見学の日
休日の朝、昌子は目覚ましより先に目を覚ました。
枕元のスマートフォンには、自分で入れた予定がある。
マグロジム。
文字を見るたび、少し笑ってしまう。マグロのジムとは何なのか。昨夜の湊は説明していたが、筋肉の話になると急に早口になるので、途中から半分も聞いていなかった。
昌子は冷蔵庫を開けた。卵が二つ。ヨーグルトが一つ。いつからあるのか分からない味噌が一袋。
ヨーグルトを食べながら、鏡の前で服を選ぶ。
運動をするなら、学生時代のジャージでいいはずだった。けれど、押し入れから出してきた緑色のジャージは、どうしても今日の自分を励ましてくれそうになかった。
結局、黒いTシャツと、ゆるいパンツにした。
「見学だし」
誰に言うでもなくつぶやき、古いスニーカーの紐を結んだ。
六月の陽射しは、朝から強かった。
商店街を抜けた先に、古い雑居ビルがあった。一階はシャッターの閉まったクリーニング店。二階の窓に、青いマグロが泳いでいる。
看板には、太い字でマグロジムとある。
その下には、小さくこう書かれていた。
マグロのように。人間らしく。
「どっちなの」
昌子は自転車を止めた。
帰ろうと思えば、まだ帰れる。
階段の手すりをつかんだまま二階を見上げると、低い音楽と、何か重いものを引く音が聞こえた。
ぎい、ぎい、と縄が鳴る。
「見学の方ですか?」
後ろから声をかけられ、昌子は肩を揺らした。
振り返ると、白いタンクトップに紺色のパンツを着た女性が立っていた。日に焼けた肌。白い歯。ひとつにまとめた髪。
細い人だと思った。
次の瞬間、違うと分かった。
丸い肩。うっすら線の入った腕。きゅっと締まった腰から、しっかりした脚へ続く身体。細いのではなく、きれいに鍛えられている。
「はい。湊くんの紹介で」
「ああ。昌子さんですね」
女性はにっこり笑った。
「湊さんから、来るかもしれないって聞いてました。真帆です。受付とトレーナーをしています」
「来るかもしれない、まで聞いてるの?」
「背が高くて、運動が似合いそうな人だって」
「会ってもないのに」
「湊さん、人の身体の話になると早いんです」
「そうかも」
真帆が扉を開けた。
冷たい空気が流れてきた。昌子が思っていたより、ずっと明るいジムだった。大きな窓から光が入り、壁際にはマシンが並んでいる。汗の匂いはする。けれど洗剤と柑橘の匂いも混ざっていて、嫌ではなかった。
奥では、六十代くらいの男性が、釣り竿のような棒を両手で引いていた。先には重りがつながっている。
「うおお……」
男性が歯を食いしばる。
その横にいた大きな男が、静かに言った。
「今日は大物ですか」
「大間です」
昌子は真帆を見た。
「あれ、何ですか」
「大間の一本釣りです」
「見れば分かる名前」
「背中を鍛える器具です」
大きな男がこちらを見た。
黒いTシャツの袖は、腕の途中で止まっていた。首から肩、背中までが、昌子の知っている人間より一回り大きい。
「間黒です」
声は意外に静かだった。
「昌子です。今日は見学に来ました」
「見学なら、見て帰っても大丈夫です」
「本当に?」
「無理に入っても続きません」
間黒はそう言い、すぐ大間の一本釣りへ戻った。
「肘は、海へ落とさない」
「海、ないですよ」
「気持ちです」
昌子は小さく笑った。
真帆に案内され、受付の椅子へ座る。
「最初に一つだけ。何を変えたいですか?」
昌子は答えに詰まった。
痩せたい。健康診断の数字も気になる。服を選ぶとき、ため息をつかずに済みたい。階段で息を切らしたくない。
どれも本当だった。
「今より、ちょっと元気になりたいです」
真帆はうなずいた。
「それで始めましょう」
「できれば、少し絞れたら」
「それもやりましょう」
真帆は紙に何かを書いた。
「食べるのは好きですか?」
「好き。お酒も」
「じゃあ、そこは残します」
「残していいの?」
「全部やめたら、来るのが嫌になるでしょう」
「まだ一回も来てない」
「だから、最初は嫌にならないようにします」
真帆の笑顔はやわらかい。
けれど、反論できる隙がなかった。
そのとき、奥でトレーニングをしていた女性が、マットへ座り込んだ。
「真帆ちゃん、もう無理」
真帆がすぐそちらへ行く。
昌子は、助け起こすのかと思った。
「分かりました」
真帆は、天使みたいに笑った。
「じゃあ最後に、一回だけきれいにやりましょう」
「それ、さっきももう一回って言ったよー」
「言ってます」
女性は笑いながらも、もう一度立ち上がった。
真帆は腰の位置を直し、ゆっくり数えた。
「一、二、三。はい、きれい」
終わると、女性は床へ寝転んだ。
「悪魔」
「褒め言葉ですか?」
「ちがう」
真帆は笑いながら、女性へ水を渡した。
「痛いところはない?」
「ない」
「気持ち悪くない?」
「それもない」
「なら、今日は大成功です」
昌子は、そのやりとりを見ていた。
怖い。
でも、少し楽しそうだった。
「週に何回くらいなら来られそうですか?」
真帆が戻ってくる。
「二回、なら」
「十分です。最初に張り切りすぎるより、二回を続けるほうが強いです」
今度は昌子にも、言っていることが分かった。
真帆は立ち上がった。
「会員証の説明をします」
「魚の話?」
窓際の棚には、魚の形をしたダンベルが並んでいた。小さなものから、抱えられそうにない大きさのものまである。
一番小さなものには、ビンナガ 3kgと札がついていた。
その隣には、キハダ 5kg。
「最初は、みんなビンナガからです」
「なんでマグロの形してるんですか」
「マグロジムですから」
真帆はビンナガを持ち上げ、昌子へ渡した。
両手で受け取ると、思ったより重かった。持てない重さではない。
「これを持てたら、次がキハダ?」
「そういうわけではないです」
「急に厳しい」
「重さだけじゃなくて、続けられたかを見ます。ランクが上がると、高級ツナ缶を差し上げます」
「ツナ缶」
「おいしいですよ」
「急に欲しくなってきた」
間黒が、少し離れたところから言った。
「降格はありません」
昌子はダンベルを抱えたまま、振り返る。
「降格?」
「来られない時期があっても、戻ったら続きからです」
真帆が付け足す。
「仕事や家のことが忙しくなる人もいますから」
昌子はダンベルを棚へ戻した。
「それなら、来なくなっても怒られない?」
「怒りません」
「でも、もったいないとは言います」
真帆が笑った。
昌子は少し考えた。
帰れば、いつものように床へ鞄を置く。健康診断の封筒も、引き出しの中で待っている。
ここへ来たからといって、急に全部は変わらない。
でも、この人たちは、続かなかったことまで責めないらしい。
「入会します」
自分で言ってから、昌子は少し驚いた。
真帆は書類を差し出した。
「最初のランクは、ビンナガです」
「マグロのランクがあるんですか」
「あります。でも、人間らしく鍛えましょう」
会員証には昌子の名前と、青いマグロの印が入った。
ランクの欄には、ビンナガと書かれている。
昌子はカードを財布へ入れた。
帰り道、自転車のペダルは軽くならなかった。
まだ何も鍛えていないのだから、当然だった。
けれど次の土曜日、何を着て行くかだけは考えていた。




