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マグロジム  作者: 大神みや


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3/7

最初の日

入会して最初の土曜日、昌子はマグロジムの更衣室で鏡を見ていた。


黒いTシャツに、黒いパンツ。


明るい色は、身体の線を拾う気がして何年も買っていない。肩から腕にかけては丸くなり、お腹は腰の上へやわらかく乗っている。


若いころは、背が高いことが少し自慢だった。背筋を伸ばせば、何を着てもそれらしく見えた。


今は、背筋を伸ばすと少し息が苦しい。


鏡の端に、真帆が映った。


今日は白いタンクトップに、薄いグレーのパンツだった。丸い肩。腰の細さ。後ろ姿の、腰から脚へ続くきれいな線。


昌子は自分の視線に気づき、慌てて顔をそらした。


「気になります?」


真帆は鏡越しに笑った。


「すごいなって。後ろ姿まできれい」


「お尻?」


「そこだけじゃないわよ」


「鍛えましたから」


真帆はあっさり言った。


「昌子さんも、鍛えれば変わります」


「湊くんにも、似たようなこと言われた」


「湊さん、最初に背中を褒めるんですよね」


「背中?」


「筋肉が先に見えるんです」


「困った人ね」


ジムの中央では、間黒がマシンの高さを調整していた。黒いTシャツの背中は、肩から途中で一度盛り上がっている。


昌子が近づくと、間黒は振り返った。


「昌子さん。今日は三つです」


「三つだけですか」


「少ないですか」


「ええ。それだけなのかと」


「終わるころには、三つで十分だと思います」


一つ目は、座って足で板を押すマシンだった。


「これは何ですか」


「レッグプレスです」


「マグロの名前じゃないのね」


「普通の機械も置いてます」


真帆が背もたれを調整し、昌子の足を置く位置を直した。


「膝は中へ入れないで。足の裏で、床を遠くへ押すつもりで」


「床は逃げないよね」


「昌子さんが押したぶんだけ、板が逃げます」


どこかで聞いた説明だった。


昌子はゆっくり板を押した。


一回。


二回。


三回。


太腿の前側が、じわりと熱くなった。


六回目で、昌子は息を吐く。


「太腿が、もう嫌だって言ってる」


「まだ十回の途中です」


「早いな」


十回目を終えると、太腿が勝手に震えた。


真帆はその震えを見て、にっこり笑う。


「あと一回だけ、きれいにやりましょう」


昌子は真帆を見た。


「それ、常連さんにも言ってたよね」


「言いました」


「悪魔だ」


「今日は褒め言葉が多いですね」


昌子は板をもう一度押した。


さっきよりゆっくり押すと、太腿の前がさらに熱くなった。


「はい、きれい」


真帆の声が、少しうれしそうだった。


二つ目は、上から下りているバーを胸の前まで引くマシンだった。


昌子はバーを見上げた。


「これは背中?」


「背中です」


「腕じゃなくて?」


「最初はみんな、腕で引きます」


間黒が後ろに立ち、昌子の肩甲骨のあたりを指で示した。


「肘を、後ろのポケットへ入れる」


「ポケットないけど」


「あるつもりで」


昌子はもう一度バーを引いた。


背中の中に、今まで使ったことのない場所がある。


そこが、急に文句を言い始めた。


「背中の奥に、知らない筋肉がいる」


「広背筋です」


「名前を知っても、仲良くはなれない」


そのとき、入口の扉が開いた。


「おはようございます」


湊だった。


白いTシャツに短いパンツ。会社で見るワイシャツ姿より、ずっと軽そうだった。肩から腕にかけて、Tシャツの布が押し上げられている。腕を下ろしているだけなのに、二の腕の後ろが丸く張っていた。


昌子はバーを持ったまま見た。


「湊くん、会社の服の下、どうなってるの」


「普通ですよ」


「普通の二の腕は、そんなに主張しない」


湊は笑った。


「先輩、初日ですか」


「初日よ。背中の筋肉が大変なことになってるの」


湊が声を立てて笑った。


「それ、使えてる証拠です」


「本当に?」


「本当です」


湊は荷物をロッカーへ入れた。それからマシンへ向かうでもなく、昌子の少し横に立ったまま、にこにこしている。


「なに」


「先輩がここにいるの、なんかうれしいなと思って」


「何、それ」


「一緒に鍛える人が増えるの、うれしいんです。会社では誰も筋トレの話を聞いてくれないので」


「湊くんが話すと、長いからね」


「今日は短くします」


「それは助かるわ」


真帆が、隣で声を立てずに笑っていた。


「昌子さん、最後は胸です」


真帆が、座って胸の前を押すマシンへ昌子を案内した。


昌子が持ち手を押すと、腕より先に肩が上がった。


「肩をすくめないで。ここを下げて、胸を開きましょう」


真帆の指が、昌子の肩へ軽く触れた。


言われた通りにすると、さっきまで腕で押していたものが、胸の奥へ移った。


「全然違う」


「息を止めないでください。吐きながら、ゆっくり押します」


昌子は息を吐きながら、もう一度押した。


思ったより声が漏れた。


隣で湊が、ぴたりと動きを止めた。


「先輩、今の……ちょっとセクシーボイスになってました」


「チェストプレスよ」


「知ってます」


「なら静かにして」


真帆は数える手を止めずに言った。


「あと四回です。息を吐いて」


「ほら、真帆ちゃんは普通」


「僕も普通に聞いてました」


「聞かなくていい」


湊は困ったように笑い、自分のマシンへ向かった。


間黒と軽く話し、さっき昌子が引いていたバーへ重りを足す。


湊が引くと、背中のTシャツがぎゅっと張った。


昌子は少しだけ腹が立った。


「見せつけてる?」


「鍛えてるだけです」


「余計に腹立つ」


予定の三つを終えると、昌子のTシャツは背中に張りついていた。腕は重い。脚も、自転車で来たときとは別のものになったようだった。


「有酸素運動は」


昌子が聞くと、間黒は首を振った。


「今日はなしです」


「まだ動ける」


「初日に全部やると、次が嫌になります」


「そんなに弱そう?」


「長く来てほしいんです」


昌子は反論しかけた。


階段を下りる自分の脚を想像して、やめた。


「次も来る」


「それでいいです」


更衣室へ戻ると、鏡の中の昌子は顔が赤かった。汗で前髪が額に張りついている。体型は、朝と何も変わっていない。


けれど、いつもよりまっすぐ立っているように見えた。


昌子は鏡の中の自分へ言った。


「次も来るから」


ロッカーの扉を閉めるとき、手のひらにまだバーの冷たさが残っていた。

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