第五話 また明日
第5話 また明日
神崎亜流々はこう言った。
「すべての人間の一生は神の手によって書かれた童話に過ぎない。――けれど、その展開はときに神が思い描く筋書きを凌駕する」
◆◆◆
自分の家を通り過ぎ、亜流々の案内に従って数分歩いたのち、由利は『葛籠』の表札がかかった一軒家に辿り着いた。二階建ての、それなりに大きな住まいに見える。
「ふむ。ここが葛籠よもぎの家で間違いないようだね」
手元のメモと目の前の一軒家に交互に目をやってから、亜流々は試すような眼差しを由利に向けた。
「それで、どうするつもりだい? 言っておくが、ぼくはこの中まできみに付いて行くつもりはないよ。そもそもぼくに出来ることは何もないし、するべきでもないからね」
分かっているという意思を込めて頷く。亜流々の力を借りるのはここまでだ。ここからは由利自身が、よもぎと向き合わなければならない。
「まずは、謝ろうと思う。今度はよもぎが傷ついたから謝るんじゃなくて、『許してもらいたいから謝る』んだ。今なら、どうしてよもぎが傷ついてしまったか分かると思う。だから、許してもらって、もう一度対等な立場で話したい」
由利の答えに、亜流々は神妙な顔をした。
「それは……正直言って悪手だと思うよ。きみも気付いているとは思うけど、葛籠よもぎが欲しているのは『承認』なんだ。彼女はただ、きみにありのままの姿を受け止めてほしいだけなんだよ。だから、優しい言葉をかけてやるだけでいい。上手くいく可能性は決して高くないだろうが、それでも」
由利は、珍しく強い口調で亜流々の言葉を遮った。
「そうかもしれない。だけど、もしそれで上手くいかなかったら? 『そのままでいいんだよ』って言ってやれば、確かによもぎはある程度満たされるだろう。けどそれでも願いを解消できなくて、俺が穢霊に殺されてしまったら、よもぎはきっと悲しむ。また誰かに認めてもらうまで、逃げ続けることになるかもしれない。だったらここで決着をつけるべきだ。いずれにしろここで許されなかったら、俺はもうよもぎと関わらないほうがいいんだから」
「……つまりきみは、自分が死んでしまった後のことを考えているっていうのかい? どうせ死ぬんだからといって、後腐れのないように葛籠よもぎとの関係を清算するつもりだとでも? 成功率を下げてまで誠実さを貫くなんて無駄だと言わざるを得ないね」
亜流々の口調には責めるような響きがあった。由利が最悪の場合を想定しているのが気に入らないのだろう。だが、由利は決して無駄とは思わなかった。
「そこまでやけっぱちになるつもりはねえよ。俺はただ、俺の都合で振り回してしまったよもぎに対して、責任を持たなきゃならないと思ってるだけだ」
それを聞いた亜流々は、今度は目を見開いて絶句した。それから苦笑して、
「……はは、そうきたか。つくづくきみはお人好しだね。まあいいさ、きみがそういう人間だってことは流石に学習した。きみがそれでいいなら、その通りにすればいい」
どこか突き放したような口ぶりに、由利は眉尻を下げた。
「……ごめんな。亜流々の意見を蔑ろにするつもりはないけど、俺は後悔しないやり方を選びたいんだ」
「いや、こちらこそすまない。厳しい言い方をしてしまったけど、責めるつもりはないんだ。むしろきみのそういうところが、ぼくは嫌いじゃないよ。たとえ無駄だったとしてもね」
微笑みながら、亜流々は由利の背中を押す。そしてそれに逆らうことなく、由利は自然な動作で葛籠家の呼び鈴を押した。
数秒間が空いた後、インターホン越しに聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『…………どうして、貴方がここにいるんですか』
「どうしてって、決まってるだろう。よもぎと仲直りしに来たんだよ。よもぎに会わせてくれないか?」
『お姉ちゃんは体調が悪いんです。お引き取り下さい』
取り付く島もない態度の応対者――撫子はそう言って由利を追い返そうとする。しかしそれで引き下がるはずもなかった。
「ならせめて、ドア越しに話させてくれ。身体に障るようならすぐに帰るから」
『ダメです。お引き取り下さい』
「それなら、ここで大声で叫ぶ。よもぎに俺の言葉が伝わればそれでいいから」
『なっ……本気ですか?』
「もちろん。俺はよもぎに会って話をするために来たんだ。そのためなら何だってやる」
インターホンの向こうで、撫子の逡巡する気配がしたような気がした。
『……分かりました。少々お待ちください。だけどもし、お姉ちゃんが会いたくないって言ったら』
「そのときは大人しく帰るよ。約束する」
そう伝えてから数分後、葛籠家のドアが開いた。その向こうでは、苦虫を噛み潰したような顔の撫子が形だけは慇懃に由利を招き入れようとしている。
「お邪魔します」
言ってから靴を脱ぐ由利に背を向け、撫子は無言で由利を先導した。一応スリッパは出されているが、歓迎していないのを隠す気が欠片も見受けられない。
「姉貴が俺と一緒にいることがそんなに気に入らないか?」
由利が訊ねると、撫子は振り向きざま「ええ」と力強く頷いた。
「あなたといると、お姉ちゃんは『今のままでもいい』って思っちゃいますから。それで困るのはお姉ちゃん自身です。……こんなことを言っても信じてもらえないでしょうが、私、あなた自身のことは別にそこまで嫌いというわけでもないんですよ。ただ、お姉ちゃんがあなたに感化されるのが嫌なだけなんです」
それを聞いて由利は立ち止まった。気になることがあったからだ。
「それは、どうしてだ? いくらシスコンだからって、ここまで露骨に対応するなんていくらなんでも不自然だよな。それこそ、そういう気持ちを隠すのは得意なはずだろ?」
「……露骨に嫌悪されてるって、分かってても怒らないんですね。ほんとに変な人」
「今は他人にどう思われているかを気にする余裕がないってだけだ。それより今はよもぎの話だろう」
「ええ、ええ、分かりました。……要するに、お節介なんですよ」
自嘲気味にそう言ってから、撫子は遠慮がちにこちらを見てきた。由利は無言で首をかしげる。もっと詳しく話せという意思表示だ。
そして、撫子は語り始めた。
「……小説家になりたいとか、漫画家になりたいとか。きっと空想が好きな子供はみんな一度は考えますよね。だけど、ほんの一部を除いてみんなあっさりそれを諦めます。でもほとんどの場合、それは『才能がないから』とかそんな理由じゃないと思うんですよ。そもそもそんな壁にぶつかる前に諦めちゃいます。
それは何故かというと、みんななんとなく知っているからです。『空想を認められて、好きな創作を仕事に出来る人間なんてほんの一部だけなんだ』って。
そう思ってちょっと周りに目を向けてみれば、空想や創作よりも楽しいことがたくさんあります。だから女の子の場合はお洒落したり、カッコいい彼氏を自慢したり、人によっては勉強やスポーツに打ち込んで自分の価値を表明するようになるんです。強制されるわけじゃないけど、そうしなきゃ不安で仕方ないんです。周りに蔑ろにされたくないなら、認められたいなら、好きなことをやっているだけじゃダメなんです。
そうしているうちに小説家や漫画家になりたい気持ちは薄れていって、最後には風化していくんです。淡い憧れだけを残して。ほとんどの人はそうであるはずです。そして、それでいいんです。そうやって現実と空想の折り合いをつけていくことが成長なんですから」
「だけどよもぎはそうじゃない、と」
由利が相槌を打つと、撫子は弱々しく首肯した。
「はい。きっとお姉ちゃんは実現するかも分からない青写真に縋っているんだと思います。『周りに認められなくてもいい、自分には小説家になるっていう夢があるから』って。でもそれは、現実から目を背けているだけです」
「でもよもぎは、小説家になる気はないって言ってたぞ」
「では吾妻先輩は、それが本当にお姉ちゃんの本心だと思いますか?」
否。あのときの由利ですら、よもぎの言葉を額面通りに受け取りはしなかったのだ。
「……ずっと気になってたけど、どうして逃げてるって決めつけるんだ? それはあくまできみの考え方だろう」
反論しながらも、由利の中には納得する気持ちもあった。思えば由利もよもぎの抱える劣等感の一端を垣間見てきている。すなわちそれは、よもぎの中に現実と理想との乖離に苦しむ気持ちがあることの証左ではないのか?
「お姉ちゃんが昔からずっとああだったなら、私もきっと気にしませんでした。でも違うんです。昔のお姉ちゃんは、明るくて、活発で、いつも人に囲まれているような女の子でした。幼稚園でも小学校でも、『よもぎちゃんはみんなの人気者ね』って言われて、卑屈どころかちょっとわがままなくらいだったんですよ」
「それは……信じられないな」
「でしょう?」
撫子が初めて由利にぎこちないながらも笑顔を見せた。よもぎを巡る立場は対立しているはずだが、このとき奇妙な連帯感が生まれたのを感じた。
「当時からお姉ちゃんは、空想や創作が好きな女の子でした。実はうち、父親が作家なんですよ。それもあって、お姉ちゃんは家にいるときはいつも本を読んでいました。書斎で本を読みながら、父にべったりくっついて」
撫子の口から驚きの事実が飛び出した。よもぎはそんな素振りを一度も見せていなかったというのに。しかし驚く一方で納得もした。彼女の中に確固としてある世界観の形成には、父親の存在も大きく寄与しているのだろう。
「……きっかけは些細なことだったんです。小学生のころの、『将来の夢』について書くっていうありきたりの作文……周りがスポーツ選手とか、パティシエとか、警察官とかになりたいとか書いてる中、お姉ちゃんはこう書いたんです。『お父さんみたいな作家さんになりたい』って」
「立派な夢だ」
「でも周りの子たちはそう言ってくれませんでした。地味だとか、似合わないとか言われて、お姉ちゃんは落ち込んで帰ってきたんです」
「それは……ひどいな」
率直な感想を述べた由利だが、対する撫子の反応はしれっとしたものだった。
「そうですか? 小学生なんてそんなものだと思いますけど。当時のクラスメイトだってお姉ちゃんの夢を馬鹿にしたつもりはないと思います。でも、お姉ちゃんは思いつめてしまいました。私に言わせれば、そんな作文、適当に書いてしまえばよかったんです。本当に大切な夢は、誰にも知らせず、ずっと胸の中に秘めておけば……」
由利には小学生のころの記憶がないため前半に関しては何も言えないが、後者に関しては全面的でないにしろ、同意する部分もあった。……しかし。
「だけど、他の人に何を言われたって気にすることなんてないだろう。夢は夢だ。好きなように追いかけて、好きな時に諦めればいい。それはすべて、自分自身の責任なんだから」
「みんながみんな、あなたのように割り切って考えられるわけじゃないですよ。夢っていうのは大切なものですから。それが大切であればあるほど、否定されることに耐えられない。自分でも叶えられる自信なんてないから、不安になってしまうから隠すんです。それは悪いことなんかじゃないと思います」
「でもよもぎは隠さなかった。胸を張って叶えたい夢を表明したんだ。立派なことじゃないか。大事なのは、後悔しないことだ」
「……! ええ。でもお姉ちゃんは立派なだけで、強くはなかったんですよ」
強くはなかった。つまり、挫けてしまったのか。後悔してしまったのだろうか。
ならば、撫子の言う『お節介』というのは……
「もう私からお話することはありません。あとはどうぞ、お姉ちゃんとお話ししてください。もう邪魔はしませんから。あ、でも少しお待ちを」
そう言って、撫子はある扉をノックした。
「お姉ちゃん? 吾妻先輩がお見舞いに来てくれたよ。いったん開けるね」
そして返事も聞かずにずかずかと入り込んでいき、次いで撫子の優しく叱るような声が扉越しに聞こえてきた。
『ほらお姉ちゃん、寝癖直して。お部屋も綺麗にしよう?』
『えっ、えっ、吾妻が来てるってどういうこと』
『目も真っ赤でひどい顔だけど……まあいっか』
しばらくドア越しにガタガタゴソゴソと物音がして、やがて静かになる。そして撫子が何かをやり遂げたような顔で出てきた。
「ではどうぞ。弱ってるお姉ちゃんに変なことしたらぶっ殺しますからね?」
「……いいのか? 俺がよもぎと話しても」
さっき漏れ聞こえた会話の内容から察するに、撫子は独断で由利を招き入れたようだ。確かインターホン越しのとき、よもぎに確認を取るようなことを言っていたはずなのだが。
「何をいまさら。いいって言ってるんです。だってほんとは、あなたに感化されるまでもなく、お姉ちゃんは……」
そこで撫子は言葉を切り、その真意を問う暇もなく隣の部屋に引っ込んでしまった。
とにかく、これでようやくよもぎと話すことが出来る。由利は改めて扉をノックし、声を掛けた。
「よもぎ、俺だ。入ってもいいか?」
『……うん』
弱々しいながらも肯定の言葉が聞こえたので、由利はゆっくりと扉を開け、遠慮がちに部屋へと入った。
「えっと、いらっしゃい」
由利を出迎えたのは、ベッドの上に座るよもぎだった。その眼は赤く充血していて、顔はややむくんでいる。普段はサラサラの髪も今はボサボサだ。
「横になっていなくていいのか?」
「う、うん……。べつに、体調がわるいわけじゃないから。あたしはただ、今日は学校やすみたいって言っただけで」
それはズル休みでは。と言おうとして危うく飲み込む。まったくどの口が言おうというのか。そもそも本人はこう言っているが、顔色を見る限り本当に具合は良くなさそうだ。
「なあ、よもぎ」
「ま、待って、こないで!」
言いながら近付こうとすると、強い口調で制止された。
「あ、えっと。あたし昨日、うちに帰ってきてからずっと寝てて、だからその、たぶん、におうし」
……要するに、風呂に入ってないのを気にしているのだろうか。
「大丈夫だ。気にしない」
「あたしが気にするの」
強い口調でそう言われては仕方がない。由利はよもぎからなるべく離れたところに座ろうと思い、部屋の中を見回した。
「……本が多いな」
本の数のみならず、全体的な雰囲気がおよそ女の子の部屋のイメージからはかけ離れていた。よもぎ自身の趣味がうかがえるインテリアが本棚以外ほとんどない。
「わるい?」
「いいや、そんなことないぞ」
よもぎに半眼を向けられたので、由利はそれ以上何も言わず床に座った。
「それで、なにしに来たの?」
婉曲的な台詞回しなどなく、直接的によもぎは訊ねた。なぜ由利がよもぎの家を知っているのかという点を気にする余裕もないようだ。
つまり、由利が単にお見舞いに来たわけではないこともすでにお見通しなのだろう。ならば、こちらも正直に答えるしかない。
「今まで、ごめん」
「…………っ!」
「……って、言いに来たんだ」
「ど、どうして謝るの? なにに謝ってるの?」
「俺は、よもぎの理解者であろうとしてきた。よもぎの小説が好きで、それを読ませてもらえることに優越感を感じていたんだ。……でも、それでよもぎを追い詰めていたことに気付けなかった。そのことを謝りたい」
由利が頭を下げると、よもぎが深く息を吸う音が聞こえた。
「……なにそれ。どうして吾妻がそんなこと言うの。あたしが追いつめられてた? そんなことないよ。あたしのほんとうの味方は吾妻だけだもん。吾妻はただ、これまでみたいに『編集者』でいてくれれば、それだけでいいの」
「それが、よもぎの本当の願いなのか?」
「そうだよ。だってあたしみたいなクラスにもなじめない、ネクラで不愛想で内向的な人間には小説しかないもん」
「……じゃあ、たとえばの話さ。明日俺が突如学校を占拠したテロリストを撃退して、一躍クラスどころか学校中の人気者になったとしよう。それでもよもぎは、俺に編集者でいて欲しいか?」
「……え?」
よもぎは茫然とした表情で言葉を詰まらせた。しかしその表情は『由利の例え話の意図が分からない』というものではなく、『何故自分がその例え話にショックを受けているのか分からない』というものに見える。困惑以上に、衝撃を受けているようだった。
「つまり、そういうことなんだよ。よもぎは、理解者が、承認が欲しいだけじゃなくて、自分を正当化したかったんだ。だからそのためにおまえは、形から入ったんだろ。俺とつるむのもその一環。おまえは、クラスに馴染めない、根暗で不愛想で内向的な女の子でいなければならないと思い込んでるんだよ。撫子が本当に心配してるのは、よもぎが小説家になりたいと思っていることじゃない。その夢が叶わなかったとき、後には何も残らないようにしていることなんだ」
翻って、由利が例え話の中のように人気者で『ちゃんとした』人だったなら、よもぎは間違っても由利に編集者になれなどと持ちかけはしなかっただろう。そんな人間に認められたところで意味はないのだから。彼女は『周囲から浮いてしまっているという逆境などものともせず創作に打ち込む自分』を演出したかっただけに過ぎないのだ。
それこそが、葛籠よもぎの抱える矛盾の正体。彼女の歪んだ願いにして、穢霊を生み出す病巣だ。
「……残酷なことを言うんだね。じゃああたしはどうすればいいの? まるであたしがその気になればいくらでも友達をつくることができるって言ってるみたいだけど、そんな風に買いかぶられてもあたしは追いつめられるだけだし、そもそもそんなことをする理由なんてないじゃない」
よもぎの言うことはもっともだった。確かに、そんなことをする必要性など、本来ならどこにもないのである。だがさっきの撫子の話を聞いて、由利はもしやと思ったのだ。
「よもぎの言うとおりだ。実際、よもぎ自身にもそんなつもりはなかったんだと思う。だから、たぶん順番が逆なんだ」
本来の目的は『かわいそうな自分を演出すること』ではなく、むしろ『自分はかわいそうなんかじゃない』と確信することだったとすれば?
「よもぎは、心の底から作家になりたいと思ってるんだ。だけど、心の底から望んでいるからこそ、それを認めるのが怖いんじゃないのか?」
「そんなこと、ないよ。そりゃ、なれればいいとは思うけど、そこまで本気でめざしているわけじゃ……」
否定する彼女の目は泳ぎ、明らかに動揺していた。彼女の屈折した望み、歪んだ願い。それを生み出したのは、よもぎが『本気で作家を目指している』自分から目を逸らし続けているという事実なのだ。
由利から見ても、よもぎの小説に込められた情熱は本物だ。だから撫子はよもぎのことを心配していた。『小説に入れ込むあまり、他のことを蔑ろにしている』と。
しかし実際は逆なのだ。よもぎは他のことを蔑ろにすることで、小説に入れ込もうとしている。真正面から自分の夢に向き合えないよもぎは、そうするしかなかった。そして自分自身のそんな歪さからも、よもぎは目を逸らしていたのである。
先ほどの撫子の話が思い返される。ただ、よもぎは他の人と違って夢が風化していくことを許容できなかった。だからもがき続けて来たのだ。もしかしたらそれは、憧れの作家を父に持ってしまったが故の苦しみだったのかもしれない。
「よもぎ。これ以上自分に嘘をつくな。おまえは『仕方なく作家になる』んじゃない。創作を生業にするなんてきっと大変だろうけど、夢が叶うか不安だろうけど、だからってこのまま夢に対して斜に構えていたんじゃ、きっと――」
「……うるさい」
由利の言葉に、よもぎは動揺を通り越して目が据わっていた。抑揚のない小さな声だったが、その一言で由利は二の句を告げなくなった。
「吾妻がそんなひとだとは思わなかったよ。あたしをなぐさめに来てくれたんじゃないんだね。知ったふうなことを言って、あたしのあり方を欺瞞だとなじって……吾妻にあたしのなにが分かるの? 百歩ゆずってあなたの言うとおりだったとして、あたしにそんなお説教をする権利があなたにあるとでもいうの?」
「……俺は、よもぎの本当の望みを叶えたいんだ。いや、叶えなきゃいけないんだ」
由利の開き直ったような言葉に、よもぎはついに激昂した。
「おおきなお世話だよ! 本当はあなたなんかのお説教もお節介も、同情も心配も理解も共感もいらないんだから! 吾妻はただあたしの小説を読んで、毒にも薬にもならない感想をくれればそれだけでいいの! ――これ以上あたしの世界に入り込まないで!」
ベッドから立ち上がったよもぎに乱暴に制服の袖を掴まれ、ぐいぐいと引っ張られる。どうやら無理やり立ち上がらせたいらしいが、彼女の力では腰を浮かすことすらできなかった。
「なあ、よもぎ――」
「かえって! かえってよ!」
もはや取り付く島もない。これまでか、と由利は思った。言いたいことは全て言った。だが、それはよもぎの求める言葉ではなかった。由利は失敗したのだ。
由利は自分から立ち上がると、背中を押してくるよもぎに逆らわず、そのまま部屋を追い出された。すぐ後ろで乱暴にドアが閉まり、ドアの向こうでガタガタと音がした。鍵がないため、ドアノブの下に何かを設置してドアノブが回らないようにしているのだろう。ものすごい拒絶ぶりである。これでは万が一生きて明日を迎えられたとしても、よもぎと仲直りすることは出来ないだろう。
これ以上ないほどの見事な失敗だ。しかしこれで、かえって未練はなくなった。何故なら、最後によもぎはこう言っていたからだ。
『本当はあなたなんかのお説教もお節介も、同情も心配も理解も共感もいらないんだから!』
これが正真正銘よもぎの本音だとするならば、よもぎの理解者たらんとしてきた由利は道化もいいところである。だが、それでいいのだ。この言葉は、よもぎに作家としてのプライドがあることの証左でもあるのだから。
結局、自分がやっていたことは本当の意味では何一つよもぎのためになっていなかった。余計なお世話だったということだ。
冷静になってみれば当然の帰結だと分かる。この世界はゲームのように単純ではないし、これまで由利が接してきた相手はヒロインではなく女の子なのだ。少し劇的なイベントが起きたからといって、特別な関係になれるとは限らない。ゆえに、この一週間の由利はただひたすらに滑稽なだけだった。
それが悲しくないといえば嘘になる。だが、透子の本心を知った時に比べればこのくらいは何でもない。それにどんなに悲しくなったとしても、どうせすぐにそれを忘れてしまうのだ。悲しいことの方が多かった人生で、この性質が役に立つ機会は多かった。今回のこれも、そのうちの一つに過ぎない。
そんな強がりを考えながら階段を降りてきた由利の前に、撫子が立ちふさがった。
「……どうでした?」
慎重に問うてきた撫子に、由利は努めて平易な口調で答えた。
「怒られて、追い出されたよ。俺のことなんて本当は必要としてなかったし、むしろ邪魔に思ってたそうだ」
「えっ? うそ、そんなはず」
「あ、そうだ。後でよもぎに伝えておいてくれないか。俺は全然気にしてないって。仮に明日俺が死んでたとしても、それはよもぎとは全く関係ないからって」
「え、ちょ、なんですかそれ! まさか振られたショックで自殺でもする気ですか!? やめて下さいよ私の寝覚めも悪いじゃないですか!」
「違うって。ものの喩えだよ。今日の帰りに交通事故に遭ったり、いきなり心臓麻痺になる確率もゼロじゃないだろ? 万が一そうなったとしても、それは偶然なんだからよもぎが気にする必要はないってだけだ」
「何ですかその気の遣い方……縁起でもないし、そんなことお姉ちゃんに言ったって嫌味としか思われませんよ」
由利としては大真面目なのだが、撫子は呆れていた。とはいえそれが当然の反応なのは由利にも分かっている。
「……それもそうか」
実際、由利が明日の朝日を拝める確率はかなり低いのだが、それを説明できないのがもどかしい。せめて由利亡き後、よもぎが要らぬ後悔をしないことを願うばかりだ。
「じゃあ、これでおいとまするよ。いきなり押しかけて済まなかった」
由利が葛籠家を出ていこうとすると、撫子が不安げな顔をした。
「……あ、あの。吾妻先輩はもうお姉ちゃんと関わらないつもりですか?」
それはとても答えにくい質問だった。何しろ明日以降のことをほとんど全く考えていなかったのだから。しかし、さほど悩むまでもなく答えは口から出てきた。
「まさか。これくらいで諦めるわけがないだろう? 話の続きも気になるしな」
すると、撫子はさっきの不安げな顔が嘘のようにうんざりした顔で言った。
「……ですよね。あんたがこれくらいで引いてくれるわけがないか。なんか妙に物分かりの良さそうな顔してたから期待しちゃいましたよ」
表情はいかにもうんざりしていて、言っている内容も生意気だったが――口角が少しだけ持ち上がっているように見えるのは由利の錯覚だろうか。由利が苦笑いしながらドアノブに手をかけると、撫子が笑顔で手を振った。
「それでは。二度と会わないことを願ってます」
「ああ。それじゃあまた明日」
ドアを開ける直前のその一言は、するりと自然に口から出てきた。
◆◆◆
「さて、これでいよいよ命の危険に遭うのは避けられなくなったね。きみは今夜穢霊に襲われることになる。それを生き延びなければきみに明日はないというわけだ」
よもぎの家を後にした由利と亜流々は由利の家に場所を移し、これからのことについて話していた。
「再三言ってきたことだけど、穢霊っていうのは怪物だ。一流の格闘家なら熊を倒すことが出来るだろうけど、今回のこれはそういう次元の話じゃない。存在としての格が違いすぎて、そもそも勝負にもならないんだ。まずはそのことを頭に叩き込んでくれ」
「ああ。俺だって戦うつもりなんてねえよ。……でも少し気になるんだが、例えば……理術、だっけか? もしそういう力が使えれば、穢霊に対抗できたりするのか?」
由利は一週間前の亜流々の話を覚えていた。そして、亜流々のような超常の力があれば話は違っていたのだろうか、などと詮無いことを考えてしまったのである。
そんな由利の問いに対して、亜流々は呆れた顔で首を横に振った。
「まだそんなことを言っているのかい? ……いや、きみが全くぼくの言うことを理解していないということが分かったんだ、むしろそんな質問をしてくれてよかったというべきか。いいかい? さっき格闘家と熊を引き合いに出したけれど、この喩えに当てはめるなら穢霊は戦車……いや軍艦みたいなものなんだ。人間と軍艦が戦うとき、人間が拳銃を手に入れたくらいで勝てると思うかい?」
「……いや」
「それと同じだよ。確かに世の中にはすごい戦闘力を持つ人間や術者が存在するけれど、より上位の存在からすればその程度の戦力差は誤差に過ぎないんだ。さっき勝負にならないといったのはきみが一般人だからじゃない。きみが人間だからだよ。今回の件に関してはそもそも人間を強い弱いでカテゴリー分けする意味がないんだ。これで少しは危機感を持ってくれたかい?」
亜流々は珍しく説き伏せるような口調だった。つまりそれだけ由利の質問が的外れだったということなのだろう。
「ああ。とにかく、立ち向かうなんて考えるだけ無駄だってことだな。だけどそんなのから逃げ切るなんて可能なのかよ? そもそもどれくらいの時間逃げ続ければいいんだ?」
「その辺はこれから説明する。けど時間がないから説明と並行して準備を進めたい。今からぼくの言うものを用意してくれるかい?」
「分かった。何を用意すればいい?」
「まずは――」
◆◆◆
それからというもの、時間が経つのは早かった。すでに日は沈み、この後に備え体を休めていた由利は、眉間に皺を寄せながら亜流々に訊ねた。
「なあ亜流々、もう夜になったけど、いつなんだ?」
言葉足らずの由利の問いに、亜流々は柔らかな口調でこう答えた。
「二十時だ。二十時きっかりにきみは〈常夜の世界〉に引きずり込まれる。大丈夫、ぼくという優秀で可愛い軍師が付いているんだ、きみは作戦通りやるだけでいい」
「あ、ああ……」
亜流々はいつも通りの飄々とした態度で由利を落ち着かせようとしていたが、由利の背中を撫でさすろうとした手をすぐに引っ込める。一瞬だけ触れた亜流々の手は震えていた気がした。
由利は必死に心を落ち着かせる。今だけは自分の異常性に縋りたい気分だった。
この恐怖も、焦りも、今すぐ消えてなくなればいいのに、と。
あと秒針が三周すれば二十時になるというときになって、亜流々が由利を促した。
「さあ、準備しておくんだ」
由利は首肯でそれに答え、母親の目を盗んで玄関で靴を履いた。走りやすい服装に着替えているため、事情を知らない人が由利の格好を見ればこれからジョギングにでも出かけるようにしか見えないだろう。静かに外に出て、自転車にまたがって時が来るのを待つ。
「……なあ、亜流々」
「なんだい? もうあと一分もないから手短にね」
「改めて礼を言わせてくれ。……今までありがとう」
すると、亜流々はぴくりと体を震わせた後わずかにうつむき、由利から目を逸らした。
「よしてくれ。ぼくにそんなことを言ってもらえる資格は……」
「……え?」
今のはいったい、どういう意味なのだろう?
「――あと二十秒だ、由利くん。心の準備をしておきたまえ」
問いただしたいところだが、時間がそれを許してはくれないようだった。由利のスマホを見ながら、亜流々が残り時間を告げる。そして間もなくその時はやってきた。
「あと十秒。由利くん、きっと生き延びてね。五、四、三、二、一――」
気が付いたら亜流々の姿が消えていた。それどころかついさっきまで自分は自宅の前にいたはずなのに、今は見知らぬ場所で自転車にまたがって突っ立っている。
「……亜流々の言ってた通りだな」
由利は動揺することなくハンドルを握りしめた。もし何の準備もしていなければ、由利は裸足で街中を走り回る羽目になっただろう。
『いいかい? 常夜の世界に引きずり込まれる際、場所がズレる場合が多々あるんだ。だからどんな状況に放り込まれてもいいように予め準備をしておく必要がある。動きやすい服装でいるのはもちろん、出来ることなら足を確保しておきたい。自転車とか用意できるかい?』
『あるけど……自転車とか持ち込めるのかよ? 常夜ってなんというかこう、神秘で不条理な空間なんじゃないか? そういう準備とか意味がないっていうか』
『その辺は理屈で考えなくていい。例えば、もしきみという存在のみを厳密に引きずり込むのなら、常夜の世界に来たきみは一糸まとわぬ姿でなければならないはずだろう? しかし実際は違う。つまり常夜の世界での姿形は認識によって決定されるということさ』
『認識?』
『そう。常夜の世界は現世と幽世の狭間にある世界。現世の実存性と、幽世の神秘性が共存する世界なのさ。現実世界では決して起こりえないことが、常夜の世界では当たり前のように起こりうる。その一方で完全に現実世界の法則が適応されないわけでもない。平たく言うと、あらゆる意味で「何でもあり」なんだ』
作戦会議のおり亜流々はそう言っていたが、どうやら常夜の世界は完全な無秩序というわけではなく、一応それなりのルール、法則性があるらしい。例えば、この世界では電子機器の類は基本的に役に立たない。スマホがあっても電波が入らないし、電源が機能していないのか、街灯や信号機も全く意味を成していない。この世界で光源となりうるのは頭上に輝く群青色の月だけだ。前回来た時もそうだったが、この世界の月は常に満月であり、そして常に真上に浮かんでいるようだった。
考察しているとやがて暗さに目が慣れてきたのでよく周囲を見渡してみると、そこは見知らぬ場所というわけではなく、知っている道のど真ん中だった。由利の家にそう近くはないが、少し自転車を走らせればすぐに家に着ける程度の距離だ。
しかし迂闊に動くことはしない。『敵』がどこにいるか把握するためだ。
『きみを常夜の世界に引きずり込んでしばらくしてから、穢霊がきみに襲い掛かってくるはず。まずは全力で逃げてとにかくそれを振り切るんだ』
と亜流々は言っていたが、周囲にそのような気配はない。前方と後方、どちらからやってきても分かるように警戒を続けるも、それらしい姿を認めることはおろか、微かな音すら聞こえなかった。押し寄せる静寂に耳が痛くなるが、それ以上に緊張と焦燥感で神経がすり減っていくのを感じる。
どこだ? 穢霊はどこからやってくる?
実は恐ろしい怪物などいなかったのでは――そんな考えが浮かんでは消えていく。そんなはずはない。現に自分はこうして異常な状況に立たされているし、それでは亜流々が嘘をついていることになる。彼女が由利に嘘をつくことはないし、そうする理由もないのだ。そう自分を律して由利は警戒を続けた。
だが、見えない脅威に気を張り続けるのは極めて難しい。ふとした瞬間に由利の警戒が緩み、まさにそれを狙っていたかのように影が落ちてきた。
「――――ッ!」
むしろ視線を落としていたのが幸いした。気が緩んだ一瞬に不意打ちを食らった由利だが、頭上の月の光を遮る何かの存在をギリギリで察知することが出来たのだ。
遮二無二ペダルを踏む。しかし走り出す瞬間の自転車はもどかしいほどに遅く、上から降ってきた巨大な存在の凶刃が由利の左の二の腕を掠めた。
何とか間一髪致命傷を避けた由利は、自転車を加速させながら振り返る。そしてようやく由利は『敵』の姿を認めることが出来た。
由利を襲ってきた穢霊は横側に突き出した関節肢を持ち、そのシルエットから由利は例えばカニのような姿の節足動物を想起した。しかしそう思ったのは一瞬で、その穢霊の姿は異様にして威容であった。下半身からは細長く折れ曲がった脚がいくつか伸びているのに、上半身は人間の女性の姿をしている。さらによく見ると後ろの方に袋のようなものがくっ付いていた。
そこまで観察して気付く。アレは――蜘蛛だ。
六本の足が生えた胸部と膨らんだ腹部。そして口に当たる部分からは人間の体など容易く引きちぎってしまいそうな鋭い鋏角が生えており、実際の蜘蛛の何百、何千倍はあろうかという巨体を誇っている。しかし最も目を引くのは蜘蛛のような下半身ではなく、人の形をした上半身であった。
蜘蛛の胴体から人の上半身が生えている。その怪物の姿を一言で説明するなら、こう形容するしかない。地上に目を向けていても見つけられるはずがなかった。この怪物は壁面を這って由利に接近してきていたのだから。
人型の部分にだけ目を向ければ、穢霊は現実離れして美しい裸の女性の姿をしていた。銀色に光る髪をたなびかせ、肌は病的と言えるほどに青白く、豊満な乳房や、滑らかな曲線を描く胸骨部から腰部までを隠すものはない。彫像めいて均整の取れたその裸体は、官能的どころか芸術的とさえ言える。
その美しさに、由利は戦慄した。おそらく、その魅力的な外見そのものが罠なのだろう。もし何も知らずこの怪物を目前にしていたら、美しい女性の姿に目を奪われたまま殺されていたかもしれない。
由利はとにかく全力でペダルを漕いでその場を離れようとするが、穢霊はそれ以上の速さで追ってきた。恐ろしいことに、太く強靭な多脚を操って移動する穢霊は、全くと言っていいほど音を発生させていなかった。高さで言えば三メートルはある巨体を高速で駆動させているはずなのに、あまりにも静かすぎる。
これは、不味いかもしれない。元々由利は曲がり角を使って穢霊から姿を眩ますつもりだったが、下手に穢霊を見失えば、こちらが先ほどのように不意打ちを受ける恐れがある。これほど静かに、かつ速く動かれては接近を察知するのは不可能に近い。
とはいえ、直線での速さでは明らかに分が悪かった。このまま追いかけっこを続けていても、いずれは追いつかれるだろう。
――やはり、最終手段に頼るしかないのかもしれない。
由利は素早く決断し、目的地を自宅に定めた。そこに行けば、亜流々と合流できる。彼女に頼りきりになるのは気が進まないが、このままでは遅かれ早かれ『例の奥の手』を使わざるを得ないだろう。すなわち〈隠者の瞳〉の性質を利用した欺瞞である。この穢霊にどのくらい通用するかは分からないが、もはや手段を選んでいる余裕はない。
由利は悲鳴を上げる脚の筋肉に鞭打ち、群青に染まる街並みを風のように走り抜け、何度も何度も曲がり角を曲がった。そしてついに穢霊を一時的に撒くことが出来たと確信した由利は、すぐに自宅に向かう。
玄関先には亜流々がそわそわしながら立っていた。彼女の姿を視界に入れただけで、とてつもない安堵感が湧き上がってくる。
「はぁ、はぁ……あ、亜流々……」
息を切らせて彼女を呼ぶ由利の声に反応した彼女は、安堵したようにため息をついた。
「よかった……生きていたんだね……って! 血が出ているじゃないか!」
「……かすり傷だ。それに、この世界での怪我は、現実に戻れば、治るんだろ……?」
この世界に存在する由利の身体は、肉体と霊体の性質を併せ持っているらしい。だから全力で走れば疲れもするし、一方ここで受けたダメージは現実の肉体に影響しないのだという。
「治る場合もある、というだけだ! 完全な霊体でない以上、この世界で重篤なダメージを受けた場合は現実世界の肉体にも影響が出ることがあると言っただろう! ほら、よく見せてみたまえ……うん、まあこれなら治るだろう。でもあまり心配させないでほしいな」
「肝に、銘じておくよ。……ところで、今この近くに、穢霊がいるかどうか分かるか?」
由利は喘ぐように酸素を取り込みながら、周囲の様子に目を配る。こうしている間に穢霊に捕捉されている可能性もゼロではないのだ。もし穢霊を撒けていなかった場合、欺瞞そのものが意味を成さない可能性がある。奥の手が不発に終わるのは避けたかった。
「ごめんね、それは分からないんだ。ぼくの目は常夜の世界ではあんまり役に立たないんだよ。この世界で起こることはいわば世界の外側の出来事として処理される。世界の俯瞰者たるぼくの目は意味を成さないんだ。……だからこうして心配しながらきみを待っていたんじゃないか」
そう言って、亜流々は頬を膨らませた。相手が由利だからというのもあるだろうが、この世界にいる亜流々はなんとなく普段よりも幼いというか、自然体でいるような気がした。〈隠者の瞳〉が弱まっている影響だろうか。
「そうか……心配かけてすまないな」
やっと息を整えた由利が謝ると、亜流々は照れ臭そうにフンと鼻を鳴らし、早口でこうまくしたてた。
「ほら、早くしたまえ。ぼくと合流したということは、あれをやるんだろう?」
「そうなんだけど……本当にいいのか?」
「馬鹿かきみは。この期に及んでなにを下らないことを気にしている? きみが死ぬか生きるかという状況だぞ。ぼくの羞恥などあまりにも些末な問題だ。それともきみはこんな状況下ですらぼくに欲情しているのかい?」
「……人間は生命の危機を感じると子孫を残そうという本能がうんぬんかんぬん」
「そんな冗談を言える余裕があるなら、もう少し穢霊に追い回されてきたらどうだい?」
「わ、悪かった。お願いします」
それを聞いた亜流々は、塀に隠れるように腰を下ろしてから、由利をいざなうかのように無言で両腕を広げる。由利は一瞬逡巡したものの、意を決して亜流々の胸元に顔を埋めた。すると亜流々は由利を迎え入れるかのように由利の頭を掻き抱き、あらゆる脅威から守るかのように身体を丸めた。
傍から見ると、三角座りの亜流々が由利の頭を抱き締めているように見える格好となった。もちろん、色気のある行為ではないのだが。……ないはずだ。
それからどれほど時間が経っただろうか。気が遠くなるほど長く感じたが、その間穢霊に襲われることはなく、奥の手は上手くいったと見てよさそうだった。由利は緊張を紛らわす意味も込めて、口を開く。
「……なあ、亜流々。どれくらいの時間逃げきればいいんだったか?」
「今回は六時間だ。午前二時になれば、きみはこの世界を脱出できる。今の時刻は……午後十時」
亜流々が由利のスマホで時刻を確認してくれた。この世界だと電波は入らないが、どういうわけか稼働はするため、携帯電話の類は時計代わりになるのだ。
「やっと三分の一か」
「おや、こんな幸せな状態なのだから、『もう』三分の一と言うべきじゃないのかい?」
「はいはい、そうだな――っ?」
不意に近くで微かに物音がし、由利は息を呑む。今この世界で動いているのは由利と亜流々、そして穢霊のみである。風すら吹かないこの世界で物音がするということはつまり、近くまで穢霊が来ているということだ。由利は周囲の様子を窺うことは出来ないが、亜流々が由利を抱き締める力を強くしたのは、きっとそういうことなのだろう。
亜流々曰く、穢霊は捕食対象――由利の霊体をある程度探知することが出来るらしい。亜流々の欺瞞は意味を成していなかったのだろうか? いや、そうではないだろう。もし由利の居場所が割れているのなら、気付かれないようもっと静かに近付いてくるはずだ。つまり、この距離まで近付いても穢霊は由利を見つけられていない。この調子なら、あと四時間隠れ切ることは十分に可能だろう。
やがて、張り詰めた空気は徐々に緩和され、亜流々がほっと息を吐いた。
「どうやら通り過ぎたみたいだね。……ところでなるほど、あれがきみを襲った穢霊か。名称は〈ネフィア・ラムルア〉。構築する概念は『蜘蛛』、そして『糸』のようだ」
亜流々がそう呟く。
「……そんなこと分かるのか。というか名前に何か意味があるのか?」
ふと疑問を投げかけると、亜流々は「こら、あまりしゃべるな」と注意してから、小声で解説してくれた。
「もちろんあるよ。きみの霊体が『吾妻由利』という概念で構築されているのと同じように、穢霊にも元となる概念が存在する。あの穢霊――〈ネフィア・ラムルア〉の場合はそれが『蜘蛛』と『糸』だという話さ」
「その、概念? だっけか。それはどういうものなんだ?」
「一言で言い換えると『属性』だね。霊体の話に限っては『設計図』と言い換えてもいい。たとえばぼくは『〈隠者の瞳〉を持つ』、『ゲーム好きの』、『美少女』という要素によって構成されている。それと同じようにあらゆる霊的存在は一つ一つの要素によって構成されているんだ。概念はそれ自体が霊的なエネルギーを有していて、理術や法術、権能といった超常的な異能も、突き詰めれば等しく概念の力の発現なんだ」
「つまり、あの穢霊は例のコトダマ様が『蜘蛛』と『糸』という概念の力をもとに作り出した……ってことでいいのか?」
「その認識で概ね間違っていないよ。付け加えると、それに『吾妻由利の霊体を喰らい葛籠よもぎの願いを叶える』という指向性を持たせているのさ。指向性を持たせることで初めて力は意味を持つんだ。あと、厳密に言うとあの穢霊を生み出したのはあくまで葛籠よもぎの願いだよ。穢霊を構成する部品――すなわち概念の力を葛籠よもぎが提供し、それをコトダマ様が組み立ててさらに補強すると考えればいい」
「……じゃあ、よもぎの中にはあんな怪物を生み出すような力があるってことなのか?」
「彼女に限らず、概念の力はその多寡に差はあれど誰もが有しているよ。ゲームに喩えると、MPはあるけど魔法を覚えていないようなものさ。もっとも、葛籠よもぎに関しては穢霊を生み出せる時点でそれなりの素養を持ち合わせてはいるのだろうけれど」
その説明を聞いて、由利は妙な気分になった。恐らく、あの怪物を生み出すのによもぎが関与しているという事実が由利をそんな気分にさせているのだろうが……
……いや、待てよ?
今の話を聞いて、由利はこれまで見落としていた道を見つけたような気がした。そして、その道の先になにがあるのか、知らなければならないという思いに駆られたのだ。
「……なあ、亜流々。そういえば、さっきのことなんだけど」
「うん?」
何か訊かなければいけないことがあるはずなのに、それが何なのかはっきりと分からない。なのでまずは疑問を一つずつ解消していくことにした。
「俺が礼を言ったとき、おまえ『そんなことを言ってもらえる資格はない』って言ってただろ? あれ、どういう意味だ?」
「……そんなこと言ったかな?」
「言ったよ。俺は亜流々にどれだけ感謝しても足りないと思うんだけど、どうしてあんなことを? 謙遜って感じでもなかったよな」
すると亜流々はしばらく考え込んだ後、観念したように口を開いた。
「わかったよ、白状する。実はあの時ぼくは珍しく弱気になっていたのさ。きみを死なせてしまったらどうしようってね。もしぼくの与えた情報が間違っていたらどうしよう、そうでなくとも、正しくきみに伝えられていなかったらどうしよう……って。だからきみの感謝が少し心苦しかったのさ」
亜流々は滔々と思いを吐露した。淀みない口調で、言葉に詰まることなく。
何故かは分からないが、由利はこれを嘘だと直感した。まるで正直な気持ちを語っているように見せて、本当に隠し通したいことだけを避けて話しているようだ。それを追及されないように、それ以外の情報を与えることで目を逸らさせようとしているような……
思考を巡らせていると、まだ訊ねていないことがあることに気付いた。
「……なあ、亜流々。もう一つ訊いていいか?」
「なんだ、まだぼくを辱めるつもりかい?」
「俺が逃げ切った後、穢霊はどうなるんだ?」
思えば、今までそれについて訊ねるのは意識的に避けていた。逃げ切ることが出来るかどうかも分からないのだからと、その後のことを考えていなかった。このことはよもぎの家でも脳裏によぎっていたが、もしそれが思考を誘導された結果だとすれば?
「――どうして、今更そんなことを訊く? そのことについては既に説明したはずだけれど」
問いをぶつけた時点で、ある感覚に襲われ心臓の鼓動が早くなった。これは、頭の中でパズルのピースが正しく組み合わさっていく感覚だ。
この一週間、亜流々は穢霊の脅威を再三にわたって由利に忠告してきた。いつしか由利は『とにかく穢霊から逃げ切らなければならない』と、そのことについてだけ考えるようになっていた。よもぎの願いを解消するか、穢霊から逃げ切るか、由利が生き延びる道はこの二つに一つしかないのだと。
……そういえば、穢霊はよもぎの願いを叶えるために生み出されたのだったか。亜流々は『由利を殺すために生み出される化け物』と形容していたが、厳密には『よもぎが生み出す化け物』でもある。亜流々の説明では主体が省略されていたのだ。そこにも何らかの恣意的な誘導が働いているような――
「なら質問を変える。穢霊が消滅する条件ってのは、正確には何なんだ?」
亜流々が身体をびくりと震わせた。いやむしろ、擬音を当てはめるのなら『ぎくり』だろうか。そう、まるで核心を突かれたような。
「……今回由利くんが六時間逃げ切れば、穢霊は消滅するよ。それは間違いない」
「ってことは、穢霊を生み出すことにデメリットはほとんどないってことになるよな。身近な人が消えるっていうのを除けば、何のリスクもないんだから。俺が逃げ切れば、残念ですがよもぎの願いは叶いませんでした、また頑張れよ、ってことになる」
亜流々は黙り込んだ。その反応で、由利の中に焦燥感が湧き上がってくる。
「……そんなうまい話があるのか? 俺は死んで、よもぎは願いを叶えられて……そんな単純な話なのか? なあ亜流々、獲物を捕らえられなかった穢霊は、本当にただ消えるのか? 何も害することなく、大人しく消えてくれるのか?」
亜流々に自分の言葉を肯定してほしかった。考えすぎだと笑い飛ばしてほしかった。しかしその願いは叶わず、由利は今しがた辿り着いた認めがたい結論を口にせざるを得なかった。
「――俺が逃げ切ったら、俺の代わりによもぎが死ぬんじゃないのか?」
口にしてみると、それは極めて現実的な答えに思えた。ことは『由利が生きるか死ぬか』という一方的な話ではなく、『由利かよもぎのどちらかが死ぬ』という話だったのだ。よもぎは願いを叶えてもらえる代わりに、死というリスクを背負う。そうしたリスクを背負うからこそ、願いを叶えてもらえる――。
願いを叶えるために身近な人を殺すなどという性悪な神のやることなのだから、そんなリスクがあっても全く不思議ではない。
「俺がよもぎを説得に行ったとき、亜流々は俺のやり方を『無駄だ』と言ったな。後のことなんて考える必要はないって。あれは俺が死んでしまうから無駄なんじゃなくて、必ずどちらかが死んでしまうから無駄、って意味だったんじゃないか?」
亜流々は答えなかった。
「亜流々、答えてくれ。答えられないのなら、俺のことを放してくれ」
由利がそう言って離れようとすると、亜流々は観念したように呟いた。
「……どうして、よりにもよってこんなときに気付いてしまうのさ。いや、ぼくが口を滑らせたのが悪いのか」
そして、由利を抱き締める力が強くなる。決して離さないとでも言うように。そして、その答えは由利の言ったことを認めたも同然だった。
「きみの言うとおりだよ。一度生み出された穢霊は誰かの魂を食らうまで止まることはない。よって今回きみを捕食することが出来なければ、穢霊は生みの親たる葛籠よもぎの魂を食らい、叶える意味のない願いを叶えることになる」
「どうしてそれを黙ってた?」
「言う必要がなかったからだ。いずれにしろきみは穢霊の発生そのものを阻止するか、穢霊から逃げ切らなければ生き延びることは出来ないんだからね」
「その二つには明確な差があるだろう。後者はよもぎが犠牲になってしまうんだから」
「ぼくにとって大切なのは、きみが生き延びてくれることだ。他のことまで気にしていられない。そもそも、葛籠よもぎは犠牲者ではないよ。彼女が自分の願いに滅ぼされたとしても、それは自業自得、因果応報というものだ」
……認めざるを得ない。亜流々とこれ以上言葉を交わしていても無駄だ。彼女が由利のことを思ってくれているのは分かるが、二人の間には大きな立場の隔たりがある。良くも悪くも、彼女は由利の味方でしかないのだ。
「……放してくれ」
低い声で、由利は言った。
「どうするつもりだい?」
「俺が生き延びる方法は、もう一つあるだろう」
「そんなものはないよ」
「いや、ある。俺があの穢霊をぶっ倒せばいい。そうすれば誰も死なずに済むんだろう?」
「馬鹿を言うな! ぼくの話を聞いていなかったのか!? 不可能に決まってる。いいか、いったん落ち着いて、状況を考えろ。きみは実際に穢霊の姿と脅威を目の当たりにしたはずだ。それでもなお蛮勇に走るというのか?」
亜流々の言葉に対し、由利はこう答えた。
「状況? 何が状況だ。俺が状況を作るんだ。可能だとか不可能だとか、そういう話じゃない。もともと、俺にはそれ以外の選択肢がなかったんだよ。よもぎを死なせて俺が生き延びるなんて、そんなのは御免だ」
「バカ! ナポレオンにでもなったつもりか? きみはぼくとの約束を破るっていうのかい? ぼくのために生き延びてくれるって言ったじゃないか!」
「生き延びるさ。あの化け物を倒して、明日もよもぎに会いに行くんだ。亜流々のことも、よもぎのことも大切だから」
「何故だ? 何故そこまでする? きみが戦う必要なんてないのに。誰もきみが命がけで戦っていることすら知らない。感謝してくれる人もいないのに!」
よもぎのためだと、そう答えるのは簡単だ。だけどそれだけではない気がする。だから叫ぶような亜流々の問いに、由利は穏やかな表情でこう答えた。
「……どうしてだろうな? あとでじっくり考えるよ」
言い終えると、由利は亜流々の拘束を振り払い、立ち上がる。その瞬間、突き刺すような重圧に襲われた。〈ネフィア・ラムルア〉が由利の存在を認識したのだ。
「無茶だ! お願いだから逃げてくれ!」
亜流々が叫ぶが、もはや退路は断たれ、戦うしかなくなった。由利は玄関から家に入ろうとするが、鍵がかかっていた。すかさず自転車を抱え上げ、窓に向かってフルスイング。すると窓が割れ、家の中に侵入することが出来た。勝手知ったる我が家だが、窓を割って土足で上がりこむのは初めての体験だ。そのまま真っ直ぐ物置に向かい、お目当てのもの――父が置いていったゴルフクラブを手に取る。それを構え、リビングで穢霊の襲来を待ち構えた。
それから数秒後、亜流々が庭先で警告した。
「由利くん、来るぞ!」
亜流々の言葉通り、〈ネフィア・ラムルア〉が由利の入ってきた窓の向こうに姿を現した。そこからは狭くて入れないはず――と思った次の瞬間、壁が崩れて巨体が家の中にねじ込まれた。
分かってはいたが、つくづく怪物だ。しかしもう逃げるつもりはない。由利は右手に得物、左手に椅子を持ち、椅子を盾のように構えながら突進した。この狭い空間ならば、敵は満足に身動きできないはずだ。
だが、あと一歩で得物が届くという距離で腹部に衝撃を覚え、由利の身体は壁に叩きつけられた。肺から空気が押し出され、漏れ出た声はかすれていた。
「……ぁ?」
視線を下すと、そこには毛むくじゃらの何か――蜘蛛の脚があった。椅子の天板を粉砕し、その上で由利の腹部に突き刺さったのだ。かろうじて背骨は繋がっているようだが、ほとんど貫通してしまっている。
そしてどろりとした液体が額を伝い落ち、由利の右目を塞いだ。どうやら叩き付けられた際に頭頂部を切ったらしい。
「由利くんっ!」と、亜流々の悲痛な叫びが遠くに聞こえる。
腹部からドクドクと噴き出す鮮血を見下ろしながら、由利は自分の認識の甘さを痛感した。家の壁を容易く破壊するような怪物を相手に、自分のようなただの人間が敵うはずもなかったのだ。……だがそれでも、立ち向かわないわけにはいかなかった。よもぎをみすみす死なせてしまうのだけは許容できなかったのだから。
視界が徐々に暗くなり、身体が寒気を覚えて震えだす。麻痺しているのか痛みはさほど感じないが、自分が致命的な傷を受けたことは分かった。
フローリングの床に血だまりが広がっていく。喉の奥にむせ返るような血のにおいが充満し、呼吸が粘ついていった。
由利の腹部から鉤爪付きの脚がずるりと引き抜かれる。その動作でさらに傷口を抉られ、血の吹き出す勢いがまた少し強くなった。そして由利の体がうつ伏せに倒れる。由利が叩き付けられた壁も崩れ落ちた。
失血による虚脱感に襲われ、もはや起き上がることもできない。力を振り絞って仰向けになると、崩れた壁の向こうに青く輝く月が視界に入る。その瞬間、強烈なデジャブを感じた。それと同時にはっきりと死を予感する。
死のデジャブ。本来ならあり得ないはずのそれを、由利はこれ以上ないほど強く感じていた。間違いない、自分はこの世界で死んだことがある。そのときはたしか、電気を纏った虎のような怪物に――
――何故、こんなことを思い出すのだろう?
そのとき、視界の端で動く何かがあった。穢霊の脚だ。鉤爪を持ったその脚を振り下ろし、止めを刺すつもりなのだろう。もはや万事休す。これを避けたところで、いずれ殺されるのは変わらないだろう。
由利はまぶたを下ろし、死を受け入れようとする。
だが、目を閉じた瞬間、まぶたの裏に見えてしまったのだ。
青い月に照らされる亜流々。ノートを見られて泣きそうな顔のよもぎ。悪戯っぽい笑顔を浮かべる亜流々。楽しそうに小説の話をするよもぎ。屋上で眠る亜流々の寝顔。ボサボサの髪に赤く腫らした目のよもぎ。そして、泣いて追いすがる亜流々の姿――。
気が付いたら、身体が勝手に動いていた。振り下ろされた脚を転がって回避するが、飛び散った床の破片が後頭部を強か打ちつけた。
その痛みを意にも介さず、由利は壁に手をついてフラフラと立ち上がろうとする。が、腹部の大穴のせいで上手くいかない。力が入らないどころか、腹筋が無くなってしまっているからだ。肉体はとうに限界を超えている。何故動いていられるのか自分でも分からない。無駄な足掻きと分かっていても、そうすることを止められなかった。
そのとき、由利と〈ネフィア・ラムルア〉の間に、人影が割って入った。
「由利くん、逃げてっ!」
「ある、よせ……」
視界はかすみ、言葉を発することすらままならない。だが、亜流々が自分を庇おうとしているのは分かった。穢霊は亜流々を襲わないはずだが、穢霊の邪魔をした場合もそのルールは適用されるだろうか?
このままでは、亜流々も死んでしまうかもしれない。自分の無力さと、無鉄砲さが憎くて仕方なかった。こうなることを予想していなかった自分の浅はかさも。
亜流々の覚悟も空しく、由利はその場でうつ伏せに倒れこんだ。もはや指一本動かすことはかなわない。
…………終わってしまうのか、ここで? これでゲームオーバーなのか?
物分かりのいい由利は、それも仕方ないかと思った。
◆◆◆
正直なところ、あたしは作家になりたかった。
思うさま妄想に浸って、気ままに文章を書いて、それで生計を立てたかった。自分でもわかってる。こんなの、中二病を治すどころかこじらせたイタい将来設計だって。
それでも、心のどこかで期待してしまうんだ。こんなあたしでも、頑張ればいつか作家になれるんじゃないかって。
自分がそういう人間なんだと思うと誰にともなく恥ずかしくなって、書いた小説も誰にも見せられなくなった。小学生のころの作文では、胸を張って『作家になりたい』と書けたのに。……いつからだろう、夢に対して斜に構えるようになったのは。
表向きはなれるわけないと言いながら、本心ではなれなかったときのことなんて全く考えていなかった。いや、考えないようにしていたんだ。
そんな臆病な人間が、あたしだ。
結局のところ、あたしは作家になりたかった。
だからあたしはわざと変人を気取ったのだ。クラスメートを『本当の友達じゃない』とか言って遠ざけて、自分から独りぼっちになるようにしておきながら、孤独な自分に酔ったりもして。
そのくせ、理解者が欲しくてたまらなかった。一人でいいから、あたしの小説を読んで面白いと言ってくれる人がいて欲しかったのだ。その人が実は編集者の卵で、あたしの才能に目を付けてくれた彼はやがてあたしをデビューさせてくれる……なんておとぎ話みたいなファンタジーを心のどこかで期待してすらいた。
そんな傲慢な人間が、あたしだ。
あたしは作家になりたかった。もっと言うなら、姫騎士になりたかったのだ。
姫のようにきれいで人望があって、さらに騎士のように誇り高き強さを持った、そんな存在になりたかった。けれど、そうはなれないことをあたしは早々に悟った。
作家になるということ――それはつまり『強く』なるということだ。作家には作家として生きていける強さが必要であり、それを身に着けるためには何かを捨てなければならないはずなのだ。だからあたしは姫になることをあきらめた。代わりに『作家』という名の騎士になろうと心に決めたのである。
そんな無謀な人間が、あたしだ。
そんなあたしの前に現れたのが、吾妻だった。下の名前の読み方も知らないようなクラスメートは、ふとしたきっかけであたしの編集者になった。
何故読者じゃなくて編集者なのかというと、作品を否定されるのが怖かったから――だと吾妻には言ったけれど、本当は違う。そんな殊勝な理由じゃない。あたしはただ、期待していただけなのだ。吾妻が本当に編集者になってくれたらいいのに、って。むしろ、そうでなければ困るのだ。だって、あたしの小説を読ませる相手なんだから、それに相応しい人間でいてくれないと、ただの馴れ合いになってしまう。
初めこそ気は乗らなかったけれど、吾妻と小説について語らう日々は楽しかった。けれど、同時にあたしは危機感を覚えた。
あたしは、作家になると志したときに決して自分で引いた一線を越えて他人と関わることはしないと決めた。そのために文芸部にも入らず一人で書き続けてきたのだ。
……だというのに、吾妻と話していると甘えてしまう。褒められることを期待してしまう。それじゃあダメなのに。作家になるためには、そんな甘えた考えは捨てなければならないのに。これでは、人気者になりたいと考えていた頃と何も変わっていない。やっぱりあたしはダメな子なんだ……
けれど、ネクラで不愛想で内向的なあたし――つまり、作家になるために他のものを捨てたあたしのことを、吾妻は認めてくれた。そして、その言葉に救われてしまったのだ。吾妻はそんなつもりで言ったんじゃないってことは分かってる。あたしがわざと卑屈なところを見せてそう言ってくれるように誘導したようなものだ。あたしは、逃げてなんていないと言ってほしかっただけなのだ。
追認バイアス、という心理効果がある。人間はある物事を『自分の決定の正当性を補強する』ように解釈する傾向があるということらしい。
要するにあたしは、あたし自身の在り方の正当性を補強するために吾妻を利用していたのだ。あたしが言ってほしいことを言ってくれるように誘導して、吾妻にあたしを騙させていたということだ。けれど、そんな茶番じみたやり方が上手くいくわけもなく。あたしはむしろ自分を見失っていった。
そんなあたしの葛藤は、最悪の形で爆発した。浮かれていたあたしはつい油断して、妹の撫子に小説と吾妻の存在を知られてしまったのだ。
結局のところ、あたしは吾妻に罪悪感を覚えていたのだろう。だから、撫子の言葉を否定できなかった。心の中で、あたしはまだ姫への憧れを捨てきれていなかったのだ。そんな半端な覚悟で吾妻を利用した自分が許せなくて、あたしは逃げてしまった。吾妻からも、自分自身からも。
――そして今日、吾妻にはひどいことを言ってしまった。撫子ですら気づいていなかったあたしの本心に気付いて、優しい言葉をかけてくれた吾妻。あたしはそんな彼のくれたものを全て否定し、彼の優しさを拒絶したのだ。
後悔は……きっと死ぬほどしている。けれどきっとこれでいいんだ。これであたしはもっと孤独になれる。これでまた、あたしは作家になるという目標に邁進することが出来る。
今度こそ、あたしはあたしの世界に没頭しよう。あたしは騎士になるのだ。強く、孤高で、誇り高い騎士に。もう、後戻りはできないのだから。
――なのにどうしてだろう。姫から遠ざかるほど騎士に近付いていくはずなのに、あたしはまだ、姫への憧れを完全に捨て去れずにいた。
矛盾している。こんなことはきっと許されない。どうすれば、どうすれば――
そのとき、何故か唐突にひらめいた。そうだ、コトダマ様に願えばいいんだ。
何故記憶の片隅で眠っていたような都市伝説をこのタイミングで思い出したのかは分からない。けれどあたしはなにか抗いがたい引力に捕まってしまったかのように、それを願った。
願ってしまったのだ。
そしてその夜、あたしは不思議な夢を見た。青い光に照らされる街で、吾妻が孤独に怪物から逃げ続ける夢だった。あたしが大好きな伝奇ものの小説や漫画のような、けれどやけに鮮明な夢――。それが、あるタイミングで展開を変えた。夢の中の吾妻は、あろうことか怪物と戦おうとしていたのである。
吾妻はいったい、何のために戦おうとしているのだろう。とても必死に、恐怖に抗って、歯を食いしばりながら、彼は怪物に立ち向かっていた。まるで、決して死ねない理由を背負っているかのように。その姿は、誇り高き強さに満ちていた。
そして、吾妻のお腹に大きな穴が開いた。それを見て、ああ、この夢では吾妻が負けてしまうんだな、と思った。
だけど、不思議だね。夢のはずなのに、あたしはすごく怖くなったんだ。
普段見ている悪夢では、死んだら目が覚めるのに。ゲームオーバーになったら、それで終わりなのに。
――ううん。本当は気付いていたんだ。これは夢じゃないって。吾妻があたしのために戦っているのも知っていた。だって、吾妻を殺そうとした怪物は、あたしだったんだから。
ここはあたしが作った世界で、あたしは吾妻を殺して願いを叶える。もし失敗すれば、あたしが死ぬ。あたしも、そしてきっと吾妻もそれを知っている。だから吾妻が逃げずに立ち向かってくるのは、あたしのためなんだ。
だけど、嫌だよ、吾妻。こんな形で願いが叶っても、あたしは何も嬉しくないよ。お願い、死なないで。
ひどいこと言ってごめんって、謝れてないのに。また明日も、小説を読んでもらいたいのに。
だから、だから――
◆◆◆
――死なないで、吾妻!
意識を手放す寸前、不意にどこからかよもぎの声が聞こえた気がした。必死に自分を呼ぶその声を聞いた途端、途方もない絶望に襲われ、恐怖と怒りがふつふつと湧き上がってくる。それは消えることなく、由利の中でみるみるうちに肥大化していった。
熱い涙が澎湃と頬を流れ落ちていく。失われていく体温とは対照的に、心が、魂が、これまで感じたことのない熱を持って脈動し始めたのを感じる。
ここで死んでしまったら、亜流々は一人になり、よもぎの小説の続きを読むこともできなくなる。
そのことが今は怖い。耐えられないほどに恐ろしい。
そのときになって、由利はようやく心の底から思った。
――死にたくない。怖いのは、悲しいのは、苦しいのはもう嫌だ。……嫌なんだ!
消える寸前の蝋燭の炎のような、抑えきれない心の働き。それは爆発的に膨れ上がり、かすれゆく視界の中で光を放ち始めた。
「……そう、か。これが、感情。抑えられない、魂の、ちから……」
うわ言のように呟きながら、由利は光に手を伸ばした。幻覚かと思っていたそれは由利の手が触れた途端にひときわ激しく輝くと、実体として由利の手の中に納まった。
「――うそだろう? それは、その力は、まさか!」
振り返った亜流々が、状況も忘れ呆然と立ち尽くす。光を浴びた穢霊は、どうしてか動きを止めていた。
手にしたそれをどうすればいいのか、由利は心の奥底で理解していた。両手でそれを掴んだ由利は、ゆっくりと抜き放つ。
その瞬間、由利の全身が銀色の光を放ち、瀕死だったはずの肉体に力がみなぎっていった。片目分だけだった視界が戻り、腹部の大穴も塞がっていく。信じがたいことに、数秒後には由利の傷や肉体の欠損の全てが元通りになっていた。
全快した由利はゆっくりと立ち上がる。その両手にはそれぞれ鞘と刀が収まっていた。刀身は鋼で出来ているように見えるが、鍔がない。柄や鞘の部分は石のような、はたまた漆器のような不思議な質感の素材で出来ており、つるりとしているが手に吸い付いてくる。
一見すれば『合口拵え』と呼ばれるつくりの打刀に見えるが、とてもただの刀とは思えないほどに完成され、洗練されすぎている。全体が人工物ではありえないような神秘性を放っており、刀身などまるで一つの塊からそのまま削り出されたかのようだ。
――霊装〈雷〉。それがこの刀の銘である。何の根拠も脈絡も必要とせず、由利はそれを自然に理解した。
刀身が放つ光を浴びて動きを止めていた穢霊が再び動き出すのを見て、青い髪の少女――亜流々が叫んだ。
「由利くん! 今のうちだ! その刀で、穢霊を倒してしまえ!」
それを受け、由利は満面の笑みを浮かべた。
「おう! 任せろっ!」
手にした時点で、思考はそれの使い方を理解し、身体はその動かし方を習得していた。刀を握りしめると、感情が昂ぶっていく。自分への怒りや穢霊への怒り、そしてよもぎへの怒り。その全てが鞘から解き放たれた右手の刀に収束し、目も眩むような激しい輝きを放ち始める。バチバチと空気の弾ける音が響き渡り、莫大な熱量を持つプラズマの刃を形成した。
「よもぎいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっ!」
叫びながら真っ直ぐ突進する由利を、〈ネフィア・ラムルア〉は怪力を誇る蜘蛛の脚で迎え撃つ。だが由利はそれを無造作に振り下ろした一太刀であっさり斬り飛ばした。否、正確には斬ったのではない。その高熱の刀身が触れた部分を蒸発させたのだ。
脚を一本失ったことでバランスを崩す〈ネフィア・ラムルア〉。由利はそのまま返す刀を閃かせ、人型部分の腰から肩にかけてを逆袈裟に斬り上げる。穢霊の身体は豆腐のように切断されてぱっくりと割れ、断面からは血液の代わりに銀色に輝く粒子が噴出する。
それを見て身体を弛緩させかけた由利の背後から亜流々の声が飛んだ。
「まだだ! そいつはダメージを与えても再生する!」
亜流々の言葉通り、切り裂いたはずの上半身が、微かに光を放って徐々に再生されつつあった。
「なら! これで、終わりだああぁぁぁぁぁぁっ!」
由利は間髪入れずに激しい熱量を迸らせる白刃を垂直に振り下ろす。その一太刀は巨大な紫電の刃となり、上半身だけではなく蜘蛛の下半身までもを正中線から両断する。穢霊の身体は落雷を受けた樹木のように縦に割り開かれ、それがとどめの一撃となった。
返り血の代わりに銀色に輝く粒子を撒き散らした〈ネフィア・ラムルア〉は、断末魔すら上げず、そのまま全身を銀色の粒子に変換して空に昇っていく。由利が真に勝利を確信した瞬間、手の中の刀は輝きを失い、虚空に溶けるようにして消失した。
◆◆◆
「…………終わった、んだよな」
「ああ、きみの勝ちだ。そこを見たまえ」
亜流々に言われて〈ネフィア・ラムルア〉が消滅した後を見やると、そこには胎児のように丸まって横たわる、パジャマ姿のよもぎがいた。由利は驚いて亜流々を振り返る。
「よもぎ? どうしてよもぎがここにいるんだ?」
「当然だろう。きみを捕食できなかった場合、穢霊は葛籠よもぎの魂を喰らうことになる。要するにそのまま消化されるはずだったんだ。だがきみは穢霊を倒し、彼女を救った」
亜流々はしらっとした顔で答えた。何故そんな大事なことを言わなかったのか問い詰めても無駄そうだ。きっとわざと黙っていたのだろう。
「……なあ、よもぎは大丈夫なのか? 穢霊を倒してしまったけど、その、影響とか」
「ああ、その心配は要らないよ。その証拠に、ほら」
亜流々が指を差した先では、よもぎが目を覚ましかけていた。
「本当だ……って、マズくないかそれ。よもぎにこの状況をどう説明すればいい?」
「さあね。案外、夢だと思ってくれるんじゃないかい?」
そんな適当な。由利は面白くなさそうな表情の亜流々に恨みがましい視線を向けた。
「別に適当に言ったわけじゃない。きみが〈ネフィア・ラムルア〉を倒したことによって、この世界を維持する意味はなくなった。つまり、もうじきこの世界は消滅し、ぼくたちは現世に戻されるんだ。きみも覚えがあると思うが、常夜の世界から『目覚める』ときはそれぞれの寝床に送還されることになっているから、まあまず夢だと思いこむだろう」
「そういえば、最初に亜流々に会ったときもいつの間にかベッドで寝ていたな。……どうしてそんな都合よく戻してくれるんだ?」
「それを説明することはぼくからは出来ない。ただこう納得したまえ。『ここが都合の良い世界だから』とね」
そんな話をしていると、よもぎが本格的に目を覚ましてしまった。むくりと体を起こし、床にぺたんと座り込みながら胡乱げに由利の方を見上げる。
「……ん。あれ、吾妻?」
由利はしばし逡巡していたが、結局こう答えた。
「ああ。俺だよ、よもぎ」
「その目、どうしたの?」
目? よもぎはいったい何のことを言っているのだろうか。
「彼女が言っているのは、きみの瞳の色についてだろう。どうしてか、右の瞳だけ紫色に変わっているからね」
亜流々に言われ、由利は思わず右目を手で押さえる。
「……なんか、カッコいいね。漫画の主人公みたい。それに、なんだか雰囲気もかわった?」
そう言ってよもぎはふにゃ、と笑った。寝ぼけているようにも見えるが、亜流々の言うようにこの状況を夢だと思っているのかもしれない。その方が都合がいい。
「あのね、さっきまで、夢を見てたんだ。吾妻が、刀をもって怪物と戦ってるの。吾妻は、あたしのために戦ってくれてて……あれ?」
そこまで言って、よもぎは何かに気付いたように硬直した。先ほどまでとは違って、はっきりと意識が覚醒したようだ。由利は嫌な予感がした。
「夢じゃ……ない! あたし、吾妻を殺そうとしてた! なんで? どうして?」
「よもぎ、落ち着け」
「ねえ吾妻、ここはどこなの? あたしは……あたしはさっきまで何をしてたの? これは……夢じゃないの?」
よもぎは混乱しきっており、由利の言葉は届きそうになかった。どうしたものかと困り果てていると、亜流々がそっけなくこう言った。
「放っておきたまえ。どうせまもなく送還されるんだから」
「でもそれって、少しの間だけならよもぎと話せるってことだよな?」
由利の問いに、亜流々はつまらなそうにふんと鼻を鳴らすのみだった。これは肯定の意だろう。由利は残されたわずかな時間でよもぎとの対話を試みることにした。
願わくば、彼女が安らかな気持ちで目覚めることが出来るように。こんな悪夢を忘れてしまえるように。
「吾妻……?」
「なあ、よもぎ。……えっと、これは夢なんだ。ただの夢。怪物なんていなかったし、戦いもなかった。だから全部忘れろ。何も気にするな」
由利があまりにも拙い嘘を並べ立てるのを、亜流々が楽しそうに揶揄した。
「きみは誤魔化すのが下手すぎるね」
「うるさいぞ亜流々。……だから、その。俺が言いたいのは、明日は学校に来てほしいっていうか。いつも通りでいて欲しいっていうか」
しどろもどろの由利を見て、狼狽していたよもぎは顔をほころばせた。
「……うん、分かった。そういうことにしとく。じゃあ、また明日、でいいのかな?」
「あ、ああ! また明日!」
「あ――」
よもぎが何かを言いかけたその瞬間、由利の意識は途切れた。




