ユキ兄
ユキ兄が学校からいなくなった。
金曜日、合唱コンの全体練習の時にお別れの挨拶をしていた。家で、来年から大学に通うために休むと言っていた。何のことかわからなくて、次の週にユキ兄に家で見送られながら学校に行くと、その日の理科の時間に知らないおじいちゃんが来た。
「あの噂のせいで時野先生辞めちゃったのかな?」
噂?
噂って言ったら一つしかない。私がユキ兄と付き合ってるっていう噂。
その噂のせいで、ユキ兄は先生じゃなくなった?
でもユキ兄は私の先生で、でも今日の授業には来なくて、本当は来るはずで、でも知らないおじいちゃんが来て。……あれ?
ユキ兄が、学校に、来られなくなったのは、私の、せい?
気づいたら家だった。階段を上がって、ユキ兄の部屋に入る。
ユキ兄はパソコンで何か作業をしていた。
「ユキ兄、今日、学校、お休み?」
「うん。正確には、今日からお休みだね」
「もう、来ないの?」
「朋絵ちゃんがいる間は戻ってこれないだろうね。前にも説明した通り」
「先生、辞めたの?」
「いや、籍は残ってるけど、もうみんなの教科担任じゃないね。新しい先生来たでしょ?」
何でもないように言うユキ兄の言葉に、足元がガラガラと崩れていくような感じがした。
私が、私の行動が、ユキ兄を先生でなくしちゃった。
私の好きな人を邪魔する人はキライ。でも今回ユキ兄の邪魔をしたのは私。
私なんてキライ。ユキ兄の邪魔をする私なんてキライ。こんな私なんて価値がない。
そんな私は、消えちゃえばいい。
思わず私はユキ兄の机に置いてあった試験官に突き刺さっていたボールペンを奪い、キャップを外して勢いよく喉に突き立てた。でも、勢い余った先がズレて拳が喉に当たる。
「けほっ、うえっ」
私の手は止まらない。もう一度、今度は真ん中を狙って突き立てる。
でもその先は、ユキ兄の手で防がれた。
ペン越しに、ガリッと嫌な感触がした。
「何してんだ! 馬鹿!」
私の両手首を強く掴んで、ユキ兄が叫ぶ。
ユキ兄の目を見て、いつものユキ兄で、それも学校のユキ兄で、それが家に居て、学校には居なくて、私は、膝から崩れ落ちた。
「ふっ、く……ぅあ……あぁ……!」
ユキ兄の部屋で、私は泣き叫ぶ。おばさんが何事かとやって来て、ユキ兄が部屋の尖ったものを全部持っていくように言った。
ユキ兄に抱きしめられて、背中を撫でられて。その優しさは学校で感じていたものも混ざっていて。それを失った事実に、私はさらに大声を上げた。
泣いて泣いて、泣きはらして。落ち着くころになって、ようやく私はユキ兄に抱きしめられていた訳ではないと言うことを理解した。
ユキ兄は、私を羽交い絞めにしていたんだ。ボールペンで、喉を突き刺そうとしたから。
「ゆぎにぃ……」
ボールペンを握りしめていた手の力が抜けて、それがフローリングにカランと落ちる。それをユキ兄は素早く蹴って私から離した。
「もう、だいじょうぶだから」
「変なこと考えてないね?」
「……うん」
ユキ兄が私を縛っていた腕の力を抜く。でもその手はまた私の手首を掴んでいる。
信用されていない。でも、仕方がない。だって、さっき私は、自分を刺そうとしたんだから。
ユキ兄に言われてユキ兄のベッドに手首を抑えられたまま座る。ユキ兄は膝立ちで私に目線を合わせて、私の目を覗き込んでくる。
ユキ兄の目なら一生見ていられる自信がある私は、思わず目をそらしてしまった。
「朋絵ちゃん」
言われることは分かっている。多分怒られる。
「俺は自分を傷つける奴が嫌いだ」
思わず視線を戻す。ユキ兄の目に移った色は怒りじゃなかった。
「―――する奴はもっと嫌いだ。こっちの気も知らないで置いていきやがる。トラウマになって記憶に残る、なんて意見もあるけど、実際は記憶の中に埋もれて風化していくだけだ」
ああ。なんて、なんて冷たい目。
侮蔑。
頭に血が上った私でも分かるほどの、強い、悪感情。
思わず唾を飲みこんだ。
「俺はそんな奴は大嫌いだ。朋絵ちゃんは、そんな人だったの?」
怖い。
学校ではいつも冷めた目をしてるけど、ちゃんと優しさはあった。でも今はそれが一切ない。
抜き身のナイフのような、そんな印象。
やだ。ユキ兄に嫌われたくない。
だから私の答えは、一つしかなかった。
「ちが、う、よ?」
「そうだよね。俺もそうだと思ってた。じゃあ、さっきのは何?」
あ、違う。ユキ兄は本気で怒ってるんだ。
私は、ユキ兄の本気の怒りを浴びてるんだ。
「ごめ、な、さ」
「何で、あんなことしたの?」
「……っ。ユキ兄、が、学校、辞めちゃったの、は、私の、せい、だから、そんな私は、消え、ちゃえって……」
「だから、自分を刺したの?」
「……うん」
「ごめんね」
ユキ兄が謝って、私を抱きしめた。今度は、抱きしめた。強さはさっきと一緒だけど、今度は確かに抱きしめた。
おでこを合わせて、私の頬が濡れた。
私、泣いてる?
顔を離して擦ってみても目に涙は無い。じゃあこの水滴は……。
「ユキ兄……?」
ユキ兄が泣いていた。
ユキ兄が泣いてるのを、初めて見た。
だから今度は、私がユキ兄を抱きしめた。
「ごめんね。ユキ兄。もうしない。絶対しないから」
二度としない。ユキ兄の邪魔をした自分が嫌いだ。でも、ユキ兄を泣かせた自分はもっと嫌いだ。
だから私は、二度と自分を傷つけない。
ユキ兄がしてくれたように、私はユキ兄の大きな背中を撫でた。
ユキ兄はすぐ泣き止んで、私を解放してくれた。その右手の甲には、ボールペンが骨の上を走って描いた線と、それに続く細く削り取ったような傷。手の真ん中くらいから中指と薬指の間にかけて滲む血。
さっと私の血の気が引いた。
私も女の子だ。今更血くらいで血の気は引かない。
私は、私がユキ兄を傷つけてしまったことに動揺した。
「ユキ兄! 血! 血が!」
「ん。ああ。なんともないよ、これくらい」
なんともないなら小声で「いてー」とか言わないでよ。傷口に息を吹きかけないでよ。
「ごめんなざいっ」
お話の中みたいに傷口を舐めたりはしない。他の人がやると血液感染や傷口が化膿したりしてよくないってユキ兄が教えてくれたから。
ユキ兄の手を引っ張って、水道でよく流す。
何度洗っても、血は止まってくれない。それが私の罪の重さを示しているようで、私は泣きながらユキ兄の手の甲をタオルで押さえておばさんを頼った。
おばさんがユキ兄の手にガーゼを当てて包帯をするのを横で見守る。
「えらくキツくいったわね~」
おばさんのその言葉が、今の私にぐさりと突き刺さった。
「我が息子が女の子を守って名誉の負傷をするとは思わなかったわ」
「今バカにしたか? バカにしたよな?」
「泣いたんでしょ? そんなに痛かったの?」
「ちげぇよ! ほっとしたんだよ! 一発目は防げなかったから!」
「え、朋絵ちゃんもどこかケガしてるの⁉」
「力んで運よくスカッたから俺が手当てを受けてんだよ。当たってたら既に病院に連れてっとるわ」
ユキ兄の言葉におばさんがあきらかにほっとする。
ユキ兄の時と私の時で明らかにおばさんの態度が違うんだけど……、血のつながった母子としていいんだろうか。
「さっき自傷って聞いたけど、凶器はボールペンでしょ? どこ刺そうとしたの」
「首」
「あんたよく防いだ。本当によく防いだ」
「だから一発目は防げなかったんだよ……。スカッて本当に良かった」
「……危うく三人目になるところだったわけね」
三人目?
「……何の話だ?」
あ、ユキ兄も意味が分からないっぽい。
「あ」
おばさんが明らかにしまったという顔をした。
「ううん。なんでもないの。とにかくよかったわ~。朋絵ちゃんが無事で~」
誤魔化した……? ユキ兄は普通に流したし……。なんだろう。
手早く救急箱を片付けておばさんは家事に戻る。私はユキ兄の手を引いて、ユキ兄の部屋に戻った。
ベッドの上でユキ兄の右手を取って、無い胸に押し当てて抱きしめる。ユキ兄は手を引こうとしたけど、絶対に放さない。放してなるものか。
これは私のせいでできた傷。だから私が看病するんだ。
と言っても、手が使えない訳じゃないからするのはガーゼの交換くらいだけど。
お姉ちゃんが帰ってきてものすごく怒られて、おじさんも帰ってきてみんなで一緒に晩御飯を食べる。
ユキ兄の部屋でいつもとは違って私がユキ兄を抱きかかえて、そろそろ自分の部屋に戻る時間になって私は素直にユキ兄の部屋を出た。自分の部屋のドアに手をかけて、お昼の事が気になっておばさんたちの部屋を訪ねる。
「あのー……」
「どうしたの、朋絵ちゃん」
「あの、おばさんがお昼にいってたこと。三人目って言うのが気になって……」
「あ、あぁ~……」
おばさんはあきらかにばつの悪そうな顔をする。
「朋絵ちゃんは賢い子だ。言っておいた方が馬鹿な真似はしなくなるだろう」
そんなおじさんの援護射撃があって、おばさんは口を開いた。
「あの子には言わないでね、この話」
「はい」
「あの子、顔見知りを二人―――で――――てるのよ」
言葉が虫食いになって、よく聞こえない。
「一人はあの子が好きだった子でね。中二だったかしら。もう一人は、なんか友達かどうか微妙なラインだったけどよく遊んでた子らしくて。遊ばなくなって数か月たった時に―――したってご家族が。―――に紀行の名前があったらしくて。揉めたわけじゃないけど、確認に来られて。その子、紀行が好きだったらしくてね。二人が居なくなるたびに、あの子はちょっとずつ変わったのよ」
「そう、です、か……」
虫食いの答えを貰って、私は重い足取りを二階に向けた。
ユキ兄の前から二人消えてる。私の一回目が、もし喉に刺さっていたら。私もユキ兄の前から居なくなってたかもしれない。
私は自分が一番されて怖いことを、ユキ兄にしちゃったんだ。それも、ユキ兄が一番怖がってることを。
もう一度ユキ兄の部屋に行く。
「どうしたの?」
スマホを見ていたユキ兄が私を見た。
私はユキ兄の側に行って、ユキ兄に抱き着く。
「私はどこにもいかないからね」
「なんの話……?」
ユキ兄は多分覚えていないんだと思う。おばさんが内緒って言ったのはそういうこと。
私が居なくなったら、ユキ兄の中の私は多分消えちゃう。思い出してもらえなくなる。
そんなユキ兄が悲しくて、私は唇を合わせようとして、包帯を巻いた手で止められた。
「んむ」
「朋絵ちゃん。それはダメ」
「むー……」
私は諦めて体を起こし、ユキ兄の包帯が巻かれた手を取る。その甲、傷のある所に口づけして、部屋に戻った。
次の日。学校に行こうとして着替えたはいいものの、どうしてもユキ兄が気になって私は家を出られなかった。
おばさんにお願いして、お休みの連絡を入れてもらう。
割と長いことおばさんが電話で話して、私はどうやら学校の指示で病院に行かなくちゃいけなくなったらしい。
ちょうどいいから病院に行くまでお休みを貰って、土曜日におばさんに病院に連れて行ってもらって、病院の先生といっぱいお話して、結局お薬は出なかった。またしばらくしたら来なきゃいけないらしいけど、とりあえず今はできるだけ家に居てユキ兄の側にいなさいって言われた。
翌週学校に行って、普段通り授業を受ける。でも頭の中はユキ兄のことでいっぱい。
本当はユキ兄が教壇に立っているはずなのに、職員室に居るはずなのに、いない。その事実が私の心をすり減らしていく。
全部私のせい。
でも病院の先生に自分を責めちゃいけないって言われた。だからこれは仕方がないこと。私とユキ兄を守るためにいろんな人が動いてくれた結果。ユキ兄からはそう聞いてる。
でもやっぱりユキ兄のいない学校は辛くって、終学活が終わると同時に私は鞄を持って駆けだしてしまっていた。
家に帰って、ユキ兄に泣きつく。泣き終わって、私がユキ兄を守るんだと気合を入れるまでがセット。綺麗に治ったユキ兄の右手に残った茶色の一本筋に誓って。
そんな生活を続けていたある日だった。
夜、ユキ兄の部屋でユキ兄を眺めながらユキ兄のベッドでゴロゴロしていると、ユキ兄の部屋をお姉ちゃんが訪ねてきた。
「紀行さん。珈琲もらってもいい?」
「あー、俺も飲む。朋絵ちゃんはどうする?」
聞かれたけど、私にコーヒーは飲めない。でも。
「カフェモカがいい」
「え、紀行さんカフェモカ作れるの? エスプレッソなんてどうやって」
「そんな本格的なの作れるわけないでしょ。マシン無いんだから。インスタント使ったモドキだよ」
「へーぇ。私もそれ貰っていい?」
「いいよ。行こうか」
三人でリビングに降りるけど、私の目はじぃっとお姉ちゃんとユキ兄を観察している。
ユキ兄がカフェモカを作って、その様子をお姉ちゃんが教えてもらいながら見ている。
んん?
「はいどうぞ」
「ありがとユキ兄」
貰ったカフェモカを飲む。ユキ兄は私の分にはお砂糖もミルクもチョコシロップもココアパウダーもたっぷり入れてくれるから甘くておいしい。
コーヒー感はないけど。
ユキ兄とお姉ちゃんはキッチンで立ったまま談笑している。インスタントコーヒーのアレンジで盛り上がっているみたい。
むぅ……。部屋に戻らないのかな……。
というか、この感じ。今思い出した。ユキ兄がケーキとコーヒーを買って来た時の雰囲気に似てるんだ。
私をほったらかして、二人の世界に居る。
今、ユキ兄の中に私はいない?
肌がぞわっと粟立った。
席を立ち、ユキ兄の腕に抱き着く。
「おっと……。朋絵ちゃん?」
「まーた紀行さんに甘えて。まあ、今の朋はそれでいいんだけどね」
二人が私を見てくすくす笑う。私がむくれて、それを見た二人がまた笑う。
なんだろう、この感じ。お日様の匂いとは違う。もっと優しくて、安心するような。
三人でふわふわ浮かんでいるような感じがする。でも不安定なわけじゃなくて。
凧、かな。連凧。三人で一緒に風に乗ってる。そんな感じ。
そうイメージして、私はお姉ちゃんとユキ兄に感じていた違和感を理解した。
お姉ちゃんも、多分私と同じで、そして多分それを受け入れている。
二人の間に自然に空気が流れていて、私がその流れに交ぜてもらったんだ。でも不自然さは無くて、まるで本当の家族のように。血のつながった兄弟姉妹のように。
寝に上がって、ユキ兄と別れて、私はお姉ちゃんの部屋に突撃する。
「たのもーっ」
「だからそのノリやめなさいって」
私はお姉ちゃんの布団に入ってその目をじっと見る。
「何?」
「ユキ兄のこと……」
好きになっちゃだめだからね、と以前のようには言えなかった。
お姉ちゃんと私とユキ兄。三人の世界はあんなにも心地が良かった。だからお姉ちゃんにはもっとユキ兄のことを好きになってもらわなくちゃいけない。でも、一番は譲らないようにしないと。
「紀行さんが何? また好きになるなって? 分かってるよ。妹の御手付きに手を出したりしないよ」
「そうなんだけど、そうじゃなくてぇ……。うー……! んー!」
「どうしたどうした」
私はお姉ちゃんの胸に頭をぐりぐり押し付けてムニュムニュする。
クソっ。こんな脂肪の塊! ……とっても羨ましい!
でもユキ兄は胸とか太ももとか、というか顔意外見ないよね。この言い方は誤解を生むかもしれないけど。体の方をあんまり見ない。私たちにはしないけど、担任の内藤先生とかけっこうあからさまなのに。とくにあの一年のスーツの先生と話すときはすごい。チラ見って何だっけって思う。
「三人で仲よくしようって話」
「……無理でしょ」
「なんでぇ⁉」
「いやだって、朋のなかよしの仕方は度が過ぎてるから……」
「そうかな?」
「自覚無いの⁉ あんだけ紀行さんの部屋でイチャイチャしといて⁉」
「そっちは違うよ! あれはお姉ちゃんの言う通りイチャイチャだから! さっきみたいに三人でお茶したりお話ししようねって話!」
「あぁ……。なるほど」
もうほんとお姉ちゃんは何を言いだすのか。
でも三人でゴロゴロはアリか……?
想像する。ユキ兄がいて、私が甘えて、お姉ちゃんがそれを包んでくれて……。
アリよりのアリでは?
「お姉ちゃん、ユキ兄の部屋行かない?」
「何しに」
「一緒に寝る」
「やっぱ朋、感覚バグってるって」
「行こ?」
「いやいやいや。ダメだって。紀行さん迷惑するから」
「大丈夫。ユキ兄は全て許してくれる。行こ?」
「話を聞きなさい」
お姉ちゃんを連れ出すのは失敗する。その上で私の行動は容認されているだけで非常識だと諭された。
「じゃあ、ユキ兄の部屋行っちゃダメ……?」
「紀行さんが許してるからいいんじゃない? 限度ってものはあると思うけど。無いとは思うけど、頼むから愛想つかされないようにね」
ユキ兄が私を見捨てるなんて。無い無い。
そう思って、私は思い至っているはずの一つの可能性を頭の隅から追いやった。
ユキ兄は私を見捨てない。ユキ兄は私たちを見捨てない。だって、家族だって言ってくれたから。
だからお母さん、早く帰ってきてね。はやく、好きな先生がユキ兄になってくれたって報告したいから。




