第2話 街道の風と、見知らぬ温もり
ルークはギルドの受付カウンターに、いつものように柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
昼を少し回ったばかりのギルドは、朝の慌ただしさが引いたあとで、どこか気の抜けた空気に包まれていた。
壁際の長椅子では依頼帰りらしい冒険者たちが水差しを回し飲みし、奥の掲示板の前では、駆け出しの若者たちが残った依頼札を見比べている。
革鎧の擦れる音、木靴の響き、誰かの笑い声。
そんな見慣れたざわめきの中で、ルークは今日も人のよさそうな新米ギルド員の顔を崩していなかった。
「ルークさん、指名依頼ですよ」
受付嬢のエマが、書類を手にしたままこちらを見た。
少し困ったような、それでいてどこか頼もしそうな声音だった。
ルークがカウンターに近づくと、エマは依頼書を一枚差し出してくる。
依頼人は、果物屋の店主ハンス。昨日、市場でリンゴをおまけしてくれた男だった。
「あ、ハンスさんだ」
思わずそう口にすると、エマがくすりと笑う。
「覚えてたんですね」
「そりゃ覚えますよ。リンゴくれた人ですし」
そんなふうに言いながら依頼書を受け取る。
内容は、郊外の果樹園まで空の木箱と台車を運ぶ手伝い。あわせて、道中の護衛も兼ねるとある。
いかにも地味で、いかにも人手仕事らしい依頼だった。
「力仕事かあ。俺みたいな頼りない新米で大丈夫かな……」
ルークは頭をかき、少し情けない声を出した。
けれどルークは、依頼書に目を通しただけで、危険がほとんどないことを見抜いていた。
街道沿い、昼間、依頼主は土地勘のある商人。
護衛対象も荷車一台分の木箱だけ。出るとしても、せいぜい腹を空かせた野犬くらいだ。
「ハンスさんがわざわざ指名してくれたんですから、頑張ってきてくださいね」
エマにそう言われると、ルークはすぐに顔を上げた。
「はい! 任せてください!」
明るく返した声に、エマは安心したように小さく頷いた。
ルークは依頼書を折って懐にしまい、そのまま軽い足取りでギルドを出る。
背中に向かって、「報告書、ちゃんと出してくださいねー!」とエマの声が飛んできて、ルークは振り返らずに片手だけ上げてみせた。
ルーヴェン大公国の郊外へ続く道は、どこまでも穏やかだった。
石畳の街路を抜けると、景色はゆるやかな丘陵へと変わっていく。
街の建物は次第にまばらになり、代わりに風に揺れる麦畑や、手入れの行き届いた畑が目に入るようになる。その向こうには、整然と並ぶ果樹の列が長く続いていた。
遠くでは古びた風車の羽根がゆっくり回っている。
乾いた土の匂いに混じって、熟れはじめた果実の甘い香りが風に乗って流れてきた。
空は高く、雲は白く薄い。陽差しは明るいのに、吹き抜ける風だけが少し涼しい。
街の外れで待っていたハンスは、すでに台車に空の木箱を積み上げていた。
見た目よりずっと頑丈そうな腕で持ち手を握り、ルークの姿を見つけると大きく手を振る。
「おう、来てくれたか!」
「お待たせしました!」
ルークが駆け寄ると、ハンスは笑いながら荷の具合を見せた。
「重いのは見たまんまだが、まあ運ぶだけだ。途中で休みたくなったら遠慮なく言えよ。お前さん、あんまり力仕事向きには見えんからな」
「ひどいなあ。でも、倒れない程度には頑張ります」
「倒れられたら困るんだよ」
そんなやり取りを交わしながら、二人は並んで歩き出した。
台車の車輪が石を噛み、木箱が小さく軋む。急ぐ仕事ではないらしく、ハンスの足取りも声も気楽なものだった。
しばらく進んだところで、ハンスが思い出したように笑った。
「昨日は助かったよ、ルークさん。お前さんが情けなく転んだせいで、ごろつきどもが勝手にひっくり返ったって話、市場じゃちょっとした噂になってるぞ」
「えー? 運が良かっただけですよ。転んだ拍子に、たまたま足が当たっちゃって……」
ルークはへらへら笑ってごまかした。
細身の体で台車の横を歩きながら、表向きは少し息が上がっているようにも見せている。
荷の揺れに合わせる歩幅も、わざと少し頼りなげにしていた。
「たまたまでああなるもんかねえ」
「なりますって。たぶん」
「たぶんか」
ハンスは呆れたように鼻を鳴らしたが、機嫌はよさそうだった。
道の両脇には、背の高い草が風にそよいでいた。
ところどころに小さな花が咲き、畑へ向かう農夫の荷馬車がゆっくりとすれ違っていく。
彼らはハンスを見つけると気さくに手を上げ、ハンスもまた大きな声で挨拶を返した。
「顔が広いんですね、ハンスさん」
「この辺で長く商売してりゃ、嫌でもな。朝に果物を下ろして、昼に世間話して、夕方にはまた店に戻る。毎日そんなもんだ」
ハンスはそう言ってから、ふっと目を細めた。
「でもな、そういう毎日がいいんだよ」
台車を押す手に力を込めたまま、ハンスは空を見上げる。
「この国はな、変わらないことがいいんだ。何百年も前から同じ石畳を歩いて、同じ風車が回って、同じ言葉で朝の挨拶をする。よそから見りゃ窮屈かもしれんが……俺たちには、それがいちばん落ち着く」
ルークは笑みを崩さず、その言葉を聞いていた。
以前のルークなら、そんなものは脆いだけだと思っていただろう。
形ばかり守って、少し揺すれば壊れる。あの組織にいた頃の彼なら、この国の伝統も日常も、そんなふうに見ていたはずだった。
けれどハンスの声には、飾りも打算もなかった。
ただ、自分が根を下ろして生きる土地を、まっすぐに信じているだけだった。
この頑固なくらいの穏やかさが、この国の人々を支えているのかもしれない。
以前のルークなら、それを弱さと切り捨てていただろう。
だが今は、まだそう言い切ることができなかった。ルークは何も言わず、ただ一度だけ前を見た。
麦畑の向こうで、風車の羽根が変わらぬ調子で回り続けている。
静かな道に、台車の軋む音だけが長く響いた。
そのとき、道端の草むらが不意にざわめいた。
低いうなり声とともに、大きな野犬が飛び出してくる。
毛並みは荒れ、背を丸め、飢えた目でこちらを見ていた。
むき出しの牙がぎらりと光り、ハンスが息を呑んで足を止める。
「ルーク!」
だがルークは、のんびりとした声を出した。
「わあ、可愛いワンちゃんですね〜」
そう言いながら一歩前へ出ると、懐から昨日ハンスにもらったリンゴをひとつ取り出し、ふわりと宙へ放った。
次の瞬間だった。
腰に差した細剣が、鞘に収まったまま、ほとんど見えない速さで二度、乾いた音を立てた。
宙にあったリンゴが、きれいに四つに割れた。均等に裂けた果肉が、野犬の足元へ落ちる。
野犬はぴたりと止まった。牙を剥いたまま、しかし踏み込んではこない。
そこには、野犬を前にした者とは思えないほどの静けさがあった。
風が止まったような一瞬ののち、野犬はしばらくルークを見つめ、やがてすっと視線を逸らした。
そうして足元のリンゴをくわえると、尻尾を巻いて草むらの奥へ逃げていった。
あとに残ったのは、揺れた草の音と、呆気に取られた沈黙だけだった。
しばらくしてから、ハンスが力の抜けた声を出した。
「お前さん、護衛になってないぞ! 剣も抜いてないじゃないか」
「えへへ、怖がらなくて済んで良かったです〜」
「良かったで済むか。今の何だったんだ」
「リンゴを分けてあげただけですよ」
「分け方がおかしいんだよ」
ルークは屈託なく笑い、落ちていたリンゴのかけらを拾い上げた。
ハンスはまだ何か言いたげだったが、結局大きく息を吐いただけで、また台車の持ち手を握り直す。
そうして誰ひとり傷つくこともなく、台車は無事に果樹園へ着いた。
果樹園の人たちは二人を歓迎し、冷えたリンゴ水と焼きたてのパンを振る舞ってくれた。
陽を浴びた葉が頭上でさやさやと鳴り、枝には色づきはじめた果実がいくつも揺れている。
木箱を運び終えたあとに腰を下ろして飲んだリンゴ水は、喉の奥までひんやりと甘かった。
「働いたあとの一杯はうまいだろ」
「はい。すごく」
焼きたてのパンをちぎると、湯気といっしょに小麦の匂いが立ちのぼる。
ハンスはそれを見て満足そうに笑い、果樹園の者たちもつられて笑った。
誰かが今年の実りの話をして、誰かが風向きの話をして、また別の誰かが市場の値段を気にしている。
大きな出来事なんて何もない。ただ、穏やかな暮らしの中にある当たり前の声がそこにあった。
帰り道には、夕日が道を茜に染めていた。
石畳の上に長い影が伸び、風は昼より少しだけひんやりとしている。
行きに見た風車は、赤みを帯びた空の下で変わらずゆっくり回っていた。
一人きりになると、ルークは胸元の緑のギルドバッジへそっと目を落とした。
そこに映る顔から、いつもの親しげな笑みは消えている。
(あの頃には、知らなかった光景だ)
麦の穂を渡る風の音が、遠くで絶えず揺れていた。
(悪くないな。この退屈で温かい日常も)
そう思った次の瞬間、青年の顔に、またいつもの笑みが戻る。
「あっ、報告書が遅れてエマさんに怒られる〜!」
情けない声を上げると、ルークは石畳を蹴った。
夕闇の中へ駆けていく背中は、どこからどう見ても、少し頼りない新米ギルド員のそれだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。感想や修正点があったら、感想にお願いします。ブクマと高評価もお願いします。
第3話は9月29日の20時10分です。




