全員、土下座
跳ぶ。
ミオにはそれが分かった。
後ろ脚が床をつかんだ。灰色の毛の下で、太い筋肉がぎゅっと縮む。
コタロウと同じだ。この次は、跳ぶ。
(レン――)
声が出なかった。
目もつぶれなかった。カメラを持っているからだ。こんなときまで。
門番は跳ばなかった。
跳ぶ形のまま、止まった。
後ろ脚に溜めた力がどこにも行かない。行き場をなくして、毛の下でぶるぶる震えている。
黄色い目がレンを見ていた。
突き出された手刀を。
その向こうの、レンの顔を。
かくん、と前脚が折れた。
ずしん。
胸が床に落ちた。続けて、あごが落ちた。骨が何本も弾かれて転がっていく。
門番は止まらなかった。
頭を床にこすりつける。牙の先が石をひっかいて、ぎぎぎ、と嫌な音がする。
1回。2回。
もっと低く。もっと平たく。
唸り声が変わった。
くうん。
……くうん。
トラックくらいある体から、子犬みたいな声が出ていた。
レンは手刀の形のまま固まっていた。
「……は?」
ミオは何も言えなかった。
カメラだけがまっすぐそれを撮っていた。
◇
《今の何》
《土下座した!?》
《は?》
《いやいやいや》
《推定難度Bが土下座》
《去年ここで盾割られたパーティいたよな》
《担架出たやつ》
《警棒も抜いてない》
《手刀だぞ》
《切り抜き班はよ》
《もう録ってる》
同接が2,400から9,800に跳ねた。瞬きしたら4万を超えていた。
ぱらぱらと、天井から何かが落ちてきた。
黒い、手のひらくらいのもの。
コウモリだった。天井の暗がりにずっといたらしい。それが次々に床へ下りてきて、翼を左右いっぱいに広げて、ぺたりと伏せる。
骨の陰からは灰色の小さいトカゲが何匹も這い出してきた。全部、腹を床につけた。
門番を先頭に、部屋じゅうが伏せている。
すとん、と隣で音がした。
ミオが座っていた。
正座だった。骨の散らばる床に。両手でカメラを持ったまま。
「いや、お前は座んなくていいだろ」
「……腰、抜けた」
「抜けんな」
《画面下がった》
《ミオちゃんも座った?》
《ミオちゃんまで土下座してる》
《全員土下座》
《画面の中で立ってるの背中の人だけ》
《俺もなんか椅子から降りた》
レンは門番に向き直った。
でかい頭がまだ床にめりこもうとしている。
「はぁ? 何拝んでんだよ、気持ち悪いな」
くうん。
余計に低くなった。
「低くなれって言ってねぇよ!」
くうううん。
「だから違うって!」
ツッコめばツッコむほど平たくなる。なんだこいつ。
「顔上げろ。な? 普通にしてろ」
でかい頭がほんの少しだけ持ち上がった。
黄色い目がレンを見た。
ばん、と音がするくらいの勢いで、また床に戻った。
「見てから戻んな! 傷つくだろ!」
《草》
《顔見て再土下座》
《背中の人の顔どうなってんの》
《背中しか映らないの逆に怖い》
(……いや、待てよ)
さっきまで、こいつは跳ぼうとしていた。
あの体で。あの牙で。
ミオが半泣きで止めるくらいの勢いで。
それが手刀1本で止まった。
止まって、謝っている。
誰に。
(俺に、か?)
犬も、ウサギも、スライムも。郵便屋を泣かせるやつまで。
全部、たまたまで片付けてきた。そういう日もあるだろ、くらいに。
トラックくらいあるやつに謝られる日は、さすがにない。
「……べつに、そういうつもりはないんだけど」
突き出したままだった右手を、そっと下ろした。
カメラが小さく揺れた。
ミオだった。正座したまま、レンを見上げている。
「……レン」
声が震えていた。
「今の、絶対配信史に残るやつだよ」
「残すな」
「残るの。もう残ってるの」
「配信史ってなんだよ。そんな歴史あんのか」
「あるの! 今できたの!」
「今できたもんに残すな」
◇
数分たっても、門番は顔を上げなかった。
コウモリもトカゲも伏せたままだった。部屋の中で動いているのはコメント欄だけだ。
「とりあえず、これもう終わりでいいだろ」
「……」
「帰るぞ。ほら、立て」
レンはミオの腕をつかんで引っぱり上げた。
さっきは引っぱられる側だった。
ミオの足はまだふにゃふにゃしていた。立ったけど、カメラは下ろさない。下ろせないのかもしれない。
「……2万」
「は?」
「日当。払う」
「だから歩いてねぇって」
「歩いたよ」
ミオが床を指さした。扉からレンが立っているところまで。
「3歩。門番の前」
レンは自分の足元を見た。
扉。1歩。2歩。3歩。
確かに前だった。真ん前だった。
「……3歩で2万はぼったくりだろ」
「いいから受け取って! あと検証手当100円!」
「それ俺が言うやつだろ」
《3歩で2万》
《歩合制なの草》
《時給換算したらやばい》
《むしろ協会が払え》
ポケットが一度だけ震えた。
『入金がありました 20,100円』
財布と口座で2万7,060円。そこに2万100円。
4万7,160円。
家賃は3万8,000円だから――
(……足りた)
大家に頭を下げなくていい。
それは助かる。助かるのだが。
背中の後ろに、まだ平たくなったままの門番がいる。
喜ぶタイミングが、よく分からなかった。
扉の方へ下がる。
門番の横を通るとき、巨体がごろんと横に転がった。
4本の脚を宙に浮かせて、灰色の腹を天井に向ける。腹の毛だけ、少し白かった。
(近所の黒い犬と同じじゃねぇか)
同じなのは格好だけだ。でかさが30倍違う。
「腹しまえ」
くうん。
しまわなかった。
◇
扉を出ても、ミオはまだ配信を切っていなかった。
スマホの中で、同接は4万7,000のところで止まっている。
《ミオちゃん何か言って》
《放心してる》
《切るな》
《いや切ってあげて》
《切り抜き班もう3本上げてる》
「……えと」
ミオがカメラを自分に向けた。
「本日は、えと……」
続きが出てこない。
口を開けて、閉じて、また開けた。
「……数字、見て……」
いつもの台詞の、10分の1くらいの声だった。
《見てる》
《見てるよ》
《見てるから休んで》
「……ごめん。ちょっと、締め方わかんない」
レンは横から手を伸ばした。
「貸せ」
画面の赤いボタンを押した。
ぶつっと切れた。
「あっ」
「お前が切らねぇからだろ」
「……ありがと」
「おう」
帰りの通路では、何にも会わなかった。
1層への階段を上りきったところで、足が止まった。
白いのが並んでいる。
角ウサギが6匹。水色が1つ。
1列にきっちり並んで、全員、床に伏せていた。
「……お前らまで何してんだ」
返事はない。当たり前だ。
(昨日、帰れって言ったよな。言ったよな?)
ミオがスマホを握ったまま、乾いた声で笑った。
「出迎え、されてる」
「されてねぇよ」
「されてるよ。どう見ても」
レンが1歩出ると、6匹と1つは、そろってもう一段低くなった。
「低くなんな」
なった。
隣でミオの膝も、かくんと沈みかけた。
「お前は低くなんな」
「……今のは、つられただけ」
ミオが膝を伸ばして、スマホの画面をちらっと見た。それから、レンの顔を見た。
「……ねえ。⑤、書いていい?」
「書くな」
「書く」
「聞いた意味ねぇだろ」
(親父の話、盛ってなかったのかもな)
動物園のライオンが寝たふりをした話。
正月の酒の席の、いつもの話。
今まで1回も本気にしたことはない。
隣でミオがまだスマホを握りしめている。
画面は真っ暗なのに、震え続けていた。
ミオが親指で画面を点けた。ロック画面に通知が積み重なっている。
『【悲報】迷宮の門番、土下座』
再生12万。
こうして、迷宮の中で一番驚いていたのは、たぶんレン自身だった。
(いや、誰か説明してくれ)




