第一節
あの夜、マリアが道路に倒れ込んだ直後だった。
修二は暴漢から腹部に重い一撃を受ける。激痛で腹を押さえた隙に、
男は修二の鞄から財布を抜き取った。逃げる男の腰を修二は背後から掴んだ。
だが男が振り返りざまに放った拳は、胸の骨が折れるほどの威力だった。
衝撃で宙に浮いた修二は、何も考えることが出来ない速度でアスファルトへと
叩きつけられた。頭部を強く打ちつけて意識を失った修二は、
そのまま冥府へと引き摺り込まれていった。
修二の、傲慢なほどの自信、そして狂気じみた正義感。
それが冥府のトップの目を惹いたのだ。
今、修二は「生死預かりの身」として、部下である次官のそばにいる。
マリアの住む世界で、修二の書いたメッセージの紙片は、下駄箱の中に存在する。
他の誰でもない、マリアが触れるまでは、彼女の住む世界のルールに則る術を
門番が発動させているからだ。
その術は、マリアが触れてから1分以内に消滅する。それは修二も認識していた。
門番がそう修二に伝えたからだ。だが修二は彼のことを「門番」とは呼ばない。
次官と呼んでいた。
今日も修二は次官がやって来たので、口頭でマリアへのメッセージを伝え、
届けてくれるようお願いするつもりだ。だが、修二の左足は膝まで獣化している。
足首から下は手の大きさほどだが、指は4本だ。
長く湾曲した硬い爪が生えており、まるで鷲のようだった。まだ獣化途中のため、
ジンジンする痛みで声も出し辛い。やはり死期が迫っているのかもしれない。
それとも獣となって、人間だった時のことを忘れてしまうのか。
どちらにしても修二にとっては自分自身の「死」に変わりはない。
だから次官にまずはこう聞いた。
「俺は、あと何日くらい人間でいられるんですか」
次官は言った。
「こちらの要求を受け入れれば、すぐにでも元通りの身体になれる」
修二は力なく笑った。この世界の住人になんか今はならない。
「最初に言ったはずです。それはあり得ない」
「みんな初めはそう言うが…」
「俺の居た世界では、こういうのを拉致って言うんですよ」
「こちらの世界でも同じだ。
だからこうしてお前が住む世界との繋がりを断ち切られないよう、
せめてもの配慮をしている」
「俺をどうしようっていうんです」
「最高責任者に見込まれたことをどう思うか、だな」
修二は呆れたように笑った。この世界が冥府であるのはもう知っている。
解せないのは、悪人でもないのに何故自分がこんな仕打ちを受けているのか
という点だ。
「俺は何も悪いことをしていない」
「それも、みんな言う」
修二は、今度は声にならない微笑を含んだ表情になる。
『思い通りに動かせないと、人の弱みにつけこんで言うことをきかせようとする。
恐喝じゃないか。こっちの世界もあっちの世界も、
やることが同じってどうよ…』
修二はもう諦めていつものお願いに入った。
「マリアには、こう伝えてください 『もっと 一緒にいたかった』 ……と」
次官は修二から預かっている大学ノートに、言われた通りのメッセージを
書き記すと、一言も発することなく立ち去ろうとした。
だが修二は次官を呼び止めてまた質問した。
「あの、それで俺はあと何日生きられますか」
次官には、人間として生きられる時間のことを修二が聞いているのは明白だった。
だから立ち去ろうとした姿勢のまま、その質問に答える。
「今日を入れて、あと6日だ」
修二は愕然とした。だが苦しみに呑まれてしまう前に、
答えてくれたお礼を言うのが先だと思った。だから気力を振り絞ってこう言った。
「ありがとうございます」
次官はその言葉を聞いてから、静かに出口に向かって歩き始めた。
もう失って戻ることのない妻を思い出した次官は、
修二と同じように現実を受け入れ、どこか力のない寂し気な微笑を浮かべていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
もし少しでも「続きが気になる」と思ってくださいましたら、ページ下部にある
【☆☆☆☆☆】をタップして評価や、ブックマーク登録などをしていただけると、
今後の執筆の大きな励みになります!星1つ、応援の気持ちだけでも大変嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




