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第一話 読者じゃなくて、編集者



  序章 青い月




 少年はひたすら走っていた。


 今どこを走っているのかもわからないまま、意思とは別の力で身体を動かし続けている。何故なら、立ち止まってしまった瞬間、彼の命運は途切れてしまうからだ。


 あらゆる音が、光が遠く感じる。はち切れそうな心臓の鼓動、途切れ途切れの呼吸の音、酸素不足によって歪んで見える路地裏の景色。現実味のない状況の中、リアルな苦痛にこれが現実であるということを強く意識させられる。


 やがて、だんだん足が言うことを聞かなくなってくる。背後から迫り来る気配が、走る速度に反比例して大きくなる。そう、少年は逃げていたのだ。


 何から? 分からない。理解できるはずもなかった。


 ついに足がもつれ、少年は転んでしまった。すぐに起き上がろうとするも、すでに身体に力が入らなくなっていた。


 のろのろとした動作で仰向けになる。建物の隙間から見える空には、サファイアを連想させる群青の満月が浮かんでいた。十二年生きてきて、一度も見たことのない月だった。


 バチバチと、バリバリと、熱した油が跳ねるときのような空気の爆ぜる音が近づいてくる。『奴』だ。少年は観念したように目を閉じた。これが夢なら、覚めてくれと願いながら。


 はたして次に目を開けたとき、少年は朝の日差しを浴びながらベッドの中にいた――などということはなく、その視線の先にはさっきまで見えていた青い月を覆い隠すように、怪物が佇んでいた。


 穢れた魂の権化、〈トリスティ・ストグニル〉。どうしてか、少年はその怪物の名前を知っていた。名前だけは、心の奥底で理解していた。


 そこは広くはない路地とはいえ、車が通れるくらいの幅はあったが、その怪物にここは狭すぎるようだ。窮屈そうに身をよじり、投棄されていた自転車や、空調の室外機などを押し潰しながらにじり寄ってくるそいつの姿は、ひとことで言うと『雷の化身』だった。


 何故そう見えるのかというと、『そいつ』が常に帯電しているからである。ずっと聞こえていた空気の爆ぜる音は放電の音だったのだ。


 電気を纏っているという点を除けば、姿形は虎のそれに近い。とは言え体長は三メートルはある上に青白く発光していて、さらには時々輪郭が陽炎のように揺らめいている。その姿は、とても現実に存在するものとは思えなかった。


 当然だが、とても人間が立ち向かえるような存在には見えなかった。追いつかれれば最後、死は免れないだろう。怪物が少年を害する存在であることは明らかだった。


 何故追われているのか、それすら分からなかった。気付いたときには少年は青い月に照らされた世界に放り出されていて、訳の分からぬまま怪物に追われていたのだ。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。自分がなにか悪いことをしてしまったのだろうか。これから訪れるであろう理不尽な死に、果たして理由はあるのだろうか?


 分からない。ただ、これが現実で、死という結果を避けることはできないことだけは分かっていた。


 こぼれ落ちる涙を拭うこともせず、当たり前だったはずの日常に思いを馳せる。走馬灯のように幸せな思い出が目の前を流れていき、最後に寄り添って笑う両親の姿が浮かんだ。


 心がチクリと痛む。少年には心残りがあった。


 ――せめて、両親が仲直りしたところを見たかったな。


 それが少年の願いだった。素朴で健気な、子供っぽい願い事――


 気づいた時には、怪物が少年のすぐそばで牙を剥いていた。


 少年の願いは叶わないまま、その一生は幕を閉じた。一つ救いがあるとすれば、怪物の牙が身体に食い込む前に、少年が気を失ってしまったことだろう。


 少年を喰らった〈トリスティ・ストグニル〉は、夜の闇に溶けるように消えていき、後には静寂のみが残った。


 一人の少年の存在が消え去ってしまったのを、青い月だけが知っていた。




  第1話 読者じゃなくて、編集者




 神崎亜流々(かんざきあるる)はこう言った。


「すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない」




 ◆◆◆




 今年高校二年生になった吾妻由利(あづまよしと)という少年は、控えめに言って人との関わりに乏しい人間だった。


 友人と言えるような存在に恵まれず、ただ学校に行って授業を聞いて帰るだけの日々を繰り返すのみ。


 そのこと自体には今や何の感情も沸かないし、「届かないところにある葡萄は酸っぱい」とばかりに厭世家を気取ることもない。


 ただ、時折埋めがたい寂しさを感じることはある。頑張ってクラスメートに話しかけてみようか、と思ったことも一度や二度ではない。


 けれど、駄目だった。


 もしかしたら、勇気を出して挨拶をすれば、笑顔とともに明るく挨拶を返してくれる人がいるかもしれない。しかし想像の中でさえ、それ以上親しくなることはどうしても出来なかった。


 何故なら、由利の記憶には大きな欠落があるからだ。


 由利には四年前までの記憶がない。この世に生を受けてから十二年と少し生きてきた間の記憶を、丸ごと失ってしまっている。


 とはいっても、所謂一般常識をも忘れてしまっているわけではない。語彙、道徳観念、箸の使い方をはじめとする基本的なマナー、四則計算の法則などは覚えていた。むしろ知識量に関しては同年代の子どもたちよりは遥かに多いくらいで、勉強を含めて生きるのに困ったことはなかった。


 だが、それだけだ。


 由利にはいわゆるエピソード記憶というものがない。人格、倫理観、思考の偏り――所謂『個性』を形成する材料がほとんどないのである。


 ゆえに、由利はひどく淡白な人間にならざるを得なかった。電車で具合が悪そうな人がいれば席を譲るし、道端にゴミを捨てたりもしない。しかしそれは、これまでの短い人生で『そうするべきだ』と経験則的に学習した結果に過ぎず、もしそれが由利自身の道徳心から生じる行為であるかと訊かれたとき、即座に応と答えることは出来ないだろう。


 すれているわけではなく、かといって真面目なわけでもない。言ってしまえば由利はそんな『つまらない』人間なのである。


 しかし、由利自身には何がいけないのか分からないのだ。つまらない言動をしているつもりはないし、嫌われるような振る舞いをしているわけでもない。それでも、人と関わることができずにいる現在が、厳然たる現実として由利にのしかかってくる。


 どう変わればいいのか、どうすれば変われるのかすら分からない。


 そうして一人で生きてきた由利は、いつしか人と関わりを持つこと自体を諦めていた。


 彼の人生のこれまでの道程とこれからの展望には、変わりなく灰色で、果てしなく寂莫とした地平が広がっており、そこに何の起伏もない一本道が伸びているのみだ。


 そんな由利は、変わらぬ日々にもはや諦めすら抱かず、その日もいつも通り――というには少しだけ違うだけの一日を送っていたはずだった。




 しかし、そのわずかな違いが、由利の人生のこれからを大きく変えることになる。




   ◆◆◆




 それは春が終わり、陽気が熱気に変わりつつある季節のある日のことだった。


 その日は、いつも通り授業を聞きながら板書をノートに書き写し、昼は自分の席で持参した昼食を黙々と口に運んだ。そして放課後には学校から帰る前に図書室に寄ることにした。


 読書は由利の唯一の趣味と言ってよかった。と言っても読むのはもっぱら児童文学やライトノベルの類なので、仮に古典文学や文芸作品を読んで初めて『読書家』を名乗れるのだとすれば、由利は読書家を名乗ることは出来ないだろう。ただし、かつての幼馴染である黛透子はきっと『本の内容に貴賤なんてありません。大事なのは本を読んで何を感じ、どう糧にするか、ですよ?』などと知ったようなことを言うのだろうけれど。


 そこまで考えて、思考を振り払うようにかぶりを振る。


 嫌な奴の顔を思い浮かべてしまった。


 しかし、仮に思い浮かべたような台詞を言われ、それを真に受けたとしても、結局由利は『読書家』を名乗ることは出来ない。そも由利は本から何かを得ようなどと考えてはいないからだ。由利が読むのは明るい雰囲気の話だけである。


 そう、正確を期すならば、由利は読書が好きなのではなく、違う世界――平凡で、しかし自分では決して手の届かないような、楽しくも刺激に溢れた日々に埋没することが好きなだけなのである。それは没頭でも昇華でもなく、現実からの逃避に過ぎなかった。


 友情だとか、愛情だとか、そういった心の機微は由利にとって創作の中のものでしかなくて、だから由利は書物を読み漁る。まるでこの世の全ての素晴らしいことが、彼にとっての救いが、その中にしか存在しないかのように。


 だから、由利にとっての読書は数少ない嗜好の表れと言えるものだった。


 その日はたまたま、図書室に通う日だった。ルーチンワークをこなすように、由利の足が自然に図書室に向く日、とも言い換えられる。


 図書室への道中、階段に差し掛かった由利は、クラスメートの少女、葛籠(つづら)よもぎに遭遇した。


 遭遇した、といっても、お互い挨拶を交わすような間柄でもないので、一瞬目を合わせただけで、あとはすれ違うだけのはずだった。――だがそこで事件は起こったのだ。


「……あっ」


 階段を降りようとしていたよもぎがつまずき、転びそうになる。


 このまま転べば彼女は無事では済まないだろう。段差に叩きつけられ、そのまま踊り場に転がり落ちれば大怪我をしてしまう可能性もある。


 よもぎの身体がゆっくりと傾いていく。時間が遅く感じられた。


 考えるよりも早く体が動いた。手を伸ばしながら階段を駆け上がり、転ぶ前に身体を支えようとする。


 頼む、間に合ってくれ――。


 そう祈る由利をあざ笑うかのように、身体の傾きはもはや彼女自身では立て直せないほどになり、あとは重力に従って落下するのみとなった。このままでは間に合わない。


 それでも由利は諦めなかった。転ぶのを阻止するのではなく、両腕を広げてよもぎを受け止めようとする。


 一瞬の後、驚きに目を見開いたよもぎの身体が広げた腕に飛び込んでくる。


 華奢な彼女の身体は、見た目通り軽かった。しかし、いくら軽いとはいっても、受け止めた場所が悪い。衝撃で由利も足を踏み外し、身体が後ろに傾いていく。


 倒れるのを止めることは出来なかった。ならばせめてよもぎに怪我はさせまいと、彼女の身体を守るように抱き寄せながら、由利は階段を転がり落ちたのだった。


「いてて……」


 気付けば由利は階段の踊り場で大の字になって寝転がっていた。少しの間、気を失っていたようだ。


 我に返り、傍らに目をやると、そこにはよもぎがうつ伏せになって尻を突き出すような格好で倒れていた。気絶した拍子に放り出してしまったのだろう。


 どうやら怪我はしていないようだが、スカートが捲り上がり、白い布に包まれた小振りな臀部が露わとなってしまっている。一瞬目が釘付けになるが、自制心を総動員して顔を背けた。


 やがてよもぎがゆっくりと起き上がった。セーラー服とプリーツスカートの制服をたしたしと叩いてホコリを落とすと、改めて由利に顔を向けた。


「ありがとう。たすけてくれて」


 そして、ぺこりと頭を下げるよもぎに、由利ははっとして声を掛ける。


「あ、いや。気にするな。それより怪我はないか?」


「あたしは平気。あなたは?」


「俺も平気だ」


 実際は少しだけ背中が痛かったが、さして問題はないだろう。少しだけ強がってみせると、よもぎはわずかに表情を和ませた……ように見えた。


「そう。よかった」


 淡々とした口調だが、いちおう由利のことを本心から心配しているようだ。


 この葛籠よもぎという少女と言葉を交わすのはこれが初めてだが、由利以外と話す時も、彼女はこんな調子である。


 大人しいというよりは感情の起伏に乏しく、常にポーカーフェイスで振る舞っている。


 今だって、さっきスカートが捲れ上がっていたことには気付いているはずだが、恥ずかしそうな素振りを全く見せない。


 切り揃えられた髪型も相まって、まるで人形のようだと、由利は密かに思っていた。人形と言ってもビスクドールではなく、どちらかというと市松人形の方だが。


「ねえ、吾妻」


「どうした?」


「みたよね。パンツ。あたしの」


 彼女の問いはあまりにも直球だった。こう訊かれては、言葉を取り繕う余地すらない。


「えっ。いや、その、どうだったかな」


 見た。むしろ、目に焼き付けたと言ってもいい。今も目を閉じれば思い出せる。


 ――とはもちろん言えず、由利は言葉を濁す。そんな由利に、よもぎはみなまで言うなと言わんばかりに手のひらを見せた。


「べつに怒ってないよ。あくまで不可抗力だし。むしろごめんね、見苦しいものをみせて」


「いや、そんなにへりくだらなくても」


 誰がどう間違っても、よもぎのパンツを見て見苦しいとは思うまい。


 表情はほとんど変わらないものの、よもぎは器量良しと言って差支えない容姿だ。


 アイドルのように華やか! というわけではないが、由利個人的にはきれいに整った顔立ちをしていると思う。無表情だがどこかあどけなさを残しているため、冷たい印象もさして受けない。


「吾妻は図書室に行くの?」


 不意に、そう訊ねられた。放課後に教室棟の上の階に行く生徒は大抵図書室に用があるので、彼女の質問は自然なものである。


「ああ。葛籠は行ってきたのか?」


 特に意味もなく、由利は問いを返した。もしかしたら、少しでも会話を長く続けたかったのかもしれない。


「うん」


 よもぎは簡潔に答え、それ以上言葉を続けることはなかった。一瞬の間があって、


「そうか。じゃあ俺はそろそろ行くよ」


「わかった。じゃあね」


 由利が落ちていた鞄を拾い上げると、よもぎは何の感慨もなさそうに頷いた。


「おう。き、気をつけて帰れよ」


 その言葉を言うのに、由利は多大なる勇気を振り絞る必要があった。しかしよもぎからすればそんなことは何の関係もない。彼女はやや怪訝な顔をしながらも、事務的な返事をするのみだった。


「ありがとう」


 よもぎは傍らに落ちていた学校指定の鞄を拾い上げ、スタスタと歩き去って行った。その足取りは軽やかで、怪我がないという言葉に嘘はなさそうでホッとする。


「じゃ、俺も行くか……」


 そうひとりごちて鞄を拾い上げた由利は、違和感に気づいた。


 明らかに鞄が重い。感触的には、まるで何冊か本が入っているような……


 そこでハッとした。――確かよもぎも図書室に行ったのではなかったか?


 由利は鞄の中身を確認することにした。


「……やっぱり、これって葛籠の鞄だ」


 中には図書室の蔵書であることを示すラベルが貼られた小説がいくつか入っていた。どうやらさっき取り違えてしまったようだ。


 よもぎは女子にしては珍しく、鞄にキーホルダーなどを一切付けていないので、見分けが付けづらかったのだろう。


「………………」


 今すぐ返しに行くべきであるというのは、頭では分かっていた。だが、この時由利の中にはとある欲求がむらむらと湧き上がってきたのである。


「葛籠って、どんな本読んでるんだ……?」


 流石にプライベートなものを覗き見るのは良心の呵責が働くが、どんな本を好んで読むのか、同じ(と言っては失礼かもしれないが)読書家ならぬ読書好きとしては、大いに興味があったのである。


 逡巡ののち、結局その欲求に抗うことはできず、由利は鞄の中に手を突っ込んだ。


「ふむふむ……結構趣味が合いそうだな……」


 独りごちながら、鞄の中身を物色する。よもぎが読むのは、推理小説や文学作品のほか、主に友情や成長をテーマとする話のようだ。女子は恋愛物を好んで読むイメージがあったが、どうやらよもぎの趣味は由利に近いらしい。ライトノベルもいくつか混じっていた。


 もしかしたら、これをきっかけに友達になれるかもしれない。


 そう思うと、胸が高鳴った。


「ん? なんかこれ、他のと違うな」


 いくつかの文庫本に混じって、小さめのハードカバーが入っていた。しかし、ハードカバーと言っても、表紙にも背表紙にもタイトルが書かれていないのである。


 私物なのだろうか。手にとってみると、随分と立派な装丁だった。


 何気なくページを捲ると、そこには横書きの文章がびっしりと鉛筆で書き込まれていた。つまりこれは、書籍ではなくノートなのだ。となると、ここに書かれているのは……


「なになに……『姫騎士アルテミシア』?」


 そう題されたらしい物語は、次のようなあらすじだった。


『舞台は剣と魔法が当たり前に存在する世界〈ヴァルハラード〉。魔物の脅威にさらされつつあるウィスタリア王国、そのはずれにある小さな村で平和に暮らしていた少女アルテミシアは、ある日突然頭の中に響く声を聴いた。


 戸惑いながらも、声に導かれるかのようにふらふらと村はずれの泉に飛び込んだアルテミシア。彼女が再び陸に上がってきたとき、彼女の手には光り輝く剣があった。


 そう、その剣こそ、〈ヴァルハラード〉を脅かす魔を払う聖剣、〈メルクリオン〉だったのである。


 聖剣に選ばれたアルテミシア。ごく普通の少女だったはずの彼女は、頭の中に響く声に従って旅に出る。


 それが世界を救う長い旅になるとは知らずに……』


「……なんだこれ。すげえ面白そうなんだけど」


 内容に感心した由利が、本編に目を走らせようとしたその時。リノリウムの床を蹴る足音が近づいてきた。


 ダンッ! とすぐ近くで音が鳴る。ひときわ強く床を踏みしめて由利の前で止まったのは、先ほど別れたばかりの葛籠よもぎだった。


 俯いたまま、二、三度荒い呼吸を繰り返した彼女は、ガバッと顔を上げた。


「……みたんだね」


 いつも通りのフラットな声だったが、そこには尋常でない殺気が含まれていた。


 全力疾走してきたからか肩で息をしているその姿は、まるで追い詰められた手負いの猛獣のようにも見える。口元は引きつり、目も血走っていた。


「えっ……と。これってやっぱり、葛籠が」


「みたんだねぇッ!」


「……おお」


 その迫力に由利は慄く。そこにはパンツを見られてもポーカーフェイスを崩さなかった少女の面影は微塵もなかった。


「ゆるさない。ぜったいゆるさない。ひとのノートを勝手にみるなんて、ぜったい……」


 身の危険を感じた由利は、即座に平身低頭で謝り倒した。


「ご、ごめん。本当に悪かった。でも別に悪気があって見たわけじゃないんだ。俺の鞄じゃないのを確かめてたら、たまたま……」


「……ぐすっ」


「え?」


 ついさっきまで由利を殺しそうなほどの怒気を発していたよもぎが、今度は力なく崩れ落ちた。


「ううっ……ゆるさないから。ぜったいにみられたくなかったのに。み、みられたら死ぬか殺すかふたつにひとつなんだから……」


 ぺたんと床に座り込んだよもぎは、両の手の甲で目尻に溜まった涙を拭っている。その顔は真っ赤で、肩が震えているのは果たして怒りかそれとも羞恥か。


 言っていることは物騒だが、どうやら感極まって泣いてしまったようだ。


 罪悪感がひどい。心臓を握り潰されるような痛みが胸に走る。


「かえして」


 赤くなった眼で睨みながら、よもぎは手を突き出した。


「はやくかえして!」


 強い口調で言われ我に返った由利は、何も言わず鞄を渡した。


「これ、吾妻の」


 由利の鞄を押し付けるようにして持ち主に返したよもぎは、すぐさま踵を返した。


「つ、葛籠。本当に悪かった」


 勇気を出して呼び止めたものの、よもぎは振り返りすらせずに、「……さいてい」と吐き捨てるように言って、走り去ってしまった。


 腕の力が抜け、由利の鞄が床に落ちた。


 あとに残された『最低』な男こと吾妻由利は、よもぎの泣き顔を思い出しながら、しばらくの間自分の軽はずみな行動が招いた結果に打ちひしがれていた。


 やがて緩慢な動作で鞄を拾い上げた由利は、盛大にため息を一つ。


 どんよりとした雰囲気を撒き散らしながら、湧き出る自己嫌悪に頭を抱えていた。


 人の機微に疎い由利でも、どうしてよもぎが怒ったのか、その理由くらいは分かる。


 誰にだって、誰にも触れられたくない領域というものがあって、よもぎの場合、それがあのノートだったということなのだろう。


 我ながら本当に最低だ。人との距離感というものがまるで掴めていない。そのうえ間が悪いのだから救いようがない。女の子を泣かせてしまった自分がショックだった。


 今回は全面的に由利に非があるのだが、とはいえ、彼にもひとつだけ不満があった。


「あの様子じゃ、もう二度と読ませてもらえないんだろうな……面白そうだったのに」


 未練たらたらで独りごちる。それだけが、由利の心残りだった。


 その後、由利は結局予定通り図書室に足を運んだ。あんなことがあった後だが、いや、あったからこそだろうか。無性にファンタジーが読みたくなってしまったのだ。さっきまで落ち込んでいたのが嘘のような図太さである。こんなことだから女の子を泣かせてしまうのだ、きっと。


 その日も、借りられる限界まで本を借りてさっさと帰るつもりだった……が、たまたま手に取って開いてみた本に思いの外興味を引かれ、椅子に座って読みふけってしまった。


 その本の内容は、いわゆる伝奇ものだった。特別な能力を持った少年が影ながら怪物と戦って町を守る話だ。挿絵はないが、作中の描写が真に迫っており読みやすい。


 話の中で、主人公は友人や町の人々を守るために傷つくことをいとわず戦い続けるが、その頑張りに人々は気付かず、主人公は人知れず心をすり減らしていき、やがて戦う意味に疑問を抱き始める。


 そんなとき、一人の少女がひょんなきっかけで彼が日夜怪物と戦いを繰り広げていることを知ってしまうのだ。


 その少女は主人公にこう問いかけた。『あなたはどうして戦うの? 誰も感謝してくれない、それどころかあなたが命を懸けて戦っていることさえ知らないのに』と。


 そして、その問いに少年は――




   ◆◆◆




 気付けば由利は真っ暗な図書室の中で、机に突っ伏していた。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 闇に慣れた目で辺りを見回せば、すっかり夜のとばりが下りていた。


「しまった……」


 由利は誰にともなく一人ごちて、そして気付いた。人の気配が全くないのだ。


 おかしい。図書室が暗いのは既に閉まったからだとして、司書の人は由利に気付かなかったのだろうか?


 幸い、図書室の扉は内側からなら鍵がなくても開くようになっているため閉じ込められるようなことはないが……


「俺ってそんなに存在感薄いのかな……」


 静寂の満ちる図書室に、由利の小さな嘆きが虚しく響く。


 気を取り直し、由利は図書室を出た。鍵が開いたままになるが、そこは由利に気付かなかった司書の責任ということにしておく。


 そして、真っ暗な校舎をおっかなびっくり歩き、靴を履き替えて昇降口を出ようとしたところで鍵がかかっていることに気付いた。


 そりゃそうだと納得しながら、由利は他の出口を探すことにした。


 外履きを手に持ちながら、靴下でひんやりとした廊下を歩く。……それにしても暗い。そして静かすぎる。今はいったい何時だろうか?


 時刻を確認しようとスマートフォンを取り出す。ボタンを押すと液晶が点灯し、ホーム画面が映し出される。


 デジタル時計が示す現在時刻は午後八時。全ての部活が活動を終えている時間帯だ。


 なればこそ、この静けさにさほど違和感はない。ただ、画面が示す情報の一つに由利は首をひねった。


「圏外……ここが?」


 由利が思い出す限りでは、学校で携帯が圏外になったことはない。何か電波障害でも起こったのだろうか。


 しかし、たとえ圏外になったところで由利にこれといって不都合はないのだが。


 なにせ連絡を取る相手がいないのである。他愛のないことで送るメールも、所在を確認するためにかける電話も、由利には縁遠いものだ。……電話を掛ける相手と言ったら、母親くらいだろうか。


 やがて由利は鍵のかかっていない非常口を見つけた。不用心だと憤るべきなのか、それとも窓から出るような真似をせずに済んでほっとすべきなのだろうか。


 そこから校舎の外に出た由利は早足で歩き始めた。理由は明快で、暗いのが怖いからだ。何を考えているのか分からないと思われがちな由利だが、怖いものは怖い。むしろどちらかと言えば小心者な方だ。ただ、怖いと思ってもすぐに慣れるたちなのだが。


 校門は案の定閉まっていたため、由利は仕方なく『裏口』を使うことにした。


 今は使われていない焼却炉の裏には、穴の開いたフェンスがある。これが『裏口』だ。遅刻しそうな生徒はここを使ってショートカットする場合もあるらしい。


 由利はいつも余裕を持って登校するため、これを使うのは初めてだった。


 ほかの生徒と同じようなズルをしている。その事実は由利の心を少なからず高揚させた。まるで思い出を共有しているようで、あるいは共犯関係になったようで、些細かつ素朴ながらも由利が憧れてやまない関係性を得た気になっているのである。


 気になっているだけで、実際はもちろんそんなことはないのだが。それでも由利は嬉しかった。少しだけ自分が変わった気がしたのである。


 学校を出た由利は、無視できない違和感に気付いた。その正体にもすぐ思い当たる。


 学校を出れば周りは住宅街だ。だからこの時間帯なら明かりがついているはずだった。


 ところが、辺りは暗闇に包まれていたのである。


 辺りを見渡すも、家の明かりどころか、街灯さえ一つも点いていない。もしや停電か、と考えて、それでもなお違和感は消えない。


 ――おかしい。


 いくらなんでも静かすぎる。人の声はおろか、生活音を含むありとあらゆる物音がまったく聞こえないのだ。もはや静寂というよりは、世界が、止まってしまったようで。


 いつの間にか由利は自然と息をひそめていた。感覚を研ぎ澄ませて、現状を理解しようと努める。


 空気が張り詰める。耳鳴りがする。汗が一筋頬を伝う。胸騒ぎが収まらない。暑さを感じて顔を手で扇ぎ、はじめて風が止んでいることに気付く。


 汗をぬぐい、由利は上を向いた。


 ――おかしい。


 そして、由利はありえないものを見た。


 見覚えがあるはずなのに、それは普段と全く異なる様相を見せている。


 今思えば、真っ先にその存在に気付くべきだった。


 街に明かりがないのなら、由利が完全なる闇に呑まれずに済んでいるのは何故だ?


 それは、この停止した街を頭上から仄かに照らす存在があったからだ。


 ――ありえない。だって。


 息を荒げた由利は恐怖に駆られて走り出す。今確信した。自分が尋常ならざる事態に巻き込まれていることを。自分がここにいてはいけないことを。


 ――月が青いはずないだろう!?


 いや、そうじゃない。自分の頭の中で警鐘が鳴っているのは、月が青いからではない。むしろそう、これは――




「青い月を見るのは初めてかい?」


 その時、背後から不意に声が投げかけられた。


 勢い良く振り返ると、そこには蒼髪青瞳の少女が立っていた。


 不思議なことに、少女が立っているのはたった今由利が走り抜けた場所だった。由利が気付かずに通り過ぎたのだろうか?


 由利にはまるで、少女が突然そこに現れたようにも思えた。由利は立ち止まって、少女を観察してみる。よく見ると、少女は由利の通う高校の制服を着ていた。見慣れた格好に青い髪が浮いて見える。


 どこか神秘的な雰囲気をまとうその少女は、由利と目が合った瞬間、雷に打たれたように硬直した。最初は驚いていた由利だが、少女のその反応を見て、違和感を覚える。既に、状況の異常さへの恐怖心はすっかり薄れていた。


「どうして、そっちが驚いてるんだ? むしろ、驚かされたのはこっちだろ」


 由利が怪訝な顔をすると、少女は眼を輝かせた。


「きみは、ぼくのことが見えるのかい?」


 少女は期待に満ちた瞳を向けて、由利にそう問いかける。声をかけておきながら、反応したら驚くというのはいったいどういうことだろう。


 その問いの奇妙さに面食らいながらも、動揺している由利は素直に答えた。


「あ、ああ。見えるよ」


 答えてから、由利はこう思った。


「あんた……もしかして幽霊なのか?」


 そう、『自分が見えるか』などと問うのは、幽霊くらいだ。


 しかし、幽霊の存在を信じていないわけではないが、こうして目の前に現れても、まるで実感がわかない。


 すると、少女はクスリと笑みを浮かべた。そこに侮蔑の色はなく、単純に由利の言ったことが可笑しくて笑ってしまったような笑い方だった。


「違うよ。ぼくは幽霊じゃない。ぼくの名前は神崎亜流々。世界を捨て、世界に捨てられた存在だ」


「世界を……なんだって?」


 このとき由利は「ああ、そういう設定なのか」と思った。


 最近はこういう少し痛い設定を語る女の子が人気というか、一種の流行りみたいなものになっているから、それに便乗したのだろう、などと失礼なことを考える。


「言っておくけれど、ぼくは中二病でもなければそれに便乗した量産型萌えキャラでもないよ。失礼しちゃうな」


「え?」


 今、思ったことを口に出していたか?


「わざわざ口にしなくても、きみの目を『視』れば分かるさ。言っただろう? ぼくは世捨て人、つまり〈隠者〉なんだ。ゆえに、ぼくの眼は欺瞞や虚飾に惑わされることはなく、いついかなるときであっても真実を映し出すのさ」


 群青色に輝く瞳に射すくめられ、由利の思考が困惑で埋め尽くされる。彼女の言葉が真実なのか、吟味する余裕すらなかった。そして、それすら見透かしたかのように、亜流々は皮肉げな笑みを浮かべた。


「まあ、今はそれでいいさ。ぼくがどういう存在なのか、明日になれば嫌でも分かるだろうから。もっとも、きみがぼくの思うような存在であれば、の話だけれど」


 意味深な言葉を残すと、亜流々は踵を返し、由利に背を向けて歩き始めた。青い髪が軽やかに翻り、その向こうから妖艶な視線を向けられる。そして、妙によく通る声で彼女は言った。


「きみはもう、『こちら側』の人間だ。〈常夜〉の世界にようこそ。きみの行く末に幸福があることを心から祈っているよ」


由利の記憶は、そこで途切れた。最後に見た少女の皮肉げな笑みを浮かべた横顔が、目に焼き付いていた。




 ◆◆◆




 目を覚ませば、知らない天井……などということはなく、由利はいつも通りベッドに寝ていた。


「……夢かよ」


 起きて早々、自分で自分に突っ込みを入れる。


 まさかの夢オチである。


 不思議な世界に迷い込み、不思議な設定を語る不思議な美少女とボーイミーツガール。


 どう考えても中二病の妄想そのままである。中二病なのは自分の方だった。


「そういえば、昨日図書室で読んだ本が、そんな感じの内容だったっけ……」


 それであんな夢を見てしまうのだから、我ながら感受性が強い。……と、そこまで考えた由利はあることに気が付いた。


「あれ? 昨日って、図書室に寄って……その後どうしたんだ?」


 昨日の記憶が曖昧になっている。


 目が覚めたら真っ暗だった? いやいやそれは夢の中の話だ。現実の自分はちゃんと家に帰ってきたはず――本当に?


 違和感ははっきりとした疑念に変わる。さっきまで見ていた夢の内容は思い出せるのに、昨日自分自身が何をしたのか思い出せない。


 記憶が飛んでいる? それともまだ寝ぼけているのだろうか?


 いくら頭を捻っても、昨日図書館で本を読んでからの記憶がない。


 代わりに浮かんでくるのは、あの非現実的な光景――真っ暗な街と、頭上に輝く蒼い月、そして青い瞳の少女のイメージだった。


 ――自分は本当に夢を見ていたのだろうか? あのとき自分は、妙な既視感を感じていたような気がするのだ。まるであの世界に来るのが、初めてではないような……


「ああもう、やめだやめ」


 背筋に寒気が走り、それを振り払うように両手で顔を叩く。由利はそこでひとまず考えるのをやめ、学校に行く仕度を始めることにした。


 そして、登校中も上の空だった由利は、教室に足を踏み入れた瞬間信じられない光景を目の当たりにしたのである。


「……何で、あんたがここに」


 窓際の一番後ろ、風にはためくカーテンを背景に背負って、可憐な少女が微笑みながら頬杖をついている。視線は、真っ直ぐこっちを向いていた。


「おはよう、吾妻由利くん。何でとはひどいなあ。ぼくは今までずっと、ここに居たのに。きみがぼくを見ていなかっただけなのにさ」


 可憐な外見に似合わぬ口調でそんなことを言いながら悪戯っぽく笑う少女に、由利は見覚えがあった。


 神秘的な雰囲気、中性的な独特の口調、何より、その全てを見通すような力強い眼差し。髪と瞳の色だけは記憶と違っているが、間違いなくその姿を由利は知っていた。


 夢で出会った少女、神崎亜流々の姿がそこにあったのである。


「……どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。ぼくは世界を捨て、世界に捨てられた存在。ぼくと世界は互いに干渉しない、出来ない関係にあるんだ」


 と亜流々は言った。


「いや、言ってることが全然分からない」


 と返して、由利は首を振る。その一方で、彼女の言葉が単なる戯言ではないことを本能的に感じ取っていた。


 彼女の姿をこの教室で見るのはこれが初めてだ。それは断言できる。しかし、昨日まで窓際一番後ろの席に誰が座っていたのかは、記憶に靄がかかったように思い出せない。


「それなら、ぼくのことをよく見ておけばいい。そうすれば、ぼくがどういう存在なのか、きっとすぐに分かるよ」


 自信ありげにそんなことを言われたので彼女を観察することにした由利だが、すぐにあることに気が付くことになる。


 それは朝のホームルームが始まってすぐのことだ。亜流々は由利を一瞥すると、これみよがしにあるものを取り出した。


(おいおい……あれって、ゲーム機じゃないのか?)


 彼女が取り出したのは、現在市場に出回っている中では最新型の携帯ゲーム機の一つだった。


 この学校は特別校則が厳しいわけではないが、ホームルーム中にゲームなどやっているのがバレれば怒られるだけでは済まないはずだ。没収されるのは間違いない。


 にも関わらず、亜流々は堂々とゲームを起動し、当たり前のようにプレイし始めた――しかも驚いたことにイヤホンも付けず、音を垂れ流したままで!――のである。


 だが、本当に驚くべきなのはここからだった。


 ホームルームが終わるまで、担任教師は亜流々に注意をすることはなかった。それどころか亜流々に見向きもしなかったのである。


 音が流れているのだから、気付いていないはずがないのに、だ。


 あまりにも不自然な状況に訳が分からなくなった由利は、ホームルームが終わると早速亜流々に詰め寄った。


「おい、さっきのはどういう事なんだ?」


「ふふっ。ようやくぼくが特別だって分かってくれたみたいだね」


 詰め寄る由利に、亜流々は嬉しそうな顔でどこかズレたコメントを返した。


「いやいや。さっきのを見た限りじゃ、あんたが無視されてるだけにしか見えなかったぞ。もしかしてイジメられてるのか?」


「どうしてそうなるのさ。ぼくはね、きみと違ってぼっちとかじゃないんだよ。きみのために敢えて分かりやすい言葉に言い換えるけれど、要するにぼくはこの世界に存在しないことになっているのさ」


「馬鹿言え。存在しない? 今俺の目の前にいるじゃねえか」


 由利の言葉に、亜流々は目を丸くした。まるで由利が納得しなかったのに驚いているようだが、むしろこちらからすれば今の説明で納得できるわけがない。


「いやまあ、そうなんだけれど。でもきみ以外にとっては存在しないのと同じなんだよ」


「それはつまり、存在してるってことだろ?」


 全く目の前の美少女は何を言っているのだろうか。彼女はこうして由利と言葉を交わしている。呼吸もすればゲームもしている。彼女の存在だけでなく、その痕跡もはっきりと認識することが出来るのだから、存在していないなどという妄言を信じられるはずもない。


「きみはそう感じるかもしれないけれど、本来はそうではないということだよ。ぼくは誰にも認識されず、観測もされない。だから厳密には存在しないということになる」


「いやいや。でも俺がこうして認識出来るんだから、厳密には存在するってことになるんじゃないのか?」


「……分かった。そういうことでいいよ。たしかにきみの言っていることも例外的には正しいわけだからね」


 亜流々はどこか疲れたような顔でそう言った。本当はこちらが間違っているのに譲歩してもらったときのような気まずさを覚えるが、どうしても由利は自分が間違っているとは思えなかった。


「そもそもどうしてあんたは俺のことを知ってたんだ? 昨日だって名乗った覚えはないのに」


「そんなの、同じクラスだったからに決まっているじゃないか。むしろどうしてきみはぼくのことを認識できるんだい? 昨日までは、きみもぼくのことを認識できなかったはずなのに」


 亜流々は急に神妙な顔つきになって、由利の目を見つめてきた。


 昨日も思ったことだが、改めて見ると、やはり亜流々は器量良しだ。そして、その中でも特に目を引くのはその瞳である。


 黒曜石のようなその瞳は、まるで宇宙のような深い輝きで由利を射抜き、まるで数億年かけて届いた光のように、力強く煌めいている。夢で逢った時の彼女の瞳は夜明けの空のように透き通った群青色をしていたが、輝きの強さはあの時と比べても何ら遜色がない。


 眼力、という言葉では説明しきれない、不思議なエネルギーのようなものを、彼女の瞳から感じ取ることが出来るのだ。


 そんな瞳に見つめられて、由利は思わず気圧される。


「ちょっと、待て。今、『昨日まで』って言ったか? じゃあお前は、今までもずっとここにいたのか? ただ俺が気付いていなかっただけで?」


 ならば、おかしいのは亜流々ではなく由利の方だ。同じクラスの女子の名前どころか存在すら知らなかったのだから。


「その通り。まあ、いつもこの教室にいるわけじゃないけどね。むしろ屋上とかにいることの方が多いよ」


 由利は絶句した。亜流々の言っていることが本当なら、亜流々はこれまでどれほどの孤独の中で生きてきたというのだろう?


 誰にも認識されず、相手にもされない。その境遇は由利と似ているようで、その実まったく違う。


 由利はただ関わろうとしなかっただけだ。ほんの少しの勇気があれば、現状を変えられる可能性はある。だが、亜流々の場合は?


 彼女は彼女の意志に関係なく、孤独を強いられているのだ。無関心に囲まれながら、誰かと挨拶を交わすことすら許されずに。


「なあ、亜流々。おまえ、寂しくはないのか?」


 思わず訊いてしまった。答えなど分かりきっているのに。


 寂しくないはずがないのに。


「寂しくないよ」


 本当に、何でもないことのように亜流々は答えた。


「ぼくは強制されて世捨て人になったわけじゃない。『ぼくはこうあるべきだ』という信念に基づいて、自分の意志で選択した結果いまのぼくがある。だから寂しくなんてないよ。これもあるしね」


 亜流々はゲーム機を手で弄ぶ。その表情から彼女の本心は読み取れなかった。


「それに、今はどうしてかきみとお喋りすることも出来る。世の中、案外捨てたものじゃないのかもね」


「……洒落のつもりか?」


「まさか。洒落にもならない戯言さ。ぼくは世界に希望なんて持ってない。そういう人間でなければ、世捨て人なんてやっていられないよ」


「……そういえば、おまえはさっき、『自分で選択した結果だ』って言ってたよな? あれはどういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。ぼくはあるとき選択を迫られた。ただの人間として生きるか、世界の外で隠者として生きるか、とね。ぼくは後者を選んだ。そしてこの『眼』を授かった。ただそれだけの話だ」


「『眼』? お前の眼は何か特別なのか?」


「ぼくの『眼』にはあらゆる物が『視』えるんだ。万物の持つ意味が、生物の持つ意思が、運命の待つ未来が、全てぼくには『視』えている。ゆえにぼくの眼はこう名付けられたんだ、〈隠者の瞳〉――またの名を〈フォーチュンゲイザー〉とね。もちろん、きみの記憶に大きな欠落があることもぼくは知っているよ」


 記憶の欠落。由利にとっての急所を不意に突かれ、一瞬鼻白む。しかしすぐにあることが気になった。


「じゃあ、俺の失くなった記憶がどんなものかも分かるのか?」


「残念ながら、そこまでは分からない。きみの歴史を見ようとしても、きみの覚えている範囲より過去のことはさっぱりなんだ。逆に言うと、だからこそきみが記憶喪失だって分かったんだけどね」


「……そうか」


 そこまで期待していたわけではないつもりだったが、やはり落胆は小さくなかった。そもそも、仮に本当は見えていたとして、彼女の言葉をそのまま信じられるかどうかというのはまた別の問題なのだ。


 気を取り直して、話を戻す。


「……つまり、お前は誰にも認識されなくなった代わりに、その特別な能力をもらったってことなのか?」


「まあ、その理解で構わない。もっとも、厳密にいえばこれは能力ではなく、『役目』なのだけどね」


「その役目ってのは、誰に任されたんだ? 神様か?」


「ぼくにも分からない。一つ言えるのは、それが『運命』なんかじゃなく、何かの意志であるということ。それを『神』って呼ぶのが正解なのかは、まさに神のみぞ知るところだ」


「……なるほど、分からん。正直お手上げだ」


 正直なところ、ついて行けない。


 由利自身に、信じるための土台がないのだから仕方なくはあるのだが。


 疑ってかかっているわけではないが、まさにゲームの設定か何かを聞いている気分だ。


「もちろん、今すぐ信じる必要はないよ。ただ、いま話したことはあくまで前提として頭に入れておいて欲しいんだ。じゃないときみが困惑することになる」


「困惑しないよう、お手柔らかに頼む。ところで、仮にお前がゲームをやっているのを俺が先生にチクったらどうなるんだ?」


 先ほどの話を踏まえると、『神崎? 誰だそれは』となるのだろうか?


「多分、何の反応も示さないよ。きみが神崎亜流々という存在に言及したという事実そのものがなかったことになる。世界はぼく無しで回るよう修正されるんだ。たとえば……」


 言って、亜流々はおもむろに立ち上がると、黒板に何かを書き始めた。


「っておい。何やってんだ」


「何って、相合傘を書いているのだけど?」


 黒板の真ん中に、相合傘が書かれている。右下には『よしと』、左下には『あるる』と書いてある。


「おっと、消しちゃダメだよ。これはあくまで実験だからね。安心して。きみが危惧するようなことにはならないから」


「実験なら、俺が消したくなるようなものを書くなよな」


 文句を言いつつも、席に付く由利。


 結論から言うと、亜流々の言は正しかった。やがて入ってきた古文の教師は黒板に書かれた相合傘を何食わぬ顔で消し、そのまま授業を始めたのである。


「ね? 言っただろう? この教室にいる誰も、あれに言及しなかった。それどころか認識すらしていなかった」


「まあ、誰も興味なかったって可能性もあるが」


「きみはともかく、ぼくみたいな美少女が認識されていたら反応が無いはずないだろう?」


「それはもう。おっしゃるとおりで」


「つれないね。突っ込みの一つでも入れたらどうなんだい」


 どうやら突っ込み待ちだったらしい。面倒くさい性格である。


「まあ、分かったよ。実験はともかく、お前の言うことは本当なんだろう。現に今もお前と話してて誰もこっちを見ないんだから」


 ちなみに、亜流々は今由利の机の上に腰掛けながらゲームをして、由利が授業を受けるのを妨害している。


「だけど、変な感じだな。こういうシチュエーションは小説とかで読んだことあるけど、大抵は俺が独り言を言ってるように見えるものなのに」


 そして周りから怪しまれ、『おい、学校では話しかけるなって言っただろ』なんて台詞を吐いてさらに怪しまれるのがお約束である。


「ぼくが幽霊だったらそうなっていただろうね。けれどぼくは幽霊じゃない。むしろ性質は逆で、物質的には存在していても、本質的には存在していない――それが隠者なんだ」


「はあ。……そんなことより、机から降りてくれないか?」


「おや、どうしてだい?」


「なんでそんな意外そうなんだよ……黒板が見えないからどいて欲しいんだ」


「いいのかいほんとに降りちゃって? 今きみが少し姿勢を低くすれば、ぼくのパンツが見えるかもしれないのに」


「そんなみっともないことするか」


「見たくないとは言わないんだね」


「まあ……正直言うと黒板よりは見たい」


「そんなものと比較されても嬉しくないよ」


「……で、降りてはくれないのか?」


「分かった分かった。授業を聞かずに済むうえにぼくのような美少女と話せる機会をふいにするなんて、まったく特異な人間だねきみは」


 彼女は誰にも認識されない。したがって、彼女と言葉を交わしてもそれと気付かれることはないのである。それどころか亜流々のせいで全く授業に身が入っていない由利が見咎められることすらない。周囲の無反応が不気味に感じるほどだが、昨日までは由利もその周囲と同じだったのだ。


 つまり、自分はこれまでに気付かないうちに亜流々のパンツを見ていた可能性もあるということだ。……いや、見ていないということにしておこう。そうでないと無性に悔しくなる。


 ここで、由利はある疑問が浮かんだ。亜流々自身はともかく、彼女の影響を受ける由利はどの程度『認識されない』のだろうか?


「なあ、亜流々。例えばの話なんだが、おまえが今俺の首を絞めて殺したら、周りは俺が死んだことに気付くのか?」


 何気ない質問のつもりだっだが、亜流々のレスポンスは遅かった。


「亜流々?」


「……あ、ああ。その質問は前提が成り立たないよ。世界がぼくに干渉できないように、ぼくも世界に干渉できないからね。ぼくはそもそもどうやったってきみに危害を加えることは出来ない。逆もまた然りだ」


「なるほど。あともう一つ気になっていることがある」


「なんだい?」


「そのゲームはどうやって手に入れたんだ?」


 一瞬間を置いて、今度はやれやれというように肩をすくめた。『やはり来たか』と言わんばかりの反応だ。


「……ああ、なるほど。きみの考えていることが分かるぞ。つまりきみは、ぼくが誰にも認識されないのをいいことに、好き放題ゲームをかっぱらっていると思っているんだね?」


「そうは言ってないだろ」


「取り繕わなくていいさ。実際、そう思われて当然だと思うしね。でも、きみの想像はハズレだ。ぼくのこれは、ちょっとした伝手から借りているだけだよ」


「……そうか」


 由利は内心胸を撫で下ろしていた。実際のところ、亜流々の言うように盗みを疑う気持ちはあった。そうでないことを願っていたので、はっきりと否定してくれたのに安心する。


「そうかって……それだけかい? 伝手が何なのかとか、ほかにも訊きたいことはあるだろう?」


「いや、別に気にならない。やましいことはしてないんだろ? それだけ分かれば十分だ」


 由利の答えに、亜流々は肩透かしを食らったような顔をした。


「……そうあっさりと納得されてしまうと、こちらの方が馬鹿らしくなってしまうね」


「それは悪かったな。ところで、亜流々はどういうゲームが好きなんだ?」


 亜流々の手元を覗き込むと、大きな剣を持った男が画面内を縦横無尽に駆け回り、男の数倍はあろうかという巨体の怪物と丁々発止を繰り広げていた。


「……いわゆる狩りゲーってやつか?」


「これはそうだね。あとはRPGやアドベンチャーゲームも好きだよ。なんと言ってもひとりで楽しめるのがいい」


「俺もゲームは好きだぞ。つっても、ゲームやるよりは本読んでることのほうが多いが」


 すると亜流々はそうか、と言って少しだけ嬉しそうにした後、


「さて、それではそろそろ本題に入ろうか」


 おもむろにゲームを中断し、改まった顔でそう言った。


「本題? 本題ってなんだ?」


「ここまではきみの疑問の解消。いわば前振りだったわけだが、ここからはぼくの疑問の解消も兼ねるということだよ」


「なんだよそれ。おまえは何でも見えるんじゃなかったのか?」


「そうだよ。そして同時に、誰もぼくを見ることは出来ないはずなんだ」


 亜流々の言いたいことが分かった。


「……どうして俺には亜流々が見えるのかって話か」


「その通り。もっと言うなら、何故きみはあの〈常夜〉の世界に迷い込んでしまったのか? という話だ。もっとも、これについてはほとんど予想がついているけれど」


 彼女の言う〈常夜〉の世界というのは、昨夜夢で見た蒼い月の世界のことだ。あれは、明らかに異常な空間だった。それだけではなく、由利はあんな空間のことなど知らないはずなのに妙な既視感を覚えたことも気にかかる。


「あ、一応言っておくけれど、蒼い月っていうのはれっきとした自然現象として確認されているよ。火山灰や空気中の塵の影響で月が蒼く見えることはありうるし、一つの暦月の間に満月が二度巡ってくることをブルームーンと呼ぶんだ。まあ後者はこの場合関係ないけれどね」


「……じゃあ、あの月もただの自然現象なのか」


「そんなわけないだろう」


 鼻で笑われた。ならばどうしてこのタイミングで言ったのだ。由利が憮然とすると、亜流々は楽しそうに笑った。


「悪いね。こういう性分なのさ。ここからはちゃんときみが聞きたいであろう話をするよ」


「ありがとう。ぜひそうしてくれ」


 皮肉ったような口調で由利が先を促す。亜流々はわざとらしく大儀そうな咳払いをしてから、明瞭な声で語り始めた。


「さて。まずはきみの知りたいことについて話す上で、避けることができない前提についてだ。実はこの世界の構造は、普通の人々の認識とは異なっているんだ」


「……まあ、おまえみたいなのがいるってことは、つまりそういうことなんだよな」


 現に、昨日までは認識すらできなかった神崎亜流々という少女の存在を今はこうして認識出来ている。


 それはつまり、世界が変わったのではなく、世界の見え方が変わっただけなのだ。


「この世界は大きく分けて五つの領域に分けられている。言語化するなら『非理法権天』と言ったところかな。領域といっても、空間的な概念とは違うのだけれど。むしろ……『層』と言ったほうが的確かもしれないね」


 その言葉には聞き覚えがあるが、どう考えても今使われるべき概念ではないはずだ。


「先に言っておくけれど、きみが考えているものとは違うよ。この世界は〈非術〉、〈理術〉、〈法術〉、〈権能〉、そして〈天命〉という五つの層によって成り立っているんだ。後になればなるほど強力で、『霊格』――つまり存在としての階級が高い者でなければ扱うことはおろか、認識することもできない」


「ふーん……その術ってのはなんだ? おまえも使えるのか?」


「ぼくの〈隠者の瞳〉は、現象としてのランクは〈法術〉に相当するね。これより上、つまり〈権能〉はより上位の存在、要するに神さまの力になる。人智の及ばない領域だ」


 内心では『神様ときたか』と思いつつ、由利はとりあえず先を促す。


「その上の〈天命〉というのは?」


「それは、あらゆる存在の意思を超越する力だよ。『すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない』という言葉があるけれど、その童話を書いた神さまですら、天命に逆らうことは出来ない。いや、天命の一部でしかない、と言うべきかな。天命を司るもの――そんなものがあれば、だけど――から見れば、全ては物語の登場人物に過ぎないのさ。それが定義された存在なら、神さまでさえ例外じゃない」


「……待て、おまえの言ってることはおかしくないか? 正直なところおまえの話を正しく理解できている自信は全くないけど、その天命とやらは所謂メタ的な存在なんだろう? そんなのが本当にあったとしても、誰にもその存在を意識することすらできないんじゃないのか? それこそ、神様ってのがいたとしてもだ」


 それは例えば、物語を読んでいたら、物語の登場人物がいきなり名指しで語りかけてくるようなものである。


 立場は逆だが、つまりはそれくらいありえないことである。


 そう指摘すると、亜流々は感心したような顔をした。


「さすが、読書が好きなだけあって理解が早いね。まさにそう、特にメタ的な存在というのは傍点を振っておきたいくらい的確な表現だ。けれどね吾妻くん。きみから見たぼくもまた、そのメタ的な存在であるはずなんだよ」


「……そうか。だからおまえは普通の人間には認識されないんだな」


 つまりこういう事だろう。〈隠者の瞳〉を持つ法術者である神崎亜流々は、この世界――正確には非術者たちの世界をまるで物語の世界のように俯瞰している。彼女にとって人間は物語の登場人物に過ぎないのだ。


 ゆえに、読者が物語を書き換えることができないのと同じように、彼女は世界に干渉することができない。また、登場人物が読まれていることを認識できないのと同じように、人々も彼女の存在を認識することができないのである。


「その通り。まあ、全ての法術者がそうだというわけでもないんだけどね。ただ、大体の考え方は合ってる。術者としての格が上がるほど、世界の法則に囚われなくなっていくからね。特に権能の持ち主――つまり『神』に匹敵する術者は完全なるイレギュラーだ。非術者の常識は何一つ当てはまらないと言ってもいい」


「……大体分かった。だけど矛盾があるぞ。その話が本当なら、どうしておまえはその天命とやらが存在することを知っているんだ? 今おまえがやっていることは、たとえるなら筆者しか知らない設定を作中のキャラがいきなり語りだすようなもんだぞ」


 もっと言うなら、亜流々の言うことは、ある言葉で説明が付いてしまう。


「つまりは『シミュレーテッドリアリティ』ってやつだろ。少なくとも、おまえは俺に対してそうでないことを証明することはできない。何故なら実際にその天命やら権能の存在を俺に認識させることは絶対にできないからだ。証明できないなら、それはおまえの頭の中だけの設定と変わらない」


 自分の言葉を真っ向から否定されたにもかかわらず、亜流々は嬉しそうだった。


「確かにそうだね。悪魔の証明ならぬ神様の証明というわけだ。実際に連れてくれば証明できるが、証明できる時点でその神様の存在そのものが破綻してしまう――きみの言うとおりだよ。けれど、口では否定しつつもその実気付いているんだろう? ぼくの話の少なくとも一部が真実であることを」


「いいや、別に。おまえの話の一部は確かに辻褄が合っているけど、それは現状の説明であって、証明たりえていない。だから――」


「『だから納得はできても信用はできない』ってところかい?」


 亜流々に言おうとしたことをそっくりそのまま先回りされ、由利は面食らう。


「……その通りだ。そもそも、現状おまえの話を信じる必要性もないだろ。神崎亜流々はどういうわけか俺にしか見えない。このことで何か困るわけでもなし、それだけ分かれば十分だ。同じ理由で、おまえの疑問を解消する必要もない。というか出来ない」


 由利が言い切ると、亜流々はまたも目を丸くした。


「……なんだよ。そんなに変なことを言ったか?」


「いや、意見としては真っ当だと思うよ。つまりきみは、結果さえ分かれば過程はどうでもいいというわけだ。とても現実的な一方で、呆れるくらいロマンチストだね」


「ロマンチスト? 俺が?」


「だってそうだろう。きみはこの状況を、『実際こうなっているから』という理由だけで受け入れたわけだ。確かにそう割り切るのが建設的ではあるけれど、かといって頭から信じるなんてよほど寛容でなければ出来ないと思うよ」


「それって褒めてるのか?」


「うん。けれど、手放しで褒めることも出来ないね。このままきみを放っておけば、最悪の事態になりかねない」


 思わせぶりな台詞に、由利はぴくりと眉を釣り上げた。


「なんだよ、その最悪の事態って」


 その言葉を待っていたとばかりに、亜流々は答えた。端的に、簡潔に。


「きみが死ぬってことさ」




 ◆◆◆




 その日の授業が終わった。体感的にはやっと終わった、と言いたいところだ。といっても、ほとんど亜流々と話していたため、授業の内容はまるで頭に入っていないのだが。


 いちおう、由利にも授業に集中しようという意志はあるのだが、なにしろ亜流々がそれを許さない。


 いつも話しかけてくるし、無視をしたらしたで次から次へとちょっかいを出してくるため、全く授業に集中できないのである。


「これは、ある意味弊害なのか……?」


「なんのことだい?」


 由利が呟くと、件の亜流々本人が口を挟んでくる。


 由利は半眼を向けた。


「おまえのせいで授業に集中できないって話だよ。ずっとこの調子じゃ成績が下がっちまう。そこそこ優等生なのが俺の唯一の矜持だっていうのに」


 由利に当てつけがましい視線を向けられても、亜流々は飄々としていた。


「またまた謙遜を。きみは毎回、テストの成績では上位じゃないか。大して必死に勉強しているわけでもないのに」


「……俺のことを観察してたのか?」


「まさか。自意識過剰も甚だしいね。ぼくはこの世界を平等に俯瞰しているだけだよ。特別きみを注視していたわけじゃない」


「さいですか。まあ、俺なんかについても知ってるなら、他に知らないことなんてないだろうな」


 由利は自嘲気味に笑った。しかしその一方で、自分を見ていてくれたことを少しだけ嬉しく感じてもいた。


「まさか。ぼくにだって分からないことはあるよ。たとえば今、葛籠よもぎに向けられている熱い視線にきみはどうして気付かないのか、とかね」


 由利はぎょっとして、慌てて周囲に目を配る。すると葛籠よもぎの恨めしそうな視線とかち合い、由利はげんなりした。


「……じゃあやっぱり、おまえが言ってたことは本当なんだな」


「そういうことだ。分かったら行動したまえ。死にたくないのならね」


 亜流々の言葉で覚悟を決めて立ち上がると、由利はよもぎの元へまっすぐ足を運んだ。


 それが意外だったのか、よもぎは一瞬目を丸くしていた。しかしすぐに眉根を上げ、一見無感情な瞳に好戦的な光を宿らせた……ように見えた。


 それはまるで、「来るなら来い」と言っているようだった。


 別に由利はよもぎと戦うつもりなど微塵もないのだが、強く敵視されているこの状況ではそうも言っていられない。


 まして、自分の命が懸かっているとなれば、なおさら逃げるわけにはいかなかった。


「あたしに何か用かな、吾妻ユリくん」


 先に口を開いたのはよもぎだった。なんとなく、これは予想通りである。


 由利に悪気はなかったが、よもぎにとって由利は見られたくないものを見られた相手だ。先手を取られまい、イニシアチブを渡すまいと考えたであろうことは想像に難くない。


 どう返そうか少し迷ったが、とりあえずは一番言っておきたいことを言うことにした。


「葛籠。俺の名前はユリじゃなくてヨシトって読むんだ。確かに名簿とか見ても分かりづらいとは思うけど」


「えっ」


 敵愾心を隠そうともしていなかったよもぎの顔が、豆鉄砲を打たれた鳩のようなそれに変わる。彼女からすればまさに想定外の返しだったのだろう。ある意味掴みは上々なのかもしれないが、それが読みづらい名前と自分の地味さのおかげだと思うとやや複雑な思いである。


「そ、そうなの」


「ああ。そうなんだ」


「えっと、ごめん」


「いや、気にするな。……どうせほとんど呼ばれたことのない名前だからな」


「えっと……ごめん、ほんとに……」


 何故だろうか、フォローしたはずなのに、余計によもぎを落ち込ませてしまったようだ。


 仕方がないので、さっさと本題に入ることにした。


「あのな、葛籠。昨日のことなんだが」


 瞬間、よもぎの体が強張った。そして、さっきまでと同じように、再び睨みつけてくる。


「改めて謝っておこうと思う。勝手に鞄の中を見て済まなかった」


 言ってから、頭を下げる。そのまま数秒が経ったあたりで、頭の上から声が聞こえた。


「あげて。頭」


 頭を上げると、そこにはさっきよりも不機嫌そうな顔をしたよもぎが腕組みしながら立っていた。


「どういうつもり」


「どうって……今言ったとおりだよ。鞄の中を勝手に見たこともだけど、その中には特に見られたくないものも入ってたみたいだし」


 その返事が良くなかったのか、よもぎはさらに視線を鋭くした。


「っ! どうせ、ほんとうは馬鹿にしてるんでしょう。中二病のイタい女だって。心のなかで笑ってるんでしょう。だからあたしも吾妻をゆるさない。この屈辱はきえないから」


「……ん? つまり、どういうことだ?」


 何だろうか、この違和感は。よもぎとの間に、何らかの齟齬が発生している?


 困惑する由利に、よもぎは畳みかける。


「つまり、あたしとあんたは相容れないって言ってるの」


「どうして」


「吾妻が、心のなかであたしを馬鹿にしてるから」


「してねえよ」


「してる」


「してない」


「してるもん!」


 そこでよもぎは我に返り、声を荒げたことを恥じるように視線を落とす。対する由利はよもぎの言い分を理解するどころか困惑を深めるしかなかった。


「なんだ、それ。意味が分からない。何で俺が葛籠を馬鹿にしてるなんて決めつけるんだ?」


「してるに決まってるよ。あんなもの見たんだから」


 そう断言するよもぎだが、由利にはピンと来ない。由利にとって、よもぎの言い分はあまりに発想が飛躍していたのである。


 密かに書いていたものを見られて恥ずかしいというのは分かる。しかし何故、彼女は由利に馬鹿にされていると信じて疑わないのだろうか?


 由利は端的に訊ねた。


「……どうしてそう思うんだ?」


「だって、あんなの恥ずかしいよ。高校生にもなって、あんなごついノートに脳内設定垂れ流しの小説書いてるなんて」


「そういえば、あれって完全オリジナルなのか?」


 思わず口を突いて出た由利の空気が読めない質問に、よもぎは怪訝な表情を返した。


「だったらなんなの」


「いや、すごいなって思って」


「すごい?」とよもぎは眉をヒクつかせた。


「ああ。どうしたらあんな面白いものが書けるんだ?」


 それは尊敬からくる純粋な疑問だったのだが、よもぎは小鼻を膨らませながら眉を吊り上げるというよく分からない表情になった。喜んでいるのか怒っているのか微妙なところだ。


「ひ、皮肉のつもりなの」


「はあ?」


 どうやら怒りが勝っているらしい。褒めたつもりが斜め上の解釈をされ、由利は戸惑う。


「だって、あんなのだれでも考えつくよ。みんながしてる妄想とかわらない」


「そんなことねえよ。……あれ? なんか言ってることおかしくないか? みんながしてるってんなら、どうしてそんなに恥ずかしがるんだよ」


「そ、それは…………」


 よもぎは言葉に詰まる。そして居直ったようにそっぽを向いてしまった。


「知らない。もう話はおわり!」


「はぁ? なんだよそれ。どうしていきなり怒るんだ」


「なんだよそれはこっちだよ。どうしてわざわざ謝りになんて来たの。それじたいが、あたしのノートが恥ずかしいものだっておもってる証拠だよ」


「それは無茶苦茶だぞ。俺が謝ったのは、葛籠が傷ついていたからだ」


「なにそれ。じゃあ、吾妻はどうしてあたしが怒ったのか分からないのに謝ってるっていうの」


「耳が痛いけど、そういうことになるな。けど、申し訳ないとは思ってる」


「白々しいよ。だいたい、どうしてそこまでするの。わからないっていうなら、そもそもあやまろうなんて思わないでしょう」


「それは……」


 今度は由利が言葉に詰まる。


「やっぱり言えないんだ」


「……違う。そこまで言うなら正直に言うけどな、俺はまた読ませて欲しいんだよ」


 自棄になって言い放つと、よもぎは麦茶と偽って椎茸の戻し汁を飲まされたような顔をした。まず違和感を覚え、それが嫌悪感に変わると苦々しげな表情が浮かぶ。


「……なにいってるの?」


「だから、葛籠が書いた小説をちゃんと読ませて欲しいって言ったんだ」


「どういうつもり? もしかして、あたしに媚びを売ってるの」


 心底嫌悪したようなよもぎの反応に、由利は思わず強く反駁する。


「違う。どういう思考回路してんだ」


「だって、あたしってけっこうかわいい方だと思うし、あたしの弱みをにぎって手籠めにする気なんじゃ」


 由利は呆れを禁じ得なかった。まさかここまで自意識過剰だったとは。


 実際、よもぎの容姿は十人並というレベルではない。あからさまに目を引くことはなくても、彼女を見れば誰もが可愛いと思うくらいには整った容姿と言えるだろう。とはいえ、こんなことを言われては可愛げなど感じるはずもない。普段本を読んでいるからか、『手篭めにする』などという妙なボキャブラリーもあるらしい。


 なんにせよ、ここまで見くびられて平気でいられる由利ではなかった。


 自分の言葉を撤回して、「頼まれたっておまえの書いたものなど読んでやるものか」と言ってやろうかと余程思った。


 ――だが、それでも。


「……おまえ、言うことの割にずいぶんと卑屈なんだな」


 由利の口から出たのは、言おうと思っていたのと正反対の言葉だった。何故かは分からないのだが、あのまま売り言葉に買い言葉でよもぎの言葉を認めてはいけない気がしたのである。それを自覚した途端、感じていた怒りは霧消していた。


「どういう意味」


 由利の言葉でよもぎは気色ばんだ。由利に対する苛立ちが、明確な怒りに変わったように見える。まるで、本当に言われたくないことを言われたかのように。


 それでも、由利は怯まずこう言った。


「そのままの意味だよ。俺はおまえの書いたものを読みたいって言ったんだ。それなのにおまえは、自分の見た目がいいからそんなことを言われたんだって思ったんだろ?」


 言葉にすることで、自分でもよく分かっていなかった違和感の正体にようやく気付くことができた。


 そうだ。彼女は自信過剰に見えて、その実まったく自分に自信を持っていなかった。


 由利が褒めても皮肉に捉え、さもなければ打算と捉える。


 それは、彼女が書きたくて書いているはずのものに対する評価としては、極めて低いと言えないだろうか。


 つまるところ、彼女の態度は羞恥から来る怒りではないのだ。彼女は、期待して裏切られるのが怖かっただけなのである。


 ならば、まずはこちらの言葉が本心からのものであると認めさせなければ話は始まらないだろう。


「……だって、あたしの話がおもしろいかなんて、あたしにわかるわけないもん。あたしはあたしの話が好きすぎるから、だれにもバカにされたくないから、吾妻の言葉なんていらないの。だからほっといて」


 ようやく、よもぎは本心を吐露した。やはり彼女は怖いのだ。一番大事なものだからこそ、それを否定されることに怯えている。


 そこで、由利はこう言った。


「それなら、こうしよう。それを読ませてくれるのなら、俺は何も言わない」


「……けっきょく、吾妻はあたしをおどす気なの」


「少し違うな。要するに、葛籠は書いたものに否定的な意見を言われるのが嫌なんだろ? だから、俺は何も言わない。肯定的な意見も、否定的な意見も、俺の心のなかに留める。それなら問題ないだろう?」


「問題あるよ。それだとあたしにメリットがない。あたしの感じる羞恥とつりあうようなメリットが」


「なら、どんなメリットがあればいい?」


 このやりとり、一見よもぎに足元を見られているようだが、実際は違う。譲歩したのは、明らかによもぎの方だった。


 どうやらさっきまでと比べて、よもぎの態度はやや軟化したらしい。条件次第では、作品を見せることもやぶさかではなさそうだった。


「そうだね、どうしようか……」


 よもぎは俯きながら数秒思案した後、ふむ、と頷いて顔を上げた。そしてこう言い放った。


「それなら、吾妻にもおなじ穴のムジナになってもらう」


「……それは、どういう意味だ?」


 由利が首を傾げると、よほどいい考えが閃いたのか、よもぎは悪魔的な笑みを浮かべた。


 それを見て一瞬悪寒が身体を走り抜けたが、しかし実際はそう見えたというだけだ。よもぎは相変わらず感情の読みにくい表情をしている。そう見えさせるような何かが、よもぎの心中にあったということなのだろう。


 同時に、由利は自分が引き返せない所まで来てしまったことを悟った。今自分がどんな顔をしているのかは分からないが、少なくとも心の中では、とんでもない無理難題をふっかけられるのではないかと戦々恐々している。


 そんな由利の反応に構わず、よもぎは嬉しそうに説明を始めた。


「つまり、吾妻にはあたしが書いたものを読んでもらって、アイディアを出してもらうの」


「アイディア?」


 オウム返ししながら、由利は疑問符を浮かべた。それが具体的にどういう意味なのかはまだ分からないが、なんとなく、違和感を覚えた。


 まず、その言い回しだ。まるで、由利がよもぎの言うとおりにする――つまり、小説を読んで『アイディア』を出すという行為が、まるで苦を伴うかのような口ぶりである。


 そもそも、『アイディア』を出すというのは、要するに読んだものに対して意見するということではないのか? そしてそれは、よもぎが忌み嫌っていたことではないのか?


 困惑する由利に助け舟を出すかのように、よもぎは言った。


「つまり、吾妻には『読者』じゃなくて、『編集者』になってもらうってこと」


「読者じゃなくて、編集者……?」


 それはつまり、具体的にどういうことなのだろうか?


 何が変わるというのだろうか?


「意味がわからないって顔してるね」


「実際わからないんだよ。結局俺はどうしたらいいんだ? それらはどう違うんだよ?」


「ぜんぜん違うよ。『読者』は、読んでおもったことを無責任に口にするだけのひと。『編集者』は、それをどうすれば改善できるかをいっしょに考えるひと」


 その説明によって、由利はようやく得心いった。要するに、一緒に考えるというのが重要なのだろう。


 由利に『読者』として――つまりよもぎに向かい合うようにして意見を述べられるのは許容できないが、『編集者』として、よもぎに寄り添い、より近い視点から建設的な意見をよこす分には構わないと、彼女はそう言っているのだ。


「つまり、俺もいっしょに小説の内容を考える、ってことか?」


 だから、『アイディア』なのだ。読ませるからには、それによってアウトプットされるもの全てを作品の糧としてやろうという魂胆なのだろう。


 卑屈で臆病な少女かと思っていたが、葛籠よもぎという少女は、どうやら創作に関しては極めて貪欲なたちだったらしい。


 よもぎはどこか得意げに、薄い胸を反らしながら首肯した。


「そう。それなら読ませてあげる。だって、あたしと同じように妄想して、あたしの世界に染まっていけば、あたしを馬鹿にできなくなるでしょ?」


 よもぎの言い分に、由利はなるほど、と思った。


 二人で話を作っていく以上、仮に由利が批判すればそれは自分にも跳ね返ってくるという寸法なのだろう。なんというか、裏切りを防止するために相手を共犯者にしてしまうのに似ている気がした。


 そういう意味で、よもぎの案は効果的と言えるだろう。無論、これならばよもぎが安心できるという意味で、だが。


 あくまでよもぎは由利に馬鹿にされていると信じているらしい。そのよもぎからしたら、これ以上の落とし所はないのだろう。もちろん、由利には元から馬鹿にするつもりなどないのだが。


「……分かった。それでいこう」


 結局、由利はその条件を飲むことにした。その選択がどのような結果を生むことになるのか知らないままに。


 よもぎは微笑みを浮かべ、可憐な仕草で右手を差し出す。


 それを由利が握ると、きゅっと握り返された。


「それじゃ、よろしくね」


「ああ、よろしく」


 確認の意味で挨拶を交わし、手を離そうとするも、よもぎの方はより強く握りしめていて、離す気がなさそうだった。


「……葛籠?」


「ごめん、ひとつ言いわすれてたことがあったよ」


 その声の低さに、由利は思わず生唾を飲み下した。そして、張り付いたような微笑こそ崩れていないものの、目だけが据わっているよもぎの視線に釘付けになる。


「あのね、吾妻が約束をやぶった場合のことなんだけど」


 約束。つまり、由利が『編集者』としてよもぎの創作に協力するという約束だ。


 確かに、協力するにあたってまず由利が作品を読むことになる以上、この約束は由利が一方的に反故にすることが可能である。


 だから、よもぎとしては保険をかけておくことは必要だろう。


 ……とはいえ、今のよもぎを見ていると、とても穏やかでない言葉が飛び出しそうな予感がして、約束を破る気など毛頭ない由利でさえ不安が湧き上がってくる。


 果たして、その予感は外れなかった。


「もし約束をやぶったら、コトダマ様におねがいして、ひどい目に遭わせるから」


 よもぎは、大真面目な顔でそんなことをのたまったのである。




 一日目終了。


 ――〈常夜〉の訪れまで、残り六日。




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