第4話 小さな欠落
朝の光がルーヴェン大公国の石畳を白く染める頃、ギルドの扉はすでに開かれていた。
ルークは少し大きめのほうきを手にして、入口付近をのんびりと掃いている。
ときおり手元が狂ってほうきの柄を壁にぶつけ、そのたびに「おっとっと」と小さく声を上げて頭をかいていた。
その姿を受付のカウンターから見ていたエマが、書類から顔を上げた。
「おはよう、ルーク。朝から熱心ね」
「あ、エマさん、おはようございます! 昨日は遅くなっちゃったので、せめて朝の準備くらいはしっかりやろうと思いまして」
ルークはにこりと笑い、ほうきに寄りかかった。
そのとき、ギルドの通信用魔導具が静かに明滅した。
エマが手慣れた手つきで受話器を取り、しばらく相手の話に耳を傾ける。
その表情は深刻というより、どこか困惑したものに変わっていった。
「……ええ、はい。分かりました。一応、記録として残しておきますね。大きな被害がなくて何よりです」
通話を終えたエマは、ペンを回しながら、ルークに視線を向けた。
「ルーク、ちょっといいかしら。ちょっとした寄り道みたいな依頼なんだけど」
「はい、何でしょう? 僕にできることなら」
「昨日、あなたが立ち寄った路地裏の時計工房、覚えている?」
「ええ、もちろん。古い導力時計を直していたおじいさんのところですよね」
「そう、そのハインツさんの工房。今朝、開店の準備をしていたら、棚から古い導力懐中時計の予備部品が一つだけなくなっているのに気づいたそうよ」
ルークは「へえ」と気の抜けた声を出し、小首を傾げた。
「泥棒ですか?」
「それが、ハインツさんも不思議がっていてね。盗まれたのは百年前の規格で作られた、本当に小さな歯車一つだけなんですって。他のお金や、高価な工具には一切手が付けられていないの。警察にも一応連絡したみたいだけど、ただの置き忘れか、気まぐれな悪戯だろうって、まともに取り合ってくれなかったみたい」
エマはため息をひとつつき、一枚の依頼書をルークに差し出した。
「実害はほとんどないみたいだけど、ハインツさん、少し気味が悪いって落ち込んでいてね。昨日会ったばかりだし、顔見知りのあなたなら話しやすいと思うの。ちょっと様子を見て、お話を聞いてきてくれない? ついでに、周囲で怪しい人がいなかったか、軽い聞き込みもお願い」
「部品一つ、ですか~。僕みたいなドジでも、見つけられますかねえ。でも、おじいさんの顔を見るついでに行ってきます!」
ルークは眉を下げ、ヘラヘラと笑って依頼書を預かった。
ギルドの重い扉を押し開け、外へ出る。 石畳に一歩足を踏み出した瞬間、ルークの思考が切り替わった。
(他には一切手を付けず、特定の部品だけを抜いた、か……)
のんびりとした歩調を崩さないまま、ルークは考えを巡らせ始めた。
金目のものには目もくれず、古い工房の、それも骨董品に近い時計の予備パーツだけを狙う。
ただの新米ギルド員なら、深く考える必要はない。
だが、かつて裏の世界で生きていた経験が、これを単なる「紛失」として片付けることを許さなかった。
時計工房の扉は、昨日と同じように開かれていた。
しかし、奥に座る老職人ハインツの背中は、心なしか昨日よりも小さく見えた。ランプの光の下で、彼は昨日見せてくれた「修理記録帳簿」を何度もめくっていた。
「ハインツさん、こんにちは~。ギルドからお話を聞きにきました」
「おお、昨日の新米さんか……。いや、わざわざすまんな。大ごとにするつもりはなかったんだが、どうしても腑に落ちなくてね」
ハインツは力なく笑い、部屋の隅にある木製の保管棚を指し示した。
ルークは「どれどれ」と近づき、引き出しを覗き込む。
「ここだよ。この細かく仕切られた箱の、一番奥。百年前の導力時計に使う、真鍮製の極小歯車だ。昨日、お前さんと話した後に確認したときは確かにあった。それが、今朝見たら綺麗になくなっていたんだ」
ルークは棚に顔を近づけ、感心したような声を上げた。
「わあ、本当に細かく仕切られてますね。僕なら絶対にどこに片付けたか忘れちゃいます」
そう言いながら、ルークはわざと棚の縁に指を滑らせた。
そのまま、視線を引き出しの内部から鍵穴へと移す。――鍵は壊されていない。
鍵穴の周囲に、無理にこじ開けたような微細な金属片も、工具の削り痕もない。
それどころか、仕切りの周囲に薄く積もっていた埃の層すら、その部品があった場所以外、ほとんど崩れていなかった。
必要なものだけを、正確に抜き取ったように見えた。
(……鍵を開け、目的の物だけを抜き、元の状態に戻して去った。足跡も、衣類の繊維も残していない。職人ですら、朝になって現物を見るまで気づかなかったわけだ)
これほどの芸当ができる人間が、この街にどれだけいる……。
ルークの脳裏に、かつて自身が所属していた組織の、暗殺や工作に入る前の、精密な下準備の光景がよぎる。
「ううん、僕にはよくわかりませんねえ。でも、泥棒にしては随分とお行儀がいいというか……なんだか変な感じはします」
ルークは頭をひねりながら、無邪気な笑みをハインツに向けた。
「まあ、そうだよな。若いお前さんに聞いたところで、泥棒の気持ちなんて分かるわけもない。ただ、先祖代々の記録に残る部品だったから、少し寂しくてな」
ハインツは古びた帳簿を愛おしそうに撫でた。
震える手を、ルークは静かに見つめていた。
工房を後にしたルークは、周囲の朝市や近隣の住民への聞き込みを始めた。
「何か変わったことはありませんでしたか?」と、八百屋の店主や荷馬車を引く男たちに聞いて回った。
「怪しい奴? いやあ、見てないねえ。このあたりは夜になると警備の兵隊も通るし、物騒な噂なんて滅多に聞かないよ」
聞き込みをしても、返ってくる答えはどれも同じだった。
ルーヴェン大公国の治安は良く、この辺りでも物騒な話はほとんど聞かない。
しかし、広場に近いパン屋の店主が、小麦粉の袋を運びながら、ふと思い出したように呟いた。
「そういえばさ、昨日の夜遅く、店の仕込みをしてたときなんだけどね。窓の外を、影みたいなのが通り過ぎた気がしたんだ。気になって覗いたんだけど、誰もいなくてさ。石畳の街なのに、靴の音一つしなかった。見間違いだと思うんだけど、なんだか薄気味悪くてね」
ルークの足が、一瞬だけ止まる。 ――靴の音一つしなかった。
それは、昨夜すれ違った先輩ギルド員の言葉と重なった。
「へえ、お化けですかね。僕なら怖くてすぐ布団に潜っちゃいますよ」
ルークは冗談めかして笑い、店主との会話を切り上げた。
人気のない路地に入った瞬間、ルークの目から笑みが消えた。
(素人の犯行ではない。かといって、金目的でもない。あの部品単体に価値はほとんどない。骨董品の時計に使われる、特殊な形状の歯車……。ならば、何のために)
まだ材料が少ない。だが、ルークには嫌な想像がいくつも浮かんだ。
古い導力機構を狂わせるための部品かもしれない。誰にも気づかれない、小さな欠落。
(……いや、やめろ)ルークはそこで、無理やり思考を止めた。
自分のこめかみを、指先で軽く叩く。
(俺はもう、あの組織の人間じゃない。ただの新米ギルド員だ。深入りするな。俺という凶器を、これ以上呼び覚ますな)
ふう、と息を吐き、ルークは再び、人当たりのいい青年の仮面を被った。
昼過ぎ、ギルドに戻ったルークは、受付のエマに報告書を提出した。
「エマさん、戻りました~。近所の人たちにも聞いてみたんですけど、やっぱり何も手がかりはなくて。ハインツさんの部品は見つかりませんでした。たぶん、誰かが間違えて持っていっちゃったか、どこかに落としちゃったんじゃないでしょうかねえ」
ルークは申し訳なさそうに眉を八の字に曲げた。
「そう、ありがとう。お疲れさま、ルーク。まあ、大きな被害がないなら、これ以上は警察も動かないでしょうし、仕方のないことね」
エマは報告書を受け取り、目を通す。
そこには、ハインツの証言と、近隣住民の「異常なし」という言葉が、過不足なく綺麗にまとめられていた。
ドジで頼りない新米のはずなのに、彼の報告書は妙に正確だった。
余計な感想はなく、必要な情報だけが簡潔にまとめられている。
(……この子の報告、妙に淡白だわ)昨日もそうだった。どこか掴みどころがない。
エマがじっと見つめていることに気づいたのか、ルークは「何か変でしたか?」と、無邪気に首を傾げた。
「ううん、何でもないわ。しっかり書いてくれて助かったわ。今日はもう休んでいいわよ」
「ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えて上がらせてもらいますね」
ルークは嬉しそうに笑い、ギルドの奥へと引っ込んでいった。
エマはその背中を、しばらくの間、言葉にできない違和感を抱いたまま見送っていた。
その日の夜。 ルークは、支給された自室のベッドに腰掛け、窓から差し込む月光を浴びていた。
手の中には、昼間エマから褒められたギルド員の証、緑色のバッジがあった。
指先でその表面をなぞりながら、彼は窓の外の音に耳を澄ませていた。
被害は小さい。誰も傷ついていない。騒ぐほどのことではない。
だが、あの部品の抜き方は、あまりにも正確だった。
ルーヴェン大公国の穏やかな日常の裏側で、何かが始まっているのだろうか。
それとも、過去を引きずる自分が、また余計な勘ぐりをしているだけなのだろうか。
「……ま、いっか」ルークはバッジを机の上に置くと、ベッドに寝転び、天井を見上げた。
ルークは小さく息を吐き、気の抜けた表情に戻った。
「明日こそは、迷子の猫探しとか、普通の依頼がいいなあ……」そう呟いて、ルークは目を閉じた。
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第5話は10月1日の19時10分!




