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父親

 テストが終わって、学校は本格的に行事に向かって動き出していく。喫緊に迫った行事は合唱コンクール。文化図書委員の力の見せどころだ。なお俺が所属している委員会でもあり、当然のように朋絵ちゃんも所属している。

 所属しないと担当教員が誰かは分からないが、俺は前年度も文化図書委員の所属だったので今年もそうだろうと朋絵ちゃんは自分から立候補したようだ。

 まぁ前年度そうだったからと言って同じ教員が同じ委員会の担当になる保証はどこにもないのだが、それは生徒諸君の与り知るところではない。

 ちなみに今年の二年三組の男子文図委員は立候補が多くてクラス内で選挙になったとかなんとか。結果前年度も委員会に所属していた実績のある大人しい子が選ばれている。

 ここの子の事だからどんな子でも委員会活動は真面目にやるだろうけど。

 合唱コンクールでの選曲はクラスでの投票の結果、二組は大切なもの、三組はCOSMOS、四組は群青、学年合唱は平和の鐘になった。ちなみに一組、つまり育成学級はハンドベルの演奏。

 二年生か三年生の学年合唱で平和の鐘を選ぶのは定番と言えば定番。三年生で修学旅行で沖縄に行って平和学習という流れがあったからだ。

沖縄が修学旅行先から外されるようになってきてから久しいが、この学校では未だにずっと沖縄に行っている。この学年もその予定だ。

 テストも終わっているので学活の時間は合唱練習に充てられる。

 クラス合唱は担副で見るが、学年合唱の練習は学年でパートごとに教員が割り振られる。平和の鐘は混声三部合唱。俺はアルトの担当に割り振られている。相方は社会科の大久保先生。俺より古株の女性の先生で、イベントごとにはガッツリ力を入れる二年四組の担任。

 そんな先生が相方なので俺は存分に手を抜かせてもらう。やりたい人が前に出てくれるので小間使いをしてサポートに徹する。

 俺の歌はいまひとつだしね。それも今回は女子のアルトパート担当だし。男子なら「イケボをイメージしろ」でなんとかなるんだけど。

 ちなみに朋絵ちゃんはソプラノ。前回の事もあり管理職とも相談した結果、授業以外で朋絵ちゃんの教室に近づくことは無くなった。その分夜に詰問されることになったが、なんとかのらりくらりと躱している。

元々昼食指導のシフトも生徒が知るところではないし。元々変える予定だったと言って納得してもらっているが、担任の内藤先生と学年主任の先生が詰められている所を見てしまったので素直に済まないと思っている。

ちなみに朋絵ちゃんの現状は内藤先生から家に連絡してもらって母さんと香苗さん両方の許可を得てから既に学年に共有されている。担任に一任と言うことになっているが、朋絵ちゃんが助けを求めることもぼろを出すことも無いはずなのでお手上げと言った状態だ。

 とりあえずもらった楽譜を眺める。オタマジャクシが読めるわけではないが、五線譜の上に書かれたフォルテやクレッシェンドくらいは分かるので生徒の歌声を聞きながらその記号を眺めて何を言うか決めておく。

 まだ合同練習をして日が浅いので一曲通しで歌うごとにパートリーダーが注意点を言って逐次修正していくが、そうそう簡単に変わるものでもない。

 今日の所は時間が来たので歌うのは終了。パートリーダーが総括を述べ、俺たち教員に振られる。

 大久保先生は流石と言うか何と言うか、ずっと口出ししていただけあって的確なアドバイスをしていく。と、同時に俺の頭の中で言おうと思っていたことがダブるので線を引いて消していく。

 あの、あんまり言わないでいただけると……。言うことなくなっちゃう。

「じゃあ次に時野先生、お願いします」

 呼ばれたので椅子に座っていた体を立ち上がらせる。

「皆さんお疲れさまでした。まだ学年合唱の合同練習は始まったばかりなので荒い所があるのは自身でも理解しているでしょうし、先に大久保先生がおっしゃったとおりです。アルトは歌いにくく、どうしても自信が無くて声が小さくなりがちなのでそれを注意して励んでください。ソプラノとテノールを繋ぐ重要なパートなので」

 そう言ってまた椅子に座る。

大丈夫、かな。技術的な部分は大久保先生が全部言っちゃったからこれくらいしか言うことがない。

チャイムが鳴って、各々自分の教室に散っていく。それを見て俺も一端職員室に帰ろうと廊下に出ると、前方不注意で生徒とぶつかってしまった。

「あてっ⁉ ゴメン」

 俺が受けたのは顎への衝撃。当たりかたからして相手は頭を打っているはず。滲む涙を抑えて相手を見ると、あろうことか朋絵ちゃんだった。

「! すぅー」

 俺を認識してもう一回ぶつかり深く息を吸い込む朋絵ちゃん。

 って、おい。

 俺は一歩下がって朋絵ちゃんから離れる。

「大丈夫でしたか?」

「……はいっ」

 にぱっと笑顔を浮かべる朋絵ちゃん。

 最近の学校では授業以外で接点がほぼ無いから、授業のない日は特に目に見えてしおしお萎れてたからなぁ。偶然でも外では禁止している物理的な触れ合いを持って元気が補充されたか。

 職員室に帰って、マグカップにインスタントコーヒーを入れて一息。お茶請けを探して学年会費で買っているお菓子に新品が補充されていることに気づく。

 月何千円か出して飲み会やこういうお菓子を買う費用に充てるんですよ。ええ。

どこでもやってる訳じゃないかもしれないけど、勤務した経験のある学校はどこもやってたからそんなもんだと思うようにしている。

あったのはスーパーで売っている安いクッキー。払った金で買われている以上食べなければ損なので有難く頂く。無駄に甘いのでブラックコーヒーによく合う。

「時野先生ー」

「ふぁい?」

 教頭先生から呼ばれたのでクッキーを咀嚼しつつマグカップを持ったまま教頭机へ。

「んぐ。何ですか?」

「このあと時間あります?」

「あー、部活ですねー……。あ、大野先生、丁度よかった。部活ちょっと遅れるかもしれないんでお願いできますか?」

「分かりました。今日は……」

「塩化アンモニウムの再結晶です。実験書と必要なものは僕の机にあります」

「わかりました。いつもお任せしてすいませんね」

「いえ、お願いします。……体空きました」

「では校長室にお願いできますか? 私もすぐに行きますので」

 そう言われた俺はマグカップのコーヒーを飲み干して机に置き、校長室に向かった。

 ドアの前でノック。どうぞと言われたので入室する。

「失礼します。時野です」

「呼び立ててしまってすみません。どうぞ、かけて下さい」

 学校長に言われて腰を下ろす。

「本題は教頭先生がきてから。どうですか、処辺先生の様子を見てくれているようですが」

「まぁ、後は慣れじゃないですかね。僕も講師で初めてこの世界に来た時はあんなもんでしたし。ただ……」

「ただ?」

「あ、いえ。あのどもりだけは何とかならないものかと。少しはとれてきている気もするので慣れの問題かもしれませんけど、僕らは移動がありますし……」

「そうですねぇ。今はそれが欠点でもあり、生徒に親しまれている利点でもありますが。いい生徒ばかりとは限りませんからねぇ」

「ぜったいナメられますよね、アレ」

「そうですねぇ。そういうところもあって彼女は時野先生を頼りにしているんでしょうけど……。それに好意を寄せられているとか」

「ああ、まぁあの容姿ですから。男子人気は高いって聞きますね」

「いえいえ、そうではなくて、彼女が君に、です」

 はっはっはと笑う学校長だが、俺にとっては笑い事ではない。

「どこからその情報が?」

「内藤先生が教えてくれました。この間二人で飲みに行った時に。時野先生も知ってて受け入れているようだと。処辺先生と加藤先生、あともう一人の三人を纏わりつかせた写真も見せてもらいました」

 あいつ学校長までサシで誘ってるのか……。すげぇな、その胆力。

 学校は教育委員会を上位組織に持つ企業みたいなものだ。その校長を誘うと言うことはいくら弱小でアットホームとは言え社長に声をかけているのと同義である。

「時野先生としてはどうなんですか?」

「歳考えて下さいよ。あの子新卒ですよ?」

「今受け持っている教え子よりは健全だと思いますが」

 普段柔和な学校長の目が剣呑に細められる。

 普段優しい人が怒ると怖いよね。いや、マジで。今震えそうだもん。

 愛想笑いを張り付けた俺がどうしようか考えているとノックの音がして学校長が発していた絶対零度のオーラが引っ込む。声をかけられた教頭先生が入室し、学校長の隣に座った。その教頭先生の顔は、以前と同じで渋い。

「さて、本題に入りましょうか。もう予想は出来ていると思いますが、二海さんとの関係についてです」

「はい」

「まず学校での様子は内藤先生に報告してもらっていますが、随分落ち込んでいるようですね」

 事実である。俺が朋絵ちゃんから徹底的に外された結果は彼女のメンタルに如実に表れている。

「家での様子はどうですか?」

「甘え、と言う名の幼児退行が酷くなって困ってます」

 部屋では会話もそっちのけでユキ兄ユキ兄と連呼しながら俺の腕枕、頭なでなで付きで丸まっている。

「本来ならば一生徒の家庭の問題にまで私たちが首を突っ込むことではないのですが、今回は同時に時野先生の問題でもありますからね。なのでいろいろ手を回した訳ですが、現在前にあった噂は二つに分かれています」

「というと?」

「一つは二人が別れたという噂。もう一つは、本当に付き合ってるから時野先生が二年三組に授業以外で来なくなったという噂です。……申し訳ありません。引きはがしたのはこちらのミスでした」

 管理職が揃って頭を下げる。

 割と大事になったなぁ……。

「実は保護者からも確認の電話が来ていて。そんな事実はないとお答えはしているのですが」

 本当に大事になったなぁ!

「時野先生。正直に答えて下さい。実際の所どうなんですか?」

 教頭先生が少し前のめりになって俺を詰める。

「前に言った通り付き合ってませんよ」

「内藤先生からは家では恋人のように振舞っていると聞きましたが?」

 内藤先生ェ……。

「分かりましたよ。全部話します。でも俺じゃなくて彼女が望んで妥協点を探った結果だと言うことを理解していただきたい」

 そう言って俺は今度こそ本当に全て話した。家でしていることも、朋絵ちゃんが抱いてほしいと懇願してきたことも、全て。

「これが僕が見てきた二海朋絵の現状です」

 俺の言葉に、管理職は押し黙っている。怒られないということは、今が追い詰められて爆発した結果、外で普通に見せかけられるようにバランスをとっているのだと言うことは理解してもらえたらしい。

「家での接触を控えろと言われたら彼女は本当に今度こそ壊れる。教師ではなく家族としてそれは看過できません。義兄として、俺にはあの子を守る道理があります」

「旗月先生、予想以上に重い事態になってますねぇ。どうしましょう?」

「どうしましょうって……、どうします? こっちが願っていた理想は無理になりましたよ?」

「理想?」

 何か策があるのか。いや、今の話で潰れたと言っていたな。

「いやね、下世話な話ですけど、処辺先生が時野先生に好意を持っているならとっととくっついて結婚でもしてくれれば今回の噂は噂のまま消えて行くと思ってたんですよ。申し訳ない」

「本当に下世話ですね……」

「本当に申し訳ない。でもそれ以上に我々では打つ手がないのも事実」

 これは……、奥の手を使わざるを得なくなってきたか? やりたくはない。やりたくはないが、義妹の事を思えばやむなしと言う気分にもなってくる。

「僕、仕事やめた方がいいですかね……」

 辞職。それが、多分最も手っ取り早い解決方法。

 俺の言葉に、管理職二人は顔を見合わせた。

「それは、休職するという話ですか?」

「それが出来ればいいですけど、病気でもないのに無理でしょう」

「では、教員を辞めると?」

「やめたくはないですけど、そうするしか収まらなくないですか?」

「……時野先生の覚悟は分かりました。でも覚えておいてください。生徒を守るのがあなたたちの仕事なら、先生も守るのが我々管理職の仕事です」

 そう言って学校長はとある資料を俺に差し出して来た。

「大学院修学休業制度……?」

「時野先生と二海さんの事は委員会にも既に指示を仰いでいました。二見さんが転校をしないという選択をした以上、人事で君がまだ残る可能性もありましたから。そこでこの制度です。入試に合格する必要はありますが、来年度から教員としての籍を残したまま大学院に通うことが出来ます」

 そう言えば聞いたことがある。さらに専門性を上げるために大学院で学んでくることが出来る制度だ。

「すぐにでも動けるように委員会にも準備はしてもらっています。夏の入試は終わっていますが、秋の追加募集に滑り込めれば、何とか。学校は選べないかもしれませんが」

 また大学生をやるのか……。いや、院生か。悪くは無い、のかな?

 だが管理職は渋い顔をしている。何か問題があるのだろう。

「ただ自己都合休業になるので給与は発生しません。大学院に通うのでお金もかかります」

 ああ、金銭面の負担はあるよね。

いくらくらいか聞くと生活費なども込み込みで三百から四百万とのこと。車もない実家暮らしの独身貴族なら十分払える額だ。

 俺には趣味と言う趣味も無いから普通に貯金残高が一千万超えてるからね。四分の一程度が飛ぶのは痛いけど。

「お金の問題もあるからこちらから勧めたくは無かった。でも時野先生に辞職の覚悟があるなら、こういう道もあると言うことも覚えておいてください。そしてもう一つ」

「まだあるんですか……?」

「ええ。今回の問題は年度終わりまで放っておく訳にはいきません。これも何かあった場合にと委員会と相談した上で最悪の手段として提示されたものですが、時野先生に自宅待機指示を出します」

「自宅待機指示って……。僕なんも悪いことしてませんよ? それにそんな決定を受けたらさっきの制度が利用できなくなるんじゃ……」

「問題ありません。異例ではありますが、委員会が提示してきたことなので不可能ではないんです。自宅待機指示も先生の保護目的で出しますし、お給料もちゃんと年度末までは出ます」

「そう、ですか」

 大事になって来たな、ホントに。いや、ホントに。

「時野先生に不利益を出さず……といっても金銭的負担は強いることになりますが、これが上が出した最悪を回避するためのシナリオです。現場に帰って来た時の移動も含めて」

「……」

 俺は、何も言えない。

 確かにこれなら教員を辞めなくて済む。俺が学校に居ないのが普通なら、朋絵ちゃんも少しは変わるかもしれない。

 でも、これが正しいのか? 俺には大事過ぎて、自分で判断が出来ない。

 誰も関係ない。俺は今、俺自身のために悩んでいた。

「時野先生。あまり焦らせたくは無いのですが、申請や大学院の入試にも期限があります」

「……わりとギリギリなんですね?」

「申し訳ない」

「いえ、校長先生が頭を下げることじゃないですよ。考えさせ……てもらう時間も無いのか」

 俺は思わず天を仰いだ。

 何が正解なんだ……。いや、指示通りにするのが一番なんだろうけど、自分の中で折り合いが全くつかない。

 本当にそんなことが出来るのか?

 委員会が言ってきたんだからできるはずだ。

 俺が我慢すればいいだけでは?

 そもそも学校に迷惑をかけることになるし、もう迷惑をかけている。

 結局、受け入れるしかないのか……?

 それが、最善、だと、思う、けど。

 一旦思考をリセットし、考え方をかえる。誰のために悩むのかを定義する。俺のために。大事なことだ。朋絵ちゃんのために。これも大事なことだ。学校のために。これも、優先度は低いけど大事。だから結局、みんなのために悩むしかない。

 みんなのためにと考えるなら。

「受け入れるしか……ないかぁ?」

 俺はキャリアアップになり、朋絵ちゃんには自立を促すきっかけになる。学校は原因である俺が居なくなって噂が消えるまでじっと耐える段階に入れる。

 気づけば俺の目の前には冷めたお茶が煎れられていた。それをぐっと飲み干し、管理職の目を見る。

「自宅待機指示の後、大学院修学休業制度を利用する方向で進めて下さい。僕はどうすればいいですか?」

 その言葉に、管理職二人は明らかに肩の荷が下りたようにほっとした様子を見せた。

 必要なことを済ませて校長室を出る。終業時間はとうの昔に過ぎていた。


 学校長からの提案を受けてから数日。俺は、自宅待機指示を受けて既に学校現場から退いていた。

 今回の件、本当に重く受け止められていたらしく、学校長の伝手で定年どころか再任用の期間も過ぎたおじいちゃん先生が二人非常勤で入ってくれることになった。

 引継ぎを済ませ、今の生徒と過ごす最後の日。合唱の全体練習の時間を少し借りて俺はお別れの挨拶をした。

 学校を去る理由はより良い先生になるために大学で学んでくる。そのための準備として少し早いが学校を去る。元から決まっていたことで、本来は夏休みでお別れのはずが延びて今の時期になってしまったと苦しい言い訳を述べて。

 きっと噂のせいだと思う生徒や保護者もいるだろう。だが後のことは、学校や委員会が対応してくれるはずだ。

 俺が休むのは学ぶため。そのための準備をするために休むのだと、嘘でもあり本当でもあるストーリーを説明して。

 家族は理解してくれた。だが朋絵ちゃんだけは、自分を責めてしまった。

 自傷こそとめたが、しばらく学校を休むことになってしまった。だがそれは好きな先生が居なくなってしまうショックによるものだと解釈され、俺と朋絵ちゃんの関係は噂に過ぎなかったと風化させるのに一役買ったのは皮肉なものである。さらに学校に戻っても朋絵ちゃんは心ここにあらずの放心状態らしく、下校時間になったら逃げるように帰る様も好きな人を失った場所に一秒でもいたくないという様子に見えるらしい。

 世の中何がいい方に転ぶか分からないな……。

 現状、俺は朋絵ちゃんのケアをしながら家から通える大学院の中で現職教員の特別枠を利用できる大学院の受験の準備をしていた。

 速い話が入試に向けた準備である。と言っても特別枠での受験なので面接と小論文、研究計画書と呼ばれるものの作成だけだ。

 委員会の方は俺の承諾待ちだったらしくすぐに必要書類の作成と提出は終わって、必要な大学の指導教員へのコンタクトも済ませてある。

 時刻は四時半過ぎ。玄関のカギを開ける音がしてどたどたと慌ただしい音がする。その音を聞いて俺は定位置に。

 無言で荷物の一切合切を廊下に投げ捨てた朋絵ちゃんが俺に向かってダイブする。

「ユキ兄!」

 俺の名前を呼ぶ声は、悲壮感にあふれていた。

「ごめんなさい……! ごめん、なさい……っ」

 部活も休んで帰ってきたらずっとこの調子なのでなかなか疲れる。

 事態は好転したが、唯一朋絵ちゃんの症状だけが悪化してしまった。これが唯一の誤算。

 誤算と言えば、学校では処辺先生が屍のようになっているらしい。三年理科の大野先生が喝を入れてくれているそうだが、俺に悪いところはないとはいえ正直すまない気持ちでいっぱいである。

 ちなみに今回のことは職員全員が知っている。俺は基本的には外出禁止かつ接触禁止なので一部から飲みに誘えず嘆きが上がっているらしい。嘆いているのが誰かは言うまでもない。

「ユキ兄ぃ……ごめんなさい……」

「朋絵ちゃん。君のせいじゃないから。今回は誰が悪いってことは無い。強いて言うならただ運が悪かっただけだ」

 君のせいじゃない。この言葉を繰り返す。何度も何度も何度も何度も。朋絵ちゃんの頭に刷り込ませる。

「私のせいで」

「朋絵ちゃんのせいじゃない」

「でも学校にユキ兄がいないの」

「俺と朋絵ちゃんを守るためだ」

「私がユキ兄の場所を奪ったの」

「そんなことない。ちょっとお休みするだけ。ちゃんと戻れる」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「謝らなくていい」

「許してください許してください許してください」

「朋絵ちゃんは何も悪くない」

 ごめんなさい。許してください。その言葉を連呼する壊れたテープレコーダーみたいになる朋絵ちゃんを抱きしめて宥める。

 一応一時間くらいで恐慌状態は治まるのだが、学校と言う空間に教師である俺がいないという事実が相当にキツイらしい。

 一応この現状は家族で共有して母さんから学校に報告してもらっている。自傷、いや、この際はっきり言うが、自殺未遂があったために朋絵ちゃんは既に心療内科を受けることになり、学校でもスクールカウンセラーに繋いでもらっている。

 朋絵ちゃんの声が小さくなり、すすり泣きに変わる。しばらくしてそれも止まり、朋絵ちゃんが自分から体を離す。

「ユキ兄。ちゃんと私が養ってあげるから」

「別に先生をやめる訳じゃないからね。ちょっとお休みするだけだから。数年後には学校に戻るから」

 多分。それも違う学校に。

 俺を解放した朋絵ちゃんを自由にさせて俺は再び机に戻る。

「見てていいよね、ユキ兄が頑張ってるところ」

「その前に着替えてきなさい。制服皺になるよ」

「……はぁーい」

 朋絵ちゃんは廊下に投げ捨てた荷物を回収して自分の部屋へ。すぐに部屋着に着替えて戻ってくる。あの寝間着ではない。ハーフパンツにぶかぶかTシャツというギリギリ外に出られるくらいの格好だ。

 そんな朋絵ちゃんが俺のベッドに三角座りして俺を眺める。それが今の、新しい日常。

 だがそのハーフパンツ、もうちょっとタイトなのに変えてくれないかな……。振り返るとぱんつが見えてるのよ……。

 いや学校でも意外にというか普通にガードが甘い子は集会の時に前に立つとパンチラしてるから別にどうと思うことは無いんだけどさぁ。

 というか普通に教員してて見慣れるくらい見えるのにわざわざ盗撮する奴がいるのは本当にアホだと思うし風当たりが強くなるからやめてほしい。あと女子生徒諸君はもっと気を付けてくれ。特にスカート短くしてる子。本当にびっくりするほど見えるから。

 だが男の俺が指摘するとセクハラになるのが問題だ。学校なら女性の先生がそれとなく注意をしてくれるのだが。

今の朋絵ちゃんに至っては注意してどうこうなるというよりもひどい可能性がある。突拍子もないことをしかねない精神状態だから「見て」とか言って脱ぎかねない。下手したらその下も。ベビードール事件と言う前例があるから。

 疲れたのでキッチンに降り、砂糖もたっぷり入れた濃いインスタントコーヒーとチョコレートソースで作るカフェモカモドキを作って飲む。これはココアパウダーも入ってとっても甘いので朋絵ちゃんも飲めるのだ。

 二人でお茶してまたPCに齧りつく。しばらくして親父も香苗さんも帰ってきて、みんなで夕飯を食べる。

 夕食後はまた研究計画書の作成だ。

 研究テーマは“中学校理科における理科嫌いの生徒に向けた実験観察とICTを用いた効果的な授業づくりについて”とした。演示実験や動画を積極的に導入することで理科嫌い、つまり低位層の子供たちにいかに興味を持ってもらい、最終的に観点評価にどう繋げていくかと言うテーマである。常日頃から悩んでいる事なので割とPCのキーボードを叩く指は快調である。

 とりあえず書き上げて、指導教員の先生宛にメールで送信。内容を詰めるために添削をしてもらう。

「終わった?」

「とりあえずは」

「じゃあ抱っこ」

 俺は言われるがままにベッドに横たわる。前まで朋絵ちゃんは背中を向けて俺に抱かれていたが、最近は正面を向いている。

「はぷ」

 がじがじと首筋を噛まれるのを我慢する。口を離した朋絵ちゃんが「ユーキ兄」と甘えた声を出す。俺は朋絵ちゃんの頭を抱え込んで、おろした髪を梳くように撫でた。

 朋絵ちゃんがこんな状態なので家の中ではユキ兄呼びもベタベタするのも解禁している。親父と母さんは憐れむような、香苗さんは複雑そうな顔をしているのが何とも言えない。

 しばらく朋絵ちゃんを甘やかしながらスマホで読書をしていると、朋絵ちゃんがいつの間にか寝息を立てていた。

 しまった。気を抜いてタイミングを逃した。

 朋絵ちゃんを起こすが、深く寝入ってしまっていて起きそうにない。

 どうしたものか……。とりあえず保護者に相談するか。

 とりあえず親の寝室へ。

「何ー?」

 シートパックでジェイソンになった母さんが俺を出迎える。親父はぼろぼろの本で読書中。

「朋絵ちゃんが俺のベッドで寝ちゃったんだけどどうしたらいい?」

「お姫様抱っこで部屋に連れ帰ってあげなさいな」

「無茶言うな。引きずるのが精一杯だわ。人間一人の体重舐めんな。あとお姫様抱っこは抱かれる側の協力が無いと無理」

「冗談はさておきそのまま寝かせてあげれば?」

「俺はどこで寝るんだよ」

「一緒に寝ればいいじゃない」

 倫理観って言葉知ってんのかこのオバハン。

「倫理観って言葉知ってる?」

「この際息子に嫁が出来るなら現役中学生でもいいわ」

「だから倫理観って言葉知ってる⁉」

「十八になるまでは手を出すんじゃないぞ」

「親父も⁉」

 だめだ。話にならん。

 俺は部屋を飛び出してもう一人の保護者の元へ向かった。

 襖の前から声をかけると、襖越しに返答がある。もう寝間着に着替えていて姿を見せたくは無いのだろう。

「朋絵ちゃんが俺の部屋で寝ちゃって……」

 そう言うと少し静まり返った後ジーッとジッパーを動かす音が聴こえて襖があいた。

 寝間着姿の香苗さんは俺の部屋で寝ている朋絵ちゃんと似たような格好で、ただ一つ違うのはだぶついているパーカーの前がしっかり閉じられていることだ。ただ朋絵ちゃんと違って胸がしっかり主張していて胸元を押し上げている。

 恥じらう姿に一瞬見惚れそうになったのを慌てて自省し、香苗さんを連れて俺の部屋に向かう。

 意識の外に押しやってたけど、香苗さんってモロ好みのタイプなんだよな。派手目の格好に綺麗な黒髪。明るいがおしとやかで教養もあって。いや、それでどうこうしようという気はさらさらないけども。歳もね、十三は離れてるし。

 でも朋絵ちゃんと付き合うよりかはなんぼかマシ。そんな悪魔のささやきを聞き流す。

 香苗さんを部屋に招き入れて朋絵ちゃんを起こしてもらう。が。

「ダメだ……。完全に寝ちゃってる。朋、眠りは深いんですよ」

「飛び起きたりしてたと思うんだけど……」

「多分、すごく安心してるんだと思います。ほら、紀行さんの匂いでいっぱいだから」

 そういうもんか? そういうもんか。

「ほら、赤ちゃんがタオルを洗ったら泣くのと一緒です」

「赤さんと一緒にするのはどうなの?」

「パーカー借りて寝てる時点で似た様なものじゃないですか?」

 そういうもんか……。

「どうしたらいいと思う?」

「二人で、運……ぶ?」

 とりあえずやってみる。だが、やっぱり力が抜けている人間を運ぶのは重労働で、床に下ろした時点で俺のベッドがぐちゃぐちゃになってしまった。

 まぁ仕方がないと割り切って、朋絵ちゃんの脇を抱えてフローリングを引きずる。朋絵ちゃんの部屋に入って、香苗さんと二人がかりでなんとかベッドに引き上げる。

 力はある方だと思うけど、流石にキツイ。俺が軽い立ち眩みを覚えてうずくまっていると、香苗さんはさっさと部屋を出て行った。

 立ち眩みがおさまり、部屋に戻った俺はそこで俺のベッドを直している香苗さんを見つける。

「……何してんの?」

「え、だって朋のせいでぐちゃぐちゃになっちゃったから……」

 やっぱり、面倒見のいい子なんだよなぁ。

まさしく姉。俺の姉貴のような傍若無人ではなく、正しく優しい理想の姉。

ただそのせいでだいぶ抑圧されてるみたいだけど。

「香苗さん、明日大学は?」

「ありますよ? 二限からです」

「朝にバイト入れてる?」

「いえ、授業のある時は朝にバイト入れないようにしてます」

「じゃあさ、ちょっと付き合わない?」

 そう言って俺はベッドメイクを終えた香苗さんにグラスを傾ける仕草をした。

 酒瓶を持ってリビングに降りて、香苗さんをソファに座らせる。

「強いお酒は大丈夫?」

「まだ飲んだこと無いです。ビールとかチューハイとかハイボールだけだったので」

 俺はブランデーグラスを取り出そうとして、やめた。個人的にはブランデーは常温ストレート派なのだがいきなりストレートで飲ませるのはマズかろう。

 ロックグラスに俺のお気に入りのブランデーと浄水器に通した水道水を1:2で注ぎ、軽くかき混ぜてキューブチーズと一緒に持っていく。どうせ俺はそのままストレートで飲むからボトルも一緒に。

「どうぞ」

「ありがとうござ……ぬるい?」

「ああ、そうか。さっき言ってたラインナップだと冷えてるのが普通だもんね。香りを楽しむお酒は、好みはあるけど冷やさないほうが香りが感じられておいしいのよ」

 俺は香苗さんの隣に腰を下ろしてブランデーの水割りを口に含む。

 うーん、薄い。物足りねぇ~。

 並んで消えたままのテレビを眺めながら薄暗い中でグラスを傾ける。

「あの、これ、なんですか?」

「何って、ブランデーの水割り」

「そうじゃなくて、この状況」

「ああ。なんだろう。労い、かな」

 首を傾げる香苗さんに俺はチーズの包装を剥きながら答える。

「さっきの香苗さんに苦労性な姉の姿が見えてね……。俺は今あんまり外に出られないから」

「それで、宅飲み?」

「そ。この間お酒で吐き出したいこと吐き出してたみたいだから」

「忘れて下さい」

「大事なことだと思うよ?」

「忘れて下さい。本当に」

 本人が言うなら仕方ないかぁ。

「そう言うなら蒸し返さないけどさ。多分、うちですっごい我慢してるでしょ?」

「……そんなことないですよ」

「そうは見えないんだよなぁ。だってうちで自発的にしたのって枝豆の漬物だけだよね。それもあれ、後で聞いたら朋絵ちゃんが食べたいって言ったからだって聞いたし」

「……」

「珈琲好きなのに家で飲んでる様子もないし」

「飲んでましたよ、前は」

「……前は?」

「おばさんに飲んでいいか毎回聞いてたらいちいち聞くなって怒られて。それ以降勝手に飲むのが憚られて飲んでませんけど」

「それって……ここにきてすぐくらいの話?」

「そうです」

 インスタントコーヒーが減ってるような気がしたのは気のせいじゃなかったか。というか。

「母さんには後で説教しとくね。勝手に飲んでいいから。というか、アレは半分俺のみたいなもんだから、俺は今家にいるし気になるなら俺に聞いてくれればいいから」

 その言葉に香苗さんは薄く唇を曲げてブランデーの水割りに口をつける。

「おいしいですね、コレ」

「ん。まぁ、俺の秘蔵の逸品だから……」

「もしかして……、高、かったり?」

「ん……。この瓶、セールで二十万、だったかな……」

 その言葉に香苗さんが慌ててグラスをテーブルに置く。

「ごめんなさい」

「いいよ。飲ませたくて渡したんだから」

 親父にはスプーン一杯でいいから分けてくれとせがまれてるのに一度も飲ませたことないけど。高いブランデーの方が紅茶に合うのは分かるが自分で買えと言う話である。

 この酒は俺が年に一本買って大切な時に飲むと決めているものだ。だから俺の手が部屋からこの瓶を持ち出したと言うことは、きっと大切な時だと心の底から思ったのだろう。

 瓶の中身は今でまだ七割ほど残っている。半分までは、空けていいと思っている。

 静かにグラスを傾けながら隣を見るが、香苗さんの手が震えている。まぁ単純計算この一杯が4000円くらいだからなぁ。居酒屋しか経験してないとビビるか。

ちなみにストレートならシングルで換算すると一杯8000円くらいね。

「香苗さんのために瓶を開けたから、飲んでくれないと俺が寂しい。飲みたくないなら残してもいいけど」

「もど、せま……せん……よね?」

「水割りにしちゃったからね~」

 そもそも一回グラスに注いだ酒を瓶に戻すとは何たることか。薬品と同じ扱いだぞ、その辺は。

「俺はさ、そろそろ本来の香苗さんを取り戻してもいいと思うのよ」

「本来の、私?」

「家でこんな遠慮してたら家庭の虐待を疑うからね。朋絵ちゃんが割と自由奔放なところがあるからそれはないだろうし。家で気を抜けないとしんどいよ?」

「でも」

「でもじゃないの。親父も母さんもまだ余所様相手なところがあるからそうなってるのかもしれないけど、俺には兄貴として君ら姉妹の世話を焼く道理があるんだから」

「酔ってます?」

「ブランデー一杯、それも水割りじゃ酔えないよ。素面で言ってる。学校を離れたから、もう朋絵ちゃんがって言う言い訳は無しだ。俺は香苗さんを心配してる。一番危うく見えるのは朋絵ちゃんだけど、一番苦しんでいるのは君だ。……そうだろ?」

 俺はグラスの中身を呷り、酒瓶の中身を少量注ぐ。手でグラスの中身を温めながら、一口含んでゆっくりと飲みこむ。

「がんばれって、言ってくれないんですか?」

「がんばってる人にそれを言うのは世界で一番酷なことだと思うよ」

 しばらくぷるぷると震えていた香苗さんは置いていたグラスをひっつかみ、一気に飲み干す。

 今度高い酒の飲み方教えてあげよう……。酒が可愛そうだ。

「おじさんとおばさんが余所様扱いしてるっていいますけど、紀行さんも十分余所様扱いしてますからね」

「香苗さん、酔ってる?」

「酔ってない! そういうところですよ! 近づきたいのか、突き放したいのか、はっきりしてくれないとこっちも困ります!」

 おおう、すごい剣幕。だが何だ。何が逆鱗に触れた?

「香苗さん? 一体何が……」

「また言った! なんでさん付けなんですか! 年下の! 身内の女の子に! 普通はさん付けしない!」

「あー……」

 そこぉ? そんなことでキレたのこの子? いやでもまぁ、朋絵ちゃんは朋絵ちゃんって呼んでるし、距離を感じても無理はない……か?

 単純に成人女性というくくりだったんだが……。

「か、な、え!」

「え?」

「私の名前は香苗だ! さんはいらない!」

「やっぱ酔ってる?」

「酔ってない! 酔ってないけど、家族って言われてるのにさん付けされるのはやだぁ」

 絶対酔ってる。酔ってないなら情緒不安定だ。

 どーしよコレ。いや、呼び方を変えるのは別にいいんだけど、どうやって宥めよう。

 めそめそ泣く香苗さん、いや、香苗に、俺はグラスを置いて手を伸ばした。

 女慣れした教師ではなく、不器用な兄として、頭に手を置いてぐしゃぐしゃにしてやる。

「ごめんな、香苗」

 びくっと肩を震わせる香苗。下を向いていた顔が、俺の方を向く。

「ぐす。今の、省吾さんっぽかった」

 なるほど。俺に義父の姿を見ていた訳か。そういうのは親父の役目だと思うけど、仕事以外の対人関係は不器用の体現者みたいな人だからムリだろうな。

 俺が未だに不思議に思っていることだ。何故親父が母さんを捕まえて二人も子供をつくれたのかと言うのは。

「じゃあこんな感じで。でも香苗も壁があると思うんだよなぁ。紀行さん、だし」

「先生からだいぶ近づいたと思うけど。ご不満? 私はちょっとずつ家族になろうと努力したのに、家族だの心配だの言いながらずっと呼び方がさん付けでどうしたらいいかわかんなかったんだから」

 涙をぬぐった香苗が頬を膨らませる。意識ははっきりしてるからやはり酔ってはいないか……。

「呼び方ってそんな重要?」

「お父さんが省吾さんに私たちを託して逝って、省吾さんにお母さんが最初に直させたのがそこだから」

 ああ、それは。俺が悪かった。この子にとって家族からの呼ばれ方はとても大事なことだったんだ。

「あれ、でも省吾さんは省吾さん呼びだよね?」

「それは、省吾さんがそうしろって。私には、ちゃんと愛してくれたお父さんが居たっていうのを忘れないためにって。私の“おとうさん”って言葉は俺には勿体ないって」

 父として振舞いながら本当の父を忘れさせないためにわざわざ香苗には線引きさせたのか。そう言えば実父を知らない朋絵ちゃんはパパ呼びだったな。

 省吾さんは、元の二海家を大切にしてたんだな。

「で、俺は祥吾さんと同じ枠な訳か」

「年上の男の人だしね。私にとって名前にさん付けは一番近いの。というか、省吾さんと紀行さん以外男の人を名前で呼んだことないよ」

「そっか」

 まさかの最上位だったか。

「あ、今度はストレートいってみる?」

「に、二十万のお酒は、ちょっと。もっと安いのがあれば」

「遠慮せんでもいいのに。安いの……まだ残ってたっけ?」

 そう言って俺は席を立ち、キッチンの床下収納を開ける。

「ああ、あったあった。ブランデーの他に自家製の梅酒と焼酎あるけどどうする?」

「あ、じゃあ梅酒で」

「水割りお湯割り、どっちがいい? ロックやストレートもできるけど正直キツいからおすすめはしない」

「あ、じゃあ水割りで……」

 梅酒の瓶を取り出し水割りを作る。

「はいどうぞ」

「ありがとうございます」

「ありゃ、さっきは砕けた感じだったのに戻っちゃった」

「え?」

 あれ、自分で気づいてなかったのか?

「さっきまで丁寧口調消えてたよ。まぁ、好きな方でいいけど」

「……ありがとう」

 そう言って香苗は梅酒の水割りに口をつける。

「うわなにこれキッツ」

「あー、やっぱりか。俺が生まれた時にばあちゃんが古酒で漬けたものだから」

「生まれた時⁉ じゃあえっと……」

「三十三年物。うちの伝統なんだ。子供が生まれたら梅酒を漬ける。その子が二十歳になったら瓶を贈る。貰った後は好きにしていい……んだけど、5リットルの瓶五つが慣例だから、好きでもない限り無くならんのよ……」

 何故か度数の高い酒で漬ける上に最低でも二十年物だからキツイんよ。ストレートで飲めるもんじゃない。しかもばあちゃんは最初スピリタスで漬けようとしたらしい。でも流石にみんなで止めたらしい。ばあちゃん曰く、度数が高ければ高いほどいいとかなんとか。

 ちなみに親父のは俺が二十四の時に飲み終えたが、ばあちゃんを止めるどころか同じ考えの奴ばかりだったらしくスピリタス製だった。それをスプーン一杯くらいとはいえストレートでいった母さんはバケモンだと思う。

 きくぅ~、じゃないんよ。死ぬぞ。

 俺がアルコールに強いのは確実に母さんの血だ。

 ついでに言うと姉貴の子供が産まれた時まだばあちゃんが存命だったのでスピリタス梅酒を作ろうとしたのを俺も止めた。姉貴はもう時野家じゃないからって。

「ちょっと貸して」と香苗のグラスを奪う。キッチンで蜂蜜をお湯で伸ばして混ぜ合わせる。

「これでどう?」

「あ、おいし……」

 気に入ってくれたようだ。

 二人でぽつぽつと会話しながら静かに酒を楽しむ。彼女の二人の父親の話を聞きながら、俺はブランデーの入ったグラスを傾け続けた。


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