↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/33

生徒がウチに来た

 俺の今までの人生を色で表すなら灰色だ。色づいてもいないが、光り輝いても闇に染まってもいない。平々凡々な、いや、精彩を欠いた、面白みのない人生。

 何かを成し遂げようと思っても中途半端絵終わる。趣味という趣味もない。毎日ぼーっと過ごし、仕事だけは適度に手を気を抜きながらしっかりとこなす。

 面白みもなく、このままなんとなく果てていくものだと思っていた。

 俺の心は乾いている。自殺こそ考えないが、正直仕事以外は適当な生活をしていた。

 仕事場、七月になりクーラーが本格稼働した市立の中学校の教室を出て職員室に戻る。手にはチョークケースと教科書。板書計画と言うのも烏滸がましいほど簡素に書かれたノートと、授業で動画を見せるために使うタブレット端末。それを自分の事務机に置き、椅子に腰かけて首をコキコキと鳴らした。

 次の時間は空きコマ。次は六限目なので今日はこれ以上授業がない。

「時野先生」

 名前を呼ばれてその方向に顔を向ける。机に置かれたPCとブックスタンドで挟まれた教科書や資料集、今まで授業で使ってきた紙の資料なんかをまとめたファイルの向こうで首を伸ばすように同じ二年学年団の若い国語教師がこちらを見ていた。

「どうしました、内藤先生」

「今日金曜なんで行くんですけど、どうっすか?」

 そう言って内藤先生は俺に口元で猪口を傾ける仕草をする。

「あー……」

 俺は事務机の下に押し込んでいる中身スカスカのリュックを探り、財布を取り出して中身を見る。

 中身は千円札が二枚と一万円札が一枚。

 一万円以上あれば個人的には懐が温かいと思う方だ。

 別に金を使う予定はないし、断る理由はない。だが別段飲む気分でもない。

「うーん……」

「あ、気乗りしませんか?」

「そう言えば他の面子は? サシですか?」

「今のところは佐藤と処辺ちゃんっすね」

 佐藤先生は一年の数学担当の男性教諭。処辺先生は同じく一年の理科担当の女性教諭だ。二人とも俺と同じ理系だが、二人とも今年からうちにきた先生だ。夏休みを目前にするが同じ科目を担当している処辺先生とは異なり佐藤先生とはあまり接点はない。接点のある処辺先生にしたって仕事の話しかしたことはない。だが別に嫌な相手でもない。でも。

「それ、完全に若手の飲み会じゃないですか。こんなおっさん誘っちゃダメでしょ。あと祖の面子なら加藤先生も誘わなきゃ駄目でしょ」

「誘おうと思いましたよ。でも加藤さん今日休みでしょ?」

「……ああ」

「三年の学年団見て今気づいたって顔しないでくださいよ。他人に興味なさすぎでしょ」

「いや、朝電話を教頭先生に繋いだの今思い出した」

「相変わらずっすねー。で、どうします?」

「いや、やめときます。若手は若手同士で楽しんできてください」

「了解です。じゃあ処辺ちゃんに言っておきますね」

 その言葉にPCに向けていた視線を内藤先生の方に戻す。

「なんで処辺先生に……?」

「え、だって時野先生誘おうって言いだしたの処辺ちゃんだし……」

 処辺先生が? 意外だ。

 俺は新採指導教諭の先生の席でアドバイスを貰っている処辺先生の方を見る。

 彼女は眼鏡とスーツ姿がトレードマークで、女教師を体現したような見た目だ。愛嬌のある狸顔の癖に眼鏡とメイクでキツそうに見える。だが性格は内向的で、いつもおどおどしているのが主に三年男子生徒の人気をかっさらっている。

 あ、勢いよく頭を下げたところを見ると話は終わったようだ。

 少々シュンとなりながら歩いてきた処辺先生を内藤先生が呼び止める

「処辺ちゃーん」

「はい?」

「時野先生来ないって」

「え? 来ないん、ですか?」

 処辺先生の顔がこちらを向く。その表情は捨てられた子犬を彷彿とさせた。

「うん。若い子の話についていける自信はないですからね」

「時野先生、おいくつ、でしたっけ?」

「三十三」

「十一歳違いで、話についていけなくなる、んですか?」

「うん」

 そうは言いつつ生徒の話の内容についていけるらしい処辺先生にはピンと来ないかもしれんが。

 俺? もちろん分かりませんよ。流行りとかさっぱり分らん。

「いつなら、空いてますか?」

 うん?

「別にいつでも空いてるけど、どうして? というか、その聞き方から察するに俺と飲みに行きたい感じですか?」

「えと、その、あの、えっと、……、はい」

 俯きながら言った最後の言葉は消え入りそうに小さい。

 断ったのは単純にどちらかと言えば気分が乗らなかったらだ。別に何か理由や予定があった訳ではない。

 この感じだと今断ってもまたどこかで誘われそうだ。それも面倒に思ったので素直に意見を変える。

「内藤先生」

「はいはい了解っす。じゃあ八時半の予定で。店はいつもの華吉。よかったね処辺ちゃん」

 華吉は内藤先生の行きつけの居酒屋だ。

「八時半了解。指導とか入らなければいいんだけど」

「入っても八時半なら大丈夫でしょ。指導で八時超えるって相当っすよ」

「でもない訳じゃないから……。学校によっては日付変わってから帰るとか普通にあったから……」

「あー……」

 本当に嫌な思い出だ。生徒も酷かったが親も酷かった。指導で親を呼んでも繋がらない、来ない、平気で遅れる。明らかに子供が悪いのに謝りもしない。逆ギレならまだいい方だ。感情的になると言うことはまだとっかかかりがあるから。一番大変なのは無関心。どう説明しても「はあ……」としか言わない親たち。

自分たちの産んだ子供だろうが。ちゃんと面倒見ろよ。俺らの勤務時間は17時55分までなんだよ。何が仕事で十時まで来れませんだ。ふざけんじゃねぇぞ。

「時野、先生……?」

「ん? ああ、ごめんごめん。昔のことがフラッシュバックしてね」

「大丈夫、ですか?」

「大丈夫大丈夫。もう昔のことだから。ここはそんな酷い地域でもないしね」

 指導での辛さと親が金を持っているかには相関性があると思う。金を持っている親は、そうでない人もいるが、たいていは躾方面で子供の教育をしっかりしているところが多い。そのため子供にやってはいけないことの分別がつきやすく、問題が起きにくい。

 まぁ、そう言う地域の子供は賢しいので問題が表面化しにくいという問題もあるのだが。

 子も親も馬鹿が過ぎていろんな意味で指導が大変な所と、普段は落ち着いているが気づいた時には大事化している所。どちらがいいとは一概には言えないが、起きまくる上に大事化する地域があるのでそれに比べればどちらもマシである。

 ちなみに今務めているところは普段は落ち着いている所である。三年務めているが、爆発が起きたのは一回。去年の三年でいじめに対し親が出てきた時だけだ。

 あの時はどちらが悪いとも言えず収拾がつかなくなった結果だった。

 会話を終えてしばらく教材研究をしているとチャイムが鳴る。今年は担任を持っていないが、副担を持っているクラスの担任が講習に出るため既に学校を出発しているので配布プリントを入れておく棚を確認し、中身が無かったので手ぶらで教室に向かう。

 廊下を歩き、二年二組の教室に入る。

俺の姿が見えた途端にがやがやしていた教室が静かになって立っていた子も着席する。これは俺が怖い先生である証左ではなく、単にみんないい子なだけである。

「日直さん、終学活をお願いします」

 俺の言葉に二人の生徒が進み出てきて終学活を進行する。俺はその様子を扉の側で聞きながら、掲示物が張ってある場所を眺める。

 今日の掃除当番は教室が二班で特別区域が三班。だが担任が出張なので特別区域は無し。

「続いて先生からの連絡です。先生、お願いします」

「はい。ありがとうございます」

 振られた俺は席に戻っていく二人を見送って教壇の前へ。

「今日もお疲れさまでした。連絡は特にありません。あ、いや。もう俺が居る時点で分かっていると思いますが、担任の早乙女が出張なので特別区域の掃除は無しです」

 俺は背後を振り返って黒板の上の時計を確認する。チャイムは……今鳴った。

「じゃあ、チャイムも鳴ったので号令をお願いします」

 俺の指示で日直班の班長が「起立、礼」と言う。

「さようなら」

「はい。さようなら」

 俺が言い終わるとにわかに教室が騒がしくなる。皆が机を前に移動させ、日直の二班が各々箒を手に掃除を始める。俺も掃除用具ロッカーに行って箒を手に取る。

 生徒はお喋りをしながらもちゃんと掃除をしていく。俺はその会話を聞きながら手を動かす。

「先生」

 廊下の方から声がかけられたのでそちらの方を向く。そこに居たのは、髪をポニーテールにした一人の女子生徒だった。

 身長は160センチくらい。確か女子バスケ部の子だ。他教科は知らないが、第一回の定期テストでは96点と学年最高点を取った生徒として覚えている。

「どうしましたか、二海さん」

「授業のことで質問があるんですけど、いいですか?」

「どこですか?」

 中学校の教科書の内容ぐらい頭に入っている。だからそう聞いたのだが、二海さんは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

「掃除の後でもいいですか?」

「……部活は?」

「今日休みです。早乙女先生が出張で加藤先生が休みなので」

 顧問不在では部活はできない。それがルールだ。

 俺も部活を持っているが、週二活動の科学部であり、今日は活動日ではない。

 科学部が週二回の活動なのは決して俺がものぐさだからではない。この学校に来る前から科学部は週二回活動だったのだ。まぁあんまりやる気は無いので活動日を増やそうとも思わなかったのだが。部活をやるくらいなら授業のクオリティを上げたい。

「わかりました。教室で待っていて下さい」

 俺がそう告げると二海さんは「ありがとうございます」と言って自分の教室に戻っていく。

 掃除が終わり、俺は二海さんが待つ隣のクラス、二年三組の教室へ足を踏み入れる。

 二海さんは自分の座席でノートと教科書を広げていた。

「おまたせしました」

「あ、先生」

「で、どこですか?」

 二海さんが指さして聞いてきたのはノートにメモ書きのように書かれた内容。それは俺が授業中に口走った高校生物の内容だった。

「気にしなくていいって言ったのに」

「でも知ってて損はないでしょ?」

 そう言って二海さんは笑顔を浮かべる。

 彼女は頭がいい。この内容もおそらく調べただろうし、理解しているはずだ。だが彼女は必ず俺で答え合わせをしてくる。

 俺は肩をすくめながら一つ一つ解説をしていく。その間二海さんは、ずっとうれしそうな顔をしていた。


時刻は二十時二十分。特に問題が起こることもなく、内藤先生に指定された集合時間に店に着くように学校で暇をつぶして出てきた。

店の前でスマホを取り出し確認。内藤先生にメッセージを送るともう皆来て中に入っているとのこと。

ここはそんなに大きな店ではない。中に入れば見つかるはずだと当りを着けて店の引き戸を開ける。

「いらっしゃーせー!」

 居酒屋特融の大きな声が響く。

「何名様ですか?」

「いや、待ち合わせで。もう居る筈なんですけど……あ」

 内藤先生と目が合って片手を上げて呼ばれる。

「いました」

 客の動きを見てそのままレジに向かった店員さんとすれ違うように俺は席に向かう。四人テーブル席で、内藤先生の横には佐藤先生が座っている。開いているのは背中を向けている肩出しの私服姿の女性の隣だが……。

 え。この美人大学生とかでAVに出てそうなねーちゃん、処辺先生? 雰囲気も何かいつもと違うし……。なんというか、おっとり系?

「おまたせ」

「お疲れっす。もう始めてますよ」

 そう言って内藤先生はお猪口を掲げる。同じように隣の佐藤先生もビールが半分ほど入ったジョッキを掲げる。

 俺はリュック置いて席に着く。

「みんな一旦帰ったんですか?」

「俺は一回帰りましたよ」

「僕は買い物してから来ました」

 処辺先生は答えないが服装を見る限り一回帰っているはず。

 店員さんに生と枝豆を頼み、貰ったおしぼりで手を拭く。しばらくすると注文したものが運ばれてきたので俺はジョッキを手に持つ。

「んじゃ、俺らは二度目ですけど、カンパーイ」

 内藤先生の音頭でジョッキとお猪口とグラスをぶつける。そのままジョッキに口をつけ、中身を半分ほど飲む。続いて枝豆を一つ。

 ビールはあんまり好きではないが、飲み会の一杯目はこれでなければ違和感がある。

 唇に着いた泡を舐めとっていつも通り店の喧騒と会話に耳を傾けるが、このテーブルに会話は無い。揺れる黄金色の水面を見ていた目を正面に向けると、若手男子二人が揃って俺の隣を見ていた。

 隣を見ると処辺先生が両手を膝に置いて俯いている。気にしてもしょうがないので話しやすい内藤先生に声をかけた。

「で、今日の話題は?」

「んー、若手の親睦会のつもりだったんですけどね」

「それ、俺が完全にお邪魔虫じゃないですか」

「そんなことないっすよ。若手かって言われると微妙に首を傾げますけど。というか時野さんを呼んだのは処辺ちゃんなんで」

「ああ、そういえばそうでしたね」

「んで、楽しい話は用件が終わってからって話になって。処辺ちゃん? ほら、固まってないで」

 あ、これ固まってんのか。でもなんで?

 そう思った瞬間処辺先生がテーブルのグラスの中身を一気に呷る。

 匂い的に芋焼酎のロックか。

「あ、あの」

 ああ、このドモり具合は確かに処辺先生だ。というか改めてしっかり見ると美人だなー、この子。化粧の質がいつもと違うのもあるけど。どっちかって言うと今は可愛らしいか。

「何ですか?」

「あの、えっと、あの」

「はい」

「こ、これ」

 そう言って処辺先生は自分の鞄から小さな包みを取り出して俺に差し出す。

 近くのデパートの包装紙だな。

「これは?」

「その、お、お礼、です」

「お礼?」

 はて。何かしただろうか。

「えと、その、いつもフォローしてもらって、授業を見せて、見て、もらった上に、解説も、していただいて」

 たしかにそれはした。だが。

「お礼はその場で既に言ってもらってますよね?」

「あう」

 処辺先生は少し唸って助けを求める様に視線を彷徨わせて正面の席の二人を見た。

「あー、学校長になんか言われたらしいっすよ」

「ボスに?」

 学校長はそんなにキツイことを言うような人ではないのだが。

「あの、もっと時野先生には、感謝した方がいいって、言われて」

「あー……」

 それは言いそう。学校長は「普段から色々な人に感謝しましょう」みたいなことは言う人だ。穏やかな顔で言うので常に感謝を忘れないようにというぐらいの意味合いなのだが、気弱で気にしいっぽい処辺先生は怒られたと感じてしまったたらしい。

 気にしないでって言ってもお礼の品は受け取らないと性格的に委縮させるか。正直面倒だが。

「言葉だけで十分ですよ。でもお礼の品は有難くもらいますね」

 そう言って差し出されたままだった包みを受け取ってリュックに。果たして中身は何だろうか。

 俺がお礼の品を受け取ったことで明らかにほっとした様子の処辺先生。振り返ってそのまま丁度良く通りかかった定員さんに芋のロックを注文している。その様子を見て正面の二人は苦笑いだ。

「そういや佐藤」

「なんですか、先輩」

 内藤先生と佐藤先生は大学時代の同じサークルの先輩後輩になるらしい。

「お前、今日の買い物って彼女へのプレゼントか?」

「いいえ? 違いますよ」

「あれ、美晴ちゃんの誕生日ってそろそろじゃなかったっけ?」

「いつの話してるんですか。美晴は前の前の彼女ですよ。今は別の子です」

「いつから?」

「今年の二月?」

「お前、社会人に、それも教師になってどうやって彼女作んの? 俺出会いないんだけど」

「バーとかで一人で飲んでたら向こうから声掛けてくるんですよ。別れて一ヶ月経って寂しくなってきたんで丁度いいかなって」

「んなわけあるか。これだからイケメンは。でもお前浮気とかしないよな。それだけは偉いわ」

「彼女がいるのに他の女を女として見る意味がワカラナイです。そういやイケメンと言えば時野さんもイケメンの部類ですよね」

 いきなり話を振られた。俺は飲み会では聞き専なのに。

「俺? そうかなぁ。モテたことないけど……」

「時野さんは無自覚なイケメンっすからねぇ。後なんか渋い大人感がある。タバコとか似合いそう」

「吸わんよ」

 一時期ストレスから吸ってみたことはある。でもどうにも体に合わなかった。

「後俺がイケメンは無い無い。もしそうなら彼女の一人くらい居ただろうさ」

「でも生徒には人気でしょ?」

「ん? んー……」

 言うほど人気か? 嫌われている訳でもないしだいたいの生徒が素直に話を聞いてくれるが。

「そういや三年の女子が何だかんだで話しかけてくることはある、か」

「ほらぁ。普通学年と部活の先生以外覚えらないっすからね?」

「今年は声掛けられたんですか?」

「いや? いつも夏を越えたあたりで卒業したら付き合ってくださいとか言われる」

「……それ、何て返してるんですか?」

「四年制の大学を卒業できる年齢になって想いが変わって無かったらまた告白してくれって言ってる」

「それほぼムリっすよね。私学でもない限り基本六年で移動なんだから」

 だからそう言ってるんだよ。

「本気なら探すでしょ。というかみんな冗談で言ってるだけですよ。もしくは夏の暑さにあてられたか」

「いやでもうちの学年にもいるじゃないっすか。去年から時野さんを気にしてるのが、一人」

「誰?」

「うちのクラスの二海」

 あー、まぁ、うん。気づいてはいる。意識しないようにはしてるし、決して表には出さないけど。

「あの子はなぁ……」

「結構ガチっぽいっすよ。時野さんが昼食指導行った後の授業はテンション高い」

「そうなんですか? 俺の時はあまりいつもと変わらないけど……」

「時野さんの授業の時は基本的にテンション高いっすよ、二海は。積極的に発言してるのは時野さんの授業くらいっす」

「そうなんですか。というか十代半ばの子が三十超えたおっさんを意識するってのがよく分らん。年齢倍近いのに」

「あの世代の女子は大人びた男に夢見がちな子もいますから」

 そういうもんかね。

「そういや佐藤は生徒にはモテんの?」

「まぁ、それなりには」

「告られたりとかは?」

「仕事初めて三年ですけどまだないですねー」

 なんとなく会話から外れた感じがしたので意識をぼんやりと広げる。

 喧騒ととりとめのない会話。それを肴に飲むのが一番心地いい。

「あの、焼酎、芋、ロックで」

 隣でそんな声が聞こえる。

 そう言えばずっとそのフレーズを等間隔で聞いてたな。

 閉じていた目を開けて隣を見ると運ばれてきた芋焼酎のグラスを一気飲みしている処辺先生の姿。

 おいおい、そんな飲み方して大丈夫か?

 処辺先生はグラスを置いてこちらを向く。その目はとろんとしていて顔は若干赤い。

「時野先生」

「はい?」

「モテるって本当ですか?」

 あ、ドモりが消えてる。というかさっきの会話聞いてたのね。

「あんま実感ないですけどね」

「今までお付き合いした方とかは?」

「いや。残念ながら一人も」

「ふふっ」

 何がおもろいねん。どつくぞ。いやしないけど。暴力、ダメ、ゼッタイ。

 視線を戻した処辺先生は上機嫌に冷奴を口に運ぼうとして、シャツの裾にそれを零した。

 べちゃっとシャツに付く冷奴。醤油のせいで放って置いたらシミになるのだが、処辺先生は動かない。無言でそれを見つめるだけだ。

「処辺先生、はやくしないとシミになりますよ」

 思わずティッシュを差し出しながら声をかける。するとなぜか処辺先生はぼろぼろと涙を零し始めた。

 えぇー。なんでそういう反応するのよ。

「おきにいりの、シャツだったのにぃ」

「まだ大丈夫だから。ね?」

「うう。やりかた、わかんない」

 非常に面倒くさく思いながら水を注文し、俺は処辺先生を自分の方に向かせる。そして「ちょっと失礼しますよ」と言いながら崩れた豆腐を取り除き、醤油がついた部分に裏から乾いたティッシュを当てて表から水で濡らしたティッシュで叩いて簡易的な染み抜きをする。

 ティッシュを替えながらしばらくやるとほぼ完全にシミを取ることが出来た。

「こういうところなんだよなぁ」

「割と時野さんって面倒な女子作ってそうですよね」

「引き寄せるなら分かるけど作るって何ですか作るって」

 訳が分らん。

 しばらく処辺先生を宥めた後、時間も時間なのでお開きとなった。だがそこで問題が一つ発生した。

「くう」

「佐藤、これ、どうするよ」

「あ、僕は宗教上の理由で彼女以外の女子には触れられないので」

「知るかボケ。いいから手ぇ出せ」

 三人で拳を出す。

「最初はグー」

「じゃんけん」

「ほい」

 俺はグー。内藤先生と佐藤先生はチョキだ。

「男気じゃんけんってことで」

 おい。

「まぁでも実際の所時野さんが適任だと思うっすよ? 彼女いないし」

「それは内藤君も一緒でしょうが」

「いやー、スーツならまだしも今の処辺ちゃんを介抱して自制が利くかな、と。割とタイプなんで」

「おい犯罪行為はヤメロ」

 冗談だとは分かるが言っていいことと悪いことがある。……冗談だよな?

「分かりましたよ。俺が送ればいいんでしょ」

「すんません。代わりにここは俺らが払うんで」

「いいよ。俺もちゃんと払います」

「いやいいですって。俺らも日ごろ世話になってますから」

 確かに相談に乗ったり愚痴を聞いたりしている。去年から一緒の学年の内藤先生は特に。

「じゃあお言葉に甘えて」

「先輩、ゴチになります」

「バカヤロウ俺とお前で割り勘だよ!」

 仲良く言い合いながら伝票を持ってレジに向かう二人。その二人の背中から視線を外し、寝こけている処辺先生に声をかける。

「処辺先生。起きて下さい」

「んう」

「帰りますよ」

「うー」

 起きた処辺先生は鞄を持って立ち上がろうとするが、そのままよろけて床にぺたんと座り込んだ。

「お客様、大丈夫ですか?」

「すいません。すぐ何とかしますんで」

 店員さんにあやまりつつ、とろんとした目の処辺先生に手を差し出す。処辺先生は目の前に差し出された手を取るが、力が入らないのか立とうとはしない。

 致し方ないか。

 俺は処辺先生の腕を掴み、首に回して引き上げ、支える。

「帰りますよ」

 寝ぼけ眼で頷く処辺先生を半ば引きずりながら店の外へ。

「完全に泥酔してますね」

「あれ、佐藤君は?」

「あっちで彼女と電話してます」

 見れば電柱に持たれるようにして佐藤先生が電話をしている。目が合い、手を上げられたので手を上げ返すとそのまま電話をしながらすたすたと去っていった。

「じゃあ時野さん、処辺ちゃんをよろしくお願いします」

「ああ。お疲れ様。あとごちそうさま」

「お疲れっすー」

 内藤先生を見送り、俺はずれてきた処辺先生を支え直す。

「処辺さん」

「……」

 聞いてるんだろうか。

「家どこですか」

「……うあ?」

「処辺さん! 家!」

 そのあとなんとか聞き出した住所をスマホで調べると近くのマンションだった。

 処辺先生を引きずって彼女の家へ向かう。

「鍵貸して下さい」

「ん」

 渡された鞄をため息交じりに受け取り、一度処辺先生をおろして鞄の中を漁る。

 どこに入ってるのか分からずしばらく探したが、見えにくい所のポケットに入っていたのでそれを取り出して開錠。処辺先生を担ぎなおして家の中へ。

 部屋数はそんなに多くはないが、不用意に開けられないので廊下からそのまま続いているリビングへ。窓際に吊られている目に毒な洗濯物を視界から外しつつ、部屋の中央に鎮座している大きなソファの上に処辺先生を寝かせる。

 冷蔵庫を開けて途中の自販機で買っておいたスポーツドリンク二本突っ込む。

 冷蔵庫の中身がすっからかんだ。さてはこの子自炊してないな?

 鞄からメモ用紙を取り出し、置手紙を書いてテーブルに。鍵を閉め、メモに書いた通りその鍵をマンション入り口の郵便BOXに入れて帰路につく。零時を過ぎているのでもう終電はない。俺の家はここから二駅ほどだが、あしたは休みなので金をケチって夜道を歩く。しばらく歩いていると踏切に差し掛かった。そこだけ真新しい破片が飛び散っていたので、事故があったのだと分かった。

 月明りの中よく見れば、線路に入ったところのフェンスが内側から凹んでいる。

 あ、これ電車と車の接触事故か。人が死んでなきゃいいけど。

 そんなことを思いながら家へと向かう。

 なんでもない一日。こんな日が、ずっと続くと思っていた。


飲み会から一日空いて日曜日。なんとなくリビングのソファに座りながら処辺先生のお礼のクッキーをつまみつつテレビでニュースを見ていたら、金曜の深夜に見た事故のことが報道されていた。

内容は電車と軽自動車の接触事故。しかし顛末は踏切内で衝突事故を起こした車の片方が線路内で立ち往生し、相手が何も対処せず逃げ、軽自動車のドライバーはおそらく気絶しており、誰にも気づかれず特急列車が突っ込んだという何とも言えない状況だった。

当然軽自動車のドライバーであった女性は死亡。はやく最初に接触事故が起きた時に逃げた人が捕まることを願う。

「紀行ー」

 母さんが俺の名を呼ぶ。

俺は実家暮らしだ。一人暮らしをしても良かったが、する理由が見つからず親も追い出そうとしなかったので未だに居ついている。

「どったの?」

「ちょっと女の子預かるかもしれないから。二人」

「は?」

 思わず聞き流そうとしていた会話に意識を持っていかれて母さんの方を見る。

「誰よ」

「親戚の子。私のはとこの奥さんの連れ子」

 えーっと、母さんのはとこということは俺の祖父母の従妹の子供。その奥さんの連れ子と言うことは俺に血縁関係はない。

「それ他人って言わない? というか祥吾さんところの奥さん? え、離婚してなかった?」

「しょうがないじゃない。関係あるのがうちだけなんだから。それに祥吾からも恵美ちゃんからも何かあったらできる範囲で助けてほしいって頼まれてたし」

 祥吾さん。つまり母さんのはとこは病気で一昨年亡くなっている。その数年前に離婚しており、恵美さんはその元奥さんだ。離婚したと言っても病気による金銭的な理由で仲は良かったらしく、葬儀には恵美さんとその娘二人も出席したそうだ。

 逆に俺は葬儀には出ていない。仕事があったし、いくら親類がうちの一家しか残っていないとしても再従伯父では忌引きは使えない。そもそも子供の頃に会っただけの関係なので死んだと聞いても「ふーん」と薄情な感想しか浮かばなかった。

「なんかあったの?」

「うーん。恵美ちゃん、事故で死んだって」

「あらま」

 と言うことは子供は天涯孤独か。かわいそうに。

「というかうちで面倒見るの?」

「うーん。お姉ちゃんの方が大学生でバイトもしてるって話だから住むところさえなんとかなれば大丈夫なんだろうけど……」

「それも難しいと」

「賃貸マンションらしいからねぇ。遺産はあるけど将来のことを考えると手は付けないほうがいいだろうし」

「マンションの家賃っていくらくらいかかんの?」

「安くて五万くらいかしら」

 うちは一戸建てだし一人暮らしの経験も無いから高いのか安いのか分らん。

「生活費って一家庭どれくらいなん?」

「家庭の状況や人数によってまちまちだけど、うちはあんたの手取り超えてるわよ」

「……今親父が死んだらマズイな」

 親父は既に定年を越えているが、俺と同じ教師でまだまだ働いてくれている。ありがたや。

「そうよー。お父さんに感謝しなきゃね」

「というかその親父には?」

「もう話した。頑張って働くって」

 親父は了承済みらしい。娘が増えると喜びそうだ。

 姉貴にはダダ甘だったからなぁ。それがウザかったのかさっさと結婚して家を出たけど。

今何してんだろ。もう子供がいるのは知ってるけど。

「まぁ気にしても仕方ないか」

 喉が渇いた俺はキッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出す。その一瞬で冷蔵庫の中身をチェック。

めんつゆがもう残り少ないな。

 喉を潤してその足で買いだめしてある調味料や乾物の保管BOXへ。めんつゆを探すが、無い。

「あれ、めんつゆ買ってなかったっけ?」

「そこに無い?」

「うん」

「じゃあ今度買ってくるわね。しばらくは使わない……かな?」

「いや使うって。冷蔵庫見ろよ。ざるそばだと一人分くらいしかないぞ」

 俺の言葉に冷蔵庫のめんつゆのボトルを確認した母さんは飲気に「あら~」と言っている。

「ちょっと行ってくるよ。なんか買うもんある?」

「んー……、納豆? あと卵」

「了解」

 俺はリビングに戻ってテレビを消し、部屋で着替えて財布を持って近所のスーパーに出かけた。

 買い物を終え、帰ってくる。買ったのは注文の納豆と卵。本命のめんつゆ。あとほうれん草としめじとベーコン。

「ただーいまー」

「おかえり。で、今日の晩御飯は?」

「ベーコンとしめじとほうれん草の和風パスタ」

「あんた……ホントにパスタ好きねぇ」

「いいじゃんかよ。好きなんだから」

 文句を言いつつ買って来たものを冷蔵庫へ。冷蔵庫を閉じたところで着信音が鳴る。

自分のを確認するが違う。と言うことは母さんか。

「あら、香苗ちゃんだわ」

「誰よ」

「さっき言ってた二人のお姉ちゃんの方」

 そう言って母さんは電話に出る。

「もしもし。大丈夫? ……・。うん。…………うん。……え? 大丈夫だけど、……ええ。……。…………分かったわ。待ってるから、気を付けておいでね」

 何とはなしに母さんの言葉を聞いていたが、おいでと言ったということは今日来るのか。

「来るの?」

「そうみたい。お世話になるからご挨拶にって。自分たちが一番つらいでしょうに」

「まあ、それは、うん。俺は部屋に引きこもってていいよね?」

 正直プライベートで若い女の子と接するのは怖い。

「アホなこと言ってんじゃないわよ。後部屋着に着替えないこと」

「へーい」

 出かけたそのままの姿で二階の自室に戻り、ミニコンポの電源を入れて曲を流し、スマホを開いて電子書籍を読む。読んでいる本の内容は推理小説だ。

 しばらく読書をしているとうとうとしてくる。寝ぼけ眼になりながら、ベッドに飛び乗って来た来た飼い猫二匹を撫でる。このまま寝ようかなとも思ったが、ギリギリ意識がはっきりしているところでインターホンのチャイムを耳が捕らえた。

 母さんが玄関に向かう音が聞こえる。俺は体を起こし、一つ伸びをした。

 階段を降りる。リビングの方を見ると、到着した客人の後姿が見えた。

 母さんの後ろについていく170センチくらいのモデルみたいな印象のロングストレートの女の子と、その子に手を引かれた比べると少し背の低いポニーテールの女の子。二人とも少し派手めなファッションをしている。

 三人に遅れて俺もリビングに入る。既に親父は俺から顔の見える席についており、その横に母さんが、向かいに客人二人が座る。

 椅子はもう無いので両親の後ろに立とうと俺は移動する。だが客人の、特に妹と思わしき女の子の顔がはっきり見えるようになるとまだ微妙にあった眠気が吹き飛ぶことになった。

 そこに居たのは。

「二海、さん?」

「……」

 教え子の、二海朋絵さんだった。


 二海朋絵。俺が務める市立中学校の二年生。いつも元気はつらつとした可愛らしい笑顔が特徴の子だが、今の彼女の表情は暗く歪んでいる。

「なに紀行。知り合い?」

「え、あ、うん。教え子。というか今授業持ってる子……」

 俺がそう答えると姉の方が俺を一瞬値踏みするような目で見た。だがすぐに柔らかな表情を浮かべると、座ったままだが丁寧なお辞儀をした。

「急にお邪魔してすみません。改めまして、二海香苗です。こっちは妹の朋絵」

「ううん。大丈夫よ。大変だったわね」

 母さんが二海さんのお姉さんと話をするが、俺の耳にはほとんど入っていなかった。

 二海さんが親戚の子? あれ、祥吾さんの苗字って時任じゃなかったっけ? あ、母親の方の旧姓か。え、教え子預かんの? 不味くない?

 そんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。

 二海さんはずっと俯いている。会話は全てお姉さんがしていた。

「たまにでいいので妹を預かっていただくことは可能ですか?」

「二人ともうちで住んでもいいのよ?」

 母さんの言葉にずっと黙ったままの親父も大きく頷く。

「流石にそんなご迷惑をかける訳にはいかないです」

「学校はどうするの?」

「……大学は辞めて働きます」

「朋絵ちゃんは?」

「とりあえず高校までは私がなんとかします。大学は、自分で頑張ってもらうことになりそうですけど」

 二海さんのお姉さんは凛としていた。身内に不幸があったというのに、毅然と振舞っている。だがそれはやはりどこか無理をしているように見えた。

「香苗ちゃん。こんなこと言われるのは嫌だろうけど、まだあなたは子供よ? 大人に頼るのは恥じゃない。自分を犠牲にしちゃだめ。その辺をよく考えなさい」

「でも」

「でも、じゃないの。さっきも言ったけどうちで二人の面倒を見るのは決定事項よ。それはあなたたちの親から託されたことでもあるの。面倒を見るならうちで一括で見た方が面倒が少ないわ。どうしても今の家に住みたいならそのお金も出してあげる」

 親父を見たが何もアクションを起こさないところを見ると既に納得していたか母さんに全権委任しているだけか。

……後者か。うちはカカア天下だからな。

「……少し、考えさせてください」

 そう言って二海さんのお姉さんは立ち上がり、二海さんの肩を叩いて立ち上がらせる。

「あ、ちょっと待って下さい」

 そんな言葉が俺の口をついて出た。全員の視線が集中する。

 俺は頭の後ろをがしがしと掻いて二海さんに近寄り、俯いたままの彼女に目線を合わせた。

「大丈夫? とは聞きません。今、あなたが大丈夫じゃないのは知ってるから。いつでも来てください。話はちゃんと聞きますから」

 メンタルケアは教師の本業ではないが、修めておくべきスキルである。

 こう言っておけば明日以降、少し休んだとしても学校に来やすくはなるだろうと思っただけのことだった。

 二海さんの顔が上がる。虚ろな目が俺と合う。握りしめられていた拳が開き、俺のシャツの袖を掴んだ。

 一文字だった少しかさついた唇が開く。

「お母さん、死んじゃった」

 二海さんの言葉に、お姉さんが目を少し見開く。

 俺は二海さんの言葉を待った。

「いなく、なっちゃった」

「はい」

「おかあさん、かえしてよぉ……」

 慟哭。二海さんは、俺の袖をくしゃくしゃにしながら同じくらい顔をくしゃくしゃにして泣き続ける。

 俺はそんな彼女の背中を、そっと撫でた。

 昨今はセクハラだのなんだのとうるさいご時世だが、経験談として何も言わずに背中を撫でてやるのが一番効果的だと思っている。

 すべてを吐き出させるように、優しく。

「あんた、ホントに先生してんのねぇ」

「うっさい。ほっとけ」

 二海さんが泣き止んだのはしばらく後のことだった。

 時計を見れば五時半。少し早いが夕飯時である。

「落ち着きましたか?」

「……はい」

「お茶、飲みますか?」

 二海さんはふるふると首を横に振る。

 声ががらがらだから聞いたのだが、本人が要らないと言うなら要らないのだろう。

「母さん、そろそろ飯作ろうと思うんだけど、どうする?」

「ああ、そうね。あんたにしては気が利くじゃない。二人も食べていきなさいな」

「でも、そこまでご厄介になる訳には……」

「今日中に処理しなきゃいけないものでもあるの?」

「ない、です、けど……」

 断るならばここであると言っておけばいいものを。姉妹揃って結構正直な子みたいだ。

「朋絵ちゃん、どう?」

 母さんの言葉に二海さんがお姉さんの方を見る。

「朋が決めていいよ」

「……先生の料理、食べてみたい」

 その言葉で、俺は茹でるパスタの量を決めた。


 器は五つ。されど席は四つ。仕方が無いので俺は自分の分を持ってソファに座る。

 うちの食卓は基本無言だ。文字通りのお通夜モードなので黙々と食事が進む。

 パスタ、ベーコンじゃなくて明太子でもよかったな。まぁ高いから明太子パスタはパウチの奴使うけど。

食べ終えた皿を横に置き、スマホを弄る。普段通りなのだが、何となく気まずい。

全員が食べ終えて母さんがテーブル全員の食器を重ねてキッチンに持っていくのを見て自分の分も持っていく。

「よろしく」

 俺は自室に戻ろうかと思ったが、何となく足を向けるのを止めてソファに戻った。テレビをつけ、サブスクで配信されている昔見た微妙に古い洋画を流し、それを見ずにスマホの画面を流れるSNSを眺める。そうしているとすぐに二海さんのお姉さんが口を開いた。

「今日は失礼します」

「泊っていってって言いたいところだけど、着替えとか無いものねぇ」

「はい」

「気を付けて帰ってね。まだ日は落ちてないけど、駅まで紀行に送らせるわ」

「いえ、そんな」

「紀行」

「へいへい」

 俺は一旦自室に戻ってスマホと財布をポケットに玄関へ。

「行ってきまーす」と言いながら二海さんと申し訳なさそうな表情に不満げな色を隠したお姉さんと三人で外に出る。

「あっつ……」

 二人を先導するように、長くなった影を追うように歩いていく。

「あの……」

「はい?」

「パスタ、ごちそうさまでした。美味しかったです」

「お粗末様です」

 それ以降の会話は無い。ただ茹だる様な暑さの中、歩みを進めていく。

 十分もしないうちに駅に着く。二人の家、つまりは職場である学校の校区まで二駅。

俺はここで別れる。そう思って後ろを振り返る。

二人が居ないなんてことは無く、ちゃんと後ろにいた。だが、二海さんの瞳に映った色をみて俺はガシガシと頭の後ろを掻いた。

迷わず改札にスマホのケースに入れた定期券の交通系ICカードを翳して入場する。

「え……?」

「……行きますよ」

 俺はそう言ってお姉さんに二海さんの方を視線で示してやる。彼女もその目の色を見て、俺の行動を理解し、ほんの僅かに少し悔しそうな顔を一瞬見せてから改札をくぐった。

 日曜だが案外混んでいる。時間帯の問題だろうか。

 電車がホームにやって来て、流れるまま奥の窓際に押し込まれる。

 俺は二人をドアの側に押し込み、満員電車に潰されないように手をついてスペースを作る。

 吐息のかかる様な間近で、あまり口で息をしないように、されど鼻息は荒くならないように注意して二人の表情を見る。お姉さんは隠しているが警戒の色が強い。今にも背中を向けたいだろうが、二海さんを庇うように俺との間に割り込んでいる。結果的に顔がすごく近い。おそらく、態勢を変えずにキスできるくらい。そんな彼女の脇から見える二海さんは俺たちのすることに身を委ねているようだ。だが伸ばしはしないが、その手が宙を彷徨っている。おそらく手を伸ばした先は、俺の袖。視線でなんとなく分かる。

 しばらく電車に揺られて最寄り駅についた。人の壁をかき分けて。どちらかの手を引いてホームに出て、そのにょきっと生えている腕を引く。

 引っ張り出したのはお姉さんのほうだった。そのお姉さんに引き抜かれて二海さんも顔を出す。

「大丈夫ですか?」と俺は二海さんに問いかけた。

「……はい。ありがとう、ございます」

 いつも通りとはいかないが、会話はできるようになってきたようだ。

「すいません。手、掴んじゃって」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 二海さんのお姉さんが微妙に視線を外してお礼を言う。握られた手の感触を消す様に握る拳を見て、俺は無言で背を向けた。

 今度は二人についていくように後を歩き、その後姿を見守る。

艶のある黒いロングストレートとポニーテールが揺れて、夕闇の中に見失いそうになる。本来ならばきっと輝くような存在感があるだろうに、その後姿は消え入りそうに儚く見える。

二海さんの心は辛いと叫び声を上げた。俺のおかげでというと烏滸がましいだろうが、上げることが出来た。きっと今本当に辛いのは、お姉さんの方。感情が叫びたくても、理性がそれを許さない。

親が居ない今は、自分が家長だから。妹が苦しんでいるから。恥を忍んで助けを求めないといけないから。泣いている場合じゃないと、きっと心を押し殺して。

俺には彼女を助ける義務も、責務も、権利も、今はまだ無い。

だから彼女には手を差し伸べられない。彼女の理性は、まだそれを望んでいないから。望んではいけないと知っているから。

あのルックスなら彼氏くらいいるだろう。彼女が感情を吐き出す相手さえいれば、きっと大丈夫。だから俺が自分の領分を越えて手を差し伸べる必要は無いし、してはいけないのである。

俺がこんなことを思うのは、感受性が強いからだ。普段から意図して同調しないように他人に無関心でいるが、今回ばかりは勝手が違う。

手を差し伸べるべき生徒と、その姉。

肉親を失うと言う強い感情。

お姉さんだけなら心を閉ざして無関心を決め込んでいる。だがそうできるはずが無かった。彼女が壊れれば、二海さんも壊れる。お姉さんが気を張っているから、妹であるあの子は安心して感情をさらけ出すことを許される。そんな危ういバランスの上に二人はいる。

だからこそ、二人に手を差し伸べられないことを口惜しく思う。

 そして俺は、これから二海さんも突き放す。

 彼女らの住んでいるマンションまで来た。光と闇の境はもう西の空に流れていて、街灯の無機質な明かりが辺りを照らしている。

俺は歩みを止める。先に気づいたのは二海さんだ。続いてお姉さんも気づいて振り返る。

「ありがとうございました」

 そう言ってお姉さんは頭を下げた。二海さんは俺とお姉さんの間で視線を彷徨わせ、俺が踏み込める限界を理解して理解したくなくて。でも少し戻った自制心で唇をかみしめる。

「二海さん」

「……せんせ……」

「また学校で。しんどいなら無理してこなくても問題ありません。勉強は君ならすぐに取り返せます」

 そこで俺は一旦言葉を切る。意識を切り替える。

 ぎこちなく、弟の癖に、不器用に、精いっぱい、イメージの中の兄のような顔を作って。

「朋絵ちゃん。香苗さん。俺らは親戚らしいから、うちにはいつでも来てくれればいい。母さんの連絡先は知ってるんだろ? いつでも連絡してくれ。余裕があれば迎えに行く」

 二人の表情を見ることもなく、返答を聞くこともなく、俺は踵を返して夜の闇に消える。

 なんであんなこと言ったんだろうと、自分の馬鹿さ加減を呪って再び心を閉ざしながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。