深層の気配
階段を下りる足音が石の壁に吸い込まれるように響いていく。霜はもうない。代わりに、一段下りるごとに空気がじっとりと重くなっていった。
レンは大男のすぐ後ろを歩いていた。黄色いヘルメットのあごひもが、結束バンドごと揺れる。前を行く背中は相変わらず自動販売機みたいな厚みで、視界の半分を塞いでいた。
「班長」
班員の1人が、階段の途中で口を開いた。声は少し躊躇いを含んでいる。
「配置換え、いいんですか。十文字さん昨日まで最後尾でしたけど」
大男は足を止めなかった。長物を担いだ肩が、わずかに動く。
「班を守るための配置だ」
それだけだった。振り返りもしない。班員は「……はい」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。
レンは内心で首をかしげた。守る、ってなんだよ。俺が前を歩いて何が変わるっていうんだ。べつに、そういうつもりはないんだけど——と思いかけて、やめた。どうせ言っても同じだ。この大男は、口に出したことを引っ込めない。
階段の先から、生ぬるい風が吹き上げてきた。硫黄の匂いが混じっている。霜の気配は完全に消えていた。
最後の段を下りた瞬間、蒸気が一行を包んだ。熱い。まるで温泉の湯気の中に立っているような湿った熱気が、頬を撫でる。洞窟の壁は黒く焼けた岩で、ところどころの亀裂から白い湯気が噴き出している。床もまた暖かく、靴底を通して熱が伝わってきた。
「うわ、なにこれ。さっきまで氷だったのに」
ミオがカメラを構えながら、湯気に向かって手を扇いだ。
レンは数歩進んで立ち止まった。ぶかぶかの紺のジャケット——袖が指先まであり、裾が膝まであるあれだ——の襟元を摘まんで、ばたばたと仰いだ。
「……はぁ? これ、どうなってんだよ」
蒸気がジャケットの内側にこもって、背中を汗が伝う。協会の予備だからと着てきた防寒仕様は、この階層では完全に拷問具だった。
「暑い。マジで暑い。これ脱いでいいか?」
「装備は脱ぐな」と大男が前を向いたまま言った。
「いや、脱がなきゃ今死ぬわ。俺今この瞬間、茹でられてるんだけど」
「我慢しろ」
「我慢って、これ防寒ジャケットだぞ。地熱の階層に防寒ジャケット着て来いって、誰が決めたんだよ」
班員の1人が、小さく吹き出した。すぐに真面目な顔に戻ったが、肩はまだ震えている。大男は何も言わず、長物を担ぎ直して蒸気の奥へと歩き出した。
レンはジャケットの襟を扇ぎながら、その背中を追いかけた。額に汗が滲む。寝癖が湿気で余計に跳ねていた。
湯気が濃くなる。岩肌を伝う水滴が、どこか遠くでぽたりぽたりと落ちる音だけが、やけに輪郭を持って耳に届いた。
大男が先頭のままゆっくりと長物を下ろした。担いでいたそれを両手で構え直し、腰を落とす。その背中が一瞬で戦う者のそれに変わった。
蒸気の奥で、影が動いた。
岩壁の向こうからぬうと現れたのは、黒に近い灰色の長い毛だった。首から背にかけて硬いたてがみが逆立ち、金色の目が湯気越しにこちらを見下ろしている。体高は、近くの岩を軽く越える。足音が地面に沈むたび、地熱で暖かい空気がびりびりと震えた。
班員の1人が、息を呑むように呟いた。
「なんだ……あれ、第3階層の個体か?」
大男は答えない。金色の目が班の先頭に立つ大男を映し、それからその背後にいるレンへとゆっくり移動した。
レンは首の後ろをかいていた。黄色いヘルメットの縁から、汗が垂れている。蒸し暑さに辟易した顔で、灰色の巨体を見上げる。
「……でけえな。てか、あれこっち見てない?」
ミオがカメラを構えたまま、声をひそめた。
「見てる見てる。ねえ、あれ絶対こっち見てるよ。目合ってない?」
モンスターは動かなかった。金色の目が、湯気の奥からじっとレンを見下ろしたまま、前足を半歩踏み出した。地面が低く鳴る。
いつものように道を空ける気配は、ない。
レンは大男の背中越しにその金色の目をぼんやりと見返した。モンスターは、もう半歩近づいた。蒸気が揺れ、灰色のたてがみが湿気をまとって光る。
「……あれ、今日のやつ、なんか空気読んでない?」
レンが言った。いつもの寝ぼけた調子のまま、しかしほんの少しだけ声の芯が低くなっている。大男が振り返らずに答えた。
「撤退だ」
声は短く、硬かった。
「これは、撤退レベルだ。全員無線を入れろ。班長判断で引く。急げ」
班員の1人が弾かれたように無線機へ手をやる。別の1人が、荷物をまとめながら数歩後退る。ミオがカメラを回したまま、半歩だけレンに寄った。
「レン、あれ、ほんとに退かないね。いつもと違う」
「知らねえよ。俺も初めて見る顔だし」
灰色の巨体は湯気の奥で金色の目を瞬かせた。低い唸りが、洞窟の岩肌を滑るように響く。空気が、熱いのに背筋だけが冷えていく。
大男は長物を構えたまま一歩ずつ後退しながら、レンたちの前に壁を作るように立った。
「お前らは先に階段を上がれ。俺が殿だ。十文字、行くぞ」
レンは返事の代わりに汗で濡れた前髪をかき上げ、大男の背中を追った。その背中越しに、金色の目がまだこちらを見ている。湯気が濃くなるたび、その輪郭だけがゆっくりと近づいてきていた。
背後の岩壁が、悲鳴のような音を立てた。
亀裂から白い蒸気が噴き出し、天井の岩盤がみしりと軋む。次の瞬間、拳大から人頭大の岩塊が滝のように降り注いだ。退路の階段へ続く通路の一部が、轟音とともに崩れ落ちる。粉塵が舞い、熱い蒸気が渦を巻いて視界を白く塗り潰した。
「退路が――!」
班員の1人が叫んだ。声が裏返っている。崩れた岩は完全に道を閉ざしてはいない。だが隙間は狭く、すぐに抜けられる代物ではない。もう1人の班員が無線機を握ったまま硬直していた。指が震えて、周波数ダイヤルを回すこともできない。
ミオがカメラを構えたまま、崩落した岩と灰色の巨体を交互に見比べた。
「うそでしょ……挟まれた?」
大男は長物を構えたまま一度だけ背後を見た。崩れた岩、青ざめた班員、濃くなる蒸気。それから前方の金色の目へと視線を戻す。逃げ場がない。彼の肩が、わずかに張った。
「……詰んだな」
誰かが呟いた。誰だったかは分からない。声はすぐに蒸気に溶けた。
レンは汗で額に張りついた前髪を、うるさそうに掻き上げた。ぶかぶかのジャケットの袖をたくし上げ、崩れた岩を一瞥し、金色の目を一瞥する。それから、なんでもないことのように言った。
「まあ、なんとかなるだろ」
大男が振り向くより早かった。
レンは大男の横をするりとすり抜けた。自動販売機のような厚みの脇を、寝癖を揺らして通り抜ける。黄色いヘルメットのあごひもが、結束バンドごとぷらぷらと揺れていた。
「おい、十文字!」
大男の声が背後で弾けた。レンは振り返らない。湯気の奥で、金色の目がゆっくりと近づいてくる。灰色のたてがみが逆立ち、前足が岩を踏むたび熱い空気がびりびりと震えた。
レンはポケットに手を突っ込んだまま、その巨体の正面へのろのろと歩いていった。
「……なんか、今日はご機嫌斜めだなお前」
蒸気が2人の間で渦を巻いた。
「待て、お前一人じゃ――」
大男の手が伸びた。だがその指は、ぶかぶかの紺のジャケットの裾を数センチ掠めただけだった。レンはもう前へ出ている。のろのろと、しかし止まらない足取りで蒸気の奥へ。
大男の喉が、低く鳴った。あの巨体を前にあの間抜け面が、あの寝癖がまるで散歩でもするように歩いていく。冗談だ。冗談ですませられる距離ではない。あれは昨日の白い毛の群れとは違う。格が違う。第3階層の個体だ。金色の目は最初から、奴だけを見ていた。
「十文字!」
声が届いたかどうか。レンは振り返らない。湯気が濃く、黄色いヘルメットの輪郭さえ霞んでいく。大男は長物を握り直した。握りすぎて、指の関節が鳴った。走ろうとして、足が半歩だけ床を擦った。だが、間に合わない。距離がある。あの巨体の前足が、もう岩を掴んでいる。
モンスターが、低く身構えた。首がすっと沈み、たてがみが逆立つ。金色の目が、レンだけを映して細められた。獲物を定めた獣の、あの静けさだった。地熱の空気が、びり、と張り詰める。洞窟の岩肌から噴き出す蒸気が、その輪郭を縁取るように揺れた。
次の瞬間、地面が唸った。
灰色の巨体が、蹴った。岩が砕ける音、熱風、たてがみが翻る。自動販売機どころではない質量が、まっすぐにレンだけへと突っ込んでくる。
「レン!」
ミオの悲鳴が、蒸気を裂いた。




