深層すら
灰色の巨体が、まさにレンの眼前へと殺到した。
地熱でぬめる岩盤を砕きたてがみを逆立て、金色の目をぎらつかせて。その後ろ足が地を蹴るたび、洞窟の空気そのものが悲鳴を上げるようだった。自動販売機どころではない。小型の山が、意思を持って突っ込んでくるような質量だ。
レンの背後の大男が長物を両手で握り直した。青ざめた班員たちが、一斉に息を呑む。ミオのカメラが、その獣の巨体を真正面から捉えていた。
そのとき、だった。
巨体が、レンの目の前わずか数歩の位置で、突如として硬直した。まるで見えない壁に全身をぶつけたように。前足が滑り、岩盤を削り火花のような破片が舞う。勢いを殺しきれず、ずるりと前のめりに崩れ落ちていく。
岩が砕ける轟音が洞窟の天井を叩いた。巨体が膝を折り、硬いたてがみの生えた頭を岩の床へと垂れる。それはまるで、走ることをやめた獣がその場で崩れ落ち、祈るようにあるいは許しを乞うように、頭を地へと擦りつける瞬間だった。
静寂。
洞窟を満たしていたあらゆる音が、一瞬で消えた。ただ岩の裂け目から噴き出す蒸気の、しゅうしゅう、という細い音だけが響いている。
レンは、ポケットに手を突っ込んだまま、その巨体を見下ろしていた。
黄色いヘルメットのあごひもが、結束バンドごとゆらりと揺れている。汗で張りついた前髪の下、いつもの眠そうな目は驚きも、怯えもましてや得意げな色も浮かべてはいない。ただ、面倒そうにというか、どうでもよさそうに目の前で崩れ落ちた山のような獣を眺めていた。
灰色の毛並みが湿った蒸気をまとって鈍く光っている。長い爪の生えた前足が、だらりと伸びている。その爪の先が、あとほんの少しあと数センチで、レンの靴の先に触れるかどうかという距離だ。
それでも、レンは一歩も動かなかった。
大男が、長物を構えたまま呼吸をするのも忘れたように立ち尽くしていた。握りしめた柄が、かすかに震えている。目は灰色の獣と、その前で棒立ちになっている背中を、何度も行き来している。口元が、かすかに開きかけたまま声にならない。
班員の1人が無線機を握ったまま、壁に背中をつけてずるずると座り込んだ。別の1人は、荷物を胸に抱いたまままばたきを忘れている。足元に散らばった岩の破片が、誰かが踏んでもいないのにかすかに鳴る。
ミオは、カメラを構えたまま息をしていた。
いや、息をすることすら忘れていたかもしれない。カメラのレンズは、灰色の巨体の頭部とその前に立つ黄色いヘルメットの背中を、正確に捉え続けている。彼女の指先が、かすかに震えていた。その震えだけが、この場が現実であることを示す、かろうじての証拠のようだった。
湯気が、2人の間をゆっくりと流れていく。
レンは、ようやく動いた。
といっても、それは戦闘態勢でも警戒の姿勢でもない。ぶかぶかの防寒ジャケットの襟元をつまんで、ばたばたと仰いだだけだ。首筋に張りついた汗が、蒸気の熱でじわりと滲む。
「……あー、やっぱ暑いわ。これ脱いじゃ駄目? マジで茹でる気かよ」
その声は、洞窟の静寂をあまりにもあっさりと突き破った。
灰色の獣は、その声にぴくりと反応した。たてがみの下で、金色の目がおそるおそる、というふうにレンを見上げる。だが、顔を上げようとはしない。床に擦りつけた頭を、さらに低くさらに深く沈み込ませる。喉の奥から、かすかなほとんど息のような低いうめきが漏れた。
それは、威嚇でも、苦痛でもなくまるで、どうか見逃してくれとでも言うような、従属の声だった。
大男が、一歩、後退った。
無意識だった。あれほどまでに班を守るために前へ出ようとしていた男が、今度は、レンから距離を取るように半歩、足を引いた。長物の切っ先が、床をかすめて小さな音を立てる。
「十文字、お前……」
ようやく絞り出した声は掠れて、自分のものとは思えないほど弱々しかった。
大男の声は、本当に、ただの呟きだった。怒気も皮肉もなく、ただ目の前の光景に理解が追いつかないという響きで、その言葉は零れた。
「……お前、一体何者なんだ」
レンは振り返った。ぶかぶかの防寒ジャケットの袖をたくし上げたまま、首をかしげた。
「いや、俺が聞きたいわ」
平熱だった。地熱の洞窟よりも、崩れ落ちた灰色の巨体よりもその声はどこまでも平熱だった。大男は、ぐ、と喉を鳴らした。返す言葉が見つからないのか、長物を握ったままの手がゆっくりと下がっていく。
そのとき、班員の1人が吹き出した。
張り詰めた空気の中でそれはあまりにも場違いな音だった。だが、一度漏れた笑いはもう止まらなかった。腹を押さえ、肩を震わせそれでも必死に堪えようとして、ますます笑いがこみ上げてくる。
「す、すみません……でも、その……」
謝罪の言葉も途中で途切れる。笑い声は、崩落した岩の粉塵と熱い蒸気の間を縫って、洞窟の奥へと転がっていった。つられたように、もう1人の班員も口元を緩めた。無線機を握ったままの手が、いつの間にか力なく垂れている。
「なんだよ、笑うとこかよ」とレンが言うと、今度は別の班員が「いや、だって……」と言いかけて笑い出す。
誰かが自然と拍手を始めた。
乾いた音が、ぱち、ぱち、と洞窟に響く。
もう1人もう1人と加わり、最後には班員全員が拍手をしていた。
歓声が上がる。
「よくやった!」「すげえ!」「見たか今の!」誰が言ったか分からない声が、次々に重なっていく。
熱い蒸気の洞窟に、人間の声が満ちていく。
灰色の巨体は、まだひれ伏したまま動かない。
拍手の音にも、歓声にもたてがみを逆立てることすらせず、ただ床に頭を沈めている。
ミオはカメラを構えたまま、飛び跳ねるようにレンの側へ寄った。レンズの赤いランプが、歓声の熱を映してかいつもより明るく点滅している。
「ねえ見た!? 今の! レン、あんた今、あれに突っ込んでったんだよ!? 正気!? でもすごい! めっちゃ撮れた! これ絶対バズる!」
「だからバズらせるなって……」
レンの抗議は班員たちの歓声に呆気なく飲み込まれた。大男は、その輪の外に立っていた。長物の切っ先を床につき、自動販売機のような厚みの背中を、まだわずかに上下させている。拍手と歓声を、じっと聞いていた。やがてその口元が、ほんのわずかに緩んだ。
誰にも気づかれないほどの本当にわずかな変化だった。だが、確かに彼は笑っていた。
歓声が洞窟の天井に吸い込まれるように消えていく。名残の拍手がまばらになり、やがて蒸気の音だけが残った。大男が長物を担ぎ直し、低く言い放つ。
「撤退する。隙間から1人ずつ抜けろ」
班員たちが崩落した岩の狭間へ向かう。最初の1人が身を屈め、肩を窄めて岩の裂け目を抜けた。2人目、3人目。無言のまましかし互いの肩を軽く叩いて順に消えていく。
「十文字、お前も行け」
レンは頷き、ミオを先に通した。カメラを胸に抱えたミオが、細い隙間に吸い込まれていく。レンも続こうとして、ふと振り返った。
灰色の巨体は、まだ動かなかった。たてがみの生えた頭を岩の床に擦りつけ、金色の目は伏せたまま。蒸気がその背を撫でて流れていく。歓声にも拍手にも、微動だにしなかった獣がただ静かに、レンたちが消えるのを待っている。
レンは何も言わなかった。言うべきことがあるとも思わなかった。ぶかぶかのジャケットの裾が岩に引っかかり、それを乱暴に引き抜いて隙間へ身を滑らせる。
大男が最後に続いた。長物を横に構え、巨体に背を向ける。岩の隙間が、厚い肩をきつく締めつけた。
抜けた先は蒸気の薄い回廊だった。崩れた天井の残骸が、まだかすかに埃を上げている。ミオがカメラを下ろして、深く息を吐いた。班員たちが無言で階段の手前まで下がる。
誰も、もう振り返らなかった。
◇
夕方の基地は、どこか浮き足立っていた。
白いテントが並ぶ一角を防寒着を着込んだ探索者たちが所在なさげに行き交っている。炊事場からは配給の匂いが漂っていたが、誰もがそれどころではないらしい。テントの入口からひそひそと漏れる声は、どれも同じ言葉を繰り返していた。
「第3階層で、あの背中の人が――」
「灰色の個体が、頭を擦りつけて伏せたって」
「班長が手も足も出なかったらしいぞ」
「あの自動販売機みたいな大男が?」
レンはその喧騒を横目にぶかぶかの紺のジャケットを脱ぎながら歩いていた。汗で冷えた背中に夕風が染みる。黄色いヘルメットを小脇に抱え、寝癖は湿気と汗でいつも以上に跳ねている。
ミオが半歩後ろをついてきながら、小声でささやく。
「ねえ、みんなこっち見てる。ていうか、見てないふりしてる。すごい。基地の空気、朝と全然違くない?」
「知らねえよ。つか、腹減った。飯まだか」
「それどころじゃないでしょ! あんた今日、第3階層であの大きいのに正面から突っ込んでったんだよ? 普通は死んでるからね?」
「だから、俺はなんもしてねえって」
「それが一番やばいんだってば」
レンがげんなりした顔で振り返ると、ちょうど向かいから歩いてきた探索者の一団が、道を開けるように横へずれた。明らかに不自然な間合いだ。壁に背中をつけ、全員が口をつぐんでレンを見送る。敵意はない。ただ、値踏みするでもなく畏怖するでもなく、目の前の存在をどう扱っていいのか分からないといった気まずさが漂っている。
「……何あれ。俺、なんかやったか?」
「やったっていうか、存在がもうアレだよ」
「アレってなんだよ」
大男の班のテントの前まで来ると、班員たちが先に戻っていた。入口の脇に並んで座り込み、配給の水筒を回し飲みしている。レンを見つけた1人が、飲みかけの水筒を落としそうになって慌てて抱え直した。
「つ、十文字さん……お疲れさまです」
声が上ずっている。隣の班員が、空気を変えようとわざと明るく言った。
「いやあ、今日は本当に助かりました。あの個体、班長でも厳しいレベルでしたから」
「お前ら、勝手に寄ってきただけで何もしてねえだろ」
「はは、それ、もう誰も信じませんよ」
笑い声が乾いている。レンはため息をつき、テントの入口に立ったままの大男に気づいた。長物を柱に立てかけ、自動販売機みたいな厚みをテントの布に預けている。夕陽を背にしたその顔は、逆光でよく見えない。
「十文字」
大男が口を開いた。いつもの低い声。けれど、どこか尖りが取れている。怒気も、いらだちも張り詰めた拒絶もない。
レンは面倒そうに顔を上げた。
「あ?」
「……よく戻ったな」
それだけだった。大男はそれだけ言って、ふいと横を向く。長物を担ぎ直し、テントの中へ消えていった。ずしん、ずしんという足音がやけに静かな夕闇に吸い込まれていく。
レンは首をかしげた。寝癖がぴょこんと揺れる。
「はぁ? 今のなんだよ」
ミオが隣で、カメラを胸に抱えたまま小さく笑う。
「あの人なりに、ありがとうだよ」
「いや、意味わかんねえ。よく戻ったなって、俺が迷子にでもなると?」
「レンは基地の中でもトイレ探して迷子になるからでしょ」
「うるせえ。つか、飯はまだかよ。マジで腹減った」
レンはそう言って、白いテント村の奥へと歩き出した。夕風が寝癖を揺らし、黄色いヘルメットが腕の中でかたかたと鳴る。遠巻きに見ていた探索者たちが、彼が通るたびまた黙って道を空ける。誰もが、その背中を何か言いたげに見送っていた。
半歩後ろで、ミオがカメラを胸に抱えたまま、ぶらぶらとついてくる。彼女のスマホが、ポケットの中で小さく震えた。1回、2回、3回。立て続けに通知が跳ねる。ミオは最初、ちらりと画面を見ただけだった。だが、指が止まる。足が止まる。カメラを抱え直した腕が、ゆっくりと下りていく。
「……うそでしょ」
声が、急に温度を失っていた。いつもの弾んだトーンではなかった。乾いた、息の抜けるような呟き。風が彼女の前髪を乱す。
レンが数歩先で立ち止まり面倒くさそうに振り返った。黄色いヘルメットが、腕の中でかたんと鳴る。
「今度はなんだよ」




