どうしたもんか
時が少し過ぎて、秋の学校行事は軒並み終わった頃。俺は家の近くの料理屋で学校長とあっていた。
既に空は黒い。つまるところ晩飯に誘われた訳である。
「呼ばれたから来ましたけど、僕、外に出ていいんですか?」
「うちの校区に入らなければ大丈夫ですよ。あと二海さんが同行しない事を徹底してもらえれば」
あ、そうなんだ……。自宅待機指示だから外出禁止、連絡禁止だと思ってた。
「ああ、連絡は基本的に禁止させてもらっています。私を通してもらえれば許可は出せますが。わざわざ言うことでもないのでみんな連絡禁止だと思ってるみたいですね」
はっはっはと笑いながら温かいお茶を傾ける学校長。
俺たちのいる半個室に料理が運ばれてくる。この店は全国チェーンの日本料理屋で、俺も学校長も季節の寿司御膳を頼んでいた。
「まぁまぁ話は食べながら」
そう言われて食事に口をつける。この御膳は寿司と天ぷらをメインに小鉢がちょこちょこというものだ。来たことは無いが、天ぷらがさくさくで美味い。
「どうですか。家ではお変わりありませんか。二人とも」
「僕はとりあえず入試に向けてずっと準備中ですね。暇、と言い換えてもいいですけど」
「彼女の方は?」
「なんか急に落ち着きましたね。甘えてくるのはいつも通りですけど、不の感情に対して自制が効くようになってきたというか、香苗……お姉さんを巻き込んで一緒に居ることが多くなりました」
そうなのである。朋絵ちゃんは少しづつだが変化していた。まず、部活に出られるほど学校に居られるようになった。帰ってきても泣かなくなった。俺に甘えるのはいつもの事だし、俺の部屋に入り浸っているのは相変わらずだが。
「ふーむ……。すこしづつ成長してきてるのかもしれませんね。学校の様子も以前のように明るくなってきたと内藤君から聞いていますし」
そう言って学校長は茶碗蒸しの器の中身を箸で軽くかき混ぜてから吸い物のように口をつけた。
「茶碗蒸しって飲み物でしたっけ……?」
「ああ、私の曾祖母がこうしてたんですよ。マナーにうるさい人で。なのでこれが本来の……というか、昔の正しい食べ方なんじゃないかと。今風に見ると汚いかもしれませんがね。ほら、この店はスプーンもついてませんし」
スプーンはただの置き忘れじゃなかろうか……。木のコースター……でいいんだろうか。それにスプーンを置く用の窪みがあるし。
俺も学校長も職業柄ゆっくり食べる方ではない。早々に食事を終えて、実務的な話に入る。
一番の話は、噂の件だ。
「鎮静化には時間がかかると思っていましたが、二海さんの行動がいい様に解釈されて鎮静化どころか時野君の名誉挽回になりましたね」
どういうことだ?
朋絵ちゃんの行動が俺を失って意気消沈しているように見えて、本当に付き合っていたら会えるんだからあそこまでにならないだろうという風潮になって噂自体が流れたという話は聞いていたが……。
聞くところによるとそれが生徒の中で新たな噂になり、自分たちが不用意なことを言ったから俺が辞める事態になったのだと言う空気になったのだそうだ。つまり朋絵ちゃんと同じ思考に至ったのである。それが親に伝わり、どう話されたのかは分からないが、事実無根の冤罪であんなに生徒に慕われている先生が辞めてしまったという話になったらしい。
「保護者の方から君の現場復帰を望む声も出てますからねぇ。特に噂をしていた子供たちの親から。うちの子のせいですみませんと」
「はぁ……」
本当に何が上手く転ぶか分らんなぁ……。
「なので自宅待機指示を解いてもいいのではという話になったのですが……」
「無理でしょうね」
俺はそうきっぱり言い切った。
当たり前だ。真偽はどうであれ、俺は勉強のために現場から退くと言ってみんなと別れたのだから。
「この手の話は移動した後も長引くのが常なので、こう言っては何ですが、こんなに早く手のひらが返されるとは思ってもみませんでした」
「でしょうね」
「なので時野君が戻って来れるのは来年から。入試に落ちたという理由をぶら下げて。どちらにせよ、年度末まで君の自宅待機指示を解くわけにはいきません。いろいろと制限があるのでご不便をおかけしますが」
「せめて飲みに出られるようになりませんか?」
「一番ダメですねぇ。買い物やたまの外食ならまだしも、お酒を飲むと遊び歩いているという風に見られて体裁が保てないので」
分かってた。分かってたよ。別に元々飲みに行く方じゃないから別にいいんだけどさぁ。でもたまにはパァーッと行きたいときもある訳よ。
普段はそうなる前に誰かさんが誘いに来てたわけだけど。
「まぁ、それは我慢しますよ」
「ありがとうございます。で、どうします? 復帰」
「あー……戻った方がいいですか?」
「出来れば。理科教員の数が足りないのは君も知っての事でしょう?」
それはそう。でも。
大学院すっごく面白そうなんだよなぁ。がっつり行く気で担当教員の先生とも仲良くなったし。今更行けなくなったので試験落としますって言うのもなんだかなぁ。
そういう考えが顔に出ていたのか、学校長が困ったような笑みをこぼす。
「行きたいですか、院」
「まぁ、……はい」
「その想いを私たちは応援します。胸を張って学んできて下さい」
「ありがとうございます」
礼を述べ、お茶を飲み、視線を落とす。
「悩み事ですか?」
「いや、処辺さんが落ち込みそうだな、と」
「そうでした。好意を持たれているのは知っているんでしたね。気になりますか?」
気にならないと言えば嘘になる。なんというかアイツ大丈夫か? という方面でハラハラする。
「とりあえず仕事はきっちりやってくれるので、やることを与えて頑張ってもらってます。とりあえず一時のような屍のような状況からは脱していますが……」
「あ、何か問題があるんだ……」
「旗月さんにメンタルケアをしてもらってます。泣いているそうです」
「泣いちゃいましたか……」
「泣いちゃいましたね」
俺と学校長の間に気まずい空気が流れる。
「なんとかなりそうですか?」
「おそらく……聞いてる話では君が戻ってこない限り何とも。連絡は禁止にはしていませんが控えてほしい状況ではありますし、そもそも連絡先の交換もしてないんでしょう?」
「する必要がありませんからね」
「時野君、割とドライですよね。好意を持たれているなら連絡先くらい貰っておこうみたいな考えは無いんですか?」
「相手をする気も無いのにそれは不誠実でしょう」
「君、意外とお堅い感じだったんですね……。内藤君の見せてくれた動画の軟派な姿からは想像できません」
「あの動画や写真は忘れて頂けると……」
「あ、そうそう、動画で思い出しました」
そう言って学校長は端末を鞄から取り出した。
というか、これ学校の備品じゃ……?
「君にお土産です」
学校長は一緒に学校の備品であるヘッドセットを端末に接続して俺に手渡す。俺はそれを装着し、動画を見始めた。
動画の内容は、合唱コンクールと体育祭。技術の進歩と言うか、備品で撮ったものでもなまじ性能が良くなってきているので画質も音質も言うほど悪くはない。
飛ばし飛ばしで動画を見る。だが二年生の所はやはりしっかり見てしまう。
結果自体は朋絵ちゃんから聞いていたが、こんな感じに仕上がったか。ホールで聞きたかった。
体育祭の方は満遍なく見る。そしてふと部活動対抗リレーの所に目が留まった。見ていた科学部の子が白衣をバトンにして翻しながら走っている。だいぶ前の先生が置いていったもので、もうボロボロだ。それを微笑ましく見守る。映像が変わって今度は運動系の部活。こちらには教員の走者も含まれる。
まずは女子の部。まぁ、普通だな。例年通りの光景。続いて男子の部。やっぱりと言うか何と言うか、内藤先生がいい笑顔をしている。
あ、なんかボディビルで見るようなポーズした。暑苦しい。というかその後ろのポニーテールは処辺先生か?
何となく見ているとトップバッターは内藤先生。相変わらず速い。で、アンカーの番になって、処辺先生が走る。
……うっそだろオイ。
「処辺さん足はっや。追い上げで運動部の三年男子を抜くか……」
「彼女、400メートルの選手だったらしいですよ」
ああ。陸上トラック競技で一番過酷と噂の種目か。あの腹も納得だわ……。
ある程度見終えて、端末を返す。
「ありがとうございました」
その後もしばらく話して、解散となる。
払いは学校長が持ってくれた。
別れて、家に帰って、ソファに身を投げ出してなんとなく映画を見ていると、悔しさがこみあげてきた。
「見たかったなぁ……」
というか、参加したかった。
「どしたの、ユキ兄」
「ああ、朋絵ちゃん。いやね、今日、校長先生に合唱コンクールと体育祭のときの動画を見せてもらったんだよ」
「あ、見たい。見せて」
「あはは。貰った訳じゃないからね。で、それを見てたら、その時その場に自分が居なかったことが悔しくてね」
「ユキ兄。ごめんね。私が不用意だったばっかりに」
朋絵ちゃんは俺に謝る。もう取り乱すことは無いほど落ち着いているし飲み込んでもいるのだが、自分のせいだとはずっと思っているようである。
後ろから俺の首に腕を回してしっとりと抱き着いてきた朋絵ちゃんの腕を撫でる。君のせいじゃないよと言いながら。
「こらー、そこの背徳関係ー。ここリビングだからねー。イチャつくなら部屋でやってきなさーい?」
「断じてイチャついとらんわ。あと母さん、背徳関係言うな。俺たちゃ健全だ」
「中学生と三十超えたおっさんがベッドでイチャついてるのが健全?」
「……。違うな」
思いっきり不健全だ。
「ま、私は嫁候補になってくれるなら別にいいけどね~」
「そこで手のひらを返すな。あと朋絵ちゃんも本気にしない。少なくとも成人するまでは認めないよ、俺は」
「えー……」
「えーじゃないの。流石に犯罪者にはなりたくない」
「ユキ兄。私、女としての魅力ない?」
また答えにくい質問を。
「そんなことないよ。実際モテてるでしょ?」
「ユキ兄にモテなきゃ意味ないもん。で、どうなの?」
「俺がロリコンだったら、危なかったかもね」
「私、ロリじゃないよ? 身長162センチあるし。筋肉もあるし。胸はないけど」
「朋絵ちゃんが言ってるのは外見の話ね。俺が言ってるのは年齢の話。まぁ、正しく言うとペドフィリアだし、そもそも朋絵ちゃんはもう十四歳だから当てはまらないんだけど」
「?」
何が何だかわからないという顔をする朋絵ちゃん。
まぁそりゃそうだわな。ロリコンは造語でペドフィリアはちゃんとした病名だなんてわかって使ってる奴なんて少数だろう。
「結局私はどう思われてるの……?」
「同年代なら好きになってたよ。同年代なら」
しっかり同年代を強調する。
「おじさんって若ければ若い方がいいんじゃないの?」
「人によるかなぁ、その辺は。そう思ってる人でも下限があったり、逆に年上の方がいい人もいたり」
「ユキ兄は?」
「プラスマイナス五歳。頑張って十歳。下は頑張ればあと五はいってもいいけど、それ以上は流石に客観的に見た自分がキツイ」
「えーっと、ユキ兄は今年三十四だから……私ダメじゃん!」
「だから障害が多いって前に言ったでしょうが。それでもって言うなら、大人になってからさらに年食って頑固になった俺を振り向かせてみることだね」
「む~」
ほぼ不可能であると伝えたつもりだ。だがこのほぼと言うところがミソで、本気ならば食い下がれる余地を残してはあげた。
「好きな人とか好かれてる人とかいないよね?」
「あー……」
「いるの⁉」
「処辺先生」
「……誰?」
「一年の理科の先生。眼鏡にスーツって言った方が分かりやすい?」
「あのバカみたいにおっぱい大きい先生?」
酷い言い様だ。
「そう」
「好きなの? 告白されたの? どっち⁉」
「どっちでもないかな。でも向こうの気持ちは知ってる」
「……どうするの?」
「どうって……どうもしないよ。もう会うこともほぼ無いだろうし」
「どうして?」
「大学院を卒業したら別の学校で復帰することになってるんだよ、一応。だから、処辺先生……というか、今の学校の先生たちとはもうさよなら」
そうしたら別の人も見つかるだろう。美人なんだから寄ってくる男もいるだろうし。
全く、なんで俺なんかを好きになったのか。俺には勿体ないよ、二人とも。
「一回戦った方がいいかな……」
「朋絵ちゃん? 学校で俺の話は学校での思い出話以外厳禁だからね? せっかく治まったのにまた火種が出来て煙が立つから」
「はぁい」
素直な子で助かる。
映画を一本見終わり、別の作品を探す。朋絵ちゃんは首に纏わりつかせたまま。
と言うか頭にそれなりの感触を感じているんだけどね。言わないけど。
決して楽しんでいるわけじゃないよ? この子、言ったら押し付けてくるから。胸にコンプレックスがあるみたいで俺が自分の胸に反応したと分かると喜んじゃうの。
コンプレックスに感じるほど小さくはないと思うんだけどなぁ。まぁ原因ははっきりしてるけど。
香苗がねー。見て分かるほどのモノをお持ちだから……。同じ血が流れてるのにどうしてって思うのは分かる。逆だけど、姉貴がそうだったから。身長。あいつ、胸はそこそこあるのに身長153で止まったし。
顔もいいから親しくない同級生に「お前のねーちゃんロリ巨乳なんだろ? 紹介して」と何度言われたことか。うん。親しくない同級生ね。親しい同級生、貞宗や桐吾、順平なんかはそんなことは絶対に言わなかった。姉貴の被害者同盟だから。代わりに頭や背中で胸の感触は知ってるけど。それ以上に拳骨や正拳突きの痛みを味わっているから。
姉貴、パーじゃなくてグーなんよ。母さんと一緒で。多分直伝。
「ねぇー、ユキ兄ー」
「はぁい?」
「お部屋行こぅ?」
夜のお誘いみたいな言い方をするんじゃありません。
「部屋でも見れるでしょ?」
「映画は画面大きい方がいい。というか座ったら?」
俺がそう言うと朋絵ちゃんは背後から移動して座る。俺の膝の上に。
そうきたか……。
「まだやってんの? だからイチャつくなら部屋に行きなさいっちゅーに」
今日の家事を終えた母さんが呆れた声を出す。
「俺は映画を見てぼーっとしたい」
「部屋のパソコンでも見れるでしょ?」
「だからデカい画面がいいんだって……」
そう呟くと、丁度香苗が「お風呂頂きましたー」と言ってリビングに入って来た。
「ほら、朋絵ちゃん。お風呂入って来な」
「一緒に入る?」
ベビードール姿でガタガタ震えてた子が何言ってんだか。
「いいから入って来な」
「はぁい」
朋絵ちゃんがぱたぱたと風呂場に向かう。それを眺めてから画面に視線を戻して次何を見るか悩んでいると、香苗が隣に座った。女子が好きそうな甘い缶チューハイを二つ持って。
「飲まない?」
「そっちから誘ってくるのは珍しいね。頂くよ」
そう言って俺は持って来たうちの一本を受け取る。
梨のフレーバーか。確か期間限定の奴だ。秋の。
プルタブを引いて缶を空け、二人で缶をぶつけ、口をつける。
甘ったるい。だが嫌いじゃない。
ブランデーも甘いからね。まあこの缶チューハイは糖分の甘さで、ブランデーはエステル化合物の香りが甘さを錯覚させてるだけだけど。
「アンタ……朋絵ちゃんの次は香苗ちゃん? 刺されるわよ?」
「香苗とはそういう関係じゃねぇ!」
「名前もいつの間にか呼び捨てだし」
「家族面するならさんを取れって怒られたんだよ」
「へえ~ぇ」
そう言いながら母さんは自分の寝室へと引っ込んだ。
「ったく、あのオカンは」
「私らってそう見えるのかな?」
「どう……なんだろ? でもそれ気にしてこうやって気軽に飲めなくなるのは嫌じゃない?」
「そうね。それはそう」
適当に見る作品を決めて流す。薄いアルコールの缶をちびちびやりながら画面の映像に目を滑らせる。
「なんかあった?」
「分かる?」
「さっきも言ったけど、そっちから誘ってくるのは珍しいから」
そう言って香苗はゆったりした二人掛けのソファの隣から少しお尻をずらし、コテンと頭を俺の肩に預けてきた。
「本当に珍しいことするね」
「んー。ちょっと嫌なことがあってねー」
とりあえず好きにさせる。
「男の人って、ホントに……。はぁ。みんな紀行さんみたいなら、選ぼうって気にもなるんだけど」
「苦手なタイプに告白でもされた?」
「ん……。近い、かな。バーに誘われたの」
「お酒の趣味が合わなかった?」
「そこね、女子のネットワークで、裏注文で女の子に出すお酒にアルコールを強いのに変えるって情報があるお店なの。で、横にはラブホ。同じ親会社のね。裏には反社もいるって話」
「なるほどね。俺みたいならってのは?」
「気遣ってくれて、優しくて、性欲が無い人」
無茶言うなぁ……。特に最後の。
「それは無理でしょ。女の子に近づくのに性欲……というか下心のない男なんていないから」
「……じゃあエスポワールに行った日や居酒屋で会った時の紀行さんはどうなるの」
「おっさんが若い子相手にしてたら風評が酷いから」
「これでも成人してるんだけど?」
「……俺に惚れられたいの?」
「違うけど、眼中にないって言われると女として腹が立つ」
めんどくせぇな。
「歳が離れてりゃ男女の友情は成立するってところじゃないの?」
「ふーん……。じゃあ私、一生誰かを好きになることは無さそう」
「また極端な。もう大人だから言うけど、究極的には自分が性欲を感じる相手を好きになればいいんだよ。結局生き物は繁殖してなんぼだから。あとは理性で、ダメ男を除外すればいい」
俺がそう言うと香苗は少し耳を赤くして缶の中身を呷った。
これは性欲を感じた相手はいるっぽいな。良き哉良き哉。命短し恋せよ乙女。
さっきの言葉で考えるなら、大人しいタイプか、もしくは軟派に振り切った子が該当する。その上で相手が好きになってくれるまで性欲を隠し通せないといけない。よっぽど誠実か極端に女慣れしてないとできない芸当だ。
たまにだけど、居るんだよな。そういうヘンな奴。
香苗に肩を貸しながら映画を見る。流しているのはそこそこ古い洋画で、丁度流れているシーンは濡れ場だった。
今更それでどうこうなる歳ではない。有名な大スターでもこの頃は演技下手だったんだな、とか、こういう仕事も大変だな、くらいの感想しか浮かばない。
「みんなこーゆーのしか頭にないんだよねー……」
「真面目な子もいるでしょ?」
「そういうのは女子に相手にされてこなかった陰キャか既に誰かのものだしね。陰キャどもはせめてヘアケアとスキンケアしてから出直せって感じだし、浮気な男はノーセンキュー」
「事情があって別れたって子もいるでしょ?」
「フラれた男は問題があるし、フる男にロクなのはいない」
この子も大分こじらせてんなぁ。
「陰キャ君を育てるのは?」
「陰キャはむっつりなだけで性欲お化けだって友達が言ってたよ。じっさいチラチラ見られたり、噂されたり」
打つ手なしか。
「その辺は耳が痛いね」
俺がそう言うと、香苗は肩から頭を離してジト目で俺を見た。
「紀行さんがむっつりで性欲お化けの陰キャぁ? メンズ化粧品とか使ってる癖に?」
「年取ると気になるのよ。肌質とか、髪質とか。特に頭はケアしないと禿げる」
「それを気にする男は陰キャじゃないと思うんだけど……」
「それは置いておくとしても、むっつりなのはね。否定できない。俺も男だから」
「そう……かなぁ。あ、いや、そうか。前は脇で今は深ぁい谷間がトレンドだっけ?」
「……何?」
「おばさんが。服の種類気をつけてって教えてくれたよ?」
「あのクソババァ⁉」
ホントに! ホントにもう! 俺が悪いんだけどさぁ! なんでこうも容易くセキュリティー突破されるかなぁ!
「大丈夫大丈夫。一回試して、紀行さんは絶対隠してくれるって確証持ったから」
「……試した?」
「こないだ谷間が見えるくらいのチューブブラトップ着てさりげなくグラビアポーズみたいなことしてみたけど、無反応だったよ」
ナイス俺の枯れ果てた心!
「冗談でも誘うような真似はやめようね……」
「誘って紀行さんのる? のらないでしょ」
そう言って香苗は三角座りした膝の上に頭を乗せて、俺に意地悪く笑って見せた。
「ちゃんと信頼関係あってしてますぅ。昔だったらやってないし」
信用されていると喜ぶべきか、挑発するような行動を叱るべきか……。
悩んで、俺は香苗の頭をクシャッとして貞子みたいにしてやる。
「なにすんのもー」
髪をかき上げた香苗は少し嬉しそうだ。だってこれは、話に聞いた実父と義父の真似だから。
「オネエチャン?」
そのヒヤッとした声に俺たちは跳ね上がり、俺は思わずチューハイの缶を落としそうになる。
「ズイブンタノシソウダネ」
「そ、そんなことないよ?」
「ユキニィハオンナノコノカミヲランボウニアツカワナイノ」
朋絵ちゃん。声。声から感情が消えてる。
「朋絵ちゃん?」
「ナァニ?」
「俺たち、どう見えてた?」
「コイビトミタイダッタカナ。ユキニィニハワタシガイルノニ。オネエチャン、トラナイッテイッタノニ」
怖えぇ……。マジ怖え……。
思わず俺は朋絵ちゃんをおいでおいでして、開いた股の間に座らせる。そして朋絵ちゃんの頭も香苗と同じようにくしゃくしゃにしてやった。
シャンプーのいい匂いがする。
「きゃーっ」
うん。機嫌が直った。楽しそうで何より。
そのあと香苗が持ってきていた櫛で朋絵ちゃんの髪を横から梳いてやり、先ほどとは変わってほのぼのした空気が流れる。
これ、どっちかっていうと娘の面倒見ている夫婦なのでは……? いや、よそう。どちらに対しても失礼だ。
缶を呷って中身を飲み干し、次の映画を選んで俺は席を立つ。
「お風呂?」
「後でか、無しだね。お酒飲んじゃったから」
「あっ、ごめんなさい」
「いい、いい。理解して飲んでるから。嫌なら断ってる。というか足りないから立った訳だし」
そう言いつつ俺はキッチンへ。床下収納を空けて安物のブランデーを取り出す。
「香苗も飲むー?」
「明日一限からだからもうやめとくー」
ブランデーグラスを一つだけ取り出して……どこに座ろう?
そう思ったら、二人がそれぞれソファの端に寄った。
確かにゆったりめのソファだから座れないことは無いけどさぁ。
「俺にはそこに腰を落ち着ける度胸は無いぞ。おい。二人そろって同じ不思議そうな顔をするんじゃない」
「まあまあまあ」と二人が俺に着席を勧める。
朋絵ちゃんは分かるけど、香苗も?
訝しげな俺だが、つけていた画面を見てなんとなく理由を察した。
画面に表示されているのはさっきまでと同じ洋画だが、ジャンルが異なる。俺が見ようと思ってたのは、ホラーだった。しかもめっちゃ怖いと噂のやつ。
「怖いなら見なけりゃいいでしょうが」
俺がそう言うと、またもや二人の「まあまあまあ」という声が重なる。
「見たいの?」
「気にはなってたの」
「友達と行く予定がその友達がダウンしちゃって……そのまま……」
「なるほど」
再生だけして放置したろかな……。
イタズラ心が芽生えて本当にそうしようとしたら二人に腕を掴まれて凄い勢いで顔を横にブンブン振られた。
姉妹だなぁ……。
仕方なく、俺は二人の間に腰を下ろす。
実は俺もホラーはダメだ。正確には和製ホラーがダメだ。洋画のスプラッターや音で脅かす系は大丈夫なんだけど。だからこの映画は見れる。そう思っていたのだが。
「……」
うわぁ、この映画、和製ホラーのテイストが入ってるぅ……。
でも年下の女の子の前でビビる訳にはいかないのでアルコールに頼りながら頑張って耐える。
でも心理的恐怖が最高潮になった時に海外ホラーお得意のビックリ要素で脅かしてくるのは許して。流石に体が反応する。
ただまぁ、俺以上に両隣が反応しているのだが。
朋絵ちゃんも香苗も、俺の腕をぎゅっと抱いている。朋絵ちゃんの方は慣れているが、香苗の感触は新鮮だ。似たようなシャンプーの匂い。同じくらいの体温。でも腕への感触はまるで違う。
ただ、俺の中の比較対象が悪かった。
だって前に数回、処辺先生のが腕どころか顔にも来てるんだもん。それに比べたら分が悪いよ。
映画を見終わって、一息つく。同時に隣の二人も俺の腕を抱えたまま弛緩した。
「ん? これシリーズの最新作か? クソ、一から見なきゃ……」
「ユキ兄ストーップ!」
「紀行さんストップストップ!」
「何?」
「一作目から見るの⁉ 全部⁉」
「見るよ?」
「怖かったじゃん! めっちゃ怖かったじゃん!」
「シリーズ物はいかに独立してようと一から見ないと俺の主義に反する」
セルフオマージュとかのネタとが分かるしより楽しめるからね。
「怖くないの⁉」
「怖いよ?」
「じゃあなんでそんな普通に見られるのー⁉」
何でと言われましても。ホラーってそういうもんじゃない?
「ユキ兄! また今度にしよう! 今度!」
「そうそうそう! 今度! 今度にしよう!」
「必死だなぁ……。二人とも、一人で寝れる?」
冗談で聞いた俺の質問に沈黙が二つ。
黙るなよ。あと朋絵ちゃんはそこで俺を見るなよ。
「ユキ兄ぃ」
「ダメだよ。寝るなら香苗と一緒に寝なさい」
そう言って俺は二人を引きはがした。
「し、しかたないなぁ。朋、一緒に寝る?」
「別に怖いわけじゃないけど! たまにはいいかもね。別に怖いわけじゃないけど!」
そんな二人を残して俺は部屋に戻った。
アルコールのせいもあって眠気が来て、ベッドに入って目を閉じた。
ホラーを見て怖いは怖いが夜に寝れなくなったりはしない。だから俺は普通に寝たのだが。
翌日起きて、寝相が悪いはずの俺が仰向けで寝ており両隣が暖かいのを確認して、一言。
「二人じゃダメだったかぁ……」
ホラーはもう一人で見よう。俺の横で眠る二人を見て、そう思った。
季節は少し巡って冬。朋絵ちゃんが、仕事に行き始めた。
なんてことは無い。ただの学校行事である。職場体験。各自治体で呼び方はいろいろあるが、一週間ほど学校から離れて簡単な仕事をさせてもらい、進路展望に活かすと言う行事である。
この行事、今の俺にとって一つ問題がある。自校の校区だけでは提携している店舗が足りないため、生徒たちが他校の校区までやってくるのだ。
つまるところ、出かけると生徒に出くわす可能性がある。たしかうちの近くのスーパーも受け入れをしていたはずだ。
そういえば貞宗の実家も受け入れしてたな。
こういった事態のため、俺は今買い物すら自粛して絶賛引きこもり中である。
やっていることは相も変わらず大学院入試の準備。つまりは研究計画書の作成のために先行研究の論文を読み耽るのと、小論文対策である。あと出願の準備。
あと一日の辛抱だ。それだけ耐えれば散歩は許される。
正直辛い。
外出禁止と思い込んでいた時も辛かったけど、今は出てもいいと分かっているだけに余計。
映画なんかも粗方見てしまったし。どうするか。
そんなことを考えていたら、誰かが玄関を開ける音がした。こんな時間に帰ってくる人物は一人しか思いつかないが、その人も意外と言えば意外である。
「ただいまー」
帰って来たのは香苗。いつもの時間に比べて随分早いが。
「おかえり」
「うん。ただいま」
あれ、機嫌が悪い?
「早いね」
「四限以降は元々ないし、三限休校になった。バイトは休み」
「そう。あ、珈琲飲む?」
「豆からのがいい」
豆まだあったかな……?
俺は不機嫌な香苗をテーブルに座らせてコーヒーの準備をする。なんだかんだと買い求めてたまに淹れていたので豆はまだ残っていた。
珈琲を淹れ、冷蔵庫に安いながらもケミカルプリンでないプリンがあったのでそれを携えて香苗の元に。
対面に座ろうと思ったが、こういう時は横の方がいい。
「どうぞ」
「ありがと」
並んで珈琲を啜る。やはりマスターの珈琲には程遠いが、思わず笑わない程度のものは淹れられるようになっていた。
うーん。やっぱりなんか違うよなぁ。言語化は出来ないけど。あ、プリンは美味い。
プリンを食べ終えて、珈琲を飲み終えて。コーヒーカップをソーサーに置いて隣を見ずに言葉を紡ぐ。
「部屋で待ってるから、言いたいことがあるならおいで。言いたくなくても一緒にいてほしいならおいで。無視してほしいなら、俺の部屋に来なければいい。その時は普段通りにして何も聞かない」
そう言って俺は席を立ち、部屋でベッドに座りながら先行研究の論文を読み始めた。
香苗が来たのは、ニ十分もしない頃だった。俺はベッドの隣を叩いて座るように促す。俺からは何も語りかけない。話すか話さないかは香苗が決めることだ。
また十分くらいして、香苗がぽつぽつと話し始めた。
要約すると、休講になったからと同じ講義を取っているチャラ男がしつこく「お茶しない?」と誘ってきて鬱陶しかったということらしい。だが香苗はその程度ではこうはならない。こうなった理由はその後で、そのチャラ男がとんだ勘違い男で勝手に肩を抱いてきたことにあった。
あーうん。それはチャラ男が悪い。平時の身体接触は高感度がプラスに傾いていて、かつ触れるる理由があって初めて効果がある手段だからね。フラット状態以下でやったら間違いなく好感度はマイナスだ。
嫌いな男が拾った消しゴムは使いたくないという女子の心理と一緒である。
それが可能なのは今の俺の状態の様な時だ。悩みを打ち明けてもらえるだけの信頼があって、対策として嫌な思い出を上書きするという手段があって、それを彼女が俺に対して望んだ場合。
もちろん断られることもある。それは好感度が足りないと言うことだ。もしくは信用が足りない。
その他にも全てを超越する雰囲気という厄介なものも存在するが。
どうしてほしいとは聞かない。ただ、目の前に手のひらを差し出す。
香苗は、その手を取って俺を見てきた。
これは多分OKのサイン。
肩に手を回し、握っていた手ごと彼女の頭を抑える様に俺の方へ寄せ、その頭に頬をつける。
「怖かったね。もう大丈夫だから」
香苗は怒っていたのではない。怖かったのだ。急に男に肩を抱かれて。好きでもない男に触れられて。
「……ぅえ」
子供のように泣きだした。
よっぽど嫌だったんだなぁ。
よしよしと頭を撫でながら大丈夫を繰り返す。
こういうところはまだ子供……いや、大人でもこうなってる人いるな。うん。大人とか子供とか関係ない。泣くほど嫌なものは存在する。
俺は……。
俺の脳裏に机からボールペンを奪った朋絵ちゃんがフラッシュバックする。
そうだよな。当たり前だ。アレが一番されて嫌だ。
香苗は案外早く落ち着いた。そもそも怒ることで折り合いをつけようとしていたと仮定できるので想像の範疇を越えてはいない。
俺は香苗をゆっくりと解放する。
こういうときはね、急に放すとダメなんよ。突き放されたって感じることがあるから。まずは力を抜いて、順番に解放していく。
体を離すのは一晩最後に。
「落ち着いた?」
「紀行さん……」
「もう大丈夫だね?」
「……うん」
「また怖くなったら、いつでもおいで」
女の子が悩んだ時に求めるものって、究極的には解決策じゃなくて自分の気持ちを理解して肯定してくれる相手なんだよなぁ。あと逃げ場。
なんだかんだと、香苗に対しては年の離れた兄ポジションが落ち着いてきた。俺が持てる技術をフル活用しても惚れられないという絶妙な心理的距離感。
それはかつて俺が惚れた女の子との間に横たわった距離感でもあのだが、今回は別に惚れてもらう必要はないのでこれでいい。
朋絵ちゃんはね。うん。兄妹以上恋人未満ってところかな。いや、正直に言おう。完全にプラトニック恋愛です。俺にその気が無くて朋絵ちゃんが俺に依存している事を除けば。
俺は軽いシスコンの範疇で収まっているつもりだが、それがいけないんだろうなぁ。
見捨てられない。突き放せない。俺の中でも教え子かつ義兄妹という特殊な状況で公平な判断が出来なくなりつつあるから。要するに朋絵ちゃんの判定がどんどん身内に傾いている訳である。
俺が認めた奴以外と付き合うことは許さんと言うほどではないが、共同生活の中で永く手元に居てほしいという気が無いこともない。
失礼な言い方だけど、別に朋絵ちゃんでもいいのだ。俺の伴侶は。そうなった時の自分を自分で直視できないだけで。
流石に親子でも問題ない年齢差はきちぃって。いろんな意味で。
そんなことを考えていると、香苗が俺のベッドにぽふっと身を投げ出した。
「あーもう。男ってなんで! なんで男って!」
おう、キレてるキレてる。
「まぁ、男に限らずいろんな人がいるから」
「私が怒ってるのは紀行さんになんだけど」
「なんで俺」
「だって。ここにきてから性欲に支えられた行動の性欲抜きが心地良過ぎて、男の子に求める理想が上がっちゃったんだから」
前ならこれほど嫌悪感を抱かなかったと香苗は呟く。
「あーあ。紀行さんが彼氏だったらなぁ」
香苗はそうはっきりと言ったが、これはそうならないのが分かりきっているから言える言葉である。俺が受け入れないから、ではなく、香苗がちゃんと俺を恋愛対象として拒絶している証拠だ。
だったらなぁの夢は本人に叶えるつもりが無いのである。それは夢ではなくただの願望。叶えるために努力することもなく、ただ眺めてあこがれるだけの存在。
だがら俺が苦笑交じりに「付き合ってみる?」と聞いても。
「いくつ歳離れてると思ってんの。まぁ朋よりはマシだけどさぁ。というか、質の悪い冗談言わないで。その気もないくせに」
という返しが返ってくるだけである。
「……朋を、裏切らないでね」
「善処するよ」
「確約はしてくれないんだ?」
「俺はそんなできた人間のつもりはないからね。それに、朋絵ちゃんが変わらない限り俺は朋絵ちゃんを悲しませることになる」
「紀行さんなら、いいと思うよ?」
「いくつ歳離れてると思ってんだよ」
そう言って俺は手を伸ばし、仰向けになってこちらを見ていた香苗の額を小突いた。




