さりげない救出
朝6時前、前線基地のテント前で、現地担当の職員がクリップボードを抱えたまま小走りに近づいてきた。腕には紺色のジャケットが2着。どちらも防寒仕様らしい分厚い作りだ。
「十文字さん、こちらを。協会の予備ですが」
差し出されたジャケットを受け取った瞬間、レンの眉が下がった。袖がだらりと垂れ、指先まで布が覆っている。肩幅は余り、裾は膝のあたりまである。
「……でかすぎだろ」
「似合ってる似合ってる。定番のオーバーサイズ系」
ミオがすかさずスマホを構え、シャッター音を連打した。
「何撮ってんだよ」
「素材として保存。あとで編集用に切る」
「そんなのいらねえだろ」
「いります。それより早く着なよ。寒いでしょ」
しぶしぶ腕を通すと、布がざわざわとこすれて妙に音がした。胸元には白い糸で協会のロゴが刺繍されている。サイズ感は完全にずれているが、防寒機能だけは本物らしく、冷え切っていた体がじんわりと温まり始めた。
「予備はそれしかありませんので。サイズはまた後ほど……」
職員は早口のまま頭を下げ、忙しそうに次のテントへ走っていった。
◇
第1階層を抜け、霜に白く覆われた石の階段を下りきると、息が刺さるような冷気が全身を包んだ。一行は無言で第2階層の氷の回廊を奥へと進んだ。
回廊の先がわずかに広がり、天井の高い広間へとつながっていた。氷柱が無数に垂れ下がり、床一面が淡い青に光っている。
大男が足を止め、長物を肩から下ろした。
「俺が前に出る。お前らは下がってろ」
班員たちが何か言いかけるより早く、大男はずしんと床を踏みしめ、広間へと踏み込んでいった。1人で。長物を構えたまま、氷の床を叩く足音だけが響く。
「え、待って班長――」と班員の声が漏れたが、大男は振り返らない。広間の中央まで歩み出ると、静かに長物の先を床から持ち上げた。
そのとき広間の奥、氷の壁の向こうから、低い唸り声が幾重にも重なって押し寄せた。白い毛。狼ほどの大きさの影。最初は5、6匹かと思った。だが、影は止まらない。氷の壁から次々と飛び出し、広間の床を白い波のように埋め尽くしていく。
10匹。15匹。20を超えた。
「……多すぎる」
班員の誰かが、呻くように言った。
大男は動かなかった。長物を振り抜く。風切り音が広間を裂き、飛びかかった白い影が横へ弾き飛ばされる。氷の壁に叩きつけられた影が、悲鳴ともつかない声を上げて床を滑った。
だが、囲まれた。
左右から。背後から。白い毛の群れが一斉に迫り、大男の逃げ道を埋めていく。長物を振るたびに間合いは詰まり、背中が氷の壁に触れる。爪が石を削る音と、唸り声と、氷が軋む音だけが広間を支配した。
「班長!」
回廊の入口で、班員たちの足が止まった。誰も踏み出せない。広間の空気が、見えない壁のように重くのしかかっている。
そのとき、回廊の奥から、のろのろと歩く足音が近づいてきた。
「……トイレどこだよ。マジで」
レンの声だ。首の後ろをかきながら、広間の端を通りかかる。氷柱を見上げ、床を見下ろし、首をかしげている。ミオが慌てて袖を引っ張ろうとしたが、半歩遅かった。
レンの足が、広間の床を踏んだ。
瞬間、唸り声がぴたりと止まった。
大男に飛びかかろうとしていた白い毛の群れが、一斉に体勢を崩す。前足を滑らせ、尻を落とし、床に伏せる者。耳を伏せ、尾を丸め、壁際へと退がる者。まるで見えない衝撃波が走ったように、群れ全体が一瞬で静まり返った。
「……なんか静かになったな。寒いのは変わんねえけど」
ポケットに手を突っ込んだまま、広間の端を歩いていく。群れは、レンの視界に入らないように壁へ張りつき、息を殺していた。
大男は、長物を構えたまま、動けずにいた。
振り上げた腕が、中途半端な高さで止まっている。目の前の群れは牙を収め、背中を丸め、床に頭を擦りつけている。獲物を前にして、まるで罰を受ける獣のような姿だ。
大男の視線が、ゆっくりと横へ流れた。広間の端を通り過ぎようとしている、黄色いヘルメット。ふわふわと揺れる寝癖。ポケットに手を突っ込んだ、だらしない背中。
広間に、氷の軋む音だけが響いた。
白い毛の群れは、レンが広間の端を通り過ぎるまで、床に張りついたまま1匹も動かなかった。氷柱がかすかに鳴る音だけが、広間の静寂を刻んでいる。
やがて、遠くで氷の床を蹴る小さな音が連なり、群れは一斉に起き上がった。牙も唸り声もなく、まるで叱られた子犬のように尾を下げて、氷の壁の奥へと散っていく。白い背中がいくつも重なり合い、闇に溶けて消えた。
広間に残ったのは、冷気と、荒い呼吸と、大男1人だけだった。
大男はゆっくりと長物を下ろした。振り上げていた腕が重たげに落ち、柄が床をかすめて低い音を立てる。肩が上下し、息が白く途切れる。
回廊の入口近くで、レンが壁にもたれて立っていた。黄色いヘルメットを指で押し上げ、氷柱をぼんやりと見上げている。大男の視線に気づいて、面倒そうに首だけを向ける。
「……助かった、と言うべきなのか」
大男の声は、低く掠れていた。問いというより、自分自身に問いかけている響きだった。言いようのない苦さが滲んでいる。
「別に助けたつもりはねーよ」
レンは壁から背を離し、ポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめた。
「たまたま通っただけ。……あ、そうだ。トイレどこだよ。マジで迷った」
大男の眉がわずかに動いた。怒りでも呆れでもなく、何かを飲み込むような表情だった。しばらく黙り、氷の壁を一度だけ見やる。それから、腰のポーチを開けて中を探った。
ごそごそと布が擦れる音がする。大男の手から、黒い厚手の手袋が放り投げられた。宙を弧を描き、レンの胸元に当たる。
「……そっちの軍手じゃ、指が持たん」
それだけ言って、大男は視線を外した。
レンは手袋を拾い上げ、自分の指先を見下ろした。借りた軍手はいつの間にか白く凍りつき、ごわごわと硬くなっている。指を曲げようとしても、布が軋むだけで思うように動かない。
「……どうも。つーか、投げんなよ」
レンはぶつくさ言いながら、凍った軍手を外し、新しい手袋に手を通した。分厚い布が指を包み、じんわりと体温が戻ってくる。サイズは少し大きかったが、固まった軍手よりはるかにましだった。
回廊の入口で固まっていたミオが、カメラを構えたまま駆け寄ってくる。
「え、待って待って、今の撮れてる? 撮れてるよね?」
レンズの赤いランプが、氷の壁の残光を受けて点滅している。声だけはいつもの調子だが、指先がまだかすかに震えていた。
班員の1人が、小さく息を吐いた。
「……昨日の帰りと、同じだ」
その呟きは、白い息に溶けて広間に散った。
大男は班員を一度だけ見た。何も言わない。視線が交わっただけで、すぐに氷の壁へ戻る。
「何がだよ。つーか誰かトイレ教えろって」
レンは手袋をはめ終えた指をひらひらさせ、本当にトイレを探している顔だった。
大男が背を向けた。長物を肩に担ぎ直し、氷の床を踏む。一歩。二歩。振り返らない。
「……行くぞ」
低い声だけが響いた。それから、もう一言だけ。
「十文字。……明日から、お前は最後尾じゃない。俺のすぐ後ろを歩け」
広間の冷気が、一瞬だけ濃くなった気がした。
「は?」




