第5話:白猫の足跡と、静かなる駆動音
「エマさん! おはようございます!」
朝一番、ルークは少し高めの、いかにも頼りなさげな声を響かせながら、遊撃士ギルド・ルーヴェン支部の重い木扉を勢いよく開けた。
受付カウンターの奥では、すでに山積みの書類を整理していたエマが、目を瞬かせ、呆れたように苦笑した。
「おはよう、ルーク。朝から随分とご機嫌ね。……はい、これ。あなたが昨日言っていた通りの依頼が、ちょうど今届いたわよ」
「えっ、本当ですか!?」
手渡された依頼書を覗き込み、ルークはパッと表情を輝かせた。
そこには迷いペットの捜索・確保と書かれていた。
(……よし。これで昨日のような不気味な事件とは無縁の、平和な一日が過ごせるぞ)
内心で小さくガッツポーズを決め、人のよさそうな笑みを浮かべるルーク。
しかし、エマは手にしたペンを顎に当て、値踏みするような視線をルークに向けてきた。
「喜ぶのはまだ早いわよ。依頼人はルーヴェン大公国の“アポス男爵夫人”。中央街に大きなお屋敷を構える貴族なんだけど、ものすごく気難しくて、ギルドにもしょっちゅう無理難題を言ってくることで有名な人なのよ」
「え、男爵夫人、ですか……?」
「そう。いなくなったのはルナっていう名前の、普通の白猫。今朝から姿が見えなくなったらしくて、夫人が屋敷中を大声で探し回って、見つからないからってギルドに怒鳴り込んできたのよ。どう? 頼りないあなたなら、夫人にどれだけ小言を言われても角が立たないと思って回したんだけど……」
(なるほど。僕が本当にただのお人好しの新米かどうか、試す意味もあるわけか……)
ここで嫌な顔をすれば怪しまれる。ルークはわざとらしく頭を掻いて、困ったように笑ってみせた。
「あはは……お手柔らかにお願いしたいところですね。でも、迷子の猫ちゃんが可哀想ですし、僕、全力で探してきます!」
「期待してるわよ、ルーク。夫人の雷を落とされないようにね」
エマの視線を背中に浴びながら、ルークは元気にギルドを飛び出した。
「まったく、ギルドの対応は遅すぎますわ! 私の可愛いルナに万が一のことがあったら、どう責任を取ってくれるのです!」
中央街のアポス男爵邸。目の前で扇子を激しく仰ぎながら怒鳴る男爵夫人の前で、ルークは「申し訳ありません!」と何度も頭を下げていた。
夫人の小言をたっぷり三十分ほど拝聴し、ようやく解放されたルークは、ルナが好んでいたという異国製の高級なマタタビの匂い袋を手に、街へと繰り出した。
白くて、右耳の先だけがほんの少し黒い、ごく普通の猫。
ルークは住宅街の路地裏を巡り、住民たちに声をかけながら足取りを追った。
「さっき、北の倉庫街の方へ走っていく白い猫を見たよ」
果物屋の露店の店主から得た証言を元に、ルークは中央街から離れ、大公国の北端に位置する古い倉庫街へと向かった。
ここはかつて交易の拠点として栄えたが、今では最新の導力列車ルートから外れ、日中でも人通りが少ない薄暗い区画だ。
「ルナちゃーん、どこですかー?」
のんびりとした声を出しながら、赤茶けたレンガ造りの倉庫の間を歩く。
だが、周囲から人の気配が消えた瞬間、ルークの瞳から新米の気の抜けた光が消え去った。
(猫の足跡……それと、人間のものらしい靴跡が三人分か)
ルークは屈み込み、地面の湿った土を確認する。
猫の足跡を追うように、不自然な間隔で残された、三人分の革靴の跡。
(……足音がしない)
昨日、ハインツの工房で感じた、靴音のしない気配が脳裏をよぎった。
普通の猫探しのはずが、急速に不穏な色を帯び始めていた。
(……おまけに、この空気の震えは)
耳を澄ます。レンガ壁の奥から、かすかな駆動音が響いていた。
キィィン、と鼓膜を刺すような、不快な共鳴。
(ハインツさんの工房から盗まれた、あの歯車……あの部品の特殊共鳴音か)
ルークはふっと息を吐き、「困ったな」と呟いた。
しかし、その足取りはすでに、その音の発生源らしき倉庫へと、迷いなく向かっていた。
倉庫の裏手に回り込み、錆びついた天窓の隙間からルークは内部を覗き込んだ。
薄暗い倉庫の中央、怪しげな光を放つ大型の導力実験機が設置されていた。
その中心部に嵌め込まれているのは、まさに昨日盗まれた特殊な歯車だ。
機械の周囲には、黒い外套を身にまとった三人の男たちが立っていた。
その衣服の胸元には、歪んだ螺旋の紋章――“ヘリックス”のマークが刻まれている。
「共鳴波長、限界値まであと一目盛りだ」
「この出力なら、結界の一部に干渉できる」
「あとは予定通り進めろ」
男たちの会話を聞きながら、ルークは視線を機械の足元へ向けた。
そこには、小さな鉄籠に入れられ、怯えたように丸くなっている白い猫がいた。
右耳の先が黒い。男爵夫人の愛猫、ルナだ。どうやら、実験の最中に迷い込んできて捕まったらしい。
(防衛結界の干渉実験、か。放っておけばルーヴェン大公国が大騒ぎになるな。……それに、あのまま出力を上げれば、過負荷で実験機が爆発して、あの猫も無事では済まない。)
ルークは小さくため息をついた。
(せっかく、今日は平和な一日になると思ったのに)
天窓から静かに身を躍らせ、ルークは倉庫の梁の上に音もなく着地した。
懐から取り出したのは、冒険者ギルドから支給された、何の変哲もない護身用の投擲用ナイフ三本。
(演技は必要ないな。ここで制圧する)
ルークの表情から、気の抜けた笑みが消えた。
シュッ、と空気を切り裂く微かな音が三度。
「がっ!?」「な、何だ……!?」
次の瞬間、三人の男たちは武器を抜くことすらできず、その場に崩れ落ちた。
「だ、誰だ……!」
床に這いつくばる黒衣の男が、必死に視線を上へ向けようとする。
だが、ルークはすでに梁から飛び降り、着地と同時に導力実験機の配線を、手鏡の破片を使って一瞬で切断していた。
火花が散り、キィィンという不快な駆動音がピタリと止まる。
「ひ、“ヘリックス”の計画を邪魔する者は……」
男が何か叫ぼうとした瞬間、ルークは男の首筋を手刀で鋭く叩いた。
男はその場に崩れ落ちた。他の二人も、すでに意識を失っていた。
「ふぅ……」
ルークは短く息を吐くと、ナイフを素早く回収し、籠の中で震えているルナの元へ歩み寄った。
鉄籠の錠前を、衣服の裏に隠していた針金一本で数秒で解錠する。
「怖かったね、ルナちゃん。もう大丈夫だよ」
ルークが男爵夫人の匂い袋を近づけると、猫は警戒を解き、ミャーオと甘えたような声を出してルークの腕の中に飛び込んできた。
ルークはルナを優しく抱き上げると、倒れた男たちの懐を素早く探り、組織の連絡用と思われる小さな暗号メモだけを抜き取った。
そして、実験機の中央から、ハインツの工房の部品を傷つけないように丁寧に抜き取る。
(あとで工房に戻しておけば、盗まれたこと自体を隠せる)
痕跡を整え、ルークはいつもの「頼りない新米」の笑顔へと表情を戻した。
「ああ! ルナ! 私の可愛いルナ!」
男爵邸に戻ると、夫人はルークから猫を受け取り、涙を流して抱きしめた。
ルークの服が泥や埃で汚れているのを見て、夫人は初めて満足そうに頷いた。
「北の古い倉庫街の暗がりに迷い込んでいたところを、なんとか見つけ出しました。汚れてしまってすみません」
頭をかくルークに、夫人は上機嫌で財布を開く。
「いいえ、よくやってくれましたわ! ギルドの新米と侮って悪うございました。これは私からの特別な報酬ですわ!」
「わあ、ありがとうございます!」
ギルドに戻り、ルークはエマに報告書と、男爵夫人からの大絶賛のサインが入った依頼書を提出した。
「本当に見つけてくるなんてね。しかも、あの気難しい夫人がこれだけ褒めるなんて、あなた、意外と猫に好かれる才能があるのかしら?」
エマは不思議そうに報告書を見つめる。今回の報告書は、迷子猫を探し回った経緯が細かく書かれており、いかにも新米が苦労して歩き回ったような、拙い文章に仕上がっていた。
「いやあ、本当に大変でしたよ! 倉庫街は暗くて不気味でしたし!」
エマの視線が少し和らぎ、ルークは胸の内でほっと息を吐いた。
普通の日常の裏で、ヘリックスの手は、すでにこの街の深部にまで及んでいる。
(防衛結界の欠落……。まだ何か隠しているな)
夕暮れの街を歩きながら、ルークは懐の暗号メモを指先でなぞった。
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第6話は10月2日の19時10分!




