これはヤバいって
ぎい、と扉が鳴った。
レンが押したわけじゃない。袖をつかまれたまま、体重が少し前に乗っただけだ。
それだけで、半開きだった石の扉がもう半分ずれた。
中は広かった。
学校の体育館くらいある。天井が高くて、壁の緑の光がそこまで届いていない。
床に骨が落ちていた。1本や2本じゃない。
そのいちばん奥。
暗がりの中に、岩みたいなものが盛り上がっていた。
(でけぇ岩だな)
岩が動いた。
首だった。
持ち上がった首の先に、顔がある。犬とも熊ともつかない、横に長い顔だ。
口の端から牙が2本、下向きに突き出している。レンの腕より長い。
背中は灰色の毛で、ところどころに石みたいな硬そうな板が貼りついていた。
体の大きさは軽トラ。
……いや、軽トラより大きいな。
トラックだ。引っ越しで頼むやつ。
(2トンか。4トンか。どっちでもいいわ)
黄色い目が2つ、ゆっくりこっちを向いた。
(あー。門番ってこれか)
でかくて、硬くて、絶対どかない。
なるほど。どかなそうな顔をしている。
(つーか門番って職業名かよ。誰が雇ってんだ)
ミオが言っていたのと、だいたい合っている。
レンが思ったのはそれくらいだった。
袖を引っぱる力が強くなった。
「……やめよう」
ミオの声がいつもの半分くらいの大きさだった。
「レン、これ、今日はやめよう。逃げよう」
「あー、はいはい」
「はいはいじゃなくて!」
小声のまま怒鳴るという器用なことをして、ミオがもう一度袖を引いた。
レンは動かなかった。
別に踏ん張っているわけじゃない。ただ、下がる理由がよく分からなかった。
「まだ何もしてねぇだろ、あいつ」
「するの! これからするの! 門番ってそういうのなの!」
「お前、前歩けって言ったじゃん」
「言ったけど! これはヤバいって!」
「ウサギのときもそう言ってなかったか」
「言ってない! ウサギのときはわくわくしてた!」
「してたのかよ」
「……してた。ごめん。でも今は違うの」
ミオのカメラが揺れていた。
レンの背中と、その向こうの灰色の山を、交互に映している。
◇
ミオは知っていた。
門番が何をするのか。
去年、知り合いの中堅パーティが「ちょっと顔だけ見てくる」と言ってこの扉を開けた。
4人で入って、4人で出てきた。
1人は担架だった。盾が真ん中から折れていた。
それから誰も、この部屋には入らない。協会の図鑑には推定難度B。2層にいていい数字じゃない。
知っていて、レンを連れてきた。
日当2万で。カツ丼大盛りもつけて。
(……いや)
④、確定。
だから門番も、きっと。
レンが顔を見せれば、きっと。
そう思っていた。扉が開く前までは。
門番は伏せなかった。
前脚を立てて、後ろ脚も立てた。
立ち上がると、さっきの倍くらいの高さになった。
ミオの喉が勝手に鳴った。
(伏せない)
今までのは全部、レンと目が合った瞬間に伏せた。
門番は今、レンを見ている。
見ていて、立った。
(……なんで)
確定って書いたの、昨日のあたしだ。
(書くんじゃなかった)
◇
《でっか》
《え、無理》
《これ門番?》
《生で見るの初めて》
《ミオちゃん下がって》
《逃げて》
《ルールその1!!》
スマホの中で、コメントが縦に流れていた。読めないくらい速い。
同接の数字は1,000ちょっとから、1,600を超えていた。
1,700。
1,800。
いつもなら叫んでいる数字だった。
数字見て! 今の見てえ! と。
喉まで来て、出てこない。
見ている人間が増えるのがこんなに嫌だったことはない。
なのに、カメラを止める指も動かなかった。
(最低だ、あたし)
「レン。お願い」
ミオは袖を離して、レンの腕をつかんだ。
「日当は払う。2万、ちゃんと払うから。今日は帰ろ」
「歩いてねぇだろ、まだ」
「は?」
「門番の前歩くって話だったろ。まだ扉んとこだぞ、俺」
「……そこ? そこは真面目に守らなくていいの!」
「2万だぞ」
「だから払うってば!」
「払われる筋合いがねぇんだよ。歩いてねぇのに」
(それはそれで気持ち悪いだろ)
家賃は3万8,000円だ。
2万をもらえば足りる。
もらう理由がないまま2万をもらうのは、なんか違う。
バイトで言えば、出勤してタイムカードを押さずに帰るようなものだ。
いや、ちょっと違うか。
まあいい。とにかく違う。
「帰るのが嫌なら遠回り! あっちなら門番いないから!」
「遠回りって、あれだろ。来るとき見えた、ぐるっと回ってるほうの通路」
「……うん」
「あれ1時間はかかるだろ」
「1時間半」
「なおさら嫌だわ」
「明日もカツ丼大盛りにするから!」
「……」
「ね?」
「それは乗る。けど今日のは今日のだろ」
「なんで今日だけ真面目なの!?」
この男、カツ丼の交渉だけは即答である。
門番が鼻を鳴らした。
ぶふっ、と生臭い風が来た。
ミオの前髪が浮く。レンのパーカーのフードも浮いた。
(くっさ)
骨のそばで、門番の前脚が一歩だけ前に出た。
床が鳴った。足の裏まで響いてくる、重たい音だった。
低い唸り声がした。
ごろごろと、腹の底を転がすような音だ。
さっきまでの息の音とは、全然違う。
◇
《唸ってる》
《あ、これダメなやつ》
《配信事故じゃん》
《ミオちゃん本当に下がって》
《背中の人も下がれ》
《無理無理無理》
《誰か協会に通報しろ》
《通報してどうすんだよ間に合わねえよ》
同接、2,000。
2,100。
ミオの指がカメラのグリップの上で白くなっていた。
「レン!」
腕を思いきり引く。
レンの体が少しだけこっちに傾いた。
傾いて、それだけだった。
「なんだよ」
「なんだよじゃない! 下がって! ほんとに!」
「いや、下がったら歩けねぇだろ」
「歩かなくていいって言ってるの!」
門番がもう一歩出た。
床の骨が1本、前脚の下でぱきっと折れた。
黄色い目がまっすぐレンに向いている。
ミオではなく、レンに。
レンはその目を見た。
でかい目だった。でかいなー。
牙も長い。毛も硬そうだ。あと、たぶん重い。
怖いかと聞かれたら、よく分からない。
怖いってどういう感じだったか、ちょっと思い出せない。
(あれだな。近所の黒い犬も、初めて会ったときはあんな顔してたな)
で、その後腹を見せた。
たぶんそういうもんだろう。
「別にいいだろ。ちょっと通してもらうだけだし」
そして一歩前に出た。
「――は?」
ミオの手から、つかんでいたはずのレンの腕がすり抜けた。
レンは扉の内側に立っていた。
骨と骨の間の、何もない床の上に。
《は?》
《前出た》
《なんで前出るの》
《おい》
《おいおいおいおい》
《背中の人!!》
《2,400人で事故見守るのやめろ》
画面の端で、録画の赤い丸が点いたままだった。
◇
門番が姿勢を低くした。
前脚を折って、胸を床に近づける。お尻のほうが少し上がる。
(お、伏せた?)
違う。
コタロウが庭に入ってきた猫に飛びかかる前のやつだ。
「レン、それ――」
ミオの声が続かなかった。
門番の後ろ脚に力が入るのが見えた。灰色の毛の下で、太い筋肉が盛り上がる。
牙の先が床をこすった。
ごろごろという唸り声が、途中でぴたりと止まった。
静かになった。
コメントの流れる音なんてないのに、なぜかそれまで止まったような気がした。
門番とレンの間は、もう10歩もない。
あの体なら、1歩だ。
「よっ……と」
レンは片手を前に出した。
満員電車で人の間を抜けるときの、あの手刀だ。
「すいませーん。ちょっと通りま」
門番の後ろ脚が床をつかんだ。




