第四話 死ねない理由
第4話 死ねない理由
神崎亜流々はこう言った。
「地上において、きみの使命が終わったかどうかを知るテストをしよう。もしもきみがまだ生きているのであれば、それは終わっていない」
◆◆◆
翌日、よもぎは登校してこなかった。これで、穢霊の発生を阻止するのは絶望的となっただろう。あのときよもぎを追いかければ、あるいは違った現在だったのかもしれない。しかし、あのとき追いかけたとして、由利はよもぎにどんな言葉をかけることが出来ただろうか?由利の保身ありきの慰めの言葉が、よもぎの心に届くとは思えない。
むしろ、今の状況はなるべくしてなったのだ。昨日の件は分かりやすいターニングポイントの一つではあったのかもしれないが、由利がよもぎの懊悩や苦しみを正しく理解できていなかった以上、遅かれ早かれこうなるはずだったのだから。
思えば、よもぎは控えめにではあるが由利に訴えかけてきていた。その態度で、言動の端々で、由利に何かを求めてきていたのだ。由利はそれに応えなければならなかった。しかし出来なかった。
由利がやったことは、ただの対症療法に過ぎない。よもぎの苦悩をごまかす手伝いをしただけだ。それすら、本当の意味でよもぎのためになることではなかった。
むしろ、よもぎの小説、ひいてはよもぎ自身すら理想化し、勝手なイメージを押し付けた由利の行いは、よもぎに負担を強いる行為だったとすら言えるだろう。
「なにが、『よもぎは逃げてなんかいない』だ……」
その言葉はよもぎに逃げることを許さず、また逃げているよもぎを否定する言葉に他ならなかった。そんなつもりはなかったにしろ、由利は最後の最後でよもぎを裏切ったのだ。
そんなことを考えていた折、いきなり頭に衝撃がやってきた。脳天から鼻に抜けるような鈍痛が走り、視界にちかちかと星が舞い、生理的反応で涙が滲んだ。
「何すんだ」
振り返ると、そこには冷めた目を向ける亜流々が立っていた。手にはハードカバーの分厚い本を持っている。まさか、これで殴ったのだろうか。
「ふうん。きみはこれでも声を荒げないのか。いや、すまない。思えば、人を殴るという経験はしたことがなかったからね。だから、きみが死んでしまう前にやっておこうと思ったんだ。記念にね」
「なんて迷惑な記念だ……というか、前に俺を殺すことは出来ないって言ってなかったか? それなのに殴ることは出来るんだな」
特に意味のない軽口のつもりだったが、由利の言葉に亜流々は押し黙った。
「……そうなんだよ。何故か、きみだけはぼくを認識できる。ぼくもきみに干渉することが出来る。もしかしたら、今ぼくがここで首を絞めれば、きみを殺すこともできるのかもしれないね」
「試してみればどうだ? 記念にさ」
そう言って笑う由利とは対照的に、亜流々の顔は見る見るうちに歪んでいった。
「……試すわけないだろう!」
もちろん冗談で言ったのだが、冗談が通じなかったのか、それとも冗談の内容自体が気に食わなかったのか、亜流々は教室を飛び出していってしまった。由利を殴ったハードカバーを机に置いたまま。
何とはなしにその表紙に目を向けると、それは植物図鑑だった。図書室の蔵書のようだが、わざわざ由利を殴るために持ち出したのだろうか。
「……なに怒ってるんだ?」
思えば、亜流々に理不尽なことをされたり言われたりしたのはこれが初めてだった。ゲームのキャラや物語の登場人物が自分の思い通りに動かないことにイラつくのと似たようなものなのだろうか。亜流々を追いかけようにももうすぐホームルームが始まってしまうので、とりあえずは亜流々が置いていった図鑑を手慰みにパラパラとめくってみることにした。
まず目に付いたのは、『ユリ』のページだった。ユリ目ユリ科ユリ属の多年草の総称で、学名は『Lilium』――これはリリウム、と読むのだろう。由利はユリと聞くとテッポウユリを想起するが、そういえばよもぎは由利の名前をこう読むと思っていたのだったか。
やがて、ページをめくる由利の手が止まる。あるページに、目立たないように付箋が貼られていたのだ。
付箋が貼られていたのは、『ヨモギ』のページだった。
ヨモギとは、キク科の多年草であり、別名餅草とも言うらしい。漢字では『蓬』と書き、そして――
「ヨモギ属の学名は、『Artemisia』――アルテミシア?」
このとき由利の中に、一つの確信が生まれた。それを裏付けるように、付箋はもう一枚、『ナデシコ』のページに貼られていた。
ナデシコ属の学名は『Dianthus』。カタカナにすれば、ディアントゥスといったところか。そして、アルテミシアに嫌がらせをしつつも、悪役として描き切られなかった第一皇女の名前は、ディアンヌ。フルネームではディアンヌ・トゥース・ウィスタリア。
これは単なる偶然の一致だろうか? 考えるまでもなく、答えは否だろう。
学名はラテン語で表記される。聖剣の名前の由来がラテン語であることに感付いた由利ならば、この名付けの法則にも気付く可能性はあった。
それでもよもぎは由利に小説を読ませた。読ませ続けた。この事実が意味するところとは何なのだろうか。
気付いてほしかったのか、気付いても構わなかっただけなのか、今となっては正解は分からない。しかし、もし前者だったのだとすれば、よもぎは自分の抱える複雑な感情を、小説の世界を介して由利に見せてくれていたのだ。曲がりなりにも由利に小説を読ませることを決意したとき、よもぎはいったいどれほどの勇気を振り絞ったのだろう?
姫騎士アルテミシア。よもぎによって生み出されたかのキャラクターは、彼女自身の理想の投影だったのだろうか。それとも、現実から逃避するための、単なるロールプレイの対象に過ぎなかったのだろうか。
そこで由利は思考を止めた。考えても詮無きことであり、すべては手遅れなのだから。
もしかしたら、亜流々はヒントを与えてくれたのかもしれない。直接的な助言はせず、あくまで由利自身が気付くように仕向けて。……まあ、やり方は多少野蛮ではあったが。
怒って教室を出ていったように見えたのも照れ隠しだったのかもしれない。そう思うと、途端に亜流々がいじらしく思えてきた。
亜流々に会わなければと思った。そして会いたいと思った。それは義務感ではなく、おのずからの意思だった。
亜流々以外のことを考えることがもどかしくなって、由利は椅子を跳ね飛ばして立ち上がる。そして好奇の視線など意にも介さず、植物図鑑を大事に抱えて教室を飛び出した。
ルールよりも自分の意思を優先したことを自覚した由利は、謎の解放感と達成感に心が打ち震える。
生まれて初めてのサボタージュだった。
◆◆◆
神崎亜流々は、屋上で一人、風に当たっていた。
亜流々はこの場所が妙に気に入っている。あるいは相対的に、他の場所が気に入らないだけなのかもしれない。
だって、おかしいではないか。どうして高校生という生き物はあんな狭い空間に四十人近くも詰め込まれながら、平気な顔をして偉そうな大人のつまらない話を聞くことが出来るのだろう? 自分にはとても耐えられない。時間が無駄に失われていくことを許容できるわけがない。
その点、屋上という場所は亜流々にとって非常に都合がよかった。誰もいないし、誰も来ない。ここでなら、亜流々は一人になれる。独りではなく、一人になれるのだ。まさしく世捨て人に、望んで世捨て人になった亜流々の在り方を示すのに相応しい場所と言える。――もっとも、示す相手など一人しかいないのだが。
そう、失礼なことにその稀有な一人であるところの由利は忘れがちなのだが、亜流々は世捨て人、すなわち隠者なのである。俗世を忌避し、刹那的な喜びを厭い、即物的な快楽よりも精神的な快楽を求めるような、高尚な人間だ……とまで言うつもりはないが、実際に隠者として、誰とも関わらず〈運命の俯瞰者〉としての役目を果たしてきたという自負はあるのだ。
だから亜流々は知っている。この世界は灰色だ。変わりなく、そして果てしなく。
――けれど、そう悲観することはない。この世界も捨てたものじゃない。何故なら、この世界にはゲームという偉大な発明が存在するからだ。
幼いころから、亜流々はビデオゲームの類をこよなく愛していた。誕生日とクリスマスには必ず親にゲームソフトをねだったものだ。そして、その全てを遊びつくした。レベルを最大まで上げ、全ての武器を揃え、全てのイベントを見る。とにかく、埋まっていない項目があることが許せなかった。
そして、それ以上どうしようもないというところまで遊びつくして、ようやく次のゲームをプレイし始める。それまで遊んでいたゲームのことは完全に忘れ、次の世界へと没入していく。
何故そうしていたのかは分からない。ただ、そうしなければならないと感じるままにプレイしていた。敢えて理由を付けるとしたら、亜流々には世界の終わりを見届ける義務があったからだろう。データで構築された世界を踏破して、正真正銘のどん詰まり、すなわち世界そのもののデッドエンドにたどり着くことこそが、亜流々の目的だった。そうすることで、その世界を支配したような気になれた。裏を返すと、そうすること――つまり世界の果てを見ることでしかその世界から抜け出すことが出来なかったのである。
しかしそれでも、亜流々はゲームをやめなかった。ゲームを愛し、ゲームの世界に奉仕し続けた。何故なら、そうすることが何よりも楽しかったからだ。ゲームの中で魔物を倒し、人を助けるときに亜流々は喜びを感じた。それは無駄に高価な服飾や、贅肉に代わる美食に幸福を感じるよりも、よほど健全で高尚ではないか。
何をおいても、自己の中で完結するというのがいい。誰にも迷惑をかけず、誰かと幸福の取り合いをする可能性もない。そういう意味で、かの娯楽が供給する精神的快楽は無形であり、そして無限なのだ。これぞ嗜好の悦び。全哲学の答えは画面の向こうに存在するという真理に、果たして亜流々以外の何人がたどり着いたのだろうか。
もちろん、ゲームであれば何でもいいというわけではない。ビデオゲームの類であれば基本的に何でも肯定する亜流々だが、逆にチェスや将棋などのテーブルゲームは嫌っていた。何故なら、この二つには決定的な違いがあるからだ。
すべてのテーブルゲームは突き詰めればゼロサムゲーム、すなわち『奪い合い』である。誰かの得は他の誰かの損によってあがなわれ、誰かの勝利は他の誰かに敗北を強制する。亜流々はそれが許せないのだ。そうした仕組みそのものの残酷さ、傲慢さを憎んですらいた。したがって、対戦を目的とするゲームも亜流々は認めない。誰かと一緒にゲームをするときは、『協力』を目的とするべきなのだ。
「協力、か……」
独りごちた言葉が、風にかき消されていく。
亜流々は吾妻由利の境遇をゲームに喩えた。つまり、二人で同じゲームをプレイしているつもりになっていたのだ。しかし、それは間違いだった。そのようなスタンスで吾妻由利に接するべきではなかった。だが、そうすることでしか亜流々は……
「……ダメだ、ねむい」
フェンスに寄りかかって座っていた亜流々は不意に強烈な眠気を感じ、隠すこともなく大きな欠伸をした。由利の前では決してしないような仕草である。そもそも、彼女が欠伸をすること自体めずらしい。何を隠そう、今日の亜流々は寝不足だった。気が立ってしまっていたのはそのためだ。それで被害をこうむるのは由利だけなのだが。
由利は亜流々が普段どこで暮らしているのかすら知らない。敢えて訊かないのか、そもそも興味がないのか。何にせよ、由利のそういうところは、亜流々にとって好ましかった。
良く言えばおおらかで器が大きい。悪く言えば大ざっぱで無頓着。いずれにしても後ろに『過ぎる』が付くのは変わらない。亜流々の由利への評価は概ねそんな感じだった。
あの日、〈常夜〉の世界で出会う前から、亜流々は由利のことを知っていた。そのため由利は単に亜流々がクラスメートについて詳しいのだと思っているようだが、実際はそんなことはまったくない。亜流々はクラスの連中に興味などないのだから。
ただし、吾妻由利だけは別だった。彼だけは、他の有象無象とは何かが違うような気がしていた。
いつも何かを諦めたような眼をして、日々を投げやりに過ごしていた彼。まさに惰性で生きているというのがしっくりくるような男の子。彼はその過程こそ違えど、亜流々の到達した答えにたどり着きうるただ一人の存在だった。すなわち世界も人生も変わりなく、そして果てしなく寂寞とした灰色の一本道に過ぎないのだと。
ただ、亜流々と違って由利は未だこの世界に希望を持っているようにも見えた。世界を恨む一方で、無知蒙昧であるがゆえにただ与えられる幸福を享受することが出来るガチョウの如き有象無象どもを羨んでもいた。
由利と違い、亜流々はその妬心を乗り越え、超人となった。皮肉なことに、そのせいで神は死んだりなどしないことを知ることが出来たのだが。だから『神は死んだ』などというのは大嘘だ。そもそもここで言う神とは結局、人がそれぞれ自分の心の中に作り出した脆弱な神の偶像に過ぎないのである。殺す神など見つかりはしないし、死にさらす神もいはしない。
にもかかわらず、由利は心のどこかで信じているのだ。灰色の世界を、脆弱な神を、そして自分の可能性を。世界と天命のどうしようもなさを知っていながら、なおも人生は未知数で、運命は変わると心のどこかで信じている。つまり馬鹿なのである。
そんな彼と〈常夜〉の世界で出会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。あの日、亜流々は何かに導かれるように〈常夜〉の世界に入り込んだ。そこで運命のように彼を見つけ、こう声をかけたのだ。
――蒼い月を見るのは初めてかい?
もちろん、返答など期待していなかった。気まぐれの戯れで、テレビを見ながらひとりごちるくらいの感覚で口を開いただけだった。しかし、彼は振り向いた。そして亜流々を見たのである。
そう、彼はなんと亜流々のことを認識していたのだ。どういうわけかただの非術者だったはずの彼が、突然世界の俯瞰者である亜流々のことを認識できるようになったのである。
それを知った亜流々は、複雑な気持ちになった。自分の特異性、特別さにケチが付いたような気がしたのと同時に、他の人とは違うと思っていた由利が、本当に特別な存在になったことに妙な誇らしさを感じていたからである。
やはりぼくの見る目は正しかった。彼はこちら側の人間だったのだ。
しかしどうだろう、蓋を開けてみれば彼自身は特別なのではなく、ただの普通の変な奴だった。下らないことに右往左往して、同年代の女の子が暇つぶしに書いたような小説なんかに熱を上げて……そうじゃないだろう? きみはもっと泰然としていてくれなきゃ困る。何故ならきみは、ぼくを認識できる、ぼくと同じレベルの人間のはずなのだから。
そんな風に、内心では由利に対して不満もあった。けれど、いつしかそれも些事となった。
認めざるを得ない。一週間にも満たないわずかな期間だが、彼と過ごす日々は楽しかったのだ。
前言とは矛盾するようだが、吾妻由利は決してただの普通の人間などではない。彼が何らかの超常的な運命を背負っているのは間違いない。しかしそれでも、彼はどうしようもなくただの人間だった。発言がクサくて、中二病で、むっつりスケベで……そんな彼を、有象無象と変わりないはずの彼をこそ憎からず思っている自分に、気付かないままではいられなかった。
亜流々が由利に接触し、協力したのはあくまで彼が特別な存在だったからだ。でなければ彼の言う通り、亜流々の在り方に矛盾が生じてしまう。世捨て人が、ただの人間に肩入れすることなどあってはならない。いつだって上から目線で、天にまします存在に代わって助言を投げかけるポジションに終始しなければならない。世界の俯瞰者たる亜流々は自然体としてそういうキャラでいなければならないのだ。
――だというのに。
嗚呼、自分はきっと、俗世に染まり、穢れてしまった。今の亜流々はもはや彼の人生をゲームのように思うことなどできない。我がことのように未練がましく、彼の死を回避する方法を必死に考えてしまっているのだ。これではまるでギャルゲーに出てくる主人公の親友ではないか。
自分から捨てたはずのものに、みっともなく縋っている。これをみじめと言わずなんという?
彼はあの図鑑を開くだろうか。そして亜流々の意図に気付くだろうか。自分に呆れる一方で、いまだにそんな風に期待してしまっている。
眠気のせいで、思考が覚束なくなってくる。文脈のめちゃくちゃなモノローグは途切れがちになり、ついには意識がまどろみへと沈んでいく。
間もなく意識を手放すというとき、亜流々はこんなことを夢見た。
もしも、次に目を開けた時、由利くんがそこにいてくれたら……
頭の中の冷静な部分が事務的に告げる。そんなのは夢のまた夢だ、ありえない仮定だと。そもそも彼が授業を放り出して亜流々を探しに来る姿など想像もできない。そのうえ亜流々はだいぶ前に屋上のカギをちょろまかしていて、屋上に続く扉は今も施錠済みなのである。新しい鍵は職員室にあるはずだが、それを由利が入手する手段はない。つまり生徒がここに来ることは出来ないということになる。
よってありえない。現実世界にフラグはない。灰色の世界で、期待する意味などない。
――けれどもしも、彼がぼくを探し出してくれたなら。
そのときは彼に対して少しだけ素直になってみようと、亜流々は思った。
◆◆◆
教室を飛び出し、由利は早速途方に暮れた。亜流々がどこに行ったのか、まったく分からなかったからだ。
一週間前に出会ってからずっと、亜流々は由利のそばにいた。他愛もない話を振ってきたり、隣でゲームに熱中していたり……いつの間にか、由利にとってもそれが自然になっていた。彼女のおかげで、由利の生活は以前とは比べ物にならないほど充実していた。
そう、色鮮やかに変わったのだ。変わりなく、果てしなく灰色だと思っていた日々が、こんなにも簡単に。
幸せすぎて怖くなるくらいだった。よもぎと語り合ったり、亜流々と軽口を叩き合うような日々は、果たして自分が享受することを許された幸せなのだろうかと疑ったりもした。
昨日亜流々に言った、自分が死ねばよもぎの願いが叶うという言葉に、自分への苛立ちから来る自罰欲求が多分に含まれていたことは否定できない。
しかしそれを抜きにしても、自分はよもぎのために死ぬべきだと思った。むしろそうすることで自分が求めてやまない価値を得ることが出来ると期待すらしていた。与えられた幸せに、そうすることで報いることが出来るなら、由利は喜んでその命を差し出すつもりだったのだ。
そして亜流々は、由利のそんな考えに賛同してくれると思っていた。ほかの誰かの幸せのために奉仕することは美徳であり、ならば由利の行いは美談となるはずだ。にもかかわらず、亜流々はその考えに嫌悪を示した。
一体なぜ? 世捨て人である亜流々ならば、きっと美徳を重んじる由利のことを認めてくれるだろうと思っていたのに。それとも、由利程度の存在が何かのために自分を捧げようなどと言うこと自体がおこがましいのだろうか。
亜流々は由利の特殊な境遇をゲームに喩えた。そのうえで、彼女はよもぎの『攻略』に協力してくれた。つまり、彼女にとってこの一週間はゲームだったのだ。彼女は由利自身ではなく、由利が巻き込まれた非日常的なイベントに興味を示していた。……そのはずだった。
今となっては亜流々が何を思って由利の傍にいてくれたのかわからない。『ゲームオーバー』になってしまった由利に、彼女はもはや興味などないのかもしれない。そう考える一方で、由利は期待してしまっていた。
らしくないことをしてまで、由利なんかにヒントをくれた亜流々の真意が知りたい。これまでの感謝を伝えたい。せめて会って話すことが出来たら、それだけでいい。
亜流々に会いたい。一刻も早く。
そのとき、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。それと同時に、運悪く廊下の曲がり角から姿を現したクラスの担任教師と鉢合わせしてしまった。
「ん? おい吾妻。何をしてる。早く教室に行け」
当たり前だが、彼は由利がこの時間に教室外にいることを容認してはくれなかった。しかし今の由利は大人しく教室に戻る気など毛頭ない。挨拶もなしに床を蹴り、教師の横をすり抜けて走り出した。
「どうした吾妻! 体調が悪いのかっ?」
失礼な態度を取った由利の体調を心配する言葉をかけてくる担任教師の気遣いを申しわけなく思いながらも、由利はひたすら走り続けた。
教師を振り切ってからどこへ行くべきか数秒悩んだ後、もっとも人に会う可能性の低い場所へ行くことにした。廊下の端にある階段を駆け上がり、折り返してはまた駆け上がる。一番上まで上り詰めるころには、すっかり息が上がっていた。
屋上に続く扉に手をかけ、押し開こうとして鉄の感触に阻まれた。どうやら施錠されているようだ。元々屋上は立ち入り禁止のため当然と言えば当然なのだが、由利は何処にもぶつけようのない苛立ちを感じた。
きっとこの向こうに亜流々がいるのに。
ただの思い付きは、いつしか確信に変わっていた。初めて言葉を交わしたとき、亜流々はこう言っていたはずだ。
『ちょっと、待て。今、「昨日まで」って言ったか? じゃあお前は、今までもずっとここにいたのか? ただ俺が気付いていなかっただけで?』
『その通りさ。まあ、いつもこの教室にいるわけじゃないけどね。むしろ屋上とかにいることの方が多いよ』
自分とは違って、敢えて一人きりになろうとしていた亜流々。その彼女が何でもないように笑うのが悲しかったのを由利は覚えている。そして、今となってはそんな不器用さをいじらしくも愛おしく思う。
きっとどこかに、屋上に出るための手段があるはずだ。視線を巡らせ、手掛かりを探す。――そして見つけた。
屋上に続く扉の反対側、同じ高さに窓がはめられている。あの窓から外に出れば、屋上に出られるはずだ。ただし反対側にあるということは、階段を降りなければならないということだ。つまり階段の踊り場からはかなり高い位置になっているため、普通によじ登ろうとしてもまず届かない。
もちろん、その程度のことで諦めるつもりはなかった。由利は階段を駆け下りると、人気のない教室を探す。幸いすぐにそれは見つかった。そこのクラスは今移動教室なのだろう。さっそく手近な机を運び出し、階段の踊り場まで持っていく。幸い途中で誰かに見つかることはなかった。
さて、窓の真下に机を配置したはいいものの、一つだけでは高さが足りないようだった。そのためもう一段積み上げるための机と、そこに上るための踏み台にする机、計二つを新たに運び出す羽目になった。
この机を使っている生徒に申し訳なく思いつつも、脱いだ上履きを片手に持った由利は机を踏みしめ窓に手をかけた。
不安定な足場に緊張しつつも、回転式のロックを解除し、ゆっくりと窓を開ける。めったに開けないためかひどく建付けが悪くなっていて、ガタガタと音が鳴った。さすがに両手を使う必要があるため抱えていた植物図鑑をベルトで挟んで固定し、それから開けた窓の桟に手をかけ、一気によじ登る。そのとき積み上げた机が崩れ、階段の踊り場に大きな音が鳴り響いた。
今の音を聞きつけた教師が駆けつけるのは時間の問題だろう。由利は急いで屋上に出た。
頼む。いてくれよ、亜流々……!
上履きを履き直して屋上を見渡すと、すぐにフェンスに寄りかかって寝息を立てている亜流々の姿を認めることが出来た。
それが妙に可笑しくて、ついさっきまでの緊張はどこへやら、由利は失笑してしまった。亜流々のことだから、てっきりいつものアルカイックスマイルで待ち構えていて、「やあ、遅かったね」などと気障ったらしく言ってくると思っていたのに。
亜流々の安らかな寝顔を見て、今更ながら彼女も女の子なのだということを強く意識していた。週末、由利の部屋で迫られた時よりも、ずっと強く。
思えば、亜流々の油断した姿を見るのはこれが初めてかもしれない。息をひそめ、起こさないようにゆっくりと近づく。そしてベルトに挟んでいた植物図鑑を手に取ると、亜流々の頭頂部にこつん、と当てた。
「ん……?」
どこかなまめかしい寝息を立てたかと思うと、亜流々はゆっくりと目を開けていき、弾かれたように覚醒した。
「よ、由利くん! どうしてここに!?」
亜流々はかつて見たこともないほど狼狽し、両手で自分の顔を覆った。
「ま、待って、見ないでっ」
まさか、寝起きの顔を見られるのが恥ずかしいのだろうか。自分は不法侵入して由利の寝顔を見たくせに、と言ってやりたくなる。だが、それよりも今は恥じらう亜流々の姿を目に焼き付けておきたかった。
亜流々は片手で顔を隠しながら、もう片方の手櫛で髪を梳いていく。元々寝癖など付いていないのだが、身だしなみを整え終えた亜流々は、コホンと一つ咳ばらいをした後、顔を上げていつも通りの笑みを浮かべた。
「おはよう、由利くん。人の寝顔を鑑賞するとは、いい趣味をしているじゃないか。しかしまあ我ながら迂闊だったよ、まさかこんなサービスシーンを提供してしまうなんてね。死ぬ前に良い思い出ができて良かったじゃないか、ねえきみ。けれど忘れないでくれたまえ、きみは幸運にもこの可憐なぼくの寝顔を目撃したわけだが、ぼくもきみの恥ずかしいところをたくさん知っているんだ。よって警告しておく、ぼくをからかおうなどとは考えない方がいい。そうなった場合、ぼくは正当な権利の下きみを辱めまくってやる。倍返しだ。いいかい? くれぐれもこんなことで優位に立ったなどとは――」
いつも通り……ではなかった。いつも通りを装うとしてはいるが、明らかに動揺している。だんだんと顔が赤くなり、それに伴って俯きがちになっていく。誤魔化し切れていない自覚があるようだ。そんな彼女を見て感じたことを、由利はそのまま口にする。
「可愛いな」
「――思わなあああああああっ!? い、いきなり何を言うんだ!」
「おいおい、自分でも言ってただろ? おまえは可愛いよ。テンパると口数が増えるところとか、褒められると照れるところとか……気遣いが分かりづらいところとかさ」
亜流々の顔の赤みが増した。由利はそんな彼女の眼前に植物図鑑を突きつける。
「おまえはあくまで、俺を助けようとしてくれたんだな」
「な、何のことだい? それは単なる鈍器だ。きみを殴る以外の用途など想定していない。そもそもぼくはっ」
唐突に言葉が途切れる。それから亜流々は激しくかぶりを振ったかと思うと、聞こえるか聞こえないかという大きさの声で何かを呟いた。
「……なおに、ならなきゃね」
「え?」
次の瞬間、吹っ切れたような表情の亜流々がこう切り出した。
「由利くん。きみは穢霊に魂を食われてもいいと言ったね? きみの性格的に、そんなことを言い出してもおかしくないとは思っていた。しかしそれは積極的な選択なのかい?」
「どういう意味だ?」
「つまり、きみ自身が犠牲となって葛籠よもぎの願いを叶えてあげたいのか、それとも手の打ちようがなくなったからあんなことを言ったのか、という意味だ」
「それは……後者だ」
もしこの問いを昨日ぶつけられていたら、由利の答えは違っていたかもしれない。しかし今の由利は自分の気持ちを知っている。この一週間を、由利なりに楽しいと感じていたことに気付いた今となっては、この答え以外ありえなかった。
由利の迷いのない返答を聞いた亜流々はほっとしたような表情になる。
「そうか。ならば話は簡単だ。今のきみに必要なのは、『理由』と『手段』だ。そのどちらも、ぼくはきみに与えることが出来る」
「『理由』と『手段』? 何の、どんな?」
相も変わらず迂遠な言い回しで語るしたり顔の亜流々に率直な疑問をぶつける。するとそれまでの得意満面が消えて一転、亜流々はしどろもどろになってしまった。いわく、
「つ、つまりだね……今きみには死に対してある意味でポジティブな『理由』があるわけだ。すなわち『死んだとしても葛籠よもぎの願いが叶うならそれでいい』とね。しかし裏を返せば、それに対抗する他の有意な理由付けがあればきみは奮起できるはずだとぼくは考えた。つまり、死に対するネガティブな理由、『死ねない理由』だ。だ、だからね? ぼくがそれになってあげようと思っているんだよ」
「えっと……つまり?」
「だから……!」
そのとき、屋上の扉の鍵を開けるガチャガチャという音が聞こえた。
「まずい、先生だ。隠れないと……って、おまえは必要ないんだったな」
そう言って隠れ場所を探そうとする由利の制服の裾を、亜流々が掴んだ。
「悪い亜流々、今は放してくれ」
「必要ない」
「はあ?」
亜流々は意を決したような顔で、由利を強く引き寄せた。体がよろめき、由利は座っている亜流々の上にのしかかるような格好で倒れこんだ。
「隠れなくてもいい。こうしていれば、きみも見つからないはずだ」
「ちょっ、いや待て、なんだこれ。柔らかっ……」
あまりの出来事に、一瞬理解が追い付かなかった。まず知覚できたのは顔面を覆う柔らかい感触と鼻をくすぐる甘い香り。そしてひとしきりもがいてからようやく自分の顔面が亜流々の胸に押し付けられていることに気付いた。そう、由利は亜流々に頭を抱え込むようにして抱きしめられていたのだ。
亜流々を振り払う暇もなく扉が開き、生徒指導の教師が屋上に踏み入ってきた。
「おおい! ここにいるのは分かってんだぞ! 出てこい!」
迫力満点の怒声を発しながら屋上を練り歩く教師。その視界には亜流々に抱きしめられている由利の姿が入っているはずなのだが、彼が由利に気付くことはなかった。
「……由利くん、きみはいったい何をしでかしたんだい?」
「むしろ、おまえが何をしてんだっ」
「おや、動揺しているね。やはりきみはお色気に弱いらしい。というのは置いといて、顔を離さない方がいい」
そう言って、再度顔を胸に押し付けられる。
「豊かな方ではないけれど、役得だろう? 少なくとも葛籠よもぎよりはあると思うよ」
「もがっ! むぐっ!」
「んっ……こら、喋るな。くすぐったいだろう。後で説明してあげるから、今は大人しくしてなさい」
それから教師が捜索を諦めて屋上を去るまでの時間は数分だったが、由利にはその時間がひどく短く感じられた。
「よし、行ったようだ。離れていいよ、由利くん」
「……え? ああ」
生返事を返すと、亜流々は可笑しそうに笑った。
「なんだい、名残惜しそうな顔をして。すっかり骨抜きかい? そんなにぼくのおっぱいが良かったとは意外だね」
「ち、違う」
「その割には顔が真っ赤だよ?」
「これは息苦しかったからだ」
「分かった分かった、そういうことにしておくよ」
そう言って肩をすくめる亜流々自身の顔も赤くなっていたのだが、それについて言及するのはやめておいた。気を取り直して、由利は真面目な顔を作る。
「……さっきのはどういうことだ? どうして俺まで認識されなくなった?」
「きみも概ね予想は付いていると思うけど、きみの顔をぼくの体で隠したのさ。前にも言ったと思うが、ぼくは幽霊とは違って、物質的には存在している。だからぼくのことを認識できないからと言って、ぼくの身体を透過してその向こうを見ることは出来ないんだ。ぼくがきみの机に座って黒板を見えなくしたのと同じように、あの教師からきみの姿を見えなくしたのさ。ただ非術者はぼくのことを認識できないから、あのようにきみのことも認識できなくなったという理屈だ」
要するにこういうことだろう。亜流々は由利の姿を隠すついたての役割を果たした。由利なら『亜流々が由利の視界を遮っている』ことを認識できる。しかしついたてそのものを認識できない非術者は、ついたての向こうごと認識できなくなってしまうということだ。
「いやでもおかしくないか? 亜流々が隠していたのは俺の顔だけだろう。それなら頭隠して尻隠さずってことにならないか?」
「顔だけ隠せば十分なんだよ。そうすれば誰もきみをきみだと認識できなくなる。ファッション誌とかに使われるような『顔を写さない写真』を見ても、写っているのが誰かなんて気にしないだろう? それと同じことさ」
亜流々は当然のように言うが、説明されてもその理屈はピンと来なかった。しかし現に由利は教師に見つからなかったのだから、亜流々の言っていることは正しいのだろう。
「……まあいいか。とにかく、また助けられたな。ありがとう」
由利が礼を述べると、亜流々は今さら照れたように口を尖らせた。
「まったくだ。やっぱりきみは、ぼくが一緒にいてやらなきゃダメみたいだね」
「そうみたいだ」
素直に認めると、亜流々は何故か顔を赤らめて「うぐっ」と声を漏らした。気に障ることを言っただろうかと思って、由利は話題を戻すことにした。
「そういえば、さっき何を言いかけてたんだ? 確か『死ねない理由』がどうとか言ってたような……」
「うぐっ。……そうだね、では話を戻そうか。単刀直入に言おう、ぼくがきみの『死ねない理由』になる。由利くん、どうかぼくのために生きてくれ」
一瞬、何を言われたか理解できなかった。そして理解してもなお信じられなかった。つまり亜流々は……まさか、いやしかし。
「……なあ、もしかしておまえ、俺が死ぬのが嫌なのか?」
確信が持てずに恐る恐る問いかけると、亜流々は爆発したようにまくし立てた。
「……っ! そうだよバカっ! 本当にきみは鈍感バカだな! 嫌に決まっているだろう! きみがいなくなったら困るんだよ! 寂しいんだよ!」
これまで見たこともないような亜流々の剣幕に圧倒されながらも、由利は何とか言葉を絞り出した。
「で、でもおまえ言ってたじゃないか。俺が死んでも関係ないって。そもそもおまえは世捨て人なんだろう?」
「そんな言葉を鵜呑みにする奴があるか! まさかこれまでの日々で芽生えた親愛は、ぼくの一方通行だったのかい? 言っておくけれどね、ぼくがこうなってしまったのはきみの責任なんだぞ。男だったら、逃げずに責任を取りたまえ!」
「だっておまえ、誓って嘘はつかないって」
「でもとかだってとか女々しい奴だなきみは! あんなの嘘のうちに入るものか! あんな言葉を信じるなよこの朴念仁! 中二病! むっつり! おっぱい星人! ロリコン! エロ漫画蒐集家!」
「言うほど持ってねえよエロい漫画。というか他はともかくロリコンの根拠は何だよ。おまえの中でよもぎはロリ扱いなのか?」
すっかり普段の調子を見失っている亜流々に呆れながらも、適度に突っ込みを入れる由利。いつも飄々としているように見えていた亜流々だが、実は相当鬱憤が溜まっていたようだ。
「はあ、はあ……すまない、少し取り乱していたようだ」
「少し……?」
「それで、返事は? ぼくはちゃんと言ったぞ。きみも正直に答えてくれ。ぼくの頼みは、きみの死ねない理由たりえるかな? この世に存在すらしていないぼくだけど、きみの意思を変えることは出来るかな……?」
亜流々は少しだけ不安そうに、俯きがちな上目づかいで由利を見てくる。
彼女は本当に不安を抱いているのだ。それこそ〈隠者の瞳〉で由利の心の中を覗いてしまえばいいというのに。あるいは、それが怖くてできないから、こうして直接答えを訊いてくるのかもしれない。そう思うと、目の前の少女がとてつもなくいじらしく、可愛らしく見えてくる。言うことは決まり切っていた。
「……馬鹿言え」
亜流々の身体がびくりと震える。全く、何を怖がっているのだろうか。
「存在しない? 今俺の目の前にいるじゃねえか」
「……! きみ以外にとっては存在しないのと同じだったとしても?」
「ああ。それはつまり、存在してるってことだろ?」
きっとこの愛おしさも、すぐに消えてしまうのだろう。それでも、由利はこの気持ちをきっと忘れない。忘れたくないと強く思った。そして、これまで感じたことのなかったこの感情こそが、由利の答えそのものだった。
由利は万感の思いを込めて、亜流々の潤んだ瞳を見つめた。
「……亜流々。俺は今、すごく嬉しいんだ。俺も亜流々と過ごす時間が好きだった。それでも亜流々はあくまで世捨て人だからって、自分の気持ちにブレーキをかけてしまっていたんだと思う。でも今、俺は亜流々の気持ちを知った。おまえの口から、聞きたかった言葉が聞けた。だからもう、強がったりはしない。俺は生きたい。生きて、これから先もおまえと一緒にいたい。……これが俺の答えだ」
「由利くん……!」
亜流々は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。そしてそんな自分を戒めるように顔をしかめると、いつも通りの口調でこう言った。
「まったく、誰がそんなことまで言えと言った。まるで愛の告白じゃないか。そういうのは生き残ってから言いたまえ。死亡フラグになってしまうじゃないか」
「……は? 愛の告白? なんのことだ?」
「照れるな照れるな。ま、まあ、ぼくも嬉しくないと言ったら嘘になる。しかしその気持ちは今日を乗り越えるまで秘めておきたまえ。……ぼくも、そうするから」
にやにやと力の抜けたような笑みを浮かべる亜流々に、由利は困惑顔でこう返した。
「……えっと、別に今のはそういうんじゃないというか、単純に今まで通りの日々が続けばいいって意味だからな?」
「……は?」
すると照れ笑いを浮かべていた亜流々の表情が、石膏像のように固まった。
「……ちょ、っと待ちたまえ。いくらなんでもそれはないだろう。今のはどう解釈しても、きみがぼくのことを好きだという意味にしか取れなかったんだけれど?」
「いや、それで合ってるぞ。でも、別に愛の告白とかじゃない。……まさかとは思うけど、本気で勘違いしてたのか? 俺をからかってるとかじゃなくて?」
「………………」
亜流々はぽかんと口を開けて絶句していたが、ふと我に返るといきなり高笑いを始めた。
「ふ、ふふっ、あはははははははっ! よ、よく見破ったね由利くん! きみも中々ぼくのことが分かってきたじゃないか。伊達にぼくにからかわれ続けてきたわけではないみたいだね。そうとも、今のはきみをひっかけようとしたのさ。このぼくがきみなんかをす、好きになるわけないだろう? もちろん観察対象として大いに関心を注ぐ対象ではあるけれどね!」
それを聞いて、由利はほっと胸を撫で下ろした。
「そうだよな。ったく、質の悪い冗談はやめてくれよ。こっちも勘違いしちまうだろ」
「ふ、ふふ。がっかりさせてしまったかな?」
「ああ。悔しいがかなりがっかりしたよ。けどよく考えたら、おまえにとって俺はゲームのキャラみたいなものだもんな」
亜流々に対し虚勢を張るのは無駄だと思い、正直に打ち明ける由利。実際、亜流々の反応にはドキッとしたし、薄々分かってはいたが、それでもからかわれていたと知ってかなり残念に思ったのは事実だ。
しかし何故だろう。一杯喰わされた由利よりも、由利の純情を弄んだ側であるはずの亜流々の方がどっと疲れたような顔をしていた。
「……それでは話を戻そうか。死ねない理由を見つけたところで、次は実際に生き残るにはどうすればいいのかという話に移るよ。まずは、当初の計画通り葛籠よもぎの願いを何とかして解消する。正直望みは薄いだろうけど、これさえ上手くいけば何も問題はないんだからね」
亜流々のどんよりした雰囲気に困惑しながらも、由利は思考を回転させる。
「でも、今日は肝心のよもぎが学校に来てないんだぞ? まさか家まで押し掛けるのか? よもぎの家がどこにあるかなんて分からないぞ」
「そんなのどうにでもなる。なんならぼくが職員室に忍び込んで、葛籠よもぎの住所を調べてやるさ」
「え、いいのか? おまえは直接協力しちゃいけないんじゃ」
「今更そんなことは言わないよ。この件に関しては、ぼくは全面的にバックアップする。……もう他人事じゃないからね」
亜流々は自嘲気味な、それでいてどこか満足げな笑みを浮かべた。
「問題は願いの解消が上手くいかなかったとき。つまり、穢霊が生み出されてしまった場合だ。そうなってしまったら、とにかく穢霊から逃げ延びることを考える。そして、ぼくはそれにも大いに協力できるはずだ」
「協力って、どうやって……あ」
「そう、さっきのやり方で、一時的にではあるがきみの存在を欺瞞することが出来る。とはいえできるのはあくまで隠蔽ではなく欺瞞。穢霊にどれだけ通用するかは分からないが、やってみる価値はあるだろう」
「どうして隠蔽ではなく欺瞞なんだ?」
「穢霊はぼくのことを認識はできるが、決して襲わないんだ。だからさっきの手段で、きみがぼくの同類であると勘違いさせるのさ」
「なるほど。……ところで、その欺瞞はさっきのやり方じゃないとダメなのか?」
「ふむん? どういう意味かな? もう少し具体的に言ってくれたまえ」
「いやだから……また押し付けるのかって意味だよ」
「押し付ける? 何を、どこに?」
「分かって言ってるだろおまえ……」
顔を赤らめながらも精一杯睨み付けると、亜流々は愉快そうに口角を吊り上げた。
「心配する必要はないよ。他にもやり方はある」
「そ、そうか」
ほんの少し残念に思いつつも、それを表に出さないように頷いておく。しかし亜流々の続く言葉は予想外だった。
「選ばせてあげよう。スカートの中に顔を突っ込むか、おっぱいに顔を押し付けるか、きみはどっちがいい?」
「どっちが……ってなんだよその二択! ……というかおまえはそれでいいのかよ?」
「きみの顔を完全に隠しきるためには、それくらいしか方法がないんだよ。ぼくだって恥ずかしいけれど、仕方ないと割り切っているのさ」
「……いや、それなら背中とかでいいじゃねえか」
「おお、その発想はなかったよ。確かにそれならぼくの腰つきを存分に堪能できるうえに、少し手を動かせば後ろからぼくの胸を揉むことが出来るね。いやあ由利くんの慧眼には恐れ入る」
「言っとくが、そんなつもりはないからな」
正直、どの部位であっても『亜流々の身体に顔面を押し付ける』というだけで平静を保てる自信は全くない。ましてどさくさに紛れて亜流々の体を触ったりするなど、たとえ本人が許容したとしても出来るわけがなかった。
お互いがすっかり普段の調子を取り戻したところで、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。どうやらずいぶん長い間話し込んでしまっていたようだ。
「では、話もまとまったことだし、さっそく行動に移そうか。まずは葛籠よもぎに接触する。差し当たってぼくは職員室に忍び込んで葛籠よもぎの住所を調べてくるから、きみはその間に学校を抜け出すんだ。落ち合う場所は……どこがいいかな。さすがに校門の前ってわけにはいかないし」
「それなら焼却炉の裏側にある穴の開いたフェンスの向こう側にしよう。あそこなら俺も抜け出せるし、教師に見つかる心配もない」
「ならそこにしよう。それじゃ、行くよ」
亜流々はそう言って踵を返し、スカートのポケットから鍵を取り出しながら屋上の扉に向かって歩いて行った。
由利もその後に続く。亜流々と一緒に階段を降り、そこで別れた。由利は教室に、亜流々は職員室に向かう。ちなみに踏み台にした机は撤去されていた。
教室に着いた由利は、クラスメートから向けられる奇異の視線に気付いた。そういえば、昨日の撫子とのやり取りは、結構な人数に目撃されていたはずだ。そして昨日の今日で今朝の奇行である。つまり今、由利は悪目立ちしてしまっているのだろう。
しかし以前ならともかく、今の由利にはその程度のことを気にする余裕も弱さもない。
由利の方を見ながら何やらひそひそと下世話な話をしているであろう女子に、「俺、今夜死ぬかもしれないんだぜ」などと言ったら果たしてどんな反応をするだろうか。
そんな愉快な想像が出来るくらいには、由利の内面は変わってしまっていたのだ。よもぎや、亜流々との出会いによって。
由利は迷いのない足取りで自分の席まで歩いていき、自分の鞄を引っ掴むと、何の後ろめたさもないような顔をして堂々と教室を出た。
それから例の『裏口』に向かう途中で何人もの生徒とすれ違ったが、その誰もがちらと由利に目をやるだけで、一度も声をかけられることはなかった。
不思議なものだ。ここにいる誰一人すら、由利の運命について一切関知することはないだろう。それどころか興味もないはずだ。由利はこれから、人知れず命懸けの戦いに挑むかもしれないというのに。それが由利には妙に可笑しく感じられた。
ほんの少し見方を変えれば、世界の在り方はがらりと変わる。たとえばクラスメートが一人増えていることに気付いたり、その子と友達になれたりもする。灰色の世界など、たった一つの出会いで色鮮やかに変わってしまう。この世界の何と忙しなく、絶望し甲斐のないことか!
そして由利は『裏口』に辿り着いた。以前ここを通ったのは、〈常夜〉とやらに迷い込んだときだ。あのとき由利は、ここを通ることでみんなと同じになれたような気がしていた。けれど今は違う。今の由利は、この学校にいる誰よりも特殊で劇的な非日常を生きているというのに、不思議と孤独感は全くなかった。
「おや、まだここにいたのかい」
背後から声がかかる。振り向くと、そこには亜流々が一枚の紙切れをひらひらさせて立っていた。
「葛籠よもぎの住所は調べてきた。きみの家からそう遠くない場所だ」
「早かったな」
「まあね。実はこうして調べ物をするのは初めてじゃないんだ。その経験がこうして役に立つとは思っていなかったけれどね」
亜流々はこともなげに言って、一足先に『裏口』に身をくぐらせた。由利がそれに続くと、亜流々が妙に嬉しそうな顔をしていた。
「隠れて学校を抜け出すというのもなかなか乙なものだね。ぼく一人では決してやらないようなことだし、ぼくにとっては何の意味もない行為だけれど……どうしてかな、きみといっしょにやるだけで、悪くないと思えるよ」
言ってから、亜流々はふいと顔をそむけた。どうやら自分で言ったことに自分で恥ずかしくなったらしい。
「……今のは忘れてくれたまえ。少しばかり口が滑った。さあ、行こうか」
「なあ、亜流々。実は俺も同じように思ってたんだ」
「う、うるさい! わざわざ報告しなくていいから!」
――〈常夜〉の訪れまで、残り九時間四十三分。




