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第二話 一線を越えて

第2話 一線を越えて




 神崎亜流々はこう言った。


「われわれはいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」




 ◆◆◆




「……それ、どういう意味だ?」


 よもぎと約束を交わす数時間前の話である。由利は直前の亜流々の言葉の意味を理解できずに問い返した。


「どういう意味もなにも、そのままの意味さ。このままだときみは死ぬ。コトダマ様に殺されてね。いや、正確に言うと、きみを殺そうとするのは葛籠よもぎなのだけど」


 亜流々の話は、由利にとって青天の霹靂のようなものだった。何せ――


「殺される? 俺が、葛籠に? 嘘だろう?」


 あまりに現実味を帯びない話だ。さっきまでの話――〈隠者の瞳〉だの、天命だのの話は、まあ信じることはできる。確かめようもない話だが、疑う必要があるとも思えない。


 だがこの話はそうではない。信じる信じないは関係なく、この話が本当なら由利は死んでしまうのだから。


 信じたくない一方で、信じざるを得なかった。


 そんな由利の心中を知ってか知らずか、亜流々は立て板に水の調子で語り続ける。


「ぼくは嘘などつかないよ。誓ってもいい。もちろん、葛籠よもぎが狂気に駆られて君を殺害するというわけではないけれどね。彼女の理性が、彼女の願いが、結果的にきみの霊魂を消滅させるという意味だ」


「……詳しく聞かせてくれ」


「いいだろう。まず端的に言うとね、きみは生け贄に選ばれたんだ」


「生け贄?」


 その言葉選びには恣意的なものがあった。犠牲者ではなく、生け贄。まるで、誰かの目的のための、副次的に伴う死であるかのような言い方だ。


「さっきの話を覚えているよね。この世界は五つの『層』に分かれている。そして、きみのような普通の人間がいるのは〈非術〉の層だ。読んで字のごとく、この層を支配するものは術に非ず、ゆえに世界が定めた法則に、きみたちは決して抗えない」


「……で、おまえは確か〈法術〉の層にいるんだったか?」


「その通り。ただしぼくはその中でもやや例外気味なのだけどね。まあそれはともかくとしてだ、『術』と聞いて、きみはどんなものを想像する?」


「術っていうと……魔術とか、陰陽術とか、忍術とか」


 その辺りの『術』は、創作の中では比較的ポピュラーなものだ。とはいえ、魔法だの超能力だのと一緒くたにされるような、『なんか凄い力』程度のイメージしかない。


 亜流々は感心したようにうなずいた。


「なるほど。ちなみにきみが今述べた術は基本的には〈理術〉にあたる。『理論の跳躍』によって成立する術だ。この領域には、研鑽を積むことで精神のレベルがある一線を越えたごく一部の人間が到達することができる」


「その『理論の跳躍』ってのは、具体的にどういうことなんだ?」


「ん? それは難しい質問だね。きみには理解できない概念が関わるから、どうしても抽象的な説明になってしまう。それでも敢えて分かりやすく説明するなら、『意思そのものが結果を引き出す』ということかな。例えば、きみがテストで満点を取ろうと思って必死に勉強して、その結果満点を取れたとする。この場合、『何故』満点を取れたんだと思う?」


「そりゃ、勉強したからじゃないのか?」


「うん、その通り。しかし、勉強したという『経過』はきみの意思ありきだろう? つまり、その意思があったからこそ、満点を取れたといってもいいわけだ。そんな風に、意思そのものに理論を跳躍した因果関係があるとして、意思によって現実を改竄するのが理術だ。『こうしよう』という意思によって、経過を無視して結果を生み出す術といってもいい」


「経過を無視して、結果を生み出す……?」


「そう。喉が渇いたからといって無から水を生み出すことは普通出来ない。だが、理術は水を生み出そうという意思によって水を生み出すことが出来る。本来クリアしなければならない条件……質量保存の法則とかアボガドロの法則とか、そういう理屈を無視して『水』という結果だけを生み出すんだ。……といっても、一応理術には理術のルールがあって、本当の意味ですべての理屈を無視できるわけではないんだけどね。非術者のきみにも理解できるように説明するとこういう感じだという話だ」


 一見難しそうな話だが、骨子のみを抜き出してみれば、言っていることは簡単だ。つまりは一般人――すなわち非術者――には出来ないことが出来る、というのが理術なのだろう。


「……つまり、魔法とか超能力とかも〈理術〉ってのになるのか?」


「そうだ、と言って差し支えないだろう。ただ、重要なのは名前ではなく本質なのであって、きみの言う魔法や超能力の中には、〈法術〉に匹敵するものも含まれているかもしれないけれどね」


 なんとなく分かったような気もしたが、結局のところはよく分からないというのが本音だった。やはりどうしても空々しく感じてしまう。


「で、その話が俺の死にどう繋がるんだ?」


「つまり、きみを殺すのは葛籠よもぎが用いる術である、ということさ。そもそも術っていうのは、力ではなく手段なんだ」


「力ではなく、手段?」


「そう。天命を除く全ての術っていうのは、その霊格には関係なく、等しく『霊魂が世界に干渉する手段』なんだよ」


「……ふむ?」


「たとえば、〈権能〉を操る存在――便宜的に言う神さまは、肉体を持たない。純粋な霊魂、あるいは精神の存在なんだ。けれど彼らはこの世界に影響を及ぼすことができる。物質的に存在している君たちと同じように、むしろそれ以上に。その手段が術であるというわけだ。まあ、この辺りの理論は人によって異なるんだけどね。例えば、〈理術〉の層で最も力がある〈錬金術師(メルクリウス)〉の派閥では、〈PDFサイコ・ダイナミクス・フォース〉――精神動力っていう力の存在が信じられている。ぼくに言わせれば厳密には違うけど、あながち間違いってほどでもない。――少し迂遠になったけれど、ここで理解してもらいたいのは、『霊魂ないし精神の力が術の根源である』ということだ」


「ああうん、まあ分かったよ。最後のところだけ」


 ここに至っては、由利もだいぶ、自分の取るべきスタンスが分かってきた。


 つまり、亜流々の話は話半分程度に聞いておけばいいということだ。どうせ分からないから、というのもあるが、そもそも亜流々は一の情報を十の言葉で説明するような、非常に多弁な人間であるらしいからである。


「ここでようやく何故きみが死ぬのかという話に入れる。さっきも言ったとおり、きみは葛籠よもぎの術によって死ぬわけだが、しかし葛籠よもぎは術者ではない」


「それは……まあそうだろうな」


 葛籠よもぎはあくまで普通の女の子だ。まあ、彼女の創作の中では魔法やらなんやらが飛び交っているのだろうが、彼女自身は術だの霊魂だの、そんなオカルトとは無縁だろう。


「ではきみを殺す術とは何なのか? 答えは『願いを叶える』という〈権能〉だ」


「……は? いや、権能ってのは神さまの力なんだろ? それをどうして葛籠が」


「葛籠よもぎが権能を操るのではないよ。その術者とは、この御霊市に存在する神さま――通称コトダマ様のことだ」


「さっきも言ってたな、それ。何なんだそいつは」


 亜流々は目を丸くして、「知らないのかい?」と言った。


「知らないな」


 と由利が答えると、亜流々は呆れ顔で肩をすくめた。


「この辺りではけっこう人口に膾炙している名前なんだけれどね」


「おいおい、いくら人口に膾炙していようが、俺に話しかける人なんていないんだから関係ないだろう」


「……そうか。そうだったね。きみの事情も考えずに無神経なことを言ってすまない」


「そんな神妙にするな。軽い自虐でそこまで憐れまれる方が辛いっての」


「それなら自虐と分かるように言いたまえ。笑えない冗談ほどどうしようもないものはないのだからね」


 小さい子供に言い含めるような口調で亜流々に諭された由利は、納得いかず閉口した。


「話を戻そう。コトダマ様というのは、まあよくあるオカルトじみた与太話だ。簡単に言うと、『強い願いを聞き入れて、叶えてくれる神さま』だね」


「……コックリさんみたいなものか? というか『オカルトじみた』って……オカルトの体現みたいな奴がどの口で言うんだ」


 コトダマ様とコックリさん、語感的にも少し似ているな、などと下らない事を考えながら、由利は口を挟んだ。


「カテゴリーというか、ジャンルとしては同じものだね。ただしそれは噂話や都市伝説としてのコトダマ様の話だ。実際にコトダマ様は存在している。そしてこの町を権能によって支配しているんだ」


 と亜流々は言った。


「その権能っていうのが、さっき言ってた『願いを叶える』力なのか?」


「その通り。ただし、無条件に願いを叶えてくれるわけじゃない。それなりの対価を払わなければならないのさ」


 ここまで聞けば、由利にも先が読めてきた。


「その対価が『生け贄』なんだな」


 由利が言うと、亜流々は感心したようにうなずいた。


「今朝からずっと思っていたけれど、きみはとても察しがいい、というか理解が早いね」


「お褒めにあずかり光栄だよ」


 こういう話をするりと飲み込むことが出来るのは、これまで色々な創作物を読み漁ってきたからだろうか。完璧には理解できないものの、それも含めてこの状況をどこか楽しんでいる自分がいるのを由利は自覚していた。


 亜流々は話を続ける。


「改めて説明すると、この町には強い願いを叶える力が存在する。ただし、願いを叶えるには他者の霊魂をコトダマ様に捧げなければならないんだ」


「つまり、このままだと葛籠の願いを叶えるために、俺の霊魂とやらが生け贄としてコトダマ様に捧げられちまうってことだな。そして、その結果俺は死ぬ、と」


「その通り。今はそれだけ分かっていれば十分だ」


「なら亜流々、もう一つ教えてくれ。どうすれば俺は死なずに済む?」


 あくまで淡々とした口調で、由利は訊ねた。


「それは訊かれなくても教えるつもりだったけど……つくづく思うよ、どうしてきみはそこまで平静でいられるのかな。生き残る方法を訊いてくるあたり、生に対して投げやりというわけでもないようなのに」


 心底解せないという顔をして、亜流々は問い返してきた。だが、由利の方にもこれといった答えはない。


「どうしてだろうな。昔からそうなんだ、焦りとか怒りとか悲しみとか、そういう感情は感じたそばから消えていってしまうというか」


 由利はそれを不自然だと思ったことはない。むしろ、かつては他の人も同じではないのかとすら考えたことすらある。


 例えば、目の前にいる亜流々は由利よりも精神的に成熟して分別があるように見えるが、それは『感情の制御』の賜物であって、あくまで経験則によるもののはずだ。


 しかし由利の場合、制御しているというよりは、むしろ制御されているような感覚を覚えることがある。それも、まるでスイッチを切ったり入れたりするようにだ。


 それを話すと、亜流々は得心いったように頷いた。


「……なるほど、通りできみからは何の力も感じられないはずだ。『術』の力の源は、さっきも言ったように霊魂、精神、意識――そういった形而上的な存在の持つ力であるわけだけど、きみにはほとんどそれがない。強い願いを持つ葛籠よもぎとは対照的、むしろ対極にあると言っていいね。しかし、となると余計に解せない。何故きみの霊魂が『生け贄』足りえるのだろう? ほとんど旨味のない魂のはずなのに……」


「何だよ、人を異常者みたいに言いやがって」


「ああいや、すまない。そんなつもりはないんだ。ただ、そんなきみがどうして〈常夜〉の世界に呼ばれ、ぼくの存在を認識することが出来るのか、不思議に思ってね」


 そんなに不思議なことなのか、と他人事のように由利は思った。由利には亜流々が見える。そして『生贄』として殺されようとしている。その事実が全てではないのだろうか。


「……まあいい。とにかく、きみが生き残る方法だけど、方法論自体は簡単なものだ。術の根源を無くしてしまえばいい。つまり葛籠よもぎの願いを解消してやればいいんだ」


「願いを……解消?」


 聞き慣れない表現だ。願いは叶えるものではないのか?


「もちろん、叶えるに越したことはないさ。でも、もしその願いが『億万長者になりたい』とかだったらどうするつもりだい? 叶えられない願いは、代わりの何かで埋めてやるしかないのさ」


 なるほど、そういうことか。つまりは対症療法なのだろう。


 由利が助かるためには、今回由利の魂を喰らって叶えようとする願いだけをどうにかして失くしてしまえばいい。そう、たとえば外科手術で腫瘍を摘出するかのように。


「で、肝心の葛籠の願いが何なのかは分からないのか?」


「残念ながら。ただ、いつまでにケリをつければいいのか、そのタイムリミットは分かる」


「それはいつなんだ?」


「一週間後の夜――今日は火曜日だから、次の火曜日ということになる。その夜、きみは〈常夜〉の世界に引きずり込まれ、葛籠よもぎの願いによって顕現した〈穢霊(けがれ)〉に霊体を喰い殺されることになる」


「なぜ一週間後なんだ? ケガレとは何なんだ?」


 なるべく簡潔に、多くの情報を得ようとするからか、由利の口調は徐々に鋭くなっていった。とはいえそれも仕方ないことなのだが。何せ由利には解らないことが多すぎる。


「一つ目の質問の答えは、〈隠者の瞳〉によって見える未来が一週間後の夜で途切れているからだ。〈常夜〉はいわば運命の連続性を断ち切る分岐点だからね。


 二つ目の質問の答えは、一言で言うと『葛籠よもぎの願いの顕現』、分かりやすく言うと、きみの魂を喰らうために生み出される化け物だ」


 亜流々の答えは珍しく簡潔で、分かりやすかった。一つ目はともかくとして、二つ目に関しては新たな疑問が生まれてしまったが。


「化け物? ……問答無用で魂を奪われるわけじゃないのか? 相手は神さまなのに、どうしてそんな手間をかける?」


「なるほど、きみは穢霊についてそういう感想を抱くのか。普通は『どのくらい恐ろしい?』みたいなことを訊きそうなものだけど、まあきみだものね」


 何に関してかは分からないが、妙な納得の仕方をして、亜流々は瞑目した。どうやら言葉を選んでいるようだ。


「……すまないが、上手く説明できそうにない」


 やがて、亜流々は口惜しそうにそんなことを言った。


「亜流々がか?」


「なるべく簡潔にしようとしても、一時間はかかりそうだ」


「ああ、そういうことか」


「これまた抽象的な話になってしまうけれど、要は形式の問題なんだよ。きみの魂の所有権はきみにあるのであって、それを無条件で奪うことは神さまにもできないんだ。だからまるで試練のような形をとるというわけだね」


 試練といっても、クリアさせる気なんてないんだけれど、と亜流々は付け加えた。


「その化け物を倒すとか、逃げ切るとかはできないのか?」


「不可能ではないよ。実際に生き延びたケースも知っている。具体的な確率は……言わないでおくけれどね」


 つまり、亜流々が気を遣って口を噤む程度には困難であるということだろう。


「だが、さっき言っていたよな。俺が常夜の世界とやらに迷い込む以降のことは分からないんだろ? つまり、生き延びる可能性もあるってことだ」


「理屈の上では、ね」


 つまり、可能性自体はあるということだ。とはいえ、そういう強行突破はあくまで最後の手段になるだろう。由利だって、そんな化け物と対峙するのは御免である。


「さて、これで状況は分かってくれたかい? つまりきみは、何とかして葛籠よもぎの願いを解消し、穢霊の発生を事前に阻止しなければならないわけだ」


「ああ、分かった」


 本当はもう一つ、気になっていることがあった。


 それはなぜ由利が生贄に選ばれたのか、ということだ。


 普通に考えれば、由利がよもぎに嫌われているからだろう。願いを叶えられ、さらには見られたくないものを見られた相手を抹殺できるのだから、よもぎにとっては一石二鳥と言える。


 ……の、だが。その一方で違和感もあった。


 亜流々の話では、願いを叶える対価として生け贄を捧げる仕組みのようだが、よもぎにとって由利が死んでもいい存在である以上、対価として成立しないのではないか? という違和感である。


 しかし由利はそこで思考を止めた。何故なら、考えても仕方のないことだからだ。


 事実にはそれ以上の意味などないし、一つの事実から新たな事実を見出すことなど決して出来はしないのだから。


 現実にそうである、ということ以上に重要なファクターなどない。それが由利の思考前提であり、それに従って生きてきたのだ。


「まあ、きみは運がいいよ。ぼくという協力者に出逢えたんだからね」


「それはまあ、確かに」


 どこか押しつけがましい慰めの言葉に、由利は素直に頷いた。他の人は、由利と同じ状況に陥ってもそれを説明してくれる存在がいないのだから、そういう意味では由利は恵まれているだろう。


「でも、おまえは『隠者』とやらなんだろ? 今さらだが、俺に手を貸していいのか?」


 そもそも亜流々は世界との関わりを代償に、〈隠者の瞳〉を得たのではなかったか。


 それを訊くと、亜流々は曖昧に笑った。


「ま、特例ってやつかな。ぼくが見えている時点で、きみは普通じゃないし」


「そんな適当でいいのかよ」


「いいのさ。それに、手を貸すんじゃない。助言するだけだ。修羅場や鉄火場でぼくの力を当てにはしないでくれたまえよ」


「肝に銘じておくよ。改めて、よろしく頼む」


 言いながら、由利は手を差し出した。


「……なんだい、この手は?」


「握手だよ。友達として、数秒だけ手を貸してくれ」


「……ふふっ。いいだろう、特別だよ?」


 亜流々が笑った。これまでのどこか芝居がかった喋り方とは違う、素朴で可愛らしい笑みだった。


「友達……か。その言葉に、打算が含まれていないことを願うよ」


 すぐに笑みはシニカルなそれに変わってしまい、今もひねくれたことを言っているが、それでも亜流々は由利の手を握った。


「よろしくな、亜流々」


「うん。よろしくね、由利くん」


 このような顛末を経て、由利は放課後、よもぎと接触を図ったのだった。




 ◆◆◆




『我々は泣きながら生まれて、文句を言いながら生きて、 失望しながら死んでいく』。


 それは、葛籠よもぎが折に触れて思い出す言葉だった。たしかイギリスのことわざだったはずだ。


 よもぎはこの言葉が好きだった。後ろ向きな言葉ではあるが、だからこそよもぎに慰めを与えてくれる。


 きっと自分はこれから先、あらゆる物に文句を言いながら生き続けて、最期には自分に失望して死んでいくのだろう。


 なればこそ、いつもよもぎが感じている虚無感も、きっと当然のものなのだ。


 だからよもぎは創作に埋没する。自由の空を羽ばたく代わりに、精神の海へ、深く深く潜っていく。


 胎児のように丸まって、自己の内面に沈み込んでいく。それは、退廃的な幸福のイメージをよもぎにもたらした。


 逆に、外の世界に関わるのは怖かった。風を浴びて呼吸するたびに、外の世界に染まってしまう気がして。だからこのまま、自分という存在を心の海に溶かしてしまいたいと、そう思った。


 そんな風に、葛籠よもぎは生きてきた。




 ◆◆◆




 翌日の朝、登校してきた由利のもとによもぎがやって来た。そして由利の耳元に顔を寄せると、


「ちゃんと読んできた?」


 朝一番、開口一番にそう訊ねられた由利は、鷹揚に頷いた。ちなみに、目の下にはクマが色濃く浮き出ている。


「……ああ。全部は読み切れなかったが」


「どうして? ぜんぶ読んできてって言ったよね」


 由利の答えがお気に召さなかったようで、よもぎは不満を顔に表した。もっとも、近くで注意深く見ていなければ気付かないくらいの微かな変化なのだが。


「無理言うな。何文字あるんだよあれ」


「しらないよ。とにかく、今日の放課後までにぜんぶ読んでおいてね。じゃないとアイディアなんて出せないでしょう」


「……分かったよ」


「じゃ、よろしくね」


 小声でのやり取りを終えると、よもぎは自分の席に戻っていった。


 昨日、『編集者』としてよもぎの創作に協力する約束をした由利は、さっそくよもぎのノートを渡され、昨日はそれを読み耽っていたのである。


 もともと放課後に話すはずだったのに、わざわざ進捗状況を訊いてくるとは。


「……そんなに気になるものなのか」


「そりゃそうだろう。あの娘に限らず、この年頃の少年少女が書くものっていうのはね、いわば自己承認欲求の具現のようなものなんだ。現実で自己主張できない分、作品の中で自己を主張する。そして、そういう人間はえてして作品に共感を求めるものなのさ」


 いつの間にか、隣に訳知り顔で滔々と語る亜流々が立っていた。


「だが、葛籠は読者の意見を拒絶しているんだぞ」


「たしかに彼女の態度はそう見えるが、本心では共感を求めているのさ。彼女の場合は、否定的な意見を切り捨てるだけの余裕がないだけと見える。あとは単純に羞恥心の問題だろう」


「よく分からないが、否定的な意見を切り捨てるのは良くないんじゃないのか。それが分かっているから、葛籠は初めから意見を求めないんだと思っていたが」


 由利が言うと、亜流々は大げさに肩をすくめた。小馬鹿にしたように「真面目だね」などと言い、こう続ける。


「否定的な意見なんて切り捨てていいに決まってるだろう。役に立たないし、気にしても邪魔なだけだ。そもそもの話、書きたいから書いているものは、同じく読みたいから読まれるべきなんだよ。読んでおいて気に入らないから否定するのはまだいいとしても、不満をぶつけるのは愚かとしか言いようがない。そういう連中には言いたくなるよ。小説に限らず、『作品をこき下ろすのが君たちの娯楽なのかい?』ってね」


「おまえにしては偏った物言いというか、ずいぶん感情が篭ってるな」


「まあね。というのも、ぼくは個人的に葛籠よもぎに肩入れしているんだ。なんというか、彼女には親近感が湧くよ」


 しれっとした亜流々の物言いに、由利は呆れを禁じ得なかった。


「……いいのかそれ。そもそも隠者っていうのは『世捨て人』のことだろ。それなのに特定の個人に肩入れするのは矛盾してないか」


「矛盾はしていないよ。肩入れしているとは言っても、しょせんは他人事だしね。でも、浮世離れしようと頑張っている彼女を見ていると、昔の自分を見ているようで、むず痒くも微笑ましい気分になるのさ」


 眩しい物を見るような顔で、亜流々は言った。


「なるほど。俺が葛籠の小説を読みたくなったのも、それと似たような理由なのかもな」


「これはまた異なことを言うね。まさかきみは、本心からあんなことを言ったのかい」


「あんなこと、嘘では言えないだろ」


 由利の答えに、亜流々は首を傾げた。


「ぼくはてっきり、彼女を攻略するための方便だと思っていたよ」


「攻略って……ゲームみたいな言い方だな」


「ぼくから見ればゲームみたいなものだよ。きみを操作して美少女を攻略するゲームだ。人生なんてクソゲーだけど、どうやら他人の人生はそうでもないらしい」


 ゲーム脳ここに極まれりというような発言である。由利の場合、いくら本を読んでも人生が物語だとはとても思えないのだが。


「そんなもんか」


 とりあえず、そう相槌を打っておいた。亜流々の言うことはよく分からない。あるいは、亜流々は隠者として由利との間に一線を引いているということなのかもしれないが。


「気分を害したかい?」


「いや、別に。俺の人生をおまえが楽しんでくれるというなら、それはそれで悪くない」


 これは本心だった。亜流々の露悪的な態度というか、敢えて忌憚のない意見をぶつけてくる性格は由利にとって心地の良いものだったからだ。


「お人好しだね」


「そう褒めるなよ」


 ふと気付いた。そんな軽口を叩き合う二人、正確には由利のことを、よもぎが注視していたのである。


「なあ、葛籠が俺たちのことを見ている気がする」


「きみのことを見ているのさ。多分、気になっているんだろう」


 亜流々の存在を認識できるのは由利だけなので、確かにそういうことになる。しかし、その理由にはピンとこなかった。


「俺がちゃんと葛籠の小説を読むかどうかをか?」


「それもだけど、きみが例のことを他人に話さないかどうか、だろう」


「話す相手もいないのに?」


「ぼくという友達がいるじゃないか」


「おまえは話すまでもなく知ってるけどな」


「半分当事者みたいなものだしね」


「え?」


「こっちの話さ」


 と亜流々にうそぶかれ、まあいいか、と由利は鞄からよもぎのノートを取り出した。


「さっそく読むのかい?」


「ああ。言われるまでもなく、続きは気になっていたし」


 ちなみに、ノートには紙のカバーがかけられている。書店で本を買った時などに掛けてくれるものだ。こうしておけば普通にハードカバーの本を読んでいるように見えるので、フェイクの意味でこうしていた。


 考案したのはよもぎである。「吾妻が読んでいるところを見られてあたしのだってバレたらどうするの」とのことだ。


 それに対して由利が「誰も俺が読んでる本のことなんて気にしないだろ」と返し、よもぎに神妙な顔で謝られたという余談もある。


「つまらないなあ。ぼくの相手もしてくれたまえよ」


 などと言いながらまとわり付いてくる亜流々を適当にあしらいながら、由利はその日ずっとよもぎの小説を読み進めていた。


 そして放課後、よもぎは真っ直ぐ由利の席に向かってきた。


「それじゃ、ついてきて」


「どこに行くんだ?」


「二人きりになれるところ」


 近くにいた男子生徒がぎょっとした顔でこちらを見てきた。どうやら聞かれていたようだ。自分のことを可愛いと言う割に、自分が周りにどう思われているかということに関心がないのだろうか。

 

 それなりに異性に人気があるはずのよもぎがこんなことを言っているのをクラスメートに聞かれでもしたら、場が騒然となることは間違いないだろうに。


「その言い方はまずくないか」


 流石に訂正したほうがいいと思い、由利は控えめに進言した。


「どうして?」


「葛籠にとって良くない誤解を招くからだ」


 由利の意図を理解しているのかいないのか。よもぎは、面倒くさそうにこう言い直す。


「……じゃあ、言いなおす。あたしの家か吾妻の家に行こう」


 ……まさかわざとやっているのだろうか?


例の男子生徒は椅子から転げ落ちた。わなわなと震えながら、鞄をひっつかんで教室を飛び出していくのを、由利は諦観に満ちた眼差しで見送った。


「凄いじゃないか。攻略は順調、イベントCGが見られるときももうすぐだね。むしろきみが外堀を埋められているようにも見えるけれど。葛籠よもぎは一線を越えた相手に対しては無条件でデレるタイプなのかな」


 亜流々に茶化されながら、二人は教室を出た。


「どっちがいい?」


 突然、よもぎが訊ねた。


「なんの話だ?」


 と由利は答えた。


「家のこと。できればあたしの家は遠慮してほしい」


「……要するに、俺の家に上げろと言いたいのか」


「お金がかからなくて、ぜったいにひとに見られない場所ならどこでもいいよ」


 となると、カラオケや喫茶店はおろか、図書館すら駄目だということになる。選択肢は無いに等しかった。


「……分かった。俺の家でいいか?」


「いいよ」


 こうして、よもぎを由利の自宅に上げることになってしまった。


 校門を出て、並んで歩く二人。亜流々が付いて来ているが、傍から見れば二人きりだ。


 歩幅は合わせているが、無言が続く。しばらくして由利が口を開いた。


「そういえば、葛籠は文芸部には入らないのか?」


 それは何気ない質問だったが、よもぎはふんすと鼻を鳴らした。


「入るわけないでしょ、あんなところ」


「でも、物書き仲間がいたほうが書きやすいんじゃないか? それこそ、ただの読者とは違う視点で意見を出してくれそうなものだが」


「あんなの馴れ合ってるだけ。そもそもあの人たち、ぜんぜん小説書いてないし。いつもアニメの男キャラと男キャラをからませて妄想してる」


「ほほう、腐った女子と書いて腐女子ってやつだね。まったく業の深い趣味もあったものだよ。かくいうぼくも少々嗜んでいるが、まあ生モノや百合もいけるクチのぼくとは相容れないだろう」


 後ろで亜流々が全く訳のわからないことを言っていた。腐ったというのはどういう意味だろうか。生ものが腐るのはまあ分かるが、百合に関しては全く意味が分からない。


「えっと、腐女子ってやつなのか?」


 とりあえず、亜流々の反応から単語を抽出してみたが、その単語を口にした途端、よもぎに据わった眼で睨みつけられた。


 それを見て、由利は瞬時に『これはヤバい』と悟ったが、すでに止めるタイミングは逃していた。そしてよもぎは怒涛の勢いで語り始める。


「そう。あんなの、何がいいのかわからない。美少年同士ならともかく、『美少年と野獣』とか、ましてや『野獣と野獣』とかいうコンセプトはありえないっていうかわけがわかんないよ。あと公式で推されてるノマカプをなぜか蛇蝎のごとく嫌ってるのとかもいるし。ううん、嫌うだけならいいけどそれを好きなひとを見ると攻撃するなんて絶対におかしい。ホモが嫌いな女の子はいないっていうし、まああたしも正直嫌いじゃないけど、普通のカップリングが好きってひとを過剰にたたくのは自分の嗜好が否定されるまえに自分から攻撃してやろうって考えがあるからであって、つまりそういうひとは自分の推しがマイナーだって自覚があるんだよね。ようするに、よわい犬ほどよく吠えるってこと。吾妻もそう思うよね?」


 由利は答えず、亜流々を振り返った。


「たすけて亜流々さん」


「きみのそんな弱々しい声は初めて聞いたよ」


「俺もこんなに淀みなく喋るよもぎは初めて見たよ」


 割と本気で助けを求めたのだが、亜流々は助け舟を出す気はなさそうだった。むしろ興味深げによもぎの話に耳を傾けている節すらある。


 孤立無援の状況に狼狽える由利へ追い打ちをかけるように、よもぎが謎の迫力で迫ってくる。


「吾妻も、そう、思うよね」


「うん思う思う。さすが葛籠さんの見識の深さには恐れ入ります」


「だよね」


 由利の回答に満足したのか、よもぎはそこで話を終わらせた。結局、腐女子の意味はよく分からないままだった。


 それからまた、しばらくの沈黙が訪れる。


「うーん、喋らないのはいいけど、きみ達は雰囲気が暗すぎるよ。見てるこっちが気まずいくらいだ」


 むしろ今のよもぎを喋らせる方が危険で気まずいような気がするのは由利だけだろうか。


 亜流々の発言の直後、今度はよもぎが口を開いた。


「今さらだけど、ほんとうにお邪魔してもいいの? おうちの人とかに迷惑じゃない?」


 どうやらいつものテンションに戻ったようだ。由利は内心ほっとしながら笑顔を返す。


「本当に今更だな。別に気にしなくていいぞ。母さんも夜まで帰ってこないし」


「兄弟はいないの?」


「いないな。弟か妹が欲しかったよ」


「なんだそうだったのかい? 水臭いじゃないか、言ってくれればぼくがいつでもきみの妹になってお兄ちゃんって呼んであげるのに。王道のツンデレ型、正道の甘えん坊型、一部に強い需要があるヤンデレ型、ナチュラルに萌えさせる素直クール型、甘えたくなる大和撫子型、甘やかしたくなるダメ人間型、そして一番おすすめのミステリアス僕っ娘型と幅広いオプションも取り揃えているよ」


「そういう葛籠は、兄弟はいないのか?」


 亜流々の発言を軽く流し、今度は由利が質問した。


「……いるよ。妹がひとり」


「そうなのか。葛籠に似てたりするのか?」


「ううん。似てないよ、全然」


「……そうか」


 よもぎの口調が硬くなったのを感じ取り、由利はそれ以上何も言わなかった。どうやら、よもぎにとって兄弟姉妹の話は楽しいものではないらしい。


 それから間もなくして、亜流々を含む三人は住宅街の一角に建つ一軒家にたどり着いた。母子二人で住むにしてはやや広すぎるが、居心地のいい我が家だ。


「ここが由利くんの家か。クラスの男の子の家に入るなんて初めてだ……なんだかドキドキしてきちゃったよ」


 などとのたまいながら恥じらう素振りを見せる亜流々だが、その表情は悪戯を考えている悪ガキのそれに近く、全く緊張しているようには見えなかった。どうせ由利の部屋を家捜ししてやろうなどと考えているのだろう。


「ここが吾妻の家なんだ。そういえば、男子の家にあがるのってはじめてかも……なんだかそわそわする」


 これまた恥じらう素振りを見せるよもぎだが、やはりこれまた全く緊張しているようには見えない。そもそもまるで表情が変わっていなかった。


「まあ遠慮せずに上がってくれ」


 そう言ってよもぎを促す由利に、


「ねえ、吾妻のほうはどうなの?」


 と、よもぎが問うた。


「どうって……何を訊いてるんだ?」


「吾妻は、女子をおうちに上げるのははじめて?」


「いや、そんなことはないけど」


 すると、よもぎは衝撃を受けたかのように、一歩後退りした。


「う、うそ……吾妻があたしより異性に慣れてるだなんて」


「なんだそのショックの受け方」


「あたしはこんなにかわいくても全くモテないのに……ちなみに、だれを上げたの?」


 この問いに関しては、答えるべきか迷った。何故なら、本当のことを言うとたいていの人が由利にとって好ましくない反応をするからである。


「黙秘するの? まあ、言いたくないならべつにいいけど――」


「あれ、由利さん? 葛籠さんもご一緒なんですね」


 そのとき、だんまりを決め込もうとしていた由利の背後から、鈴を転がすような美声が聞こえてきた。


 よもぎは振り返り、そこにいた人物の姿を見て驚愕する。


「ま、黛透子(まゆずみとうこ)……?」


 そう、由利の一つ年上の幼馴染にして、演劇部の華と謳われた才女――黛透子がそこにいたのである。


 フルネームを呼び捨てされたにもかかわらず、彼女はそれを意に介していなかった。


 それどころか、花が咲くような笑顔を浮かべ、たおやかな所作でお辞儀をしながらこう言ったのである。


「ごきげんよう、葛籠さん」


「ご、ごきげんよう」


 思わずつられて挨拶を返してしまったよもぎ。よもぎの方はぎこちないが、透子の場合は、普通ならふざけているように見えるセリフにもまったく違和感がなく、嫌味っぽくもない。黛透子は、そういう少女だった。


「……演劇部はいいのかよ、黛。プリマドンナがいなくて練習になるのか?」


「ふふ、プリマドンナなんて大袈裟です。そもそも歌うわけじゃありませんし……ああでも、オペラはともかくミュージカルはやってみたいですね。ちなみに部活は定休日です」


「そうか。で、何か用があったのか?」


 鬱陶しそうな態度を隠しもしない由利に対し、透子は気分を欠片も害していないかのような完璧な笑みを向ける。


「たまたま通りかかっただけです。もしかして、お邪魔してしまいましたか?」


「いいいいいえそんな、とんでもありませんわ」


 何故かよもぎが答えていた。しかも透子の口調が中途半端に伝染っておかしなことになっている。


「……葛籠。何をそんなテンパってるんだ?」


「だ、だって黛さんに話しかけられるのなんてはじめてだし」


 意外な一面だった。『葛籠よもぎは人見知りでテンパりやすい』――新たな事実を脳内に刻み込む。


「そうなんですか。てっきり二人はお付き合いしてるのかと思いました。嬉しいような残念なような、複雑な気持ちです。ふふっ」


 冗談めかして笑う透子に対し、由利は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「そうか。俺のためにあんたが気を揉む必要はないぞ。大人しく、『由利くん』が戻ってくるのを待っていればいい」


 すると透子は初めて笑みを消し、誰もが憐憫の情を禁じ得ないような哀しみの表情を浮かべた。


「それは違います、由利さん。私はあくまで」


「葛籠。そろそろ入ろう」


「えっ、でも」


 透子の言葉を遮って家に入ろうとした由利だが、結果的にそれは叶わなかった。


「……由利さん。私、安心しました。私以外にもお家に招待するようなお友達ができたんですね」


 透子の何気ない言葉に、よもぎと、それまで傍観者に徹していた亜流々が反応した。


『……私以外にも?』


 奇しくも、そう言って振り向く二人の動作は、由利から見て完全にシンクロしていた。ただし、よもぎはどこか迫力のある無表情だったのに対し、亜流々は新しいおもちゃを見つけた子どものように笑っていたのだが。


 緊迫した空気が流れるが、この空気を作り出した張本人である透子は、さっきの哀しそうな顔が嘘のように平然としている。


 完全に透子にしてやられた形だ。いつものことではあるが、彼女の方が由利より何枚も上手のようだった。


「黛さん、あなたと吾妻はどういう関係なんですか?」


 そして、よもぎが不躾な問いをぶつけても、その泰然とした振る舞いはわずかにも揺らぐことはなかった。


「私から見て由利くんは幼馴染なんです。だから昔から仲良くさせてもらってるんですよ」


「……『私から見て』ってどういう意味ですか? 吾妻にとってはちがうってことですか?」


 流石に読書家なだけあって修辞に関しては耳ざといようだ。透子が些細な言葉の違いに含ませた意味に、よもぎは勘付いた。


「……いえ、言葉の綾です。忘れてください。それでは私はこれで失礼しますね。由利さん、葛籠さん、また明日学校で」


 透子は柔和な笑みを浮かべたまま顔の横で手を振ると、踵を返して歩き去って行った。


「……黛透子ね。確かに以前学校でも言葉を交わしているのを見たことはあるけれど、まったく仲が良さそうには見えなかったし、てっきり黛透子がぼっちのきみを気遣って声を掛けてあげていたのかと思っていたよ」


「合ってるよ。黛は記憶喪失の可哀想な元幼馴染みにボランティアで話しかけてるんだ」


「ふむん? トゲのある言い方じゃないか。きみも嫌味とか言うんだね」


「俺をなんだと思ってるんだ。俺だって苛つきもするし、みっともなく当てつけがましいことを言ったりもするぞ」


「自分でそれを申告するような人はそういないと思うけれどね」


 苦笑混じりにそんなことを言われ、由利はため息をついた。実際、心がわずかにささくれ立ってはいるものの、概ね平生の心理状態である。


 この透子に対する苛立ちも、やがて残滓すら残さず消えてしまうのだろう。まるで、どこかよそに捨ててきてしまうように。


「ねえ、吾妻。黛さんが言ってたのはどういう意味?」


 そのとき、亜流々との会話を認識できないよもぎが、そんな質問をしてきた。


「そのままの意味だよ。吾妻由利と黛透子は昔からの知り合いなんだ」


「なにその他人ごとみたいな言いかた。もしかして、黛さんのことがキライなの?」


 よもぎの視線に険が籠もった。彼女にとって、透子は憧れの存在なのだろうか。さっきはむしろ透子を苦手としているように見えたのだが。


 ただ、「憧れている」のと、「苦手としている」のは、必ずしも両立しないわけではない。ともすれば、よもぎが透子に抱く感情はやや複雑なのだろうか。


 ほかならぬ由利自身も、透子に抱く感情はかなり複雑なものだった。


「嫌いというと語弊がある。ただ、俺には黛の『幼馴染としての』厚意に応える資格がないんだ。だからなるべく関わらないようにしている」


 他人事のように、とよもぎは言ったが、正しくその通りである。記憶を失っている由利にとって、黛透子が幼馴染として憎からず思っている『由利くん』は、自分ではない誰か別人でしかないからだ。


 だから今の由利のことを、透子には『由利さん』と呼ばせているし、今の由利が黛透子の幼馴染として振る舞うことを、他ならぬ由利自身が許さないのである。それは、今の由利が決して越えてはならない一線だった。


「でも黛さん、かなしそうな顔してたよ」


 よもぎの口調にはやや責めるような響きが含まれていた。由利はそれを少し意外に思いながらも、狼狽することなく毅然とした態度でよもぎを諭す。


「そうだな。でも心配はいらない。ああ見えて黛は強かなんだ。実際のところ、今の俺にどう思われたところで、黛は痛くも痒くもないと思う」


 そう。結局のところ、今の由利と透子はかつて幼馴染だったというだけの、ただの他人にすぎないのだから。


 むしろ、記憶が戻るまで由利なんかとつかず離れずの距離を保たねばならない透子の方も、内心忸怩たる思いでいるに違いない。


 よもぎはそれ以上何も言わなかった。肝心の記憶喪失について知らないよもぎが、由利の言っていることの意味を正しく理解することは不可能だろう。


 とはいえ、由利とてそう軽々しく自分の急所をさらけ出すことは出来なかった。


「ほら、とっとと入るぞ。黛じゃなくても、こんなところに二人で突っ立っているのを見られたら誤解される」


 結局、由利がそう言って家の玄関を開けると、よもぎは普段通りの無表情でついてくるのだった。




 ◆◆◆




「悪いけど、用意がないから大したもてなしは出来ないぞ。コーヒーくらいなら淹れられるけど、飲むか?」


「いえいえ、おかまいなく。カフェモカでおねがい」


「また微妙に面倒な注文を……」


 由利の部屋によもぎを通し、飲み物と軽食を用意して、ついに初めての『打ち合わせ』が始まった。


「じゃ、なにから話そっか」


 コーヒーにココアパウダーを混ぜただけのカフェモカもどきに口を付けながら、よもぎが言った。


「まず、葛籠は俺からどんなアイディアを引き出したいのかを明確にしてくれ。それによって俺の言いたいことも変わってくる」


「にがい」


「なあ話聞いてる?」


 どうやら砂糖とココアが足りなかったらしい。しかしよもぎが飲んでいるのは、それ以上甘くするならもはや普通にココアを飲んだほうがいいと言える代物である。由利は呆れながら砂糖壺を差し出した。


「きいてるよ。吾妻には、ネーミングや今後の展開についてかんがえてほしい」


「今後の展開……はともかく、ネーミングってなんだ」


「つまり、技名とか、武器の名前とか、敵キャラの名前とか、呪文の内容とかそういうの」


 砂糖の瓶を傾けながら、いつものフラットな口調とは違う、やや熱のこもった口調でよもぎは語る。好きなことについて語るときは饒舌になる、典型的なオタクの特性だった。


「なるほど、ネーミングねえ……だが、それだと葛籠のセンスに俺のセンスが混ざってしまうんじゃないのか?」


「べつに吾妻のアイディアをそのまま使うわけじゃないよ。あくまで参考にするだけ。だから吾妻もそのつもりで気楽にアイディアをだしてね」


 どうやら、よもぎにとっての『編集者』というのは、その程度の存在らしい。実際のところは知らないが、本来の力関係と逆なのではないのだろうか。


「ええっと、確かタイトルは『姫騎士アルテミシア』だったよな。主人公の名前はアルテミシアで、主人公が持つ聖剣の名前がメルクリオン……他にはどんな剣があったっけか」


「火を司る聖剣マルセリオンと、風を司る聖剣ユピテリオンがあるの。ちなみにメルクリオンは水を司る聖剣だよ」


「なるほど……ところで、地を司る聖剣はないのか? 地水火風のうち三つまであるのに」


 由利の指摘に、よもぎはどこか嬉しそうにこう返す。


「それはあたしも考えたんだけど、どうしてもいい名前が思いつかなくて……ちなみに剣の名前は」


「天体の名前から取ってるんだろ?」


 由利に発言を先回りされ一瞬呆けたよもぎだが、すぐに目を輝かせた。


「わかるの?」


「まあな。ユピテル、マルス、メルクリウス……天体のラテン語読みは一通り知ってる。となると地を司る剣の名前は土星から取るべきなんだろうが……土星はサトゥルヌスだったよな。確かに、剣の名前にはしづらいか」


「…………!」


 よもぎは口をパクパクさせている。そんなよもぎの様子に気付かない由利は、少しの間考え込んだ後、思いついたことを口にした。


「ならここは、敢えて地球から取ってみるか。地球のラテン語読みの『テラ』をもじってテラケリオンとかでどうだ?」


 由利がその回答に辿り着いた次の瞬間、由利の右手はよもぎの両手によって強く強く握られていた。


「……どうした葛籠」


 状況が掴めず困惑する由利の目と鼻の先に、よもぎの端正な顔が迫って来た。


「すごい……すごいよ吾妻! あたし、こんなに話が合う人はじめて!」


 よもぎの反応に対して、由利は困惑したような苦笑いを浮かべる。


「え? いや、そんな大袈裟な。天体から取るっていうのはもともと葛籠のセンスだろ」


「よもぎでいいよ。よもぎってよんで。吾妻となら、きっとすごく良いものが書ける気がするの。実はあたしも、そうしたらいいんじゃないかなって思ってたんだ」


 よもぎは眼をキラキラさせながら、由利の顔を覗き込んでいる。顔が熱くなった。


「なるほど。きみを照れさせるにはそうやればいいのか。歳不相応に落ち着いて見えるけど、実はけっこう初心なんだね」


 勝手に部屋の本や漫画を読み漁っていた亜流々が思い出したように由利を茶化してきたが、それに反応する余裕はない。


「葛籠……じゃなくてよもぎ。ちょっとキャラ違うんじゃないか? そもそも、俺が言ったことはよもぎも思い付いてたんだろう?」


「うん。だからこそうれしいの。あたしの発想に同意してくれるひとがいるのが。あたしとおなじレベルで話ができるひとがいるのが」


 よもぎはまるで砂漠でオアシスを見つけたかのような表情で由利を見ていて、いっそばつが悪くなった。さすがに買い被られすぎだ。


「あのな、よもぎ。あまり俺のことを買い被らないでくれ。さっきのはたまたまだし、いつもよもぎを唸らせるようなアイディアなんて出せないぞ」


「ううん、そんなことない。……あたし、ずっと吾妻のこと疑ってた。あたしのからだが目当てで近づいてきたんじゃないかって。あたしの小説なんてほんとはどうでもいいんじゃないかって。でも違ったんだね」


「身体が目当てってお前」


 ドラマの中くらいでしか聞いたことのないようなフレーズである。


「いまはそんなこと思ってないよ。わかってる。黛さんと知りあいなんだもん、あたしなんかあの人にくらべればものの数にはいらないってことくらい」


 その言葉で、由利はフッと我に返る。


 まただ。普段は自分を可愛いと言ってはばからないくせに、たまにこんな風に卑屈になってしまうことがよもぎにはある。


 むしろ、よもぎは本来こういう性格なのかもしれない。今のように嬉しいときや、階段からあわや転落しそうになったとき、そして自分の小説を読みたいと言われたとき――つまりある一線を越えて感情の振り幅が大きくなったときに、本来の卑屈さが露わになってしまうのではないだろうか。


「……そんな言い方するなよ。俺からすれば、黛なんかよりよもぎの方がずっと可愛いと思うぞ。あ、いやもちろん身体が目当てとかではないんだが」


 またぞろ変態扱いされかねないと、取って付けたような自己弁護には反応せず、よもぎは自嘲気味な、眉尻の下がった笑みを浮かべた。


「……そんなのありえないよ。だれだって、あたしみたいなネクラで無愛想で内向的な女の子より、黛さんみたいな明るくておしとやかで社交的な女の子の方がいいにきまってるもん」


「どうしてそう決めつける? 俺はそうは思わない」


 実際、由利にとって透子の性格は今やどこか空々しく鬱陶しいものでしかないし、逆に亜流々やよもぎは一緒にいて気が楽な相手だった。


 畢竟するに個性そのものには優劣などないということだ。だからこそ、個性すら持たない由利は、よもぎのように自分の個性を小説という形で表現できるのが羨ましく感じるのだろう。


『やりたいことがある』『書きたいものがある』


 そういう想いが、由利にとっては何よりも尊く、輝かしく見えるのだ。


「……吾妻は優しいんだね」


「初めて言われたよ」


 その発言を聞くに、どうやら由利の言葉は単なる優しさからの慰めに捉えられたようだ。


「ありがとう。吾妻の言葉で、すこし救われた」


 ――救い?


 由利はその言葉に引っ掛かりを覚えた。なぜそんなことを言う? お前が求めているのは、本当にそんなものなのか?


 結局、その日は二人の間にどこか気まずい空気が流れ、初めの勢いを失ったまま日が暮れてしまった。


「もう暗くなってきたな……そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」


「うん、そうだね。そろそろおいとまさせてもらう」


「送っていこうか?」


「ううん、大丈夫。そんなに遠くないし。それより、またこうして話してくれる?」


 よもぎは相変わらず、由利という理解者ができたことが嬉しいらしい。どこか説教臭いことも言ってしまったが、まだ由利を必要としてくれているようだった。


「ああ、もちろん。でもあんまりうちに来すぎるのは……」


「やっぱり、迷惑だった?」


「迷惑とかじゃなくて、よもぎのためを思って言ってるんだ。もし俺の家に頻繁に来てるなんてことを親御さんが知ったら、きっと止めてくるぞ」


 もちろん由利によもぎをどうこうするつもりはないのだが、娘を持つ親にその言い分が通じるかどうかは自明の理である。


 ところが、由利のこの説得は、よもぎにはピンとこないようだった。


「たぶんうちの親はなにも言わないと思う。あたしに関しては放任主義だから」


「……そんなもんなのか? だとしても、やっぱり他の場所を見つけるべきだと思うぞ。学校の空き教室とかないのか?」


「わかんない。探せばあるかも」


「じゃあ一緒に探そう。俺だってお前と話すのは楽しいから、そういうのも協力するつもりだ」


「……ありがとう。やっぱり吾妻はやさしいよ。でも不思議だね、こんなにやさしくていろいろ知ってるのに、どうして全然友だちがいないの?」


 悪気はないのだろうが、けっこう耳が痛い言葉だった。


「……本ばっかり読んでる根暗野郎だからじゃないか」


「じゃあ、あたしと一緒だね」


 よもぎが嬉しそうに言ったが、由利はそれに同意しかねた。


「よもぎには友達がいるだろ」


 クラスでよもぎが浮いているようには見えない。むしろよもぎの周りにはいつも何人か女子がいたはずだ。


「友だち……なのかな。ただ独りぼっちになるのがいやで、『友だちがいない』って思われるのがいやだから一緒にいるだけなんじゃないのかな。あたしは別にあの人たちじゃなくてもいいし、あの人たちだって、一緒にいてくれるならあたしじゃなくてもいいんじゃないかな」


 よもぎの言っていることの意味はよくわからないが、傍らで話を聞いていた亜流々がこんなことを言った。


「寄らば大樹の陰って言うだろう? クラスカーストの上位に入れない女子たちにとって、葛籠よもぎは寄りかかるのに最適な樹なんだよ。自分で言う通り可愛い顔をしてるからね、一緒にいると自分もそれなりの扱いをしてもらえるんじゃないかって期待してるような子が群がってくるんだろう」


「……なんだよそれ。それじゃまるでよもぎが利用されているみたいじゃねえか」


「みたい、じゃなくて利用されているんだよ。そしてそういう輩の感情はふとしたきっかけで嫉妬に裏返る。責任を転嫁され、憎悪の対象となる。葛籠よもぎはそれに薄々気が付いているんだね。だからあの連中を友達などと呼称したくはないのさ」


「それは、〈隠者の瞳〉で分かったのか?」


「いいや。この程度、眼を使うまでもない。というより、隠者になるまでもなく、ぼくは知っていたよ。人間の醜さを、愚かさを、汚さを、下らなさを、浅ましさを、そして気持ち悪さをね」


 そう言って、亜流々は眼を逸らした。いったいその瞳にはどんな感情が浮かんでいるのだろうか。


 由利やよもぎに対して好意的であるがゆえに忘れがちになってしまうが、亜流々は隠者――世捨て人なのだ。


 彼女はもともと、人間に失望し、世界の外側で生きることを選んだ。それはつまり、彼女は人間の嫌なところを幾度も見せつけられてきたということなのだろう。そうなるに至るまでの苦しみ、懊悩のほんの一部すら、由利には想像することもできない。人と関わることを恐れ、人を遠ざけて生きてきた由利には。


 亜流々もよもぎも知っていることを、由利は知らない。知る機会もなく、知ろうともしなかったからだ。


 ――だが、今は違う。由利自身が、少しずつ変わり始めている。よもぎとの、そして亜流々との出会いによって。


 もともとはよもぎの願いを解消するためだったはずが、いつの間にか、由利自身も求めてやまなかった関係性を手に入れかけていることにようやく気付いた。


 その先にあるものが、亜流々がたどり着いた失望の結末なのか、そうでないのかは分からないが……


「それなら、俺とよもぎは友達だな」


 少なくとも今は、その事実を噛み締めていたかった。


「え?」


「だってそうだろう。俺はよもぎじゃなくてもいいなんて思わない。あんな面白い話をかけるよもぎじゃなきゃ駄目なんだ。そういう相手が、友達なんじゃないのか?」


「……そっか。うん、そうだね。あたしもそう思う。あたしも、吾妻じゃなきゃダメだもん。あたしたちは、友だちなんだね」


 どちらからともなく、照れたような笑みを浮かべる。


 そんな二人を、亜流々がどこか冷めたような眼差しで見つめていた。




 ◆◆◆




「良かったじゃないか由利くん。最初の一日でこんなに進展するとは思わなかったよ」


 よもぎが帰った後も由利の部屋に残っていた亜流々が、そう言って笑った。


「いや、俺とよもぎはそういうのじゃないぞ。普通の友達だ」


 由利の生真面目な言葉に、亜流々はぽかんとした。


 やがて何かを悟ったように繰り返し頷くと、今度は半眼を向けてきた。


「なんだよ、その眼。呆れてるのか?」


「二つの意味で呆れているよ。あのね、ぼくが言ったのはきみと葛籠よもぎの関係のことじゃなくて、『願いの解消』の件だよ」


「…………あ」


「まさか忘れていたのかい? 文字通りの死活問題を?」


「そんなわけないだろう」


 口でははっきり否定しているものの、分かりやすく目が泳いでしまっていた。由利は感情を抑えるのが得意な割に、嘘をつくのは苦手だった。


「まったく、きみって奴は……つくづく大物だね」


 嘘を見抜いた亜流々が呆れるのも無理はない。今由利が置かれているのは生きるか死ぬかという状況だというのに、渦中の由利は(亜流々を除いて)初めて出来た友達に浮かれてすっかりそれを忘れていたのだから。


「……とはいえ、案外きみのそういうところがプラスに働いたのかもね。あくまで自然体で接したからこそ、彼女も心を開いたように見えたし。初めから目的ありきで近づいたらこうはいかなかったかもしれない」


「そんなものか?」


「そんなものだよ。もっともきみの場合は単に腹芸が出来ないというだけなんだろうけど。打算を含めてものを考えるのがとても下手だ。女の子を攻略するなら、ときには優しい嘘をつくことも必要だよ」


「呆れたり褒めたり貶したり諭したり、何なんだよまったく」


「貶したつもりはないんだけれどね」


 そうは聞こえなかったが。


「何にせよ幸先がいい。このまま行けば葛籠よもぎの心の隙間を埋めることは容易だろう。きみは彼女が強く求めていたはじめての理解者となったんだからね」


 亜流々は嬉しそうに頷いていた。彼女から見ても、由利は今日一日でよもぎとの距離を縮めることに成功したようだ。


「ちなみに、例の化け物――穢霊ってのが現れないようになったら分かるのか?」


「そのはずだよ。きみが『穢霊の生まれる未来』を変えた時点で、ぼくにはそれが分かるからね」


「そうか……」


 亜流々の話では、何もよもぎの願いをそのまま叶えなければならないわけではないらしい。要するに精神的、心理的に満たされていれば、穢霊を生み出すほどの強い願い、渇望が生まれることはなくなるという理論だ。


 ――だが。それはつまりよもぎの心を誤魔化すことになるのではないか?


 由利の気持ちがどうあれ、助かるためによもぎの心を変えてしまおうとしていることには変わらないのではないか?


 ずっと心のどこかに引っかかっていたその考えが、亜流々の言葉によって改めて由利にのしかかってくる。


「……そういえば、もう一つの意味って何なんだ?」


「何の話だい?」


「さっき言ってただろ。二つの意味で呆れたって。もう一つは何なんだ?」


「ああ……そっちは言うわけにはいかないかな」


「どうしてだよ」


「ぼくの口からそれを言うのは、葛籠よもぎにとってあまりな酷なことだからだ」


「よもぎ? よもぎが関係あるのか?」


 由利は食い下がるが、亜流々は決してそれ以上答えることはなかった。


「……まあいいか。で、おまえはいつ帰るんだよ?」


「なんだ、帰って欲しいのかい? こんな美少女を捕まえて厄介者扱いだなんて……まさか葛籠よもぎの残り香でいかがわしい行為にふけるつもりではないだろうね?」


「違うっつの。すごい発想だな。……まあ居たいなら居ればいいさ。二人きりだし、オセロかチェスでもやるか?」


 由利が提案するも、亜流々の反応は芳しくなかった。


「いや……それよりぼくはきみの部屋の漫画を読んでいたいかな」


「そうか。まあ、俺は元々特別好きなわけじゃないんだが、亜流々が乗ってこないのは少し意外だな。ゲーム好きなんじゃなかったのか?」


 すると、亜流々は不服そうな顔でこんなことを言うのだった。


「テーブルゲームとビデオゲームは全く別のものだろう」


 亜流々は当たり前のように言うが、由利にはあまりピンと来なかった。


「そういうものなのか?」


「そういうものなんだ。……テーブルゲームは、むしろ嫌いだよ」


「え?」


「おっと、今のは忘れて。単に今はきみの趣味を知りたい気持ちが勝っただけさ」


 そう言っておどける亜流々の表情はいつも通りのアルカイックスマイルだったが、由利は確かに亜流々の不快そうな表情を見た。それはどこか超然とした亜流々が初めて見せる『人間くさい』表情だった。


 その後亜流々は一時間ほど由利の部屋に居座ってから帰って行ったが、一瞬見せた彼女の隙のある表情が、ずっと頭から離れなかった。




 二日目終了。


 ――〈常夜〉の訪れまで、残り五日。




 ◆◆◆




『神崎くん……今、私のパンツ見た?』


 今、由利が見ている携帯ゲーム機の画面上には、顔を赤らめたピンク色の(という表現が的確なのかは分からないが、由利にはそうとしか見えない)美少女のバストアップ絵と、上記のテキスト、そして三つの選択肢があった。


 一つめは『大丈夫、見てないよ』。


 二つめは『うん、まあ……』。


 三つめは『いや、よく見えなかったからもう一回見せてよ(ペロン)』。


「ふーむ……これは三つめの選択肢を選ぶべきだね」


 画面を見てしばし考え込んでいた亜流々は、自信ありげにそんなことを言った。


「いや、どう考えてもそれだけはないだろう」


 それを由利が一蹴すると、亜流々は大袈裟に肩をすくめた。


 外国のホームドラマ気取りかよ。


「分かってないねえ由利くん。これはファーストコンタクトなんだよ? まずは彼女にきみの分身たる主人公の存在を印象付けなきゃ」


「いや、主人公の苗字はおまえだからな? 主人公の半分はおまえでできています。それに、第一印象がパンツ見たがる変態な奴を好きになるはずないだろう。これ、後に付いてる擬音的に考えて、言いながら自分でめくってるからな? もはや偶然のラッキースケベじゃなくて単なるスケベ野郎になっちまうからな?」


「そこを敢えて、だよ。普通の選択肢だけ選んで、普通の展開だけで進んでいくギャルゲーなんて嫌だろう? ゲームでまで保守的になってどうするんだ。もっと冒険していこうよ」


「それだと何の参考にならないじゃねえか」


「何のために恥ずかしい思いをしてまでギャルゲーを買ったと思っているんだい? 画面の向こうの彼女たちに癒されるためだろう?」


「恥ずかしい思いをしたのは俺だけだっての。そもそも、俺はあくまでよもぎとの接し方の参考にするためにだな」


「まあまあ、騙されたと思って、ここはぼくの言うとおりにしてごらんよ。このゲームマスターにして落とし神の亜流々さまのね」


「……分かったよ」


 これ以上議論しても無駄と悟った由利は、おとなしく三つめの選択肢を選んだ。すると次のテキストが表示され、美少女の立ち絵も違うものに変わった。


 ……まるでゴミを見るような目つき。さらに体が完全に向こうを向いており、押し寄せる衛生害虫の群れを目の当たりにしたかのようなドン引きっぷりを全身で表現している。口元に手を当てて、今にも『うわ、あたしのクラスメートキモすぎ……』とでも言いだしそうな、そんな表情だった。何となく人相も変わっている。


『……うわ、神崎くんってそういう人だったんだ。クラスのみんなに教えとこ』


 少女はスマホを取り出し、クラスの女子に主人公こと神崎由利の言動を拡散した。


 それにより由利(非実在)の評判は地に落ち、以降三年間、寂しい青春時代を過ごすようになったとか……


 灰色の空に半透明の主人公の姿がフェードアウトする。前髪で隠れて顔は見えないものの、どこか物悲しげな表情をしているように見えた。


『YOU DIED……』


 暗転した画面上に血文字のようなおどろおどろしい書体のメッセージが浮かび上がり、由利(実在)はゲームオーバーとなった。


「……おい、主人公死んでるぞ」


 脱力したような口調の由利がゲーム画面から視線を外し、亜流々を非難するような目で見た。というか、実際非難しているのだが。


「まあ、社会的には死んだも同然だからね。女子の情報拡散能力を舐めてはいけないよ」


「うん、どっちかっていうと恋愛そのものを舐めてたよ俺は。まさか死ぬとは思わねえもん。つまり人生は死にゲーってことか? 死んで覚えるのか?」


 そんな殺伐とした学校が舞台のゲームしたくないというのが本音だった。


「しかしこんな体たらくでよくもまあ……って、ああそうか。落とし神ってのはつまり主人公を落とすって意味だったんだな……社会の最底辺に」


 由利が皮肉を言うと、亜流々は何故か嬉しそうに笑った。


「うまいことを言うね。こんなにエスプリと皮肉が利いている由利くんに比べて、由利くんはほんと駄目な男だよ」


 もう何が何だか。ちゃんと(実在)とか(非実在)と付けてくれないと分からない。


 だが、今重要なのはそこではない。亜流々の言ったとおりにした結果一人の非実在青少年が社会的に死亡したというのに、亜流々はまるで悪びれていなかった。


「……それよりどういうことだこれは。話が違うぞ。ぜんぜん駄目じゃねえか。何がぼくの言うとおりにしてごらん、だ」


「うん。駄目だったね。これで分かっただろう? 女の子への接し方にマニュアルなんてないってこと。最終的には自分の気持ちに正直になることが大切なんだ」


 しれっとそんなことを言ってのける亜流々。今回の趣旨が考案した当人によって全否定されたという驚愕の瞬間であった。


「……まあ、俺は何があってもよもぎのスカートをめくったりしないことにするよ」


「それは賢明だ。めくるのならぼくのにしておきたまえ」




 そもそも何故こんなことになっているのか。ことの始まりは数時間前にさかのぼる。




 ◆◆◆




「由利くん。今日の放課後はゲームを買いに行こう」


 今日は木曜日だ。由利がよもぎの『編集者』になって三日目になる。


 その日、由利が登校するなりそんなことを言いだした亜流々に対し、由利は半眼を向けた。


「……はあ?」


「おや、なんて冷たい視線……やめてくれたまえ、ドキドキしちゃうから」


 顔に両手を当てながら身体をくねらせる亜流々。それには特に反応を示さず、由利はため息をついた。


「いきなり何を言い出すんだおまえは。そんな暇あるわけないだろ」


 次の火曜日までによもぎの願いを解消しなければ、由利は穢霊とかいう怪物に魂を食われて死んでしまうらしい。それを教えてくれた当の亜流々が、何故わざわざいま由利を遊びに誘うのだろうか。


「今だからこそ、だよ。葛籠よもぎの願いを解消する以前に、彼女に嫌われてしまったら打つ手が無くなってしまうだろう。だからここは、彼女との接し方を学ぶ上で最も優れた教材にあやかろうというわけさ」


「最も優れた教材?」


 由利が首を傾げると、亜流々は得意げな顔をした。


「そう、つまりギャルゲーだ。ギャルゲーを買いに行こう。奇しくも今日は、新しいギャルゲーの発売日だからね」


「ちょっと待て。百歩譲ってギャルゲーをやるのはいい。でもそれならおまえが元々持ってるやつをやればいいんじゃないか? その方が今回の趣旨には合っていると思うぞ」


 よもぎ――というか女の子との接し方を学ぶためにギャルゲーをやるというのなら、亜流々が内容を知っているゲームを由利にやらせる方が効率的だろう。


 しかし、亜流々はそれをあっさりと却下した。


「それじゃあぼくがつまらないじゃないか」


「……さてはおまえ、自分が新作のゲームをやりたいだけだな?」


 亜流々は何も言わずに、ぺろりと舌を出した。可愛いが、あざとい。あざといが、可愛かった。


「ならばこう考えてくれ。きみはぼくのおかげでいずれ訪れる脅威の存在を知ることができた。つまり今の状況そのもの、ぼくがいなければ成り立たなかったわけだ。きみはぼくの協力に対する報酬を払っても罰は当たらないんじゃないかな?」


「つまり、『協力してやるからゲーム買ってくれ』ってことか」


「うん、まあそうとらえてもらって構わない」


 構わないも何も、それ以外の意味にとらえようがない。由利はまたしても軽くため息をついた。


「……分かったよ。それがお前への感謝のしるしになるっていうなら、ゲームくらい買ってやる」


「そう来なくてはね」


 その後、由利は嬉しそうな亜流々を連れて、学校帰りにゲーム屋に寄ることにした。


 余談だが、何気に大変だったのがよもぎへの説明である。昨日の今日で、「今日は用事が出来たから打ち合わせはできない」と言うのはさすがに心苦しかった。


『あしたは、いっしょにいてくれる?』


『ああ、もちろん。明日は一緒に空き教室を探そう。な?』


 というやり取りがあり、よもぎも不機嫌になったりはせずに由利の言葉を聞いてくれたが、その間ずっと寂しそうな顔をしていて、強烈に刺激される庇護欲を抑えるのが大変だったのを覚えている。


 ゲーム屋に到着すると、亜流々は目を輝かせて店内をうろつき始めた。


「おい、今日買うものは決まってるんだろ? 早く買って帰ろうぜ」


「分かってないなあ由利くん。『女の子の買い物が長い』っていうのは、二次元三次元問わず常識だろう」


「そのシチュエーションはゲーム屋でも成り立つものなのか……?」


 確かにお約束だが、それは服選びに時間がかかるとか、そういうニュアンスではないのだろうか。


「了見が狭いねえ由利くん。まあ、確かに今日は目的がはっきりしていることだし、さっさと帰ろうか。じゃあ由利くん、これを買ってきて」


 そういって亜流々が差し出したパッケージには、個性豊かかつ色彩も豊かな美少女たちのイラストと、『やきもきモーメント2』というタイトルロゴが描かれていた。


「略して『やきモメ』だ」


 と、亜流々が訊いてもいないのに説明してくれた。


 小さく『ポータブルエディション』と書いているので、どうやら携帯機用のソフトのようだ。


「据え置き機版もあるけど、きみの家にはなかったからね。携帯機ならぼくのを貸してあげられるし」


「俺の家でやる気なのか?」


「他にどこでやるのさ」


 確かにそうだ。とはいえ、若干気は進まなかった。これをプレイしているところをもし母に見られたらどう思われるだろうか……


「それより由利くん、このソフトを見てどう思う? 面白そうかい?」


 亜流々に言われて、由利は改めてパッケージを矯めつ眇めつしてみる。ギャルゲーのことはよく分からないが、悪くないのではなかろうか。いろいろな好みに合わせたキャラクターがいるのが分かるし、絵柄も好みの部類だ。……というのが率直な感想だった。


「これ、『2』ってことは続編なのか。まあ、それなら多少は安心か」


 続編ということは、前作と全く違うコンセプトということはないだろう。おそらく、前作を知っている亜流々がこれなら趣旨に合うと考えたはずだ。そして続編が出ている時点である程度のクオリティは約束されているともいえる。なかなか良いチョイスなのではないだろうか。


「ふふ、果たしてやきモメは『シリーズものの2は駄作になる』の法則を覆してくれるのか……楽しみだね」


 亜流々の独り言を聞いて、途端に不安になった。こいつまさか、俺に毒見をさせようとしているのか。というかそんな法則は初めて聞いたのだが。


 しかし、今回のこれは亜流々への感謝という名目もある。ゲームの選択に関しては亜流々の意思を尊重するべきだろう。


 意を決してパッケージを会計に持っていこうとしたところで、由利ははたと気付いた。


 店員が女性だったのである。しかも結構可愛い。


「…………」


「おや、どうしたんだい?」


 足を止めた由利を訝しむ亜流々だが、由利の視線を辿ってあることに気付くと、一転して嗜虐的な笑みを浮かべた。


「ははあ……さては由利くん、恥ずかしいのかい?」


 図星だった。


 由利はあまりゲームをやらない。まして、ギャルゲーを買うなど初めての経験だ。そんな由利にとって、こんな美少女美少女したパッケージを女性店員に差し出すのは勇気が必要だった。ほかのどんなタイミングで使うのかも分からない種類の勇気が。


 気にしなければいい。あくまで自分は客として商品を買うだけ。どうせ店員さんも気にしない。自分のことなどすぐに忘れるに決まっている。


 ……と、頭では分かっているのだが、どうしても羞恥心を振り払えない。


 パッケージを見て、『へえ、この人これを買いに来たんだー。発売日に買いに来るくらいだし、家に帰ったらすぐに起動するのかなー。この人、どのキャラが好きなんだろうなー。この子だったりしてー』みたいなことを想像されると考えただけでいたたまれない気持ちになる。身体が変に熱くなり、嫌な汗をかき始めた。


 そんな由利を見て、亜流々はうんうんと分別くさそうに頷いている。


「初々しいねえ。大丈夫、一線を越えてしまえば平気になるから。むしろそれが快感になるまであるよ」


 亜流々の言葉は由利になおさらヤバそうな印象を与えた。


 もしかして、いま自分は道を踏み外すか否の瀬戸際に立っているのではないだろうか。今更ながら亜流々はどうして女子なのにギャルゲーに詳しいのだろうか。ふつうはギャルゲーとは逆の、女の子が主人公でイケメンがたくさん出てくるようなゲームをやるのではないのか。話は変わるが、よもぎとの会話の『ふじょし』のくだりでユリがどうとか言っていたが、あれはどういう意味なのだろうか?


 様々な考えが頭の中を巡っている。心なしか景色も回っている気がする。


「ちょ、由利くん、しっかりしたまえ! どれだけ真面目なんだきみは! こんなもの、気楽に買ってしまえばいいんだ!」


 亜流々の喝で我に返る。いつの間にか知恵熱を出しかけていたらしい。


「知恵熱って言うのは乳児が出す熱のことであって、考え込みすぎて熱を出すという意味ではないんだけれどね。今のきみの状態はむしろ恥恵熱と言った方がいい」


「おいやめろ、上手いことを言いつつ俺を追い詰めるな」


「いいや違うよ。きみを追い詰めつつ上手いことを言っているのさ」


「嗜虐優先なのかよ」


 かくもギャルゲーは恐ろしいものだと、今さらだが由利は思い知った。確かにこれを克服すれば、よもぎに対しても如才なく接することができるだろう。


「いや、そんなつもりはこれっぽっちもないんだけれど。いいから早く買ってこい」


 心なしか口調が荒っぽい亜流々に背中を押され、由利はついに会計カウンターの前に足を踏み出した。


 そのときである。


「あ、栄子ちゃん。ちょっと予約特典の整理お願いしていいかな?」


「はい、わかりました。それじゃ店長、こちらのお客様のお会計お願いします」


 由利の目の前でそんな会話が行われ、女性店員は奥に引っ込んでいってしまった。代わりにレジに立ったのは、人の良さそうな眼鏡の中年男性だった。


「お客様、こちらは携帯機用のソフトですが、お間違いないですか?」


「あ、はい」


「当店のポイントカードはお持ちですか?」


「いや、持ってないです」


「ではお作りしておきますねー。あ、初回版特典が二種類あるんですが、どちらになさいますか?」


「えっと、じゃあこっちで」


「かしこまりました。お会計六二六四円になります」


「これで」


「はい。ではお釣りが二三六円になります。お確かめください」


 そんな感じで、気付いたら会計が終わっていた。持っている袋の中には『やきモメ2』と初回版特典のポストカードが入っている。


 由利はやりとげたのだ。


 達成感が沸き上がり、にわかに心が高揚する。


「見ろ。俺はやったぞ亜流々。これでミッションコンプリートだ」


 勝利の凱旋とばかりに、由利は得意げに店の外で待っていた亜流々に袋を見せつけた。


「いやいやいや! 何一つやり遂げていないからね?」


 亜流々の突っ込みで我に返る。確かに、いつの間にかゲームをプレイするのではなく、買うこと自体が目的になっていた。


「あ、我に返った。つくづく切り替えが早いっていうか……やっぱりすぐに感情がフラットになるんだね」


 そんな由利の変化を、亜流々が神妙な顔つきで観察していた。


「……じゃあ、帰るか」


 淡々とした口調で帰りを促す由利。亜流々はずっこけるようなリアクションでそれに答えた。


「ちょ、急にそんな冷静にならないでくれたまえ。調子狂うなあ……さっきまで女の子の店員に恥ずかしがっていたとは思えないよ」


 亜流々は呆れている。今となっては、自分でも不思議だった。どうしてあの程度のことに動揺していたのだろう。ただゲームを買うだけだというのに。


 この心境の変化は、きっと亜流々の言う『一線を越えた』状態によるものだろう。まったく、慣れというものは恐ろしいものである。


 その後、由利たちはまっすぐ由利の家に向かったのだった。




 ◆◆◆




 そして、帰ってきてさっそく『やきモメ2』をプレイした由利は、いきなり前述の選択肢にぶつかり、一番あり得ない選択肢を選んだ結果順当にデッドエンドを迎えたというわけだった。


「まさか最初の選択肢でゲームオーバーになるとは思わなかった……」


「『やきモメ』はそのタイトルが示す通り、見てる方がやきもきするような恋愛模様を描くゲームだからね。脚本、演出、UI、選択肢、あらゆる面でプレイヤーをやきもきさせてくれるんだ」


「なんだそのストレスフルなゲーム」


 なぜそんなゲームの続編が出るのだろうか。どう考えてもコンセプトからして間違っているだろう。


「いやいや、前作は良い評価を受けていたんだよ? ギャルゲー特有の『※ただしイケメンに限る』的なご都合主義を排したシビアな難易度が、従来のギャルゲーに慣れたコアなユーザーに受けたんだ」


「ニッチな需要だなおい」


 そして、ギャルゲーに関して熱く語る世捨て人というのはすさまじくシュールである。むしろ由利よりも俗っぽいのでは?


「ある意味リアル寄りってことだし、きみがやるにはうってつけだと思うけれどね」


「……そうなるのか?」


 確かに、さっきのパンツを見てしまうイベントは、よもぎとの出会いにそっくりだった。もしもあの時選択肢を間違えていたら、由利(実在)もデッドエンドになっていたのだろうか。そんなバカな。


「まあ、さっきのはぼくも悪かった」


 珍しく、亜流々が非を認めた。さすがに悪乗りが過ぎたと思っているのだろうか。


「まずは最優先で攻略するキャラを決めなくてはね。由利くん、説明書を読んで気に入ったキャラを選ぶんだ」


「そういう問題なのか……?」


 しかし、あらかじめプレイの方針を決めるのは悪くない考えだ。由利は大人しく取説を開くと、キャラクター紹介のページからお気に入りのキャラクターを探すことにした。


 さすがにギャルゲーというだけあって、いろいろなタイプのヒロインが登場するらしい。取説によると攻略対象は五人いて、隠しキャラもいるらしい。


「……パッケージに写ってるのに、取説に載ってない子がいるんだが、多分この子が隠しキャラなんだよな」


 隠しキャラとは何だったのか。


「まあ仕方ないんだよ。隠しキャラ目当てで購入するユーザーもいるかもしれないからね。それを隠して購買数を減らしては元も子もない」


 よく分からない理屈だった。それなら初めから隠さなくていいのでは。


 ちなみに隠し(と思しき)キャラはミステリアスな雰囲気と青い髪が特徴の少女だった。


「おや、もしかして、その子が気に入ったのかい?」


「……いや、そういうわけではないんだけど。どのみち隠しキャラみたいだから、最初は攻略できないだろ」


 まさか全キャラ攻略するまでやるわけにはいかないし、とりあえずは一人だけ攻略するのがベターだろう。


「じゃあ、誰を攻略するんだい?」


 亜流々に言われて、本格的に考え始めた。隠しでない攻略対象は五人。その中の誰が由利の好みなのか、自分でもよく分からない。むしろ真剣に考えようとすると自分の中の何かがそれを邪魔してくるのである。


「……今更だが、こういうゲームのキャラってどうしてみんな髪の色が違うんだろうな」


 パッケージに描かれている美少女は、それぞれ黒、ピンク、白(おそらく銀髪なのだろう)、黄色(おそらく金髪なのだろう)、緑、青と一目で違いが分かるほど色彩豊かだった。そのうち現実にいそうなのは黒と黄色ぐらいだろうか。


 ついでに言うと瞳の色もそれぞれ違う。ピンクの瞳ってあり得るのか?


「分かりやすい個性だからね。色っていうのは。キャラの色分けはある種の不文律になっているんだよ」


 亜流々のコメントは端的かつ的確だった。


 ……そういえば、〈常夜〉の世界で見た亜流々は、青い髪、青い瞳だったような。しかし、現実的に考えればそんな人間は極めて希少だろうし、現に目の前の亜流々は日本人としては一般的な髪の色、瞳の色をしている。


 あれは、見間違いだったのだろうか? 思い返せば、あの時は蒼い月を目の当たりにして動揺していた。そのせいで亜流々の髪や瞳までもが青く見えてしまった……というのが正解のような気もする。


「……由利くん、どうかしたのかい? ぼくの顔をじっと見たりして。もしかして、ゲームのヒロインとぼく、どっちが可愛いかなんて考えているんじゃないだろうね? だとしたらやめてくれたまえ。三次元は二次元には勝てないというのがぼくの持論だからね」


 いつの間にか、亜流々のことを見つめていたらしい。由利は気を取り直してゲームに意識を集中することにした。


「いや、べつにそんなことは考えてない。とりあえず、順番に見ていくか……」


 取説で最初に紹介されているのは、一つ年上で、世話焼きの幼馴染みだった。テーマカラーは黒で、流れるような長髪が特徴である。扱い的に、この子がメインヒロインなのだろうか。


「……こいつはないな」


 対して悩みもせずに、由利は次に移った。


 次のキャラは、ピンクの髪のおっとりした雰囲気の少女だった。ほかのキャラと比べて明らかに胸が大きいが、ほかに特筆すべき点はない。ちなみに、さっきのデッドエンドのときのキャラである。


「この子もないな。あまり良い印象がない」


 今思えば、あの二面性こそがこのキャラの売りなのかもしれないが、それでも攻略する気にはなれなかった。


 次のキャラは、銀髪の小柄な少女だった。短めに切り揃えられた髪型と、眠そうな目つき――いわゆる『ジト目』が特徴的である。説明によると、自分に自信が持てず、卑屈気味な性格のようだ。


 具体的な理由は述べられないが、このキャラは由利の琴線に触れた。


「よし、この子にしよう」


「ずいぶん早いね。即決かい?」


 亜流々の突っ込みが入る。


「適当に決めて後悔しないかい?」


「適当じゃねえよ。この中だとこの子が一番良さそうに見えたんだ」


 緑と黄色のキャラの紹介も流し読みしてみたが、少なくともパッと見の印象では銀髪の少女が一番好みだった。


「……葛籠よもぎに似ているからかい?」


「……えっ」


 言われてみれば、確かに雰囲気や設定がよもぎに似ていた。そんなつもりはなかったのだが、指摘された途端急に恥ずかしくなる。


「あ、いや、そんなつもりはなくてだな。あくまでキャラとして良さそうだからってだけで」


「いやいや、誤魔化さなくていいさ。なるほど、きみはこういうタイプが好きなんだね。そういえば、一人目のキャラは黛透子に似ているけれど、きみのお眼鏡にはかなわなかったのかい?」


「その生暖かい目をやめろ」


 いたたまれない気持ちになるが、ここで前言を翻してほかのキャラを攻略するのは負けのような気がする。


 半ば開き直って、由利は銀髪の少女を攻略することにした。




『ねえ、神崎くん。これ、落としたよ』


『え? どうして俺の名前……』


『図書カード。あなたよく図書館に来るでしょ。あたしは図書委員なの』


『へえ、そうだったのか。言われてみれば、確かに見覚えがあるよ』


「……ねえ、由利くん。どうして途中で台詞を飛ばしてしまうんだい?」


 しばらくテキストを読み進めていると、亜流々がそんなことを言い出した。


「普通はちゃんと最後まで台詞を聞いてから読み進めるだろう。きみのプレイの仕方は楽しみの半分を損なっているよ」


「いや、でもそれだと時間がかかるだろう? テキストを読めば話は分かるし、これが一番効率がいいと」


 そこで亜流々は得心いったとばかりに頷いた。


「……ああ。なるほどね。つまりきみはギャルゲー、ひいては紙芝居ゲーと呼ばれるゲーム全般を『読み物』だと認識しているわけだ」


「それがなにかまずいのか?」


 と由利が訊くと、


「まあ、ぼく個人としては賛同しかねるけど、あくまで楽しみ方は人それぞれだし、全部聞くように強要したりはしないよ。でも、好みのヒロインの台詞くらいはちゃんと聞いておいたほうがいいと思うね」


 亜流々は妙に実感が篭ったような、分別くさい口調でそんなことを言うのだった。




 そして――それからさらに数時間が経過した。


 いくつか理不尽な展開もあり、やきもきさせられた由利だが、銀色の髪の少女――九十九菫つくもすみれのシナリオはいよいよ佳境に入ろうとしていた。


 画面は立ち絵(この単語は亜流々に教わった)ではなく、イベントのための一枚絵になっている。画面の菫は俯きがちながらも主人公と目を合わせようと勇気を振り絞っていた。


 必然、上目遣いになるため、初々しさとあざとさが絶妙のバランスで渾然一体となって視覚効果は破壊力抜群。由利は心の奥底に訴えかけてくる何かを感じずにはいられなかった。


 数時間前は理解できなかった不可思議な感覚を、今は強く意識している。これが『萌え』というものなのか? モノローグに答える者はいない。


 しかし理屈はなくとも、高鳴る心臓の鼓動が由利の感情を雄弁に物語っていた。いま自分は、我が世の春を謳歌している。たとえそれが仮想の世界の出来事、泡沫の夢だったとしても……


『あの、由利くん。あたし、由利くんのことが……』


「ほら、来たよ由利くん。フラグ管理にやきもきさせられながらあくまでも彼女一筋で攻略し続け、ついに待ちに待った告白シーンだ! ねえどんな気持ち? 葛籠よもぎに似たキャラに告白されようとしているけど、今どんな気持ちなんだい?」


「静かにしてくれ。台詞が聞こえないだろ。菫の一言一句を聞き逃すわけにはいかないんだ」


「うわーお、すっかり没入しているよこのむっつりスケベさんは」


 せっかくゲームに没入していたというのに、隣の亜流々が茶化してくるせいで台無しだった。一事が万事こんな調子である。由利をからかうか冷やかすか、あるいは先の展開を予想して喋るかしかしないので、この数時間で精神力がガリガリ削られていた。


 これは由利の推測だが、亜流々はおそらく、ギャルゲーを『視聴覚メディア』として認識しているのだろう。まるで友達といっしょに映画を見ているような楽しみ方をしているため、こんな感じになってしまうのではないだろうか。いずれにしても鬱陶しいのに変わりはないが。


 しかし今は無視する。画面から目を離すわけにはいかないからだ。


 そして、由利は菫の次のセリフを聞くためにボタンを押下した――




 次の瞬間、画面が無機質な表示に変わり、由利の意識までもがフリーズする。


 よく見ると、点滅する文字が何かを警告していた。いわく、『充電がありません』……


「あ、充電切れちゃった」


 亜流々の言葉に、由利は血液が凍り付くのを感じた。


「な、なんだって……? じゃあ、またやり直しなのか?」


 そういえば、話が盛り上がり始めてからはほとんどセーブしていなかったような……


「いや、最近のゲーム機は充電が切れてもスリープするだけだから、すぐ充電すれば続きができるよ」


 その言葉で希望が芽生える。由利は亜流々に詰め寄った。


「ならさっそく充電を」


「でもすまない。今日、充電器は持ってきてないんだ。世代は進めど変わらない携帯機のネックってやつだね」


 上げて落とす亜流々の宣告に、由利は崩れ落ちた。


「そ、そんな……。というか充電器くらい持って来いよ」


「えーっと、気を落とさないで。実質攻略完了まで行けたわけだし、目的は達成できたと思うよ」


 亜流々が慰めようとするも、由利はそれを強く否定した。


「何を言ってんだ。菫の気持ちを受け止めずに、何が攻略完了だ。勇気を出して想い人を呼び出して、あと少しで告白ってところで相手がいなくなったんだぞ。俺に菫の恋人になる資格なんてないんだ……」


「うわーめんどくさい……」


 初めは亜流々に押され気味だった由利だが、今では完全に立場が逆転していた。由利が押しているというよりは、亜流々が引いているという図式だが。


「……ここまで落ち込んでいるのを見るのは初めてかもしれないね」


 亜流々は悶え続けている由利を複雑な気持ちで見下ろしてきていた。


「きみの真面目さと充実した人間関係への渇望を軽く見ていたよ。まさか短時間でここまでのめりこむとは……このまま二次元に目覚めなければいいけれど……」


 その日、由利は亜流々が帰った後で枕を濡らした……などということはなく、持ち前の切り替えの早さで普段の調子を取り戻していた。


 ただし、夢の中で菫に振られたことを余談として記しておく。


 さらに余談ではあるが、由利は亜流々が危惧していたように二次元にハマってしまうようなこともなく、翌朝よもぎの顔を見た途端、『やっぱりゲームより本物の方が可愛いな』などとあっさり宗旨替えすることになるのだった。




 三日目終了。


 ――〈常夜〉の訪れまで、残り四日。



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