一か月の記録
昌子がマグロジムへ通い始めて、一か月が過ぎた。
火曜日と土曜日。
最初は、その二日が来るたびに少し面倒だった。仕事を終え、家へ帰る前に自転車をマグロジムへ向ける。着替えて、脚で押して、胸の前を押して、背中で引く。
帰り道には脚が重い。
翌朝は、階段を下りるたびに太腿が文句を言う。
それでも四回目の帰り道には、昌子の足が勝手に商店街を抜けていた。
「昌子さん、来るのが普通になってきましたね」
真帆にそう言われた日、昌子はロッカーの鍵を指で回した。
「そう?」
「一か月、週に二回。ちゃんと来てます」
「ただ来てるだけだけど」
「それが一番難しいんです」
真帆は受付の下から、小さなノートを取り出した。
表紙には、青いマグロが泳いでいる。
「昌子さんの、からだ観察帳です」
「養殖日誌じゃないの?」
「人間の記録です」
一ページ目には、入会した日の体重と体脂肪率が書かれていた。空いている欄には、眠れたか、疲れが残っていないか、気分はどうだったか。
「毎回、こんなに書くの?」
「全部は書かなくていいです。書ける日に、書けるだけ」
「ゆるい」
「続けるためです」
真帆は、昌子が来た日にだけ青いスタンプを押した。
ビンナガの絵だった。
昌子はそれを見た。
「ちょっと、うれしい」
「でしょう」
一か月前には、どのマシンも似たような鉄の箱に見えた。今は違う。
脚で板を押せば太腿の前。胸の前を押せば、胸と腕の間。上から下りるバーを引けば、背中の奥。
昌子の身体には、名前も知らなかった場所がいくつもある。
「今日は背中が痛い」
ウォームアップを終えた昌子は、背中をさすった。
「昨日、何か重いもの持ちました?」
真帆が聞く。
「湊くんの納品書の箱」
「何箱?」
「三箱」
「それですね」
「三箱で?」
「三箱を、どんな姿勢で持ちました?」
昌子は少し考えた。
「急いでたから、こう」
腰を丸めて箱を抱える真似をすると、真帆が目を細めた。
「その持ち方は、ビンナガ以下です」
「魚以下の扱い、ここでもあるの」
「あります」
真帆は笑いながら、今日の重りを少し軽くした。
「身体は正直です。使った場所は、ちゃんと疲れます」
*
会社でも、昌子は少し変わった。
以前なら、湊が「昌子先輩、これ今日中に見てもらえますか」と言えば、何をしていても引き受けていた。
ある火曜日、湊が見積書を抱えて昌子の席へ来た。
「昌子先輩、これ、今日中に確認を」
言いかけてから、湊は壁の時計を見た。
六時を十分ほど過ぎている。
「明日でも大丈夫です。僕がもう一度、数字を見ます」
昌子は顔を上げた。
「急ぎじゃないの?」
「急ぎです。でも、僕が先にチェックします。明日、一緒に見てください」
昌子は見積書を受け取らなかった。
「じゃあ、そうして。最初から私の机に置かないでね」
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、うなずいた。
「はい。自分で見てから持ってきます」
昌子は鞄を肩へかける。
「今日はジムに行く日なの」
「火曜日ですから」
「覚えてたの?」
「火曜と土曜です」
「人の予定を覚えないで」
「先輩が火曜に来るようになって、僕も火曜に行くことにしたので」
「それ、私のせい?」
「いい意味です。背中の日なので」
湊は、あの日の川向酒場と同じ顔で笑った。
昌子は少しだけ、笑い返した。
「じゃあ明日、見せて。数字を見てからね」
*
その晩、マグロジムへ着くと、真帆が観察帳を開いた。
「一か月ですし、測ってみます?」
昌子は足を止めた。
「今日はやめようかな」
「嫌なら、今日はやめましょう」
「数字を見ると、いろいろ思うから」
「思ってもいいです。でも、数字だけで昌子さんを決めないでください」
真帆は体重計を指した。
「増えても減っても、理由が分かれば慌てずに済みます。次にどうするかも考えられます」
体重計に乗ると、数字が落ち着くまで少し時間がかかった。
昌子は目を細めた。
入会した日に測った数字より、1.6kg減っている。体脂肪率も、少し下がっていた。
「あれ」
「どうでした?」
「減ってる」
「よかったですね」
「本当に減ってる」
昌子はもう一度画面を見た。
「一か月で、こんなに」
真帆は驚く昌子に、観察帳を差し出した。
「食事も少し変えました?」
「夜の唐揚げとビールは、前より少ないかも」
「ちゃんと寝てます?」
昌子は少し考えた。
「トレーニングの日は、よく眠れます」
「それも大きいです」
昌子は日付と数字を書いた。その下に、少し迷ってから書く。
脚が少し軽い。
仕事で一つ断れた。
真帆は書き終わるまで、横からのぞかなかった。
「いいですね」
「何が」
「昌子さんの記録です」
*
帰宅してから、昌子は風呂上がりに鏡の前へ立った。
一か月で、身体が別人になるわけではない。お腹もある。腕も丸い。腰のあたりも、昨日までと同じだった。
けれど、いつもよりまっすぐ立っているように見えた。
昌子は横を向き、腹へ力を入れた。
何も起きない。
「まあ、一か月だし」
鏡の中の自分に言って、笑った。
寝る前、昌子は観察帳を机へ置いた。
青いビンナガのスタンプが四つ並んでいる。
身体は、まだ昨日とあまり変わらない。
けれど火曜日に行くことを、もう面倒だと思わなかった。
昌子は観察帳を閉じ、目覚ましを七時に合わせた。




