第三話 逃げてなんていない
感想などいただけたらすごくうれしいです。
第3話 逃げてなんていない
神崎亜流々はこう言った。
「弱さから逃げることは出来ない。苦しみを体験するということは、そもそも自己を意識するということの始まりなのである」
◆◆◆
四日目の放課後、由利はよもぎとの約束通り、二人で空き教室を探すことにした。とはいえ、やはり放課後はほとんどの教室が部活動や同好会にすでに使用されており、すんなりと誰でも使える教室が見つかるということはやはりなく。人見知りのよもぎに代わって由利が教師に訊いて回ることになったのだ。
「だめだったね」
そして現在。家に帰る道すがら、よもぎが落胆しながら言った。すでに日は沈んでおり、それだけ探し回ったということでもある。しかし結果はよもぎの言うとおりだった。正確には、空き教室自体は見つかったのだが……
「まあ、理由がちょっとな……」
と由利。そう、空き教室を借りようとするにあたって、当然ながら『何に使うのか』を問われたのだが、それに対する答えを、二人は用意していなかったのである。
本当の事情をそのまま言うことはよもぎが嫌がるし、まさか「二人きりになれる場所がほしいので」と言うわけにもいくまい。とはいえ、少しでも口が達者ならば適当な理由をでっち上げて教室を借りる程度のことは容易だろう。要するに二人のコミュ力のなさが最大の敗因だった。
結局、空き教室を借りることは当面不可能ということになってしまい、今はこうして二人で歩いていたというわけだった。
ちなみに亜流々は用事があるとかで先に帰っていった。そもそも学校をサボったところで誰にも咎められることはないというのに、毎日遅刻せずに登校して授業も最後まで受けていくのには少し感心する。
「どうしよう、これじゃ場所がもうないよ」
由利の家を当てにしないようにしているのか、よもぎは本当に困った様子で腕を組みながら瞑目した。よほど深刻に考えているのか、眉間に若干しわが寄っている。
「空き教室にこだわらなくても、その都度探せば普通に人がいない教室は見つかるとは思うが……」
と由利が言うと、よもぎは露骨に――というには控えめだが、分かりやすく嫌そうな顔をした。
「それだとだれかに見られるかもしれないよ」
「……ま、そうだよな」
由利としては、二人で何か話しているところを目撃されたところで、よもぎが知られたくない秘密――よもぎが小説を書いているということがバレてしまうようなことにはならないだろうと思っているのだが、肝心のよもぎ本人が頑なである以上どうしようもない。
どうしようかと頭をひねっているうちに、由利の頭に一つ妙案が浮かんだ。
「なら、チャットとかはどうだ?」
「……ちゃっと?」
よもぎにはピンと来ていない様子だ。
「メールと掲示版を足したみたいなものだ」
その手のツールに詳しいわけではない由利の要領を得ない説明に、よもぎはわざとらしく頷いた。
「……ああうん、ちゃっとね。知ってる知ってる」
言葉の割に早口で、目も泳いでいる。どう見てもピンときていない反応だった。
ここで、由利の中にある仮説が持ち上がった。
「……なあよもぎ。もしかしておまえ、機械とか苦手なタイプか?」
「えっ。そ、そんなことないよ。たぶん。きっと……」
否定するものの、いつにも増して弱々しい口調でほとんど否定の体を成していなかった。前々からそんな気はしていたが、案の定というわけだ。
しかし、由利も携帯電話の機能などほとんど使いこなせないし、機械音痴なのはお互い様だ。よもぎばかりを辱めるのは本意ではないので、フォローを入れておくことにした。
「隠さなくていいよ。小説も全部ノートに手書きだし、アナログの方が性に合うんだろ? 俺もどちらかというとそういうタイプだから分かるよ」
よもぎのためを思っての言葉だが、これは慰めではなく本心だった。
「むう……」
機嫌を損ねるようなことは言っていないはずだが、よもぎが不満げに頬を膨らませた。
「なんか、ずるいよね、吾妻は」
そんなことを言いながら半眼を向けられ、由利は鼻白む。
「ずるい? 俺が? どうして」
本当に意味が分からなくて問い返すと、よもぎはわずかに唇を尖らせた。これは、拗ねたように見せようとしているのだろうか。しかし如何せん可愛らしすぎるので迫力は皆無である。
「吾妻はあたしのダメなところをいっぱい見てるくせに、あたしは吾妻のダメなところぜんぜん知らないんだもん」
「ダメなところって……そんなのあったか?」
由利が首をひねると、よもぎは何故か息巻いて自分の『ダメなところ』を羅列し始めた。
「たくさんあるよ。階段でころんじゃったこと、ひみつにしてた小説のこと、明るい人がニガテなこと……かぞえきれないくらい。あ、あと吾妻にはパンツも見られちゃったよね」
何故かよもぎはどうだ、と言わんばかりの顔を向けてきている。しかしそれらは到底欠点と呼ぶようなものではなく、由利はむしろ微笑ましい気持ちになった。とはいえよもぎは真面目に言っているらしいので、「あと、苦いコーヒーが飲めないこととかか?」と茶化すようなことはせず、代わりにこう言った。
「……最後はともかく、それってそんなにダメか? 俺はよもぎがダメだなんて思わない。誰だって転ぶときは転ぶし、小説は恥ずかしがるようなことじゃないし、俺だって透子のことが苦手だ。おまえが見たいっていうならパンツだって見せてやるよ」
「いや、べつに吾妻のなんて見たくないよ」
一番どうでもいいところにマジレスを返され、由利は若干気まずくなるが、それを振り払うように言葉を続けた。
「とにかく、あんまりそう自分を卑下するな。……そうだ、じゃあひとつ、俺の弱点を教えるよ」
「え? い、いいよそんな、無理しなくて」
よもぎは止めてきたが、構わず由利は告白した。
「実は俺、雷が苦手でさ。近くに落ちたりしたらそりゃもうみっともなく取り乱すんだ」
それを聞いて、よもぎの目尻がわずかに下がった。
「え、そうなの? なんだか意外」
「情けないだろ? といってもまあ、ほかの人だってこんなもんなんだよ、きっと。情けなかったり、格好悪い部分もある。でもそれを帳消しにするくらい良いところもあるんだ。……よもぎは、俺のことをダメだと思うか?」
「……ううん、ダメなんかじゃない。ありがとね、吾妻」
感謝の言葉とは裏腹に、よもぎの表情は浮かなかった。まるで痛みに耐えていることを気取らせまいとしているかのような痛々しい笑み――少なくとも由利にはそう見えた。
ふとした拍子に垣間見せる卑屈さといい、よもぎはきっと何かを隠している。由利は不安になった。
自分のよもぎへの気遣いは、もしかして間違っているのか? 知らず知らずのうちに言ってはいけないことを口にしてしまっていたのか?
不安のはっきりとした正体はわからないが、このままではよもぎの願いの核心に迫ることが出来ないであろうことはわかる。
亜流々には呆れられたが、由利とて手をこまねいているつもりはない。何とかしてよもぎの願いを解消――もちろん、願わくばよもぎにとって最良の形でだ――し、穢霊とやらの発生を防ごうとは考えている。若い身空で人生を終えてしまいたくはない。
しかし、それを抜きにしても、由利はよもぎの抱えている闇を晴らしてあげたいと思っていた。初めてできた友達に、打算抜きの好意と献身を捧げたいと思っていて、そんな自分に少し驚く。少し前までの自分に、今の自分の姿は想像すらできないだろう。
ずっと一人だった由利にとって、よもぎはいつの間にか愛おしい存在になっていたのだ。
「なあ、よもぎ。おまえさえ良ければだけど、明日はうちに来ないか?」
だからだろうか、気付いたら、そう口に出していた。
「えっ、いいの? あ……でも、迷惑じゃないの?」
「まあ、毎日は無理だけど、いい場所が見つかるまでなら、たまにはいいぞ」
実際、由利のほうに不都合はない。あるとすれば、よもぎの両親が心配するかもしれないということだが、もしそうなったら、それはその時考えればいい。
「……そっか。ありがとね、吾妻」
よもぎはそう言って笑った。
ほころぶようなその笑顔は、きっと本心からのものだと思った。
◆◆◆
「……なあ、よもぎ。このキャラクターについてなんだが」
その後、自宅によもぎを招待して小説に目を通していた由利は、あることに気が付いた。
「ん、誰のこと?」
ココアをすすっていたよもぎは、マグカップを置くと身を乗り出してきた。
「この姫様――ディアンヌなんだけど、こいつは結局主人公の敵なのか? 味方なのか?」
ディアンヌ・トゥース・ウィスタリア。作中に登場するウィスタリア王国の第一皇女であり、聖剣を手にしたアルテミシアに深く関わってくる人物なのだが、実はアルテミシアの腹違いの妹なのである。
タイトルに『姫騎士』とあるように、主人公のアルテミシアは赤ん坊の頃に捨てられていたところを育ての親に拾われて普通の村娘として暮らしていたのだが、実は王家の血を引いており、ディアンヌの母である妾の謀略により死んだものとされていたのである。しかし聖剣の使い手に選ばれたことをきっかけに、国を脅かす魔物と戦いながら自身の出生の秘密を解き明かしていく……というのがメインのストーリーだった。
公には第一皇女で通っているディアンヌは、アルテミシアが本来の第一皇女であることに気付いており、アルテミシアが活躍するのを快く思っていないため様々な嫌がらせをしてくるのだが、アルテミシアはその嫌がらせの数々を意に介さないどころか、時にはその嫌がらせが結果的にアルテミシアにとってプラスに働いてしまっているという、やや空回り気味なキャラクターであった。
「敵か、味方か……」
よもぎは口元に手を当てて考え込んでしまった。つまり、彼女の中でもはっきりしていないのだ。
アルテミシアは自覚していないが、王家に伝わる伝承では聖剣を扱うことが出来るのは王家の血を引いた者のみだとされている。つまり聖剣に選ばれた少女がいるという事実そのものがディアンヌの立場を脅かすのである。
そのためディアンヌはアルテミシアに刺客を差し向けて聖剣メルクリオンを奪おうとしたり、他の聖剣をアルテミシアより先に確保しようとしたり、王都にアルテミシアの情報が届かないように工作したりするのだが、そのどれもが裏目に出てしまう。
アルテミシアから見れば運命の導きのように物語は進んでいくのだが、読者から見るとディアンヌが狂言回しとして話を展開していくという構図だった。
ここまで見ればディアンヌというキャラには一貫性があるように見えるが、読んでいて由利は違和感を覚えた。
キャラクターの性格や、行動には確かに一貫性があるのだが、彼女に関する描写は場面によって違う印象を与えるのだ。
あるときはいい人のように描かれ、あるときは悪人のように描かれる。またあるときは美しく描写され、あるときは醜く描写される。
だから、読んでいてディアンヌをどういう人物かをいまいち理解することが出来ない。
小説は三人称形式で書かれているため、ディアンヌの心理描写がないこともそれに拍車をかける。言い換えると、作者であるよもぎがディアンヌをどのようなキャラとして見せようとしているのかが掴めないのである。
もちろん、意図してそうしているという可能性もあった。人間の多面性を表現していると言われれば、由利はそれを信じただろう。
だが、よもぎははっきりした答えを返さなかった。それはつまり、この違和感が意図したものではなく、偶発的に生まれてしまったものであるということだ。
それは何故か? よもぎ自身が、このディアンヌというキャラクターをどう扱えばいいのか分からないからではないだろうか。
「まあ、アルテミシアが捨てられたことに関しては、ディアンヌは悪くないんだよな……それに第一皇女として生きてきて、いきなり本物の第一皇女が現れたとなったら、自分の居場所が脅かされると思って排除しようとしてもおかしくはない……よな」
ディアンヌの言動の是非はともかくとして、気持ちは理解できる。むしろ、それを描写する側の立ち位置が、場面によって二転三転しているような印象を受けた。
しばらく考え込んでいたよもぎが、顔を上げて口を開いた。
「ディアンヌは、悪役ではない……とおもう。それまでお姫さまとしてうまくやってきて、人々からも人気があるし、ただの村娘として育ってきたアルテミシアよりもお姫さまにはふさわしいんだけど、聖剣をとって戦うことができるアルテミシアに居場所をうばわれるんじゃないかって不安になってるだけだもん」
よもぎの言うことは、おおむね由利の見解と一致していた。
「ちなみに、これからの展開でディアンヌはどうなるんだ? あくまでアルテミシアの妨害を続けるのか、それともアルテミシアと和解するのか……」
由利としては後者が自然だとは思うが、まずはよもぎの考えを聞いてみることにする。
「うーん……じつは、そのへんは考えてないんだよね」
「そうなのか?」
「うん。べつに、ラノベの新人賞に応募したりするつもりもないし、あくまで趣味でノートに書いてるだけのものだから。きっとなるようになると思う」
そういえば、よもぎがどんなつもりでこの小説を書いているのか、改めて聞いたことはなかった。しかし、つれづれに妄想を書き綴っている一方で、ただの趣味で書いているにしてはずいぶん気合が入っているような気がした。
「……なんだかもったいないな」
気付いたら、由利はそう声に出していた。
「もったいない? どうして」
よもぎは意外そうな声を上げた。
「よもぎは、作家になりたいとは思わないのか? 別にこの小説で応募しろって言ってるんじゃなくて、一つの目標として」
思えば、小説を書く動機やモチベーションに関する話は、今まで意図的に避けてきた。
あの階段での出会いのときから、よもぎ自身はそもそも小説を書いていること自体決して知られたくないようだったし、ましてや不特定多数に読ませることなど考えていないのだろうと考えていた。
だが、亜流々の言葉ではないが、自分が創作したものを誰かに知ってもらいたいという気持ちは、きわめて自然で当然のものではないだろうか。由利という理解者を得て喜んでいたことからもわかるように、彼女も作品に対する共感を心のどこかで求めていたとしても何もおかしくはない。
由利の問いに、よもぎは虚を突かれたような顔をした。
「……考えたことがないわけじゃないよ。好きなおはなしを書いてくらしていけたら素敵だろうなって思う。でも……」
よもぎはそこまで言って口を噤んでしまった。明らかに何か言いたいことがあるのに我慢しているように見える。
「でも、なんなんだ?」
務めて優しく、由利は先を促した。しかし、よもぎはゆっくりとかぶりを振るだけでそれ以上話そうとはしなかった。
「……ごめんね、きょうはもう帰るよ」
そう言って帰り支度を始めるよもぎを、由利はなぜか寂しい気持ちで見つめていた。引き留めるようなことはしないし、してはいけない気がした。それは穢霊の発生を防ぐためだとか、そんな理由ではなく、単純に彼女の意思を尊重したかったからだ。
「じゃあな、よもぎ。次に話すのは、月曜日かな」
靴を履いているよもぎの後ろ姿にそう言うと、よもぎはどこかほっとしたような顔で振り向いた。
「うん。それじゃあまた、学校で」
遠ざかるよもぎの背中を見送りながら、由利は思う。きっと彼女もいろいろなことを考えて、その中で揺れているのだろう。その葛藤すら、自分には眩しいもので。だからこそいつか、胸を張って小説を書けるようになってほしいと、そんな風に思った。
四日目終了。
――〈常夜〉の訪れまで、残り三日。
◆◆◆
「……おい、どうしておまえがここにいるんだ」
土曜日、昼過ぎに起きた由利が見たのは、当然のような顔をして由利の部屋で漫画を読んでいる亜流々の姿だった。
「あ、おそよう由利くん。お邪魔してるよ。ところでこの漫画妙にエロいんだけど、やっぱりきみもこういうの好きなのかい?」
「どうしてここにいるんだ。鍵はどうした?」
「大丈夫、玄関はちゃんと施錠されていたよ。ぼくはただお風呂場の窓から入って来ただけだ」
「おいそれ不法侵入」
浴室やトイレの窓からの侵入は、空き巣の常套手段である。
「ついでにひとっ風呂浴びさせてもらったよ。といってもシャワーだけどね」
「ふてぶてしいなおまえ」
「きみんちのシャワー、お湯が出るの遅いよね。もっと良いのに変えた方がいいんじゃないかい」
「しかも盗人猛々しいときたもんだ」
確かに、よく見ると髪がしっとりとしていた。肌も潤っていて、普段より血色もよく、途端に色っぽく見え始める。
気取ったような口調や由利をからかうのが好きな性格のせいで普段は意識しないが、改めて見るとやはり亜流々は器量良しだ。そんな少女と密室で二人きりという状況に、不本意ながら心臓が早鳴る。
「さて、ここにお風呂上がりのぼくの体を拭いたタオルがある」
「いや、話聞いてくれよ」
由利の言葉を徹底的に無視し、亜流々は椅子に掛けてあったタオルを手に取った。由利は仕方なくこう訊ねる。
「……そのタオルが何なんだよ?」
「欲しいかい?」
亜流々は目を細めながら、そんな意味の分からないことを言った。
「いや、元々うちのだろ」
由利の至極当然の突っ込みは、やはり亜流々には届かない。
「きみが欲しいっていうなら、あげてもいいよ」
「いやだからそれは」
「何に使ってもいいんだよ?」
その言葉に、由利は思わず生唾を飲み下した。亜流々の言わんとすることを理解したのだ。どうせからかわれているのだろう。その反応は彼女の思う壺だと分かっていても、身体は正直だった。
「どっ……どういう意味だそれは? 濡れたタオルなんて、乾かさなきゃ使えないだろ?」
「ふふ、かまととぶらなくてもいいんだよ、由利くん。ぼくの濡れた身体を余すことなく拭いて、ぼくのこの肢体に滴っていた水滴を多分に吸ったこのバスタオル……欲しいとは思わないかい?」
「な、何言ってんだよ。からかうのも大概にしろ」
「ふふ、顔が真っ赤だよ? きみの動揺と興奮が目に見えるようだ。まったく、身体は正直ってやつだね。こんなにガチガチになっちゃって……」
念のため補足しておくと、『ガチガチになっ』ているのは由利の全身であり、あくまで緊張のせいで硬直してしまっているだけのことである。
「ほら、もうこんなに大きくなってる……」
もちろん、『大きくなってる』のは由利の瞳孔である。この状況において、大きくなる可能性があるのはここだけだ。
「あんっ、こんなにビクビクしちゃって……やせ我慢はしなくていいんだよ?」
言うまでもないだろうが、『ビクビクし』ているのは由利の態度のことだ。亜流々があまりに訳の分からないことばかり言うので、思わず委縮してしまうのも無理はないだろう。
「きみの葛藤が見えるよ。自分に言い聞かせなきゃタガが外れてしまいそうなんだろう? この、むっつりすけべさんめ」
最後の囁くような言葉が由利の脳髄を揺らし……どこかから、『プツン』と何かが切れたような音が聞こえた気がした。
「いっ、いい加減にしろぉぉぉっ!」
そして、ついに我慢の限界がやって来る。由利はベッドに上ってきていた亜流々の身体をはね飛ばし――部屋の隅で縮こまりながら亜流々を睨み付けた。
「あ、あれ? もしかして、やりすぎたかな。なんだか立場が逆のような……」
苦笑交じりの亜流々の言葉は、もはや由利には届いていなかった。暴漢から逃げ惑う生娘のような怯えに満ちた目を由利に向けられ、さすがの亜流々も反省したのか、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……で、どうしてあんなことをしたんだ?」
一分もすると、由利は落ち着きを取り戻して、亜流々を正座させて詰問していた。ついさっき声を荒げて亜流々から逃げ惑っていたとは思えない冷静さである。
「いや、実はちょっと気になることがあってね」
「その気になることってのは何なんだ?」
「うん、由利くんも思春期男子らしくエロいことに興味があったりするのかなって――ごめん冗談だ。だからそんな突き刺さるような視線を向けるのはやめてくれたまえ。ちょっとドキドキしちゃうから」
「……なんだよ、はぐらかそうとするなんてらしくないぞ。ちゃんとした理由があるんだろ? おまえが理由もなくあんな痴女みたいな真似をするとは思えない」
すっかり調子を狂わされた由利が、頭痛をこらえるような顔でため息交じりに問いかけると、亜流々は観念したように語り始めた。
「えっと、簡潔に言うと、きみを動揺させようとしたんだ。誘惑したのは、あくまでそのための手段というか、葛籠よもぎに迫られてドギマギしていたきみを見て、こうするのが一番効果的だと思って……」
「そうだったのか。まあ、そういうことならおまえの悪戯は大成功だよ。あんなに動揺したのは記憶を失って以来だ」
「……悪戯なんかじゃ、ないよ」
「なに?」
亜流々は、柄にもなく神妙な顔をしていた。それを見て、由利も少し身構える。
「きみを動揺させようとしたのには、理由がある。どうしても確かめたいことがあったんだ」
「確かめたいこと?」
「きみの感情がどこに消えているのか――ぼくはそれを確かめたかったんだ」
亜流々の言っていることは、いつものごとくよく分からない。しかし、今の亜流々からは普段のような煙に巻く雰囲気も、わざと冗長かつ難解な説明をして由利を困らせようとする雰囲気も感じられなかった。
つまり、彼女は大真面目に言っているのだ。『由利の感情が、どこかに消えてしまっている』と。
「意味が分からない、という顔だね。まあ無理もない。ぼくですら信じられないくらいだ。だけど、そうとしか考えられない。きみの精神には、きみ以外の何かが巣食っている」
「な、なんだよそれ。どうして急にそんなこと」
「急じゃないさ。初めてきみと言葉を交わした時から、きみの異常性には気が付いていた。初めは、記憶喪失のせいで社会性の構築が不完全なのかと思っていたよ。けれど違った。きみはぼくや葛籠よもぎと問題なくコミュニケーションが取れるし、人格的に際立った問題点があるわけでもない。ただ一点、あらゆる感情がすぐに消え去ってしまうという点においてのみ、きみは異常なんだ」
初めて教室で会話した時のことを思い出す。たしかに亜流々は、由利が妙に物わかりの良いことを訝しんでいた。しかしそれは、単純に由利がそういう性格だというだけではないのか?
しかし、亜流々はその考えを否定した。
「……違う。少なくとも、そうでないことだけは断言できる」
「どうして」
「初めて教室で言葉を交わしたあのときから、ぼくは〈隠者の瞳〉できみを霊視してきた。つまり、物質的な姿とはまた別の、きみの本質とでもいうべきものを観察していたんだ。そして気付いた。きみの霊魂、精神、意識、あるいはクオリア――そうしたものが生み出すエネルギーが、すべて何かに吸い取られていることに」
「……それは何かまずいことなのか?」
「あり得ないんだ。きみの感情、つまり精神の揺らぎとそれに伴って発生する形而上的なエネルギーは、きみだけのものであるはず。神さまですら人の魂を奪うことができないのと同じように、きみの感情をきみ以外の何物かが支配しているだなんてことはあってはならないんだよ」
亜流々の言葉の端々から否定的なニュアンスを感じ取り、由利は崖から突き落とされたような浮遊感を覚えた。
つまり、なんだ。吾妻由利は精神的に異常だということか。空っぽの人間だと、そう言いたいのか。
知っている。そんなことは知っている。自分が欠陥品であるという事実は、これまで嫌というほど見せつけられてきた。
でも、亜流々。おまえまで、そんなことを言うのか。不完全な俺では……だめなのか?
怒りが、悲しみが、心の底から湧き上がってくる。そして――すぐにそれも収まってしまった。走っている車が、慣性を無視して停止するかのように。波打っていた水面が、突然鏡のように凪いでしまったかのように。
やはり、これはおかしいことなのか。由利の感情は、由利以外の何者かによって制動されているということなのか。
由利は本当に、由利自身の意思で生きていると言えるのだろうか?
そうした葛藤の苦しみすら嘘のように消え去り、由利は極めて平常な精神状態で口を開いた。
「……俺は、おかしいのか? 気持ちが悪いのか?」
亜流々が息を呑んだ。
「俺はさ、きっとおまえやよもぎのことが好きなんだ。そんな相手にきみは異常だとか、きみの在り方はあってはならないとか言われたら、普通は悲しんだり、怒ったりするよな。……でも俺、なんともないんだ。もしかしたら、傷ついてすらいないのかもしれない。もしかして、俺はおまえのことを好きなんかじゃなかったのかな? 好きだったらいいなとは思う。だけど自分じゃ、そんな簡単なこともわからないんだ。やっぱり俺は、どこかおかしい――」
「――おかしくなんかない!」
由利の自嘲的な独白は、亜流々の悲鳴に近い叫び声によって遮られた。
「ごめんね、ぼくのせいだ。言い方が悪かった。きみの気持ちも考えず、知識をひけらかすように、ひとりよがりに話してしまった。でも、これだけははっきり言えるよ。ぼくはきみのことを、その……興味深い対象として見ている。あ、いや! 興味深いというのはなにもきみの異常性を面白がっているとかではなくてだね! きみが自分を卑下する必要はないという意味で」
「ちょ、ちょっと落ち着け。らしくないぞ」
「き、きみの方こそらしくないよ! あ、いや、ぼくがそうなるように仕向けたんだけども! とにかく、きみはおかしくなんかない。きみの異常性には、れっきとした理由があるんだ。それについて確かめたくて、きみを試すような真似をしてしまったのは、本当にすまないと思っているけれど……」
「……どういうことなんだ? 理由が分かったらどうなるんだ?」
「まず結論を言おう。きみが感情を失ってしまったのは、きみのせいではないんだ」
その説明でははっきりとしたことは何もわからない。しかし、その言葉は由利が最も欲していた言葉だった。
きみのせいではない。身も蓋もない話だが、それだけで由利は楽になってしまった。亜流々にそう言われただけで、由利の心は少なからず救われたのだ。そして、救われたという事実そのものに、由利は安心した。自分にも救いを求める心があったことを実感することができたからだ。
「そもそも、おかしいと思わないかい? きみは本当の意味で感情を失くしてしまったわけじゃない。えっちな漫画も読むし、ギャルゲーにやきもきもするし、葛籠よもぎの庇護欲を刺激する愛らしさにときめいたり、ぼくの色気にくらくらしたりもする。ただ、それがすぐにフラットな精神状態に戻ってしまう――それがきみの症状だ」
「……いや、もうちょっとこう、他にあるだろ。俺に感情がある根拠」
亜流々の言い方ではまるで由利が女の子に対する感情しか持っていないようにも聞こえる。一応突っ込みは入れてみたものの、どうせわざとやっているのだろう。いつもの調子を取り戻し始めたようで少しだけ安心する。
「きみの異常の原因――それが何なのか、実はぼくにも正確には分からなかった」
「え?」
妙な話だ。亜流々の〈隠者の瞳〉には、神に近い視点から世界を俯瞰する眼力が備わっているはず。それでも正体が分からないということは……
「つまり、きみの異常の原因には少なくともぼくと同格の存在――〈法術者〉が介在しているということだ。アクティブな術による干渉を受け続けているのか、術の影響によってきみの精神そのものが変質してしまったのか……そこまでは分からないけれど」
「……つまり、どういうことなんだ? どうすれば改善できる?」
そう、由利にとって理屈はどうでもいい。肝心なのはどうすれば由利の異常性を治すことができるのか、ということだ。
しかし、亜流々は申し訳なさそうに顔を伏せてしまった。
「それは……現時点では分からない。ただ、きみが記憶を失っていることとも、何か関係しているように思うんだ」
記憶の喪失。それは今の由利について語るうえで欠くことはできない要素だ。しかし、言ってしまえば普遍的な異常である記憶喪失が、オカルトじみた今の話に関係しているとは思えないのだが……
だが、亜流々はそれをきっぱりと否定した。
「そう決めつけるのは早計だ。そもそも、その記憶喪失自体、単なる疾患には思えない」
「どうしてだ?」
「ぼくはきみの失った記憶がどんなものか見ることはできないけれど、例えばきみが忘れてしまった記憶を見ることはできるんだ。これって何かおかしいと思わないかい?」
「まあ、確かに。……つまり、記憶喪失は単純にものを忘れるのとは違うってことなのか?」
「そう。ぼくが気になっているのはまさにそれなんだよ。ぼくが出会った記憶喪失の人間はきみだけだけど、この事実には何か意味があると思うんだ。実はすでに一つ、仮説を立てているんだけれど……」
そこで亜流々は言いよどんだ。いまさら何を逡巡することがあるのだろうか?
「大丈夫だ、言ってくれ」
「……さっきは『記憶を見る』と言ったけれど、厳密に言うと〈隠者の瞳〉が見るのは記憶じゃなくて歴史なんだ。再三言ったとおり、たとえ神さまでも人の魂や心を自由にすることはできない。記憶を見るということはその人の感情や意識に干渉するのと同義だから、ぼくにも不可能というわけだ。つまり、ぼくは対象の主観的な過去すなわち記憶ではなく、客観的な過去すなわち歴史を見ているということになる。本人が忘れたことも見ることができるのはそのためだね。となると、きみが記憶を失った以前の歴史を見ることができないのは、理屈に合わないと思わないかい?」
「俺が覚えているかいないかは関係なく、『俺が何をしていたか』を知ることは可能なはず……ってことだよな?」
しかし、実際はそれが出来なかった。この事実が意味するところとは、いったい……?
「仮説というのはね、つまり今のきみと記憶を失う以前のきみは、本質的には別人ということになるのではないか、ということなんだ。そうすると、きみの過去を見ることができないことも辻褄が合う」
別人。そう言われると、何故か胸がざわついた。深く考えることを放棄しそうになる。
自分は、恐れているのか……?
「この仮説自体は、オカルトは関係なく普遍的に取り扱われるテーマだよ。例えば、『多重人格者のそれぞれの人格は、独立した精神であるか』という話にも似ているね」
無理にそうしているような、平易な口調で亜流々は語り続ける。
「……つまり、記憶を失ってからの俺の人格は、それ以前とは別のものだってことか?」
「少なくとも君の場合はそうなんだろう。かといってきみに解離性同一性障害があるわけではない。したがって、複数の人格が同時に存在するのではなく、あくまで中身が入れ替わっただけと捉えることもできる」
分かりやすいような言葉を選んでくれているのだろうが、その言い方は少しだけ心が痛んだ。
「……じゃあ、元の人格は、どこに行ったんだ?」
情けないことに、由利はそれを訊くのが怖くて仕方なかった。
何故なら、その答えによっては決して消えることのない業を背負うことになるかもしれないからだ。
そんな由利の懊悩を汲んだのか、亜流々は柔らかく優しい笑みを浮かべる。
「……そもそも、これは単なる記憶や脳の問題じゃない。それ以上に複雑で、抽象的な話なんだ。仮にきみが元の人格を押しのけたんだとしても、元の人格が綺麗さっぱり消えてしまったわけではない……という可能性もある。極端な話、仮に消えてしまったとしても、それすら元に戻してしまえるような方法があるかもしれない」
それは単なる慰め……ではないようだった。由利には想像すらできないが、この世界はただの人間が見ている『世界』ほど狭くはないらしいということなのだろう。
なぜか由利は、かつて見た映画を思い出した。宇宙人が出てくる映画である。
その映画のラストシーンはこうだ。まず地球、次に太陽系、銀河系、全宇宙と、無限の広さを持つ空間を映していく。しかし最後にはその無限に等しい空間ですら、その外側にある世界の中では一粒のビー玉に過ぎなかったのだと分かる……そんな内容だった。
どうしてこんなことを思い出したのだろうか。亜流々の瞳が、宇宙を内包するビー玉のように見えるからだろうか?
その瞳の深遠な輝きを見つめているだけで、自分の悩みなどどこか遠くに行ってしまうような気がした。
「……どうしたんだい? 急に黙りこくってしまって。もしかして、ほんとにむらむらしてきちゃったのかな?」
「しない。してない。……まあ、少しは安心したよ。ありがとう」
「うん。素直にお礼が言えるのはきみの美点だね」
などと、したり顔で頷く亜流々に由利は内心で感謝しながらも、不満な振りをして見せた。
「さて、それじゃあ話を進めようか」
だが、亜流々がそんなことを言い出したので目を丸くした。
「進める? この先があるのか?」
「もちろん。きみの記憶喪失を直ちにどうにかする方法は分からないけれど、その糸口となるかもしれない話だ」
「……そんな話があるなら、もっと早く言ってくれよ」
半ば脱力気味に半眼を向けるも、亜流々は肩をすくめてこう言った。
「おいおい、そこはぼくなりの優しさ、配慮というものだよ。それともきみは、さっきの話をさらっと流して次の話に移ることが出来たと思うのかい?」
由利は黙り込む。反論のしようもない。さっきの亜流々は由利の心情に最大限配慮して言葉を選んでいたのだろうが、それでも激しく動揺せざるを得なかったのだ。ましてやそのまま淡々と話を進められていたら、まともに話を聞けた自信はない。
そんな由利に対して何を言うでもなく、亜流々は滔々と語り始める。
「さっきも言ったとおり、きみの感情は『何か』に奪われている。それは源泉を抑えられているというよりは、むしろ湧いたそばから横取りされているような感じだ」
確かに、一度は発生したはずの感情が、まるで何かに吸い取られるようになくなってしまっているような感覚がある。それは、本来ありえない感覚のはずだ。
「問題はその『何か』が何であるのか、ということだ。さっきも言ったとおり、この『何か』はおそらく〈権能〉――少なくとも〈法術〉の領域にある存在だろう。……そこで質問なんだけど、きみ、何か隠された力とか持ってないのかい?」
「なんだそのあいまいな質問」
そんなものがあったら嬉しいし、よもぎも喜んでくれそうだが、あいにくそんな伝奇じみた特殊能力は持ち合わせていない。そもそも、隠された力なら自分でも分からないだろうに。ピンチになったら都合よく覚醒したりしてくれるとでもいうのだろうか?
それを伝えるも、亜流々は納得したわけではなさそうだった。
「うーん……でも、それって少しおかしいんだよ。だって、それならきみの感情はどこに行ってしまったんだい?」
「どこって……それが分かれば苦労はないだろう」
「いや、そういう意味じゃなくてね。もちろん行方が分からないというのもそうなんだけど、それ以上に影響がないというのが不自然なんだ。仮にきみの感情がすべてどこかに保存されているとするなら、それはそれだけで理術や法術に匹敵するような莫大な霊力だ。それだけ大掛かりな術のはずなのに、きみからは何の力も感じられない。何らかの術の影響下にあるようにも見えない。つまり、見ていてとてもアンバランスなんだよ。だからぼくはこう思ったんだ。その『何か』はきみの感情を片っ端から奪って溜め込んで、それをいったいどうするつもりなんだろう、とね。そしてこうも思う。何故きみなのか、と」
今の亜流々は、いつもと違って必要な情報を過不足なく伝えてくれているのだろう。それは彼女のいたって真剣な表情からも分かる。だが……
「すまん、術とか霊力とか、俺にはやっぱりピンと来ないよ。そういう力を感じたこともない。だから本当に分からないんだ。せっかく真剣に考えてくれているのに……」
心の底から申し訳なく思って、由利はこうべを垂れた。
だが、さっきの言葉に一つだけ共感できる箇所があった。それは『なぜ由利なのだろう?』というところだ。記憶喪失に関係があるのだとしたら、記憶を失う前の由利の因果が、今の由利にこうして報いてきたことになる。もしそうなら、いくら考えても今の由利に心当たりがあるはずもないのだ。
しかし、由利の記憶や感情を巡る問題がどうなるのかはわからないが、どうなったとしてもそれだけは知らなければならないような気がした。
「……いや、ぼくの方こそ、また冗長に話し過ぎてしまったね。独りよがりなのは、ぼくの悪い癖だ」
亜流々が自嘲気味にそう言って、この話はここで終了となった。
「それはそれとして話を戻すんだけど、この法の網をかいくぐったかのような過激な性的描写のある漫画について訊いてもいいかな? こういうの好きなの? 感情ないのに? やっぱりむっつりスケベなの?」
下衆な笑顔を浮かべながらしつこく追究してくる亜流々にうんざりしながら、由利は休日を過ごすのだった。
ちなみに、肌色の多い漫画や雑誌は嫌いじゃない。次からは隠しておくことにする。
五日目終了。
――〈常夜〉の訪れまで、残り二日。
◆◆◆
日曜日。今日は起きたら亜流々が部屋にいた、ということもなかった。そもそも昨日の不法侵入自体、目的のためとはいえ不本意な行為だったようだし、そうそうあんなことが起こったりはしないだろう。
したがって、一人きりで過ごす一日になりそうだった。
久しぶりに一人の時間を取れた、という見方も出来る。もともと由利はどちらかというと一人でいる方が好きなタイプなので、良いリフレッシュになるだろう……と思っていたのだが、予想に反してその日はずっと妙なフラストレーションを感じ続けることになった。
いつの間にか、誰かと一緒にいることが楽しいと思い始めていた。
亜流々の皮肉げながらも親しげな笑顔が見たい。
よもぎのたどたどしくも熱心な語りを聞きたい。
それは由利にとっては不思議な感覚だった。しかしその感覚の正体は誰もが知っている。由利は初めて、心から『寂しい』と感じたのだ。
四年前――由利が透子の元を離れていったとき、こんな風に寂しくなったりはしなかった。なっていたはずがない。もしそうなら、当時の自分には耐えられなかっただろうから。
今と当時、いったい何が違うのだろうか。その答えを無意識に求めて、由利は過去に思いを馳せた。
母親いわく、由利は小学六年生の冬に街中で倒れていたのを保護されたらしい。そして、目覚めた時には記憶を失っていたのである。
一応そのときのことは由利自身も覚えている。病室で目を覚ました由利が最初に見たのは、自分が寝ているベッドに縋り付くようにして寝息を立てている知らない女性の顔だった。
その後、母親らしい女性と医者の説明によって、『心因性の逆向性健忘』――俗にいう記憶喪失が自分の身に起こったらしいことを理解した。記憶喪失は一時的なものだろうと言われた。
健康上の問題はなかったが、大事をとってしばらく入院することになった。透子と初めて顔を合わせたのはこの期間である。
母を除けば最初にお見舞いに来てくれた透子という一つ年上の幼馴染みは、とても可愛らしく、よく気が利き、そのうえ礼儀正しく心優しい少女だった。透子は退院するまでほとんど毎日病室にやってきて、いろいろな思い出話をしてくれた。『はやく由利くんの記憶が戻るように』と言って。
退院するまでそれは続いた。話す内容は尽きず、相槌を打ったり質問したりするたびに透子が嬉しそうにするので、きっとこれは良いことなんだと思った。
そして恐らくこのときの由利は、透子に対して淡い好意を抱いていた。今となってはこの秘密は墓まで持っていくつもりだが。
一週間ほど経っても記憶はまったく戻らないままだったが、由利は退院することになった。自宅で療養した方が記憶も戻りやすいでしょうという医師の提案に、何故か母だけが気の進まなそうな顔をしていた。
ある日曜日、お世話になった医師や看護師に挨拶をして、由利は退院した。母に手を引かれ、帰り着いた家には、先客がいた。先客は男性で、由利の顔を見た途端激昂して由利のことを叩こうとした。
反射的に目を閉じた由利を、母が庇って代わりに叩かれた。母の言葉の内容から、母を叩く男性が由利の父親であるらしいことを知った。そのときになって初めて、一度も父親がお見舞いに来ていなかったことに気付いた。今にして思えば、日曜日なのに父が迎えにも来ないのはいささか不自然だが、由利はこの瞬間までそれに気づかなかった。
その後、泣きそうな顔をした母親によって寝室に押し込められた由利は、ドアに聞き耳を立てた。すると、生物学的には由利の父親で、法律上は母の配偶者であるはずの男性の怒声が絶えることなく聞こえてきた。
ドアの向こうで母をなじり、由利の病状を嘆く父の叫びは、由利にとっては怪物の咆哮に聞こえた。そのおぞましい鳴き声のせいで、由利はしばらく夢で魘されるようになった。それがトラウマになり、今でもヒステリーを起こす人が怖くて仕方がない。そういう意味でも、雷が落ちるのが怖かったのだ……というのは、人に言うにはつまらなすぎる冗談だろうか。
そして、退院を提案されたとき母が浮かない顔をしていた理由を、由利はこのときようやく理解した。
もともと、両親の仲は冷え切ってしまっていたらしい。離婚した後に母から聞いた話では、父に不仲の原因があるように思えたが、父を責める気持ちを持つことはなかった。というより、もはや父親だった男性に由利は欠片ほどの興味も抱いていない。今では顔も思い出せないほどだ。思い出したくもない。
不仲から離婚に至る詳しい経緯は割愛するが、どうやら由利の記憶喪失――というより深夜の街中で倒れていたことがとどめとなったらしい。もちろん母がそう言ったわけではないが、由利は父の言動の端々からそれを察した。
なんにせよ、由利の両親は離婚し、由利は母親の旧姓である『吾妻』を名乗ることになった。記憶がないため苗字が変わってもほとんど違和感がなかったのは、皮肉な幸いと言えるだろう。
母は現在でも由利に当時のことを謝ることがあるが、むしろ謝るべきなのは由利のほうだ。二人にはまだやり直すチャンスがあったかもしれない。それを潰したのは他ならぬ由利だ。由利の記憶喪失によって、取り返しがつかないほど状況がこじれてしまったのだから。
そんな時期の離婚だったからこそ、母は父から多額の慰謝料や養育費を貰うことになったらしいが、由利の所見では、おそらく母はそのお金にほとんど手を付けていない。その理由については、推し量ることしかできないが。それからずっと由利を支えてくれた母には言葉では言い表せないほど感謝している。
さて、ここからは両親の離婚後の話である。既に由利は中学生になっており、周囲に馴染もうと毎日が苦痛や戸惑いの連続だった。
透子の話を聞く限りでは、以前の由利は明るく、活発で、運動が得意で、いつもリーダーシップを取るような少年だったらしい。かといってガキ大将というわけでもなく、人の気持ちを思いやることのできる心優しい少年でもあった……とか。透子が語ることなので、おそらく多分に美化された内容であることは分かっているつもりだが、それを加味しても信じられなかった。
孤独な日々を過ごしていた由利だが、唯一透子だけは由利の味方だった。彼女は中学受験をして中高一貫の女子校に行ってしまったが、近くに住んでいるためたびたび一緒に遊んでいた。
しかしそれが裏目に出た。同級生のほうは由利を羨み、やがて嫉妬するようになったのだ。学校では独りぼっちのくせに可愛い女の子を連れている由利が、迫害の対象になるのにそう時間はかからなかった。
いじめというほど過激ではなかったにしろ、暴力というほど苛烈ではなかったにしろ、それに近い扱いを由利は受けていた。小突かれ、からかわれ、物を取り上げられ、何をするにも笑いものにされた。ただ、その頃にはすでに感情が無くなるのに任せて怒りや悲しみを消し去る術を身に着けていたし、少数ではあるが記憶喪失の少年に同情して由利を庇ってくれる者もいたので、親にも心配をかけずに済み、穏便にやり過ごすことができた。そのため、当時のことは透子ですら知らないはずだ。
しかし、それらすべての艱難辛苦を乗り越えた由利を待ち受けていたのは、最も信頼し、もしかしたら恋すらしていたかもしれない幼馴染との離別という現実だった。
黛透子という少女は、由利の幼馴染であり、品行方正な美少女であり、地元の名士の一人娘だった。透子は誰からも好かれ、誰にでも分け隔てなく丁寧に接し、老若男女を問わず周囲の人々からの覚えはめでたく、人付き合いを大切にし、文武ともに才気にあふれ、何事にも精力的に取り組み、精神的にも成熟し、面倒見もよく、真面目で、ユーモアもあり、きれいで、可愛く――まさに完璧としか言いようのない少女だった。
だからこそ、由利では彼女に釣り合わなかった。周囲は由利が記憶喪失のことで透子の同情を買い、彼女を縛り付けていると考えていたのだ。実際、状況としてはまったく相違なく、由利は透子のそばにいるには相応しくなかったと認めざるを得なかった。
しかし、透子との離別を決定付けた要因は、他ならぬ透子の言葉だった。
透子と二人でいるとき、透子が話すのは決まって過去の思い出話だった。それも、由利が記憶を失う以前の思い出ばかりを、彼女は語り続けた。ときには楽しそうに、ときには懐かしそうに、ときには切なそうに。
きっかけは、透子が以前話したのと同じ思い出を話し始めたときのことだ。それは、記憶力のいい透子にしては珍しいことだった。だから由利は、思わずそれを指摘してしまったのだ。
『その話、知ってるよ』
由利がそう言うと、透子は目を見開いて、身を乗り出してきた。そして、笑みをこらえられないという表情で由利の肩を掴みながらこう言ったのだ。
『由利くん、記憶が戻ったんですか!?』
由利はあくまで、『その話はもう聞いた』というつもりで言ったのだが、透子には違う意味で捉えられてしまったようだった。誤解を招くような言い方をしてしまったことを詫びると、透子はそれまで見たことのないような顔をした。
由利の前では、透子はいつでも笑っていた。ときには嬉しそうに、ときには可笑しそうに、ときにははにかむように、ときには手のかかる弟を見守るように。そんな彼女が、初めて落胆したような表情を見せた。哀しそうな目で、由利を見ていた。
しかし驚くべきことに、透子はすぐにその落胆を表情から完璧に消してみせた。そして由利を安心させようと、いつも通りの笑みを浮かべたのだ。皮肉なことに、その透子の気遣いのおかげで由利は気付いた。
気付いてしまった。これまで見てきた透子の笑顔は、作り物だったのだと。彼女が本当の笑顔を向けるのは、自分であって自分ではないのだと。
動揺を押し隠して、由利は問うた。
『もし、俺の記憶が戻らなかったらどうする?』
透子は一瞬困ったような顔をして、こう答えた。
――そんなこと言わないでください。記憶が戻るように、一緒に頑張りましょう?
恐らく、普段の透子にこの問いをしたのなら、彼女は由利の望む答えを返してくれただろう。そして、その答えが透子の本心であると信じることができただろう。しかし由利は自ら、透子の笑顔の仮面を剥ぎ取って、その下にある本心を暴き立ててしまった。恐らくそれが自分を傷つけると知っていても、そうせずにはいられなかったのだ。
――たとえ記憶が戻らなくても、私はずっと由利くんの友達ですよ。
由利はただそう言ってほしかっただけだ。透子がかつての由利が帰ってくることを望んでいるのだとしても、今の由利を否定してほしくはなかった。今こうして一緒にいる自分のことを、一個の人格として見てほしかった。
それが叶わないと知ったとき、これ以上透子のそばにいるのは耐えられないと思った。
透子は、あくまで記憶を失う前の由利のために傍にいただけだったのだ。思い返せば、病室での出会いから積み重ねてきた二人の思い出について、透子が語ったことはほとんどなかった。彼女にとって、今の由利との思い出などその程度のものでしかないということだ。
色恋に疎い由利でもなんとなく分かる。透子はきっと、かつての由利のことが好きだった。そして今の由利は、彼女にとって思い人の抜け殻、あるいは残像でしかなかったのだ。
そして由利は透子を遠ざけ、本当の独りぼっちになった。それは離別というよりは、もはや決別といった方がいいかもしれない。
そして、その後の孤独な中学時代を経て、由利は三珠高校に進学した。同じ中学の生徒もゼロではなかったが、ほとんど由利と関わりのない者しかいなかった。
ただ、一つ大きな誤算があった。それは透子も同じ三珠高校に転入してきたことだ。彼女が母から由利の進学先を聞き出したことは知っていたが、中高一貫の女子校に通っていたからというだけではなく、由利に実質的な絶交を突き付けられた彼女が追いかけてくるようなことは万が一にもありえないと思っていたのだ。まして、三珠高校は公立高校であるため、転入にはそれなりの条件をクリアしなければならなかったはずだが、彼女は何をどうしたのかそれをあっさりとクリアしてみせた。
透子はあくまで家庭の事情でやむなく転校しなければならなかったと言っているが、由利はそれをまったく信じていなかった。
彼女は由利のことを監視しているのだ。
透子は本物の由利が帰ってくるのを待ち続けている。由利の記憶が戻ったそのとき、透子を主人公とした物語は幕を閉じるのだろう。誰にも必要とされない由利の偽物は消え去り、みんな幸せ、大団円――というわけだ。
そうして、現在に至る。今や高校の生徒で黛透子の名を知らないものはほとんどいない。由利の周囲にも透子の知り合いだというものは多い。そのため、透子本人にそんなつもりはないにしろ、いつも透子に監視されているような気がして由利は落ち着かなかった。深く考えたことはないものの、これまで由利に友達が出来なかったのは、由利自身に避けられる原因があるにしても、由利のほうが間接的にも透子に関わりたくないと無意識に拒絶していた側面も少なからずあったのかもしれない。
そこまで考えて、ようやくいま感じている寂しさの理由が分かった。よもぎと亜流々だけは、吾妻由利を一個の存在として扱ってくれている。よもぎは他ならぬ今の由利のことを必要としてくれているし、亜流々は由利の記憶喪失を知っていてもなお、態度をまったく変えなかった。
二人は、由利が渇望してやまなかったものをくれるかけがえのない存在で、何も持たないと思っていた由利が、何かを与えることができる相手である。彼女たちとの出会いによって、由利は初めて誰かと対等になれたのだ。
だとすれば、今のこの気持ちはきっと……
「そうか、そうだったんだな……」
そう。由利はこの一週間、彼女らに出会えて幸せだったのだ。
それに気付いた由利はこの日、ある決意をした。
六日目終了。
――〈常夜〉の訪れまで、残り一日。
◆◆◆
「由利くん、分かっているとは思うけど、そろそろ本腰を入れて取り掛からないとまずいよ」
亜流々が言っているのは、もちろん〈穢霊〉のことだった。明日の夜までによもぎの願いを解消しなければ、由利は死んでしまうのだ。
となればこれからは悠長なことはやっていられない。亜流々が心配するのも理解できる。しかし当の由利は不思議と焦ってはいなかった。少し前までの由利ならば違っていただろう。漠然と死への恐怖を感じて怯えていたかもしれない。
しかし、今の由利に焦りはなかった。それはどうにかなるという確信があるからではなく、単に覚悟が決まったからなのだが。
「ぼくが少なからず焦っているというのに、どうして当のきみがそんなにどっしり構えていられるんだい?」
珍しく、亜流々が半眼を向けてきていた。亜流々から見て、今の由利はそんなに泰然としているのだろうか。
「……さあ、どうしてだろうな。おまえが付いていてくれるからじゃないか?」
「なっ! き、きみはどうしてそんなことをさらっと……ううむ、羞恥心もなくなるってことなのかな? いやでもそもそも羞恥を覚えている様子もないし……つまり素でこれなのか」
なぜか顔を赤くしてぶつぶつ言っている亜流々はとりあえず置いておいて、由利はよもぎのもとへと向かった。
「おはよう、よもぎ」
「……あ、うん。おはよう吾妻」
机に突っ伏していたよもぎは、大儀そうに頭を持ち上げてそれだけ言うとまたすぐに突っ伏してしまった。
「もしかして、寝不足なのか」
「うん」
「例のあれを書いてたのか?」
「……うん。まあそんなところ」
返事までに一瞬の間があった。それが逡巡によるものなのか単に眠気によるものなのか、判断が付けられない感じだ。
「……今日は打ち合わせはやめておくか?」
もちろん、それは由利にとって非常に都合が悪い提案だったが、それでもそう言わないわけにはいかなかった。よもぎの体調が悪いのなら無理はさせたくない。
「それはだめ」
すかさずよもぎが起き上がった。目が充血しており、隈も浮かび上がっている。少し心配になる顔色だが、それとは別に違和感を覚えた。
「ぜったいにだめ」
断固とした口調でよもぎが言う。さっきまでは胡乱げな表情だったのが、寝不足のせいかかえって眼光炯炯としており、有無を言わさぬ迫力が感じられた。
「まあ、よもぎがいいならいいんだけど……」
「じゃあ、きょうの放課後も吾妻のうちに行くから」
そして、その日の授業のほとんどを寝て過ごしたよもぎは、放課後になるなり由利の傍にやってきて、無言のまま袖をつかんだ。
「よ、よもぎ?」
クラスメートの視線が向けられているのを感じた。これではまるで、よもぎが由利と離れていたのが寂しくて仕方なかったようではないか。
「吾妻、どうしたの? はやくいこう」
もちろん、実際はそんなことはない。よもぎはただ単に急いでいるだけのようだった。しかし、どうしてだろうか。
「あっ、ちょっと待ってよ。まだセーブしてないんだ」
そのへんでゲームに熱中していた亜流々がそんなことを言っていたが、よもぎにはもちろん聞こえない。スリープ機能とかあるだろと言ってやりたかったが、それが出来ない状況なのかもしれない。知ったことではないが。
よもぎは図らずも亜流々を置き去りにし、由利の腕を引っ張ってずんずんと歩いていく。ところが、校門にさしかかったところで突然歩みを止めてしまった。そして愕然とつぶやく。
「どうしてもういるの……?」
よもぎは苦虫を噛み潰したような顔をしている。その視線の先には、近くにある中学校の制服を着た少女の姿があった。
「あの子がどうかしたのか?」
その少女の姿を由利が確認しようとしたところ、よもぎに掣肘された。
「だめ。かくれて」
見て分かるくらい、よもぎの表情は逼迫していた。どうやら、あの少女に見つかるのは非常にまずいらしい。今度は由利を引っ張って校門から離れようとする。
しかし、結果的にそれは叶わなかった。まもなく少女がこちらを振り向き、こちらの姿を認められてしまったからだ。
「あうっ……」その視線に射すくめられたかのように、よもぎが声を漏らした。
少女は迷わずこちらに向かって早足で歩いてくる。よもぎは怯えたように由利の背後に隠れてしまった。いったい何事なのだろうか。
状況を把握できない由利の目前に、勝気な顔の女子中学生が立ちふさがった。女子にしては背も高く、発育がいいのが見て取れる。とはいえ由利よりは背が低いため見上げられているのだが、そのたたずまいはこちらが圧倒されるほど堂々としており、高校の敷地に入っているというのにまったく尻込みした様子もない。見上げられているというよりは、むしろ『メンチを切られている』と言った方が的確かもしれない。
少女は何を言うでもなく、由利のことを値踏みするような目で上から下まで矯めつ眇めつしている。さすがに気分がよくないので、とりあえず口を開いた。
「……何か用なのか?」
「ああ、いえ」
由利の言葉に責めるようなニュアンスが籠ってしまったが、少女はまるで悪びれた様子もなく、格好だけは慇懃にお辞儀をした。
「不躾にすみませんでした。ですが、今はあなたに用はありません。用があるのはあなたの後ろで縮こまっている愚姉に対してです」
取り付く島もない様な口調だった。しかしそれ以上に気になるのは『愚姉』という言葉である。その語感の悪さは置いておくとしても、無視できない言葉だった。つまり彼女は……
「よもぎの妹さんなのか?」
そう口にした瞬間、少女の体が硬直した。つられて由利の表情も強張る。何かまずいことを言ってしまったのだろうか?
「よもぎ、ですって……?」
少女の身体から怒気が立ち込めている……ように見えた。肩をわなわなと震わせ、今にも爆発しそうだ。どうやら由利のよもぎに対する呼び方がお気に召さなかったらしい。
「……訊くまでもないとは思いますが、あなたが吾妻さんですよね?」
「そうだ」
由利が答えると、少女は人差し指を突き付けこう言ってきた。
「もう、金輪際お姉ちゃんに関わらないでください!」
「……それはできない」
完全に鼻白んでいた由利だが、かろうじてそれだけは言うことが出来た。もっと他に言うべきことや上手い言い方もあっただろうが、少なくともこれだけは言わなければならないと思ったのだ。由利個人の事情とは関係なく。
しかし、その返答は彼女の気勢を削ぐどころか、火に油を注ぐ結果となった。由利を睨み付けるその双眸から、少女が気炎を上げているのが見て取れる。
「いーえダメです! いくらお姉ちゃんが可愛くてチョロそうだからって、あなたなんかにお姉ちゃんをいいようにさせたりなんかしませんから! 絶対に!」
「ちょっと待て。確かによもぎは可愛いけど、チョロいなんてことはないと思うぞ。というか姉貴のことをそんな風に言うなよ」
控えめに訂正するも、もちろん言葉が届くことはなかった。姉妹そろって気持ちが高ぶると人の話を聞かなくなるらしい。
とはいえ、今の少女の発言から、彼女が何に対して憤っているのか読み取ることが出来た。要するに彼女の態度はよもぎに対する心配の裏返しなのだろう。姉妹の立場が逆のような気もするが、性格的に仕方のないことなのかもしれない。
「ええっと、妹さん」
「撫子です。あなたに義妹扱いされる謂れはありません」
別に義妹扱いしたつもりはないのだが、せっかく名乗ってくれたので名前で呼ぶことにする。
「じゃあ葛籠撫子サン。きみが何を危惧しているのかは大体わかった。だけどそれは杞憂というものだ。別に俺はよもぎ……さん自身をどうこうするつもりはなくて、あくまで小説を読ませてほしいだけなんだから」
また呼び捨てにしようものならただちに睨みつけられそうなので、一応『さん』を付けておくことにする。
「なーにが『杞憂というものだ』ですか! 親が不在の家にお姉ちゃんを連れ込んでおいて、そんな言葉を信じられるとお思いですか!?」
そして、今にもその辺に唾でも吐き捨てそうなほど胸糞悪そうな顔で、撫子は由利の弁解をばっさりと斬り捨てた。いきなり痛いところを突かれ言葉が喉に詰まる。
かねてより恐れていた事態が実際に起こってしまった。しかし妹が直接乗り込んでくるほどの事態になると、いったい誰が予測できただろうか?
早くも由利は進退窮まった。ただでさえ口下手な由利が、準備もなしにこの少女を言いくるめられるとはとても思えない。
と、そこでようやくよもぎが由利の背中から出てきた。まだ由利の制服の袖を掴んでいるものの、意を決して口を開く。
「や、やめて。吾妻はそんなひとじゃない、から」
顔を上げてよもぎが反論するも、口調がおぼつかない。毅然と振る舞おうとしているのだろうが、緊張のあまり舌がもつれてしまっているようだ。
……しかし、何故妹相手にここまで萎縮しているのだろうか。別によもぎ自身が責められているわけではないというのに。
「……お姉ちゃんは騙されてるんだよ。お姉ちゃんは可愛いし頭も良いんだから、もっといい人と友達になればいいのに」
その言葉で、袖を掴むよもぎの手に力が籠るのが分かった。
「撫子に吾妻のなにがわかるの?」
「お姉ちゃんの話を聞く限り、その吾妻って人、ほかにお友達がいないみたいだけど。そんな人と一緒にいたらお姉ちゃんまでダメになるよ」
由利は苦笑いしながら亜流々の顔を思い浮かべた。一応、友達がいないわけではない。ただその友達が由利以外には見えないというだけの話だ。……というのをそのまま目の前の少女に言ったらどうなるだろうか。
よもぎの方はというと、撫子のことを睨み付けていた。
「なにそれ。友達が多いほうがえらいの? 友達がすくないのはダメなの?」
「偉いかどうかは分からないけど、少なくとも友達が少ない人は人間性に深みがないというか、むしろダメだから友達が少ないんじゃないの?」
「だったら、あたしもおなじだよ。あたしがダメだから、友達がいないってだけ。吾妻はそんなあたしと友達になってくれたんだよ」
「だから、そんなの下心があるに決まってるじゃん。その証拠に、お姉ちゃんを自分の家に連れ込んだんでしょ?」
「それは、ほかに場所がなかったから……」
「なんで? 喫茶店でもどこでも、それこそ学校でもいいじゃない」
「ほかの人には、見られたくなかったの」
「なにそれ? 意味わかんないよ。誰にも読ませたくないなら、どうして小説なんて書いてるの?」
「だって、だれにも馬鹿にされたくないから」
「馬鹿にされる? お姉ちゃん、馬鹿にされるって思いながら書いてたの? もっと意味が分かんないよ。そんな風に思うんだったら、やめちゃいなよ。小説なんてさ。うん、そうした方がいいって! そうしたらもっと明るくなるし、きっと友達も増えるって! ね、そうしよう?」
「ちょっと待て。そんな言い方ないだろう」
これまで静観していた、というより口を挟むタイミングを見つけられなかった由利だが、これには口を挟まないわけにはいかなかった。
「あれ? まだ居たんですかあなた。これは私たち姉妹の問題なので放っておいてください」
そう言ってわざとらしく驚く撫子の顔は、本当に由利の存在ごと忘れ去っていたような表情で、冷ややかな言葉も相まって心が折れそうになる。
それでも、逃げ出すわけにはいかなかった。由利は勇気を振り絞って、撫子を見据える。
「そうはいかない。よもぎの小説のことなら、俺にも関係のある話だ。大体、創作をやめればいいなんて暴論、きみの思い込みじゃないのか?」
由利が言うと、撫子は嵩にかかって弁舌をふるい始めた。
「だとしても、私はお姉ちゃんのためを思って言ってるんです! だって、可哀想じゃないですか! ろくなお友達もいなくて、いつも私より早く家に帰ってきて、家では変な本ばかり読んでて! そんなだからずっと心配してたのに、今度は自分で小説なんて書き始めて! このままじゃ、お姉ちゃんがダメになっちゃいます!」
その顔には、怒りよりもむしろ焦りが色濃く浮かんでいた。きっと、彼女は本気で姉のことを案じているのだろう。ただ、この姉妹の間には決定的な認識の齟齬がある。それは、互いの幸せの定義が違うことに気付いていないことだ。撫子には、今のよもぎがとてつもなく不幸で、可哀想にしか見えないのだろう。
そしておそらく、よもぎ自身も、自分を可哀想だと思い込んでいる。
おそらく、ここは一つの正念場だ。由利は直感的にそれを悟った。
「ダメ? ダメってなんだ。きみの姉貴はダメなんかじゃないだろう。きみは、姉貴の書いた小説を読んだことがあるのか?」
由利の問いを、撫子はせせら笑った。
「ありませんよ。ただでさえ素人の書いた小説なんて見るに堪えないに決まってるのに。もちろん本は読みますが、私は『ちゃんとした本』しか読みませんし。私もお姉ちゃんも、子供が読むような本に影響を受けて書くような小説なんてものに時間を割くくらいなら、友達と一緒にいる方がよほど有意義に決まってます」
つまり、撫子はよもぎが人間関係を疎かにしているのが気に入らないということなのだろうか。いくつか矛盾があるような気もするが、それは感情的になっているからだろう。ならば……
由利は、撫子の言い分から導き出した答えを口にした。
「……なら、例えばの話、よもぎが明るく社交的になって、友達も増えて、クラスでも一目置かれるようになったら小説を書いていても問題ないのか?」
すると、撫子は我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「ええそうです。でも、そうなったらきっと小説なんて書かなくなるに決まってますけどね。あ、別に作家さんを馬鹿にするつもりはないですよ。私はただ、お姉ちゃんが『寂しい現実から逃げてる』のが許せないだけですから」
由利はどきりとした。撫子の言葉は、ほとんどそのまま由利自身のことを言い表していたからだ。
現実からの逃避。由利が物語を読むのはまさしくそのためである。だが、よもぎは違うはずだ。創作というのは、現実の昇華に他ならない。誰にでも出来ることだが、それで人の心を動かすことが出来るのはごく一部の人間だけ。だからこそ、それが出来るよもぎが由利なんかと同じなわけはないのだ。
だが、それを言ったとして、撫子を納得させることはできるのだろうか?
「吾妻……?」
視線を落として黙り込んでしまった由利の顔を、よもぎが心配そうに覗き込んでくる。今、自分がどんな顔をしているのかわからないが、ろくな顔ではないのだろう。よもぎの表情がそれを物語っていた。
「どうやら、納得いただけたみたいですね。つまり、あなたも私と同じ考えだってことです。だからこそお姉ちゃんに縋っていたんでしょう? 『同じ穴の狢』にいて欲しかったんでしょう? ですが、あなたとお姉ちゃんは違うんです。それが分かったら、これ以上お姉ちゃんに関わらないでください」
撫子が勝ち誇った表情をしている。反論しなければ、そう頭では分かっているが、言葉が出てこない。
「由利くん。そこで黙っちゃだめじゃないか。もっとも、公衆の面前で女子中学生に論破されるなどという恥辱を味わいたいというのなら止めはしないけど」
いつの間にか、亜流々が寄り添っていた。馬鹿にしたような、挑発するような口調とは裏腹に、その表情は由利の心中を案じてくれていた。もっと言うなら、ここで敗北を認めることはおそらく穢霊の発生の阻止の失敗につながるであろうことを亜流々も察しているようだった。
少しだけ冷静さを取り戻した由利だが、だからと言ってこの状況を打開する方法が浮かんだわけではない。そんな由利を見て、亜流々はやれやれと言わんばかりに肩をすくめながらこう言った。
「少し前からきみたちのやり取りを聞いていたけれどね、きみは戦い方を間違えているよ。大切なのはあの子を論破することじゃない。葛籠よもぎの味方をすることだろう?」
その言葉にハッとした。同時に、言うべきことを瞬間的に理解する。
「『同じ穴の狢』で何が悪い?」
由利が絞り出すように発した言葉で撫子の表情は一転し、怪訝な顔をした。
「はい? なに開き直ってるんですか? あなたの存在がお姉ちゃんのためにならないって言ってるんですよ」
「いいや。少なくとも、よもぎにとってはきみの存在の方がよほどためにならないな」
この言葉で、撫子の様子が変わるのが分かった。これまではおそらく由利を見下しているだけだった彼女は、明確に攻撃の意思を見せ始める。
「どうしてですか? 私の言う通りにすれば、お姉ちゃんはきっと人気者になれるんですよ」
「その上から目線がよもぎを追い詰めているのに、どうして気付かない? どうして今のよもぎを信じてやらない?」
「だって、友達がいないのは事実じゃないですか!」
「友達ならここにいるじゃねえか」
「ですから、あなたみたいなダメな友達じゃなくて、もっとちゃんとした友達と」
「ああそれ、さっきから気になってたんだ。『ダメな』とか『ちゃんとした』っていうのは何なんだ? 教えてくれよ。ちゃんとした友達、ちゃんとした本、ちゃんとしたよもぎ。きみの言う『ちゃんとしてる』っていうのはどういうことなんだ?」
由利が食い気味に突っ込むと、撫子は一瞬黙り込んだ。しかしそれは由利の問いに答えられなかったからではなく、由利に対する苛立ちがさらに高まったから……のように見える。その証拠に、彼女は据わった眼で由利を睨み付けながら、淀みのない口調で語り始めた。
「……分かりました、教えてさしあげますよ。ちゃんとした友達というのは、社交性があって、人格に問題がなくて、能力でも釣り合いが取れていて、広義での社会的地位があって、一緒にいることにメリットがある相手のことです。少なくともあなたは当てはまりませんね。
ちゃんとした本というのは、メッセージ性があり、道徳的で、芸術的な内容の本のことです。お姉ちゃんがよく読んでいるような、挿絵が多い小説――ライトノベルでしたっけ? ああいうのはダメです。もちろん一括りにして全部が全部ダメだなんて言いませんが、ほとんどが幼稚な内容ですから。現に、一度だけお姉ちゃんに勧められて読んだものは幼稚極まりない内容でした。先が読めるような稚拙な展開に、安易な恋愛描写や、視野狭窄的なご都合主義、何より、無理して難しいことを言っているようなちぐはぐな文章! 読んでいていたたまれなくなりましたよ。ああ、誤解しないでくださいね。私は『読むに値しない』と言っているんじゃなくて、『今読むべきものではない』と言っているんです。中高生は、中高生だからこそ、ちゃんとした文章を読むべきだと私は考えているんです。
……そして、ちゃんとしたお姉ちゃんというのは、昔のお姉ちゃんみたいな人のことです。可愛くて、素直で、明るくて、先生にも褒められるような。そんな私の自慢だったお姉ちゃんのことです。可愛くて素直なのは今も同じですが、今のお姉ちゃんは自分に自信がなくて、卑屈で、暗いです。私はそんなお姉ちゃんを見ていられません」
最後の言葉を受けてか、よもぎは俯いてしまった。表情は読めないが、想像は出来る。きっと申し訳なさそうな顔をしているに違いない。
責められているのに、今の自分を否定されているのに、よもぎは怒るどころか気に病んでしまっているのだろう。自分のためを思ってくれている妹の期待に応えられないことが辛くて仕方ないのだろう。
そして、由利の心の中にずっと引っかかっていた疑問が、今ようやく解消された。初めてよもぎを家に招いたとき、彼女が言っていたことは紛れもなく彼女の本心だったのだ。
『ありがとう。吾妻の言葉で、すこし救われた』
あのとき、今のよもぎがいいと言った由利に対して、よもぎはそう言った。その理由が、今なら分かる。
彼女は共感を求めていた。それは自分が書いたものに対してだけではなく、自分自身の在り方に対してもだ。もっと言うなら、それは共感でなくとも構わなかったのだろう。彼女はただ、理解を示してほしいだけだったのだ。それはなんと健気で、哀しい願いだろうか。
数秒の間を置いて、由利は口を開いた。
「……どうしてきみは今のよもぎを誇れないんだ? どうしてダメだと決めつける? きみがダメなところにしか目を向けていないだけだろう」
「知ったような口を利かないでください」
「それはこっちの台詞だ。よもぎの書いたものを読もうともしないきみが言うな。だいたい、きみは本当によもぎに友達がいないと思っているのか?」
「……どういうことですか」
撫子の顔に、初めて困惑の表情が浮かんだ。
「よもぎはクラスに『友達』がいないわけじゃない。むしろ休み時間はたいてい誰かに囲まれてたよ。その中にはきみが言うような『ちゃんとした』人もいたはずだ」
「な……何それ! お姉ちゃん、私そんなの聞いてないよ? ううんそれより、どうしてその人たちと一緒にいないの? そんな人たちがいるなら、小説なんて書く必要ないじゃない!」
「そ、それは……」
よもぎは何かを言おうとしていたが、やがて苦しげに喘ぐようになり、ついにはまた俯いてしまった。
「よもぎ、ゆっくり言えばいい。あのとき俺に話してくれたことを。おまえがあの子たちに、何を感じているのかを」
よもぎの背中に手を添えながら由利が言うと、よもぎは小さくうなずいた。覚悟は決まったようだ。
そして訥々と、しかし明確な意思を込めてよもぎは言った。
「あの人たちは、ともだちじゃない。あの人たちはきっと、あたしじゃなくてもいいの。あたしも、あの人たちじゃなくてもいいの。ほかの人にともだちがいないと思われたくないからいっしょにいるだけ。だから、あの人たちはともだちじゃない」
「……なにそれ。そんなの綺麗ごとだよ。『その人じゃなきゃダメ』なんて人と、そう簡単に出会えるわけがないんだよ? それに、実際に仲良くしないとその人の良さだって見えてこないし、そもそも今お姉ちゃんが言ったことは友達になれない理由にはならないよ!」
それはまさしく正論であり、説得としても正解だった。だというのに、当の撫子は取り乱していた。よもぎの考え方を嘲笑するかのように口角が吊り上がっているが、瞳孔が開き、頬が引きつっている。
「確かに、自分のことを深く理解してくれるような人と友達になれたら幸せだよ? そういう人を『親友』って呼ぶんだと思う。だけど、ただの『友達』にそこまで求める必要なんてないでしょ?」
「なにそれ。あたしの方こそ、撫子の言っていることがわからないよ。撫子は、どうしてそんなひとたちと友達でいるの? ただの友達ってなに? どうしてそれが多いほうがいいの?」
「それは……だって……」
撫子はついに視線を落とした。目が泳ぎ、言葉を探している。由利に何を言われても言い返してきた撫子がよもぎの言葉に狼狽し、追い詰められていた。
撫子はきっと聡明な少女なのだろう。自分の立ち位置を理解していて、自分の居場所を作るのも上手で、きっと敵を作らず味方を作る能力にも長けているはずだ。
そういう意味では、確かに彼女はよもぎよりも優秀だ。『ちゃんとして』いるといえるだろう。だが、今ここではっきりと二人を隔てているのは能力の差ではなく認識の差なのだ。撫子はそれを理解していなかった。だからこそ、よもぎの問いに答えることが出来なかった。
「……そんなの、お姉ちゃんに言われたくないよ!」
俯いていた撫子は、突如顔を上げ激昂した。
「確かに、友達は多ければいいってだけのものじゃないかもしれないよ。でも、それをお姉ちゃんに言われたくない! だって、お姉ちゃんは逃げてるだけだもん!」
「逃げてる? よもぎが?」
「そうですよ吾妻先輩。さっき貴方は言いましたね、『同じ穴の狢で何が悪い』って。けど、お姉ちゃんはそう思ってないんです。友達がいないのも、内気な性格になってしまったことも、お姉ちゃんは気にしているんです。気にしているのに気にしていないような顔をして、『自分には小説があるから浅い関係の友達なんていらない』ってうそぶいているんですよ。それが逃げじゃなくて何だっていうんですか! 貴方はそのために利用されているだけなんです!」
「ち、ちがう! 吾妻はあたしの書いたものを理解してくれて、おもしろいって言ってくれたの。だから……」
「それは建前でしょ? お姉ちゃんは『自分の小説を肯定してくれる人が自分の本当の理解者だ』って思い込みたいだけだよ」
「違う。よもぎは逃げてなんていない。そうだろう、よもぎ?」
由利は振り返り、よもぎの方を見る。そして愕然とした。よもぎは俯いていたのだ。
「よも……ぎ?」
よもぎは何も言わない。由利の言葉を否定も肯定もしない。ただ、さっきまでは由利の制服の袖を掴んでいたよもぎが、いつの間にか一歩分離れているのがその答えなのだと由利は思った。
「ほら、分かったでしょう。それがお姉ちゃんの本心ですよ。貴方にそのつもりがなくとも、お姉ちゃんの方は結局現実逃避のためにあなたを利用していただけなんです。皮肉なものですね。やっぱりあなたとお姉ちゃんは違うんですよ。あなたは今に満足しているのかもしれませんが、お姉ちゃんはそうじゃないんです」
皮肉めいた笑みを浮かべながら、撫子はゆっくりと、子供に言い聞かせるようにそう断言した。その言葉が、由利ではなくよもぎに向けられたものであるのは明白だった。
よもぎは何も言わない。よく見ると、微かに肩が震えていた。本来ならば、由利は優しくその肩に触れてよもぎを安心させてやるべきなのかもしれない。しかし、由利は逡巡してしまった。もしも撫子の言う通りなのだとしたら、これまでよもぎの作品について語り合った日々が、すべて無駄だったということになってしまう。
それは、由利の中の前提を全てひっくり返されることに等しかった。そんな由利が、よもぎのために何をできるというのだろうか?
もはや、由利にはどうすればよもぎの味方をすることになるのかも分からない。もしかしたら、よもぎを庇っているつもりの由利の言葉が、知らず知らずのうちによもぎを傷つけていたかもしれない。
「……ね」
よもぎが、かすれた声で何かを言った。由利は息をのんで、よもぎの言葉に耳を澄ます。
「ごめんね……」
それは謝罪の言葉だった。何に対する謝罪なのか、分からなかった。
言うや否や、よもぎは走り去ってしまった。完全に虚を突かれはしたが、その気になれば追いかけることは出来るだろう。だが、由利の足は動かなかった。
よもぎの内面に触れることが出来たと思っていた。彼女の望みを、彼女の願いを、少しだけでも叶えることが出来たと思っていた。それは、少なからず由利の心の支えになっていたのだ。
なのに。それがすべて無駄だったというのだろうか?
由利は不意に途方もない虚無感に襲われた。由利の霊魂に巣食うという『何か』による感情の蚕食によってではなく、由利自身の心の働きとして、感情が失われていくのを感じた。
いつの間にか、撫子も姿を消していた。きっとよもぎを追いかけたのだろう。俯いていた由利は大儀そうに顔を上げると、ゆっくりと歩き出した。
「どこへ行くつもりだい?」
背中越しに、亜流々の声がかかった。由利は振り返りもせずに、それに答える。
「家に帰るさ。俺が追いかけたところで、何もできないだろ?」
「正気かい? 葛籠よもぎをあのまま放っておいたら、取り返しがつかないことになるよ」
いいんだ、と返す。すると、背後からふぅと息を吐くのが聞こえた。亜流々が溜め息をついたのだろう。
「おい、由利くん。拗ねてる場合じゃないだろう。きみを取り巻く状況は下らないラブコメや青春群像劇なんかとはわけが違う。判断を誤ればきみが死ぬんだぞ」
由利を諭すような言葉だったが、もはやそれに耳を傾ける余裕はなかった。その必要性も感じなかった。何故なら、由利はある結論に達していたからだ。
「俺が死ぬだけだろう?」
「なっ……!」
顔を見なくても、亜流々が怒ったのが分かる。……何故怒っているのだろうか。
「……あまりぼくを失望させないでくれたまえよ。そんな幼稚なことを言って、まさかぼくに慰めてもらうのを期待しているのかい?」
「いいや。おまえに慰めてもらいたかったら、素直に頼むよ。慰めてくれってさ」
「だったら早く葛籠よもぎを追いかけたまえ。ぼくはきみの狂言に付き合ってあげるほどお人好しじゃない」
「いいんだ。もう、俺がよもぎの願いを解消する必要はない。まあ、そもそも出来ないんだけどな」
自嘲気味な由利の言葉に、亜流々は困惑しているようだった。いっそ〈隠者の瞳〉で心の中を見てしまえば話が早いというのに、律儀な亜流々はあくまで由利の自由意思によって語らせるつもりのようだ。その証拠に、次の言葉はこうだった。
「……どういうつもりだい?」
「つまり、『より確実な方法をとる』ってことだ。このままいけば、俺の魂と引き換えによもぎの願いが叶うんだろう? いいじゃねえか、それはそれで」
「ここまできて諦めるのかい? あと一日あるんだ。まだ望みはあるだろう?」
「諦める。明日は……そうだな、母さんにめいっぱい優しくするよ。出来るなら自分に生命保険をかけるってのもいいかもな」
「笑えない冗談だ。いいから葛籠よもぎを追いかけろ」
「それは命令なのか?」
「違う。ぼくの言葉はあくまで助言だ。言っておくけれどね、きみが死のうとぼくには何も関係ないし、ぼくの行動が君の運命に影響を及ぼすこともない。つまり、きみが諦めればその時点できみの未来は確定するということだ」
「関係ないっていうなら、最後まで他人事みたいに楽しんでくれよ。バッドエンドは見慣れてるだろ?」
「……そうか、分かったよ。これ以上、何を言っても無駄のようだ」
亜流々の足音が遠ざかっていく。どうやら校舎に戻っていくようだ。
「ゲームオーバーだ。……つまらない幕引きだね」
吐き捨てるように言い残して、亜流々は去っていった。
◆◆◆
家に着くころには、すっかり夜の帳が下りていた。
由利は薄暗い部屋に入って制服を着替えるなり、明かりも点けずにベッドに倒れこむ。
今、由利はどうしようもなく一人だった。昨日も一人だったが、昨日とは何かが違う。よもぎや亜流々に出会う以前の退廃的で灰色の日常に戻ってしまったような気分だった。
真っ暗な部屋に、静寂が満ちている。ふと、亜流々の顔が頭に浮かんだ。
今まで考えたことはなかったが、亜流々はどこで暮らしているのだろうか? そもそも、亜流々に帰る家はあるのだろうか?
由利以外は誰も亜流々を認識できないのだから、必然的にずっと一人で過ごすことになる。亜流々は、どれほどの孤独の中で生きてきたのだろう?
明日の夜、由利は穢霊という怪物に殺される。そして、亜流々はまた一人になる。
神崎亜流々。世界を捨て、世界に捨てられた少女。世界を捨てたという彼女は、しかし由利を見捨てなかった。由利にとっては、母に次ぐ恩人と言えるだろう。
今日は良くない態度を取ってしまったが、明日は亜流々にも恩を返さねばなるまい。なけなしの小遣いで、好きなゲームを買ってやるのもいいかもしれない。もちろん、母へのプレゼントに使う分は残しておかなければならないが。
そんなことを考えているうちに、由利の意識は眠りに沈んでいった。
七日目終了。
――〈常夜〉の訪れまで、残り二十時間。




