとは決めきれない問題を決めるだけ。そう思って心の中でため息をつきながらお暇しようとする。その時だ。ずっと黙っていた男の人二人のうち、若くて私が今一番警戒している人が声をかけたのは。
その人は私たちではなく、妹一人に声をかけていた。
その喋り方は仮面をかぶっているようだった。壁があるみたいだった。でもとっても優しかった。
彼の言葉に、妹のずっとつま先を見ていた顔が上がった。表情は分からない。でも右手が動いて、彼の左袖を握った。
「おかあさん、かえしてよぉ……」
その慟哭は、私が叫びたい言葉だった。
優しく背中を撫でられる妹をちょっとうらやましく思いながら、朋が泣き止むのを待った。
そうしたらなぜかご飯を頂くことになってしまった。
そう言えば一昨日の昼から何も食べていない。空腹も限界で、でも自分では決められなくて。だから私は妹に判断を委ねた。
朋は彼の料理を食べたがった。それは約五十時間ぶりの朋の自発的な行動で、嬉しく思いつつも私は自分が妹を支えられなかったことがとても悔しかった。二日ぶりのご飯と言うのを抜きにしても頂いたパスタが美味しかったのもちょっと悔しかった。
今度こそ帰る。そう決めてお暇する。相談した時みたいに食い下がられなかったのは良かったけど、彼が送ってくれることになった。
彼の後をついていく。私たちの足取りは相当に遅いはずなのに、全く彼との距離は離れない。まるで後ろに目がついているみたい。でもその姿は気だるげで、ポケットに手を突っ込んで歩く姿は不良みたいで。不意にタバコなんかが似合いそうだと思った。
それは多分、肺がんになっても最期までタバコを止めなかった祥吾さんのイメージ。不良みたいでも、とっても優しかった。義理の父の記憶。
死ぬまでジッポライターをカチャカチャやっていたその音を思い出す。
でも私の表情は、暖かい思い出を呼び起こされたはずなのに不機嫌なままだった。それはこの人を危険だと思ったから。
妹が好いているのも分る。顔立ちや喋り方は全然違うけど、同じ血が流れているからか雰囲気が似ている。
でも関係は生徒と教師。思い続けても幸せにはなれない。もし幸せにできても、中学生相手に本気でその結果を望む大人は信用できない。
駅に着いた。これでこの人と離れられる。温かい気持ちにさせられないで済む。妹の前でみじめに泣きたい気持ちにさせられなくて済む。
違う。義父を感じられる彼が一定の距離を置きならがも心を割いてくれる妹を羨ましく思わなくて済む。
その想いを、私は聞かなかったことにして心の奥底に封じ込めた。
彼が振り返る。私を見て、朋を見て、面倒くさそうに頭をがしがし掻いて、また振り返って。スマホを取り出して改札の中に入っていった。
改札の向こうの彼が視線で教えてくれる。横にいる朋に握られた手の痛みを。妹の不安に揺れる瞳の濁った色を。
その鈍く鈍ったヘドロを空気中に上げたような輝きは、妹には彼が必要なんだと私に理解させるには十分だった。
予定外に三人で電車を待つ。日曜日なのにやけに混んでいる。
電車が来て、流されるままに車内へ。流されるままに、けれども妹をしっかり守るように動く。朋を壁際に追いやって、一息ついた私は頭の横に伸びてきた腕にびっくりした。
他の人の邪魔にならない程度に、けれども私たちには決して触れないように、絶妙な具合で開かないドアに付けられた腕。
それが私たちを気遣ったものだと分かって少し嬉しく思ったけど、その視線は私を見ていないと知っているから。なんとなく私は妹と彼の間を自分の身体で塞いだ。
少し前に詰めればキスできそうな距離。唇を許すつもりなんて毛頭ないけど、妹の話を聞く限り悪い人じゃないんだろうけど、少し怖くて私は視線を泳がせる。
でもチラッと見た彼の視線が私の肩の向こうを見ていることを知って、その口元が目は死んだ魚みたいなのに安心させるように薄く笑っているのに気づいて。
彼の視界一杯に私がうつっているはずなのに無視されて、どうしようもなく。妹に。
また私は感情を消す。
電車が止まって、彼の腕がドアから離れる。腕に擦れた髪が少しくすぐったくて、体が勝手に動いてしまった。
伸ばした妹の手を遮るように伸ばされた私の手。その手が、暖かい温もりに包まれる。ぎゅっと握られて、人混みの向こうに引っ張られる。
私は慌てて朋と手を繋いで彼の後を追った。
人混みから引き抜かれて、彼の目に私が留まる。その目はどこまでも冷たく無感情なのに、その唇は薄く笑っていて。
でもその視線は、すぐに私の後ろへ。
潰されている妹を慌てて引き抜く。
二人そろって、彼がようやく口を開く。妹に向かって。
そして私をもう一度その瞳に捕らえる。私も気遣ってもらえるのかって期待したけど、それは甘かった。
「すいません。手、掴んじゃって」
どこまでも大きな壁。照れることすらない謝罪。
だから私も、その壁越しに返すしかなかった。
駅からの帰り道。今度は私たちが彼を先導する。少しすり足らしく、ざり、ざり、と心地よい足音が彼の存在を主張していた。
遅すぎるかも。早すぎたかも。そんな考えは十歩で消えた。きっと彼は付いてくる。遅ければ立ち止まって。早ければ走ってでも。逃げ出したくなっても、きっと妹の手は取ってくれる。
そして家の前。振り返えることもせずにマンションに入ろうとする。
妹が体を捻った。それでようやく気付いた。足音が一つ少ないことに。
人通りの少ない道。マンションの敷地に入った私たちと対比するように、反対側のビルの敷地ギリギリにポケットに手を突っ込んで立った彼は無機質な目で薄く笑みを浮かべている。
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。早く別れたい。そう一心に願って。
そして彼は言葉を紡ぐ。それは今まで見守っていた朋を拒絶する言葉。救いだったのは、朋がその彼の見せた行動を飲み込めるだけ回復していたことだ。
この数分の間に忘れていた。彼は教師。心配な生徒を家に送りはしても、家の中までは家庭訪問でもない限り入ってこない。
明確な線引き。
その事実が、私をほっとさせた。
踏みとどまってくれると知って。頑張りたいときに、無理をさせてくれると分かって。
でも。
正しい教師の安心させるような、仮面のような笑みを崩して。下手糞に口角を上げて。死んでいた目に、優しい光を宿して。
小学校の悪ガキがいじめを見過ごせなかった時みたいな不器用な笑顔で言ったんだ。
私の名前を。
朋の次にだったけど。ついでだったかもしれないけど。確かに私の名前を呼んで、しっかりとその視界に私をうつして。
口調を崩して、まるで兄のように。今目で見えている壁を一気にぶっ壊して。
家族だから頼れと、言ってくれた。
そのことを理解したのは、彼が別れも言わずに去って、家に入って、久しぶりに朋と一緒にお風呂に入って、寝間着でベッドに寝転んで寝れもしないのに目を閉じた時だった。
でも脳裏に映ったのは、祥吾さんと血のつながったお父さんの顔。
二人の父親が、そっと優しくも見守ってくれているように思った。でもそのぬくもりはきっと電車の中で彼が間違って掴んでくれた手の体温で。
私はどうしようもなく、彼の姿に父親を重ねてしまっていた。




