第一節
「あの日、頬とか腰とか…」
マリアは書き留めた文字を見つめながら、下駄箱に敷かれたすのこの上に
座り込んでいた。
『何で、” あの日 “ なの? おとといの出来事なのに』
マリアは朝のホームルームだけ出席して、そのあとはあそこへ行く予定だ。
今朝も思った通り手紙が下駄箱に入っていた。
だから毎日学校には来なければならない。
まだ痛む腰を押さえながら立ち上がると、自分のクラスに向かった。
隣の修二のクラスを通り過ぎると、ホームルームが始まる前の和やかな朝の
ひとときで、教室はざわついている。普段通りの空気が悲しくて仕方がない。
自分のクラスも状況は同じだ。みんな他愛ない会話で盛り上がっている。
マリアは重い足取りで教室に入り、席についた。
ちょうど担任の速水も教室に入ってきたので、周囲は静かになったが、
マリアは一昨日の修二のことで頭がいっぱいだった。
「藤本マリア」
速水は前日早退したマリアを気遣って、まずマリアに声をかけた。
だがその声にシンクロするように、マリアは修二が自分の名前を呼んで、
心配してくれた時の顔が目に浮かんで胸が締め付けられていた。速水の呼びかけ
に反応するどころか、一昨日の出来事が鮮明に蘇ってきてしまった。
『修二が庇ってくれようとする前に、私は暴漢に頬を殴られてる。
その圧倒的な力で私は道路に腰を強く打ち付けて倒れ込んじゃったんだ。
それから修二はあの暴漢…片方眉毛のない男と格闘し…』
「あの片方眉毛なしと…」
マリアは修二と同等くらいに喧嘩の強そうな暴漢のことを憎憎しく思っている
ことが、つい口に出てしまった。
「藤本っ」
担任の速水はまた呼んでみたが、マリアはまだ気づかない。とうとうマリアの席
までやってきて、メガネを外しながら速水はマリアの顔を心配そうに覗き込む。
「私は両方、眉毛あるけど」
「げっ 」
マリアは憂いを帯びた切れ長の目を見て思わずのけぞった。
椅子が後にギギっと音を立てた瞬間、周囲が一斉に笑い出した。
いつもなら優しい速水と生徒との和やかなホームルームの一幕で済むはずだ。
だがこの空気感を今のマリアは受け入れられない。
「なんですか、いきなり!」マリアは攻撃的な口調で言った。
「大丈夫じゃ…なさそうだな」
「…」
『そうか…。先生は心配してくれてるのか。なら言うなら今がチャンス』
「先生、そ、早退させてください」
速水はマリアの顔を心配するように見つめながら、
それ以上は何も聞かずにいてくれた。
「わかった。くれぐれも気をつけて帰れよ」
ただそう言って、早退を許可してくれたのだ。
深く詮索しない速水のおかげで、望み通りの展開になった。
しかしここで仮病と思われても厄介だ。マリアは努めて体調が悪そうに、
ゆっくりとした足取りで教室を出て行こうとする。
みんなが掛けてくれる心配の声に、マリアは少しだけ良心が痛んだ。
だが教室の扉を閉めた途端、マリアは生気を取り戻した顔になった。
冷たい廊下を掛ける足音が響くのも気にせず、一目散に下駄箱へと向かった。
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