第72話 参陣奏環・滅(さんじんそうかん・めつ)(その2)
戦場を支配していた絶望的な
魔力圧が、嘘のように静まり返っていた。
「さて……『無』で敵の理を消し、
『創』で世界を元に戻した。……
さあ、いよいよ仕上げさね」
膝をつき、今にも形体を失って
崩れ落ちようとしているヨルダに向け、
宵咲は静かに扇子の先を向けた。
その瞳には過酷な戦いを制した者としての
冷徹さではなく、あまりにも深く、
温かな慈愛の色が宿っていた。
「いいかいリョウタ。
『創』で生み出し、
『無』で消す。
そして『滅』とは……
存在の執着も苦しみもすべてを解き放ち、
元の温もりへと還す極意さね」
ニノは息を呑み、
ひぃおばあちゃんの背中を見つめた。
宵咲の手から解き放たれる
神聖な光が、ゆっくりと広がっていく。
「——『参陣奏環・滅』」
「——『万象還元』」
ふと気がつくと、
ヨルダは冷たく暗い戦場ではなく、
どこまでも続く黄金色の草原に立っていた。
爽やかな風が頬を撫で、
色鮮やかな季節の花々が可憐に揺れている。
全身を蝕んでいた「冬の呪詛」の痛みも、
重い鎧の圧迫感も、
すべてが嘘のように消え去っていた。
「おーい、ヨルダ!
大きなバッタがいるぞぉ!
早く来てみな!」
「ヨルダぁ、
転ばないように走るのよぉ」
どこか遠く、
けれど胸の奥深くにずっと眠っていた、
愛おしい声が自分を呼ぶ。
「……お父さん……?
お母さん……?」
声のする方へ振り向くと、
そこには溢れんばかりの笑顔で
手を振る両親の姿があった。
何が何だかわからないまま、
ヨルダの脚は勝手に走り出していた。
幼い頃の小さな体に戻ったかのように、
夢中で草をかき分け、
二人の広げた胸の中へと飛び込んだ。
ドスッ、
と胸に伝わる温かな抱擁の感触。
包み込んでくれる父親の大きな腕と、
母親の優しい日だまりのような匂い。
「今日は、
いっぱい遊んだな!
ほら、手の汚れを拭いて」
「ふふ、
夕ご飯の準備を急いでしなきゃねぇ。
今日はヨルダの大好きなシチューよ」
そう——
かつて冬の冷酷な戦いに身を投じる前、
確かに存在していた、
大好きな家族との愛おしいひととき。
回想の波が、
ヨルダの胸の中に次々と溢れ出していく。
「(……そうだ。
思い出してきた……)」
収穫祭の夜、
父親に肩車をしてもらいながら、
母親と三人、手をつないで見上げた、
夜空一面の美しい大輪の花火。
父親の膝の上で
冒険の絵本を読んでもらいながら、
いつの間にかうとうと眠ってしまった
あたたかな夜。
風邪を引いたときに、
母親が寝床の傍らで
一晩中手を握りしめて
歌ってくれた、優しい子守唄。
「(私……
戦いたかったわけじゃなかった……。
壊したかったわけでも……
誰かを憎みたかったわけでもない……)」
冬の呪詛によって歪められ、
奪われていた本当の自分。
ただ家族と一緒に笑い合い、
穏やかな日だまりの中で生きていたかっただけの、
一人の少年としての記憶。
「さあ、ヨルダ。
家へ帰ろうか!」
父親が優しく手を差し伸べ、
母親が隣で温かく微笑む。
ヨルダはその手をしっかりと握り返した。
「うん……!
おうちへ、帰る……!」
頬を無数の涙が濡らしていく。
だが、その顔には冬の兵器としての
冷酷さは微塵もなかった。
今まで一度も見せたことのない、
両親と一緒に眠る幼子のような
心からの幸せそうな微笑み。
「(そう……そうだ……
これでいいんだ……。
ぼ、僕は……これが、欲しかったんだ……)」
ヨルダの身体は柔らかな光の粒子となり、
心地よい秋風に運ばれながら、
空へと静かに溶けて消えていった。
魂が長きにわたる苦しみから解き放たれ、
本来還るべき場所へと昇華していく。
その場に集結していた全員が、
呼吸すら忘れてその神聖な光景を見つめていた。
「拙者の刀では……
あやつを切り捨てることしか出来なんだ。
消し去るのではなく『救う』滅び……
これが、理の頂点か……」
カゲロウが感極まったように呟く。
「力で屈服させるのではない……
世界を癒す調律……あれが、真の強さ……」
エルザが息を呑み、
その隣でレイスも静かに言葉を漏らした。
「凄まじいな……
敵の存在そのものを、
最も美しい形で還してしまうとは」
そして、
遠く離れた場所で念視を通じて
その光景を見届けていたルナも、
その胸を強く打たれていた。
「(これが、伝説の大調律師の力……。
憎しみの連鎖を力ではなく、
愛で断ち切る究極の滅び……)」
さらに、ゲートランド城のベッドで
同じく念視を通じて見守っていた炎夏は、
ぽりぽりと頭をかきながら、
呆れたように呟いた。
「ふん……
相変わらず無茶苦茶な婆さんや。
……けど、あの顔。
ウチをボコボコにした時より、
ずっと優しい顔してやがる」
ニノの傍らに浮遊する最後の光の粒子が、
凛とした美しい音色を鳴らした。
「(…ありがとう)」
それは、宵咲の『滅』が
世界そのものを愛で包み込んだことを証明する、
祝福の響きだった。
「……さあ、
見本はこれでおしまいさね」
宵咲はパチンと音を立てて
扇子を閉じると、ニノに向き直った。
その瞳には、
自らの役目を終えようとする者の
静かな覚悟が宿っていた。
宵咲はニノの胸元へと、
優しく静かに手を当てる。
「ひぃおばあちゃん……?」
「アンタがこれまで自力で
積み上げてきた7重の調律……
立派だったよ、リョウタ。
だがね、
冬の精霊に勝つにはまだ少し足りない。
……ワシの全力を、アンタに全部あげるよ」
「え……っ!?
全力をあげるって……
それじゃあ、ひぃおばあちゃんは……!?」
ニノが驚きに目を見開くが、
宵咲はいたずらっぽく微笑むだけだった。
「いいから受け取りな!」
カァァァァッ……!
宵咲の身体から解き放たれた
膨大な光の潮流が、
ニノの全身へ奔流となって
流れ込んでいく!
ニノの中で不足していた
壱陣・弐陣の極致のピース、
そして世界そのものを調律する
『参陣奏環』の概念が、
完璧に融合し、補完されていく。
「(身体の中に……
世界の『理』が満ちていく……!
これが……『参陣奏環』……!)」
ニノの瞳が至高の輝きを宿し、
最高位の大調律師として完全に
覚醒を果たした。
しかし——それと引き換えに、
宵咲を包んでいた神々しい魔力圧が、
静かに消えていく。
3000年間彼女を縛り続けていた
膨大な魔力が、完全にニノへと
受け継がれたのだ。
「ふぅ……これでワシの力は
全部スッカラカンさ。……
あーあ、3000年もよく働いたねぇ」
神々しさが抜け、どこか晴れやかな、
普通の優しい少女の顔に戻った宵咲が、
満足そうにふっと身体の力を抜いた。
「ひぃおばあちゃん……っ!?」
慌てて受け止めるニノの腕の中で、
宵咲は気持ちよさそうにくすりと微笑んだ。
「リョウタ……ワシはもう、
ゆっくり休ませてもらうよ。
……自慢のひ孫、あとは頼んだよ……」
「……うん。任せて……!
ゆっくり休んでね、
ひぃおばあちゃん……!」
すやすやと穏やかな
寝息を立て始めた宵咲を抱きかかえ、
ニノは溢れ出る涙を拭った。
受け継いだ力と意志の重みを噛み締めながら。
すると、
ニノの肩のあたりで赤い妖精が、
赤金の光を纏ってそっと浮かび上がった。
「今までのことを、
すべて見せていただきました。
私は『秋の音叉』の化身……
今から『秋の精霊様』の元に、
皆様をご案内いたします」
苦難の戦いの中で見せた
ニノたちのたくましさ、
そして敵すらをも慈しむ優しさに
心を打たれた『秋の音叉』は、
大切な主である秋の精霊の救出を、
ニノたちへ託すことを決意したのだ。
『秋の音叉』は光の粒子を振りまきながら、
彼方の方角へとゆっくり飛んでいく。
ニノは眠る宵咲を抱き直し、
集まった仲間たちを見回すと、
涙を拭って力強くうなずいた。
「みんな……行こう。
秋の精霊様のところへ!」
自分で書いていて涙ぐみました。
年ですね。





