最初の日
入会して最初の土曜日、昌子はマグロジムの更衣室で鏡を見ていた。
黒いTシャツに、黒いパンツ。
明るい色は、身体の線を拾う気がして何年も買っていない。肩から腕にかけては丸くなり、お腹は腰の上へやわらかく乗っている。
若いころは、背が高いことが少し自慢だった。背筋を伸ばせば、何を着てもそれらしく見えた。
今は、背筋を伸ばすと少し息が苦しい。
鏡の端に、真帆が映った。
今日は白いタンクトップに、薄いグレーのパンツだった。丸い肩。腰の細さ。後ろ姿の、腰から脚へ続くきれいな線。
昌子は自分の視線に気づき、慌てて顔をそらした。
「気になります?」
真帆は鏡越しに笑った。
「すごいなって。後ろ姿まできれい」
「お尻?」
「そこだけじゃないわよ」
「鍛えましたから」
真帆はあっさり言った。
「昌子さんも、鍛えれば変わります」
「湊くんにも、似たようなこと言われた」
「湊さん、最初に背中を褒めるんですよね」
「背中?」
「筋肉が先に見えるんです」
「困った人ね」
ジムの中央では、間黒がマシンの高さを調整していた。黒いTシャツの背中は、肩から途中で一度盛り上がっている。
昌子が近づくと、間黒は振り返った。
「昌子さん。今日は三つです」
「三つだけですか」
「少ないですか」
「ええ。それだけなのかと」
「終わるころには、三つで十分だと思います」
一つ目は、座って足で板を押すマシンだった。
「これは何ですか」
「レッグプレスです」
「マグロの名前じゃないのね」
「普通の機械も置いてます」
真帆が背もたれを調整し、昌子の足を置く位置を直した。
「膝は中へ入れないで。足の裏で、床を遠くへ押すつもりで」
「床は逃げないよね」
「昌子さんが押したぶんだけ、板が逃げます」
どこかで聞いた説明だった。
昌子はゆっくり板を押した。
一回。
二回。
三回。
太腿の前側が、じわりと熱くなった。
六回目で、昌子は息を吐く。
「太腿が、もう嫌だって言ってる」
「まだ十回の途中です」
「早いな」
十回目を終えると、太腿が勝手に震えた。
真帆はその震えを見て、にっこり笑う。
「あと一回だけ、きれいにやりましょう」
昌子は真帆を見た。
「それ、常連さんにも言ってたよね」
「言いました」
「悪魔だ」
「今日は褒め言葉が多いですね」
昌子は板をもう一度押した。
さっきよりゆっくり押すと、太腿の前がさらに熱くなった。
「はい、きれい」
真帆の声が、少しうれしそうだった。
二つ目は、上から下りているバーを胸の前まで引くマシンだった。
昌子はバーを見上げた。
「これは背中?」
「背中です」
「腕じゃなくて?」
「最初はみんな、腕で引きます」
間黒が後ろに立ち、昌子の肩甲骨のあたりを指で示した。
「肘を、後ろのポケットへ入れる」
「ポケットないけど」
「あるつもりで」
昌子はもう一度バーを引いた。
背中の中に、今まで使ったことのない場所がある。
そこが、急に文句を言い始めた。
「背中の奥に、知らない筋肉がいる」
「広背筋です」
「名前を知っても、仲良くはなれない」
そのとき、入口の扉が開いた。
「おはようございます」
湊だった。
白いTシャツに短いパンツ。会社で見るワイシャツ姿より、ずっと軽そうだった。肩から腕にかけて、Tシャツの布が押し上げられている。腕を下ろしているだけなのに、二の腕の後ろが丸く張っていた。
昌子はバーを持ったまま見た。
「湊くん、会社の服の下、どうなってるの」
「普通ですよ」
「普通の二の腕は、そんなに主張しない」
湊は笑った。
「先輩、初日ですか」
「初日よ。背中の筋肉が大変なことになってるの」
湊が声を立てて笑った。
「それ、使えてる証拠です」
「本当に?」
「本当です」
湊は荷物をロッカーへ入れた。それからマシンへ向かうでもなく、昌子の少し横に立ったまま、にこにこしている。
「なに」
「先輩がここにいるの、なんかうれしいなと思って」
「何、それ」
「一緒に鍛える人が増えるの、うれしいんです。会社では誰も筋トレの話を聞いてくれないので」
「湊くんが話すと、長いからね」
「今日は短くします」
「それは助かるわ」
真帆が、隣で声を立てずに笑っていた。
「昌子さん、最後は胸です」
真帆が、座って胸の前を押すマシンへ昌子を案内した。
昌子が持ち手を押すと、腕より先に肩が上がった。
「肩をすくめないで。ここを下げて、胸を開きましょう」
真帆の指が、昌子の肩へ軽く触れた。
言われた通りにすると、さっきまで腕で押していたものが、胸の奥へ移った。
「全然違う」
「息を止めないでください。吐きながら、ゆっくり押します」
昌子は息を吐きながら、もう一度押した。
思ったより声が漏れた。
隣で湊が、ぴたりと動きを止めた。
「先輩、今の……ちょっとセクシーボイスになってました」
「チェストプレスよ」
「知ってます」
「なら静かにして」
真帆は数える手を止めずに言った。
「あと四回です。息を吐いて」
「ほら、真帆ちゃんは普通」
「僕も普通に聞いてました」
「聞かなくていい」
湊は困ったように笑い、自分のマシンへ向かった。
間黒と軽く話し、さっき昌子が引いていたバーへ重りを足す。
湊が引くと、背中のTシャツがぎゅっと張った。
昌子は少しだけ腹が立った。
「見せつけてる?」
「鍛えてるだけです」
「余計に腹立つ」
予定の三つを終えると、昌子のTシャツは背中に張りついていた。腕は重い。脚も、自転車で来たときとは別のものになったようだった。
「有酸素運動は」
昌子が聞くと、間黒は首を振った。
「今日はなしです」
「まだ動ける」
「初日に全部やると、次が嫌になります」
「そんなに弱そう?」
「長く来てほしいんです」
昌子は反論しかけた。
階段を下りる自分の脚を想像して、やめた。
「次も来る」
「それでいいです」
更衣室へ戻ると、鏡の中の昌子は顔が赤かった。汗で前髪が額に張りついている。体型は、朝と何も変わっていない。
けれど、いつもよりまっすぐ立っているように見えた。
昌子は鏡の中の自分へ言った。
「次も来るから」
ロッカーの扉を閉めるとき、手のひらにまだバーの冷たさが残っていた。




