連携の摩擦
第1階層の石造りの回廊を抜け、裂け目から外へ出た瞬間全員の肩から力が抜けた。外の空気は冷たかったが、あの氷の階層に比べれば春のそよ風みたいなものだ。レンは黄色いヘルメットを脱ぎ、寝癖だらけの頭をかいた。
「戻ったぞ」
大男はそれだけ言うと、長物を担ぎ直して前線基地のテント村へ向かって歩き出す。班員たちも無言で続いた。誰も振り返らない。白い息だけが、まだ名残のように宙へ消えていく。
基地の入口で現地担当の職員が駆け寄ってきた。白いワイシャツの袖をまくった、クリップボードを抱えた男だ。
「おかえりなさい。第3班から連絡がありまして、そちらも撤退されたと」
「ああ。悪いが先に救護へ。指をやられた奴がいる」
大男が顎で班員の1人を示す。職員は「すぐに」と頷き、救護テントの方へ先導していった。班員の1人が、手袋の上から自分の指をさすりながらついていく。
レンとミオは大男に連れられて基地の端にある班用のテントへ入った。中には簡易テーブルと折り畳み椅子が並んでいる。大男は椅子を引き、どかりと腰を下ろした。ギシリと脚が鳴る。班員たちも続いて座った。レンとミオは、なんとなく入口に近い側の椅子に並んで腰を下ろした。
「それで」
大男が低く切り出した。
「今日の第2階層、何が問題だったか言える奴はいるか」
班員の1人が口を開く。
「装備です。防寒具が想定より薄かった。金具も凍りました」
「あの白い毛の群れも厄介でした。数が多く、足場が滑る」
「それと……帰り道、十文字さんの周りにだけ白い毛の群れが寄ってこなかったんです。あれは、偶然じゃ――」
大男がテーブルを叩いた。
どん、と重い音がテントに響き簡易テーブルの上の水筒が跳ねた。班員たちが一斉に口を閉じる。レンは眠そうな顔のまま、薄目で大男を見た。
「班長、ですが――」
「黙れ」
大男の声は低く、それでいて氷の回廊より冷たく響いた。言いかけた班員は、そこで言葉を飲み込む。大男はゆっくりとレンへ向き直った。椅子がギシリと軋む。
「お前は勝手に動きすぎる、連携する気があるのか」
大男の声がテントの空気を叩いた。レンは椅子の背にもたれたまま、首をかしげる。
「はぁ? 俺、最後尾から1歩も動いてねえんだけど」
「……なんだと?」
「いや、そっちが勝手に寄ってきたんだろ。俺の周り半径2メートル、勝手に埋めてさ。焚き火かよ」
ぴくり、と大男のこめかみが跳ねた。テーブルを握る指が白くなる。班員の1人が「あ、いや、それは俺らが」と言いかけて大男の視線に口を閉じた。
「ふざけるなよ」
大男が立ち上がった。椅子が後ろへ倒れ、がたん、と派手な音を立てる。テントの外まで響いたのか、通りかかった職員がびくりと肩を跳ねさせた。
「俺はランクAだ。この迷宮で、この人数を背負って歩いてる。お前みたいな素人が、水を飲んで座ってただけで――」
「素人で悪かったな。でもモンスター逃げたの俺のせいじゃねえし」
「その開き直りが気に入らねえんだよ!」
大男が一歩詰める。自動販売機が迫ってくるような圧だ。ミオが「ひぇ」と小さく悲鳴を上げてレンの袖を引いた。レンは動じない。動じないというか、眠そうなだけだ。
「あのな、俺だって好きで逃げられてるわけじゃ――」
「黙れ! お前が来てから班の空気が全部狂ってるんだよ。モンスターも、統制も、何もかも!」
大男の拳がテーブルに叩きつけられた。どん、と水筒が跳ねる。レンはようやく片眉を上げた。
「……それ、八つ当たりだろ」
大男が口を開く。だがその足は半歩、後ろへ下がっていた。自動販売機みたいな巨体が、まるで圧に押されたように。班員たちは黙ってそれを見ていた。誰も指摘しない。テントの空気だけが、じわりと重い。
「あー、あー、まあまあまあ!」
ミオが両手をぱたぱた振りながら、レンと大男の間に割って入った。カメラはとっくに胸の前で下ろされている。空気を切り替えるのが配信者の仕事だとでも言いたげな、引きつった笑顔だ。
「今日は寒かったですし! みんな疲れてますし! ね、反省はまた今度で!」
誰も笑わない。班員たちは椅子に座ったまま、床か天井か自分の手元を見つめている。テントの布が風にばたばたと鳴る音だけが、やけに大きく響いた。
大男はレンから視線を外し、倒れた椅子を無言で起こした。ぎしり、と脚が軋む。長物を柱から引き抜いて肩に担ぐと、入口の布を片手で跳ね上げる。
「明日の段取りは追って伝える」
それだけ言って大男はテントを出ていった。ずしん、ずしんと重い足音が遠ざかっていく。班員たちも顔を見合わせ、ばらばらと腰を上げた。誰もレンを見ない。最後の1人が出際に小さく会釈をして、布が落ちる。
レンは椅子に座り直した。ミオが隣で深いため息をつく。
「なんでああいう言い方するかなぁ。もうちょっとこう、やわらかく言えないの?」
「やわらかく言ってもあの人は怒るだろ」
「それは……まあ、そうかもだけど」
ミオはカメラを膝に置き、冷えた指先に息を吹きかけた。白い息が、テントの中でふわりと浮かんで消える。
「追って伝える、って何するんだろね。まさか明日もあの人と一緒とか」
「知らねえ。とりあえず飯食いたい」
「ねえ、レン。少しは協調性ってものを見せなよ」
「協調性?」
「そ。あの人、班長なんだからさ。もうちょっと、こう、歩み寄る感じで」
「いや、歩み寄るも何も俺そもそも頼んで連れてこられただけだし」
レンは椅子の背にもたれて、天井の布の縫い目をぼんやり見上げた。
ミオが苦笑いして、声を落とす。
「でも配信的には、班の人たちと仲良くしてくれた方が助かるんだって。あたしのチャンネル、今ちょうど伸びてるとこなんだから。険悪な空気が切り抜きにされたら、それこそバズり方がおかしくなるでしょ」
「バズり方ってなんだよ」
ミオがカメラを胸の前で抱え直し、再生ボタンを押した。小さな画面に、氷の回廊の青白い光が揺れる。
「ほら、ここ。見て、みんなの動き」
映っているのは、ついさっきの帰り道。先頭に大男、その後ろを歩く班員たちの背中。白い息が断続的に揺れて、足音だけがやけに遠い。
画面の端に、レンが映り込む。最後尾で黄色いヘルメットをかぶったまま、ポケットに手を突っ込んでいる。その周囲だけ、白い影が近づかない。
班員の1人が、さりげなく半歩下がる。もう1人が、荷物を直すふりをして列を詰める。3歩目には、全員がレンを中心にした半径2メートルの内側に収まっていた。
「ここ! みんな、ちょっとずつ寄ってるの。見れば見るほど笑う」
「いや、別に笑うとこか?」
「笑うって。だってみんな必死に自然なふりしてるんだよ。この人なんて、靴ひも結ぶふりして止まってるし」
画面の中の班員が凍った床に片膝をつき、結んでもいない靴ひもに手をやる。次の瞬間、白い影が壁の向こうを横切りその班員が弾かれたように立ち上がってレンの方へ2歩寄る。
「あー、これ、俺が映ってるだけじゃねえか」
「そうだけど! この『だけ』がすごいの。ほら、こっちの人はマフラー直しながら接近してる」
「接近って言うな。なんか俺が誘ってるみたいに聞こえるだろ」
「誘ってるっていうか、誘蛾灯?」
「俺がかよ。どっちかっつーとお前のカメラの方が明るいわ」
「カメラは光らないから。ランプだけだし」
ミオは画面を止めて、にやにやしながらレンを見た。
「これ公開したら、たぶん今日イチで伸びるよ」
「やめろ。あの人に何言われるか」
「大丈夫だって、顔は映ってないし。音もこのへんだけ切れば――」
「そういう問題か?」
「失礼します」とテントの布がめくれ、現地担当の職員が顔を出した。クリップボードを抱えたまま、袖をまくった腕を突き出すようにして早口で言う。
「お疲れさまです。明日の件、決まりましたのでお伝えします。西の班、防寒装備を整えて第2階層へ再挑戦となります。十文字さんと雨宮さんは、特別立会人および同行者として同じ班にてご一緒いただきます」
「はい! よろしくお願いします!」とミオが元気に頭を下げる横で、レンは椅子の背にもたれたまま天井を見上げた。
「……まじか」
「何か問題でも」と職員が早口のまま訊ねる。
「いや、問題だらけだろ。あの班長と明日も一緒って時点で」
「班編成は協会の判断ですので」
「ですので、じゃねえよ」
レンはがっくりと首を垂れた。寝癖がぴょこんと跳ねる。
「あのさ、俺の分の防寒具は?」
レンが顔を上げて訊ねた。職員はクリップボードをめくり、指を止める。
「十文字さんの装備は……あ、えっと」
「えっと、ってなんだよ」
ミオが横からのぞき込む。職員の指は空欄の上で止まったまま、ぱたぱたと紙を探る。




