霜の下
大男は腰の無線をむしり取るように外し、口元へ寄せた。
「こちら西の班だ。第3班の状況を前線に確認させろ」
ざり、と雑音が走る。班員たちは息を殺し、懐中電灯の光を階段の暗がりに向けたまま動かない。レンは白い息を吐きながら、霜に覆われた壁をぼんやりと見上げていた。
『前線基地、了解しました。少々お待ちください』
現地担当の職員の声だ。早口で語尾だけ丁寧に整えられている。無線の向こうで紙をめくる音と、誰かと小声でやりとりする気配が続いた。大男は返事を待つ間も、無線を握る手を離さない。
『お待たせしました。第3班は全員無事です。現在、第1階層へ引き返している途中とのことです』
「全員、無事か」
『はい。負傷者なしと報告を受けています。ただし――』
「ただし、なんだ」
大男の声が一段低くなる。無線の向こうで職員が一瞬言葉を切り、それから早口で続けた。
『記録を照合しました。第2階層の気温が急激に低下しているとのことです。第3班の報告では、霜の範囲が前回調査時より拡大している可能性がある、と』
大男は無線を握ったまま霜に覆われた階段の下を睨んだ。懐中電灯の光が白い壁をなぞり、冷気が足元を這い上がってくる。
『本迷宮は階層を1つ下るごとに、気候も地形もがらりと変わります。第1階層は石造りの回廊ですが、第2階層は氷の階層です。さらにモンスターの活性が跳ね上がります』
班員の1人が懐中電灯を握り直し、別の1人が無言で手袋をはめ直す。ミオはカメラを階段の暗がりに向けたまま、白い息をそっと吐いた。
『過去の調査でも、第2階層で撤退した班が複数あります。直近では3年前、ランクAを含む5人パーティが第2階層の気候変化に対応できず、全員無事でしたが装備の損耗が激しく、初日で撤退しています』
「ランクAを含む、だと」
大男の眉がぴくりと動いた。肩に担いだ長物を握る指に、ぐっと力がこもる。班員たちの顔が、懐中電灯の白い光の中でいっせいにこわばった。誰も口を開かない。霜の壁が、沈黙の分だけ白く明るく見えた。
『現在、第3班も同じ判断で撤退中です。無理はなさらないでください』
職員はそれだけ言うと、またざりざりと雑音に沈んだ。
大男は無線を腰に戻しゆっくりと振り返った。班員たちの顔を見回し、最後にレンを見た。黄色いヘルメットの下の寝癖は、相変わらずふわふわと揺れている。
「めんどくさい階層だな」
レンはそれだけ言って、白い息をひとつ吐いた。
大男は霜に覆われた階段へ向き直った。懐中電灯の光が、白く凍りついた壁をゆっくりとなぞる。班員たちの誰もが、次の言葉を待っていた。
「下りるぞ」
大男の声は、冷気に負けないほど低くはっきりと広間に響いた。
「第3班が撤退したなら、俺たちが確かめる。文句あるか」
班員の1人が息をのむ。別の1人が「しかし、基地は無理をするなと」と言いかけて、大男の背中が止まったのを見て口をつぐんだ。大男は振り返らない。長物を肩に担ぎ直すと、霜の階段へ一歩踏み出している。
「無理をするな、は禁止じゃない。班長の判断で下りる。俺は自分の目で見る」
「で、でも班長、第2階層はランクAを含む5人が初日で撤退した場所ですよ」
「だからなんだ」
大男がようやく振り返った。その目は怒りと興奮でぎらついている。
「お前らは来たくなければ残れ。俺は1人でも行く」
班員たちは顔を見合わせた。迷いと緊張が混ざった沈黙。だが、1人が小さく頷きザックから防寒具を引っ張り出すと、全員がそれに続いた。ごそごそと布の擦れる音が広間に重なる。全員、残る気はない。大男の背中を追う気だ。
ミオも自分の小さなリュックから薄手の上着を出して羽織った。カメラは片手に抱えたまま、もう片方の手でファスナーを引き上げる。
「レンも何か着ないの? 下、絶対寒いって」
「着るもん持ってきてねえし」
「え、防寒具とか支給されてないの!?」
「防寒具っても、俺のは初心者用セットだぞ。膝当てと軍手と警棒だけだ」
「それはひどい。警棒で暖は取れないよ」
「知ってるよ」
レンは着古したパーカーの襟を軽く引っ張った。霜の階段から吹き上がる冷気が足元を這い、露わになった首筋にまとわりつく。
「寒いのは嫌だけどな」
白い息が、言葉と一緒にふわっと浮かんで消えた。
2人の言い合いを、班員たちが半笑いで聞いている。大男だけは振り返らず、霜の階段の前で長物の柄をぎゅっと握り直した。
「いつまで喋ってる。行くぞ」
班員たちが、防寒具を着込んだ体を引き締めて階段へ向かう。ミオもカメラを前方へ向け直す。レンの腰で、使ったことのない警棒がかたんと鳴った。霜の白い結晶が、懐中電灯の光を受けてきらきらと瞬いていた。冷気がひときわ強く吹き上げ、パーカーの裾を揺らす。
大男を先頭に班員たちが並び、ミオがレンの前に出て、レンが最後尾に立つ。6人と1人、そしてカメラの赤いランプ。懐中電灯の光の束が、暗い階段の奥へと吸い込まれていく。
◇
階段を下りきった瞬間空気が変わった。ひやり、ではない。痛い、だ。息を吸えば肺の奥がちりちりと痺れ、吐けば白い塊が目の前を流れていく。レンは思わず足を止め、パーカーの襟を片手で引き寄せた。
「さみい」
それだけ言ってまた歩き出した。足取りは階段を下りる前と何も変わらない。霜の床を踏む音が、さく、さく、と一定のリズムを刻む。
「さむ……さむさむさむ……」
ミオが前で小声の連呼を始めた。カメラを構えた指先が震え、レンズの縁に白い息がかかっては消える。班員たちは防寒具の襟を立て直し、それでも足りないのか得物を握る手袋の上から腕をさする者、口元をマフラーに埋める者、それぞれが必死に体温を守ろうとしていた。
第2階層の回廊は、第1階層とは似ても似つかなかった。
床は鏡のように凍りつき壁はところどころで氷の膜に覆われている。天井からは大小の氷柱が下がり、懐中電灯の光を受けてきらきらと輝いていた。きれいだ、と思う余裕がある者はいない。歩くたびに、息が詰まるほど冷たい空気が肺を刺した。
「金具に霜が付いてる」
班員の1人が得物の柄を見下ろして呟いた。金属部分が白く曇り、指でなぞると薄い氷の膜がぱりぱりと剥がれ落ちる。
「武器が凍る前に振れるようにしておけ。いつ出るかわからんぞ」
大男の声は相変わらず低くこの寒さの中でもよく通った。先頭を歩きながら、長物を担いだ肩は微動だにしない。防寒具の上からでもわかる厚みが、寒さを寄せ付けていないように見える。
(あの人、寒くねえのかな)
レンはぼんやりと思った。
回廊はさらに奥へと続いている。氷柱が増え、壁の青白さが濃くなり吐く息の白さが一段と際立った。誰も口を開かない。足音だけが、凍った床に響いては消える。
そのとき遠くから、音が聞こえた。
低く、長く、腹の底に響くような鳴き声。獣のものとも鳥のものともつかない、けれど確かに生き物の声だった。回廊の奥、氷の壁の向こうからその声はゆっくりと近づいてくる気配があった。
大男が片手を上げた。班員たちが一斉に足を止め、得物を握り直す。ミオがレンの腕にぎゅっとしがみつき、カメラを前方へ向けたまま息を殺した。
「……来るぞ」
大男の声が、凍えた空気に低く落ちた。長物を両手で握り直し、その先を回廊の奥へ向ける。
遠くで、また鳴き声が響いた。さっきより、少し近い。
鳴き声が3度目に響いたとき、氷の壁の向こうから白い影が飛び出した。
狼ほどの大きさのモンスターだった。白い毛が逆立つように光の粒を散らし、4本の脚が凍った床を蹴る音が、鼓膜を叩くように速い。1匹ではない。2匹、3匹、回廊の幅いっぱいに広がってまるで雪崩のように押し寄せてくる。
「来たぞ!」
大男が長物を横薙ぎに構えた。だが群れは1匹残らずその脇をすり抜けるように散開した。班員の1人が得物を振り上げ、凍った床を踏み込んだ瞬間――足が滑る。ずるり、と体勢が崩れ白い毛がその肩に飛びかかった。
「っ、こいつ!」
手袋の上から爪が食い込む。班員は悲鳴をこらえて得物を振り回すが、指が凍えて満足に握れていない。別の班員の得物が空を切る音がした。金属の柄が白く曇り、振るたびに手の中で滑る。
「数が多い! 散るな、背を預けろ!」
大男の声が飛ぶ。長物が唸りを上げて白い影を薙ぎ払った。1匹が悲鳴を上げて壁に叩きつけられる。だが残りは怯まない。むしろ仲間が倒れた分だけ、残りが怒りを増したように牙を剥いて迫ってくる。
大男の眉間に汗が浮かんでいた。この寒さの中で、だ。長物を振る腕が確実に重くなっている。群れはその隙を狙うように左右から回り込む。1匹が跳んだ。大男は体をひねって避け、返す一撃で床に叩きつける。が、別の1匹がその背中に迫る。
「班長、後ろ!」
班員の叫びに大男が振り返る。長物が間に合う。ぎりぎりの距離で白い毛が弾かれた。
その間も、レンは立っていた。
回廊の最後尾、黄色いヘルメットの下で寝癖を揺らし、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、ただ見ている。彼の周囲半径2メートルだけ、白い毛の群れがぽっかりと避けていた。まるで目に見えない円が引かれているみたいに、1匹も近寄らない。
ミオがカメラを構えたまま震えている。前で班員が転び、大男が押し返し白い毛が跳ね回る。そのすべてがレンズに映っている。
「レン、あんた何かやってるでしょ絶対!」
「いや、立ってるだけだけど」
レンは本当に何もしていなかった。手を出せばいいのかもしれないが、使ったことのない警棒をこの寒さで抜く気にはなれない。それに、と彼はぼんやり思う。この人たちは俺に任せる気なんてないだろう。
大男の長物が最後の1匹を横薙ぎに払った。白い毛が宙を舞い、氷の壁にぶつかってそれから跳ねるように回廊の奥へ逃げていく。残った群れも、それに続くように闇へ消えた。
静寂が戻る。白い息だけが、何本も宙に浮かんで消えた。
班員たちはその場に崩れるように膝をついた。1人は肩で息をし、1人は得物を支えにしながら凍った床に座り込む。凍えた指が震え、防寒具の下からも白い息が漏れている。
大男だけが立っていた。長物の先を床に突き、肩を大きく上下させている。振り返ることはしなかった。ただ、最後尾のレンの姿を横目で一度だけ見た。
その視線に、レンは特に何も返さなかった。
ミオが歯を鳴らしながらレンの隣へやってきた。カメラを抱えた指が震え、レンズの縁に白い息がかかっては消える。
「なんであんたは平気なの」
「知らねえよ」
レンはパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、本当に心当たりがなさそうに首をかしげた。寒くないわけではない。寒い。ただ、寒い以外の感想が出てこないだけだ。
「あたしの指、もう感覚ないんだけど。カメラ落としたらどうしてくれるの」
「俺に言うなよ。協会に言え」
「レンが言ってよ。特別立会人でしょ」
「特別立会人って防寒具の支給もねえのかよ」
言い合う声も途中から白い息に紛れて薄くなっていく。ミオはカメラを胸に抱え、震える指を上着の袖にねじ込んだ。
班員の1人が、得物を握ったまま動きを止めていた。
「おい、どうした」
「……指が」
手袋の上からでもわかる。指が柄を握る形のまま固まっている。開くことも閉じることもできないらしい。別の班員が駆け寄って手袋を外させようとするが、凍った布がうまく剥がれない。
「無理に引っ張るな。皮膚ごと持っていくぞ」
大男の声が低く飛んだ。それきり、彼は黙った。
氷の回廊の奥をじっと睨んでいる。長物を握る手に力がこもり、柄の金具がみしりと鳴った。まだ先へ行ける。行きたい。行くべきだと、その背中が語っている。だが足元では班員の指が凍り、得物が握れなくなっている。
大男は長いこと黙っていた。白い息が何度も宙に浮かんでは消えた。
やがて、長物の先を凍った床に突き立てる。かちん、と硬い音が回廊に響いた。
「……戻る」
絞り出すような声だった。班員たちが顔を上げる。誰も何も言わない。大男は振り返らずに続けた。
「第1階層まで引き返す。荷物をまとめろ。……次は、防寒装備を倍にして来る」
最後の一言は、ほとんど歯を食いしばるようにして吐き出された。
ざく、ざく、と凍った床を踏む音だけが白い息の向こうに続いていた。
回廊の壁を懐中電灯がなぞる。氷の膜が光を跳ね返し、天井の氷柱がきらきら、と瞬く。美しいと思える余裕は、誰にもなかった。
白い毛の群れは、まだ近くにいる。
遠くで、低く鳴く声が聞こえた。班員の1人が肩を震わせ、無意識に歩く速度を緩める。気づけば、列の形が少しずつ変わっていた。先頭に大男。その後ろに班員たち。そして最後尾のレン。その間隔が、じりじりと詰まっていく。
最初は偶然だった。次も偶然だった。だが3度目には、もう言い訳できなかった。
白い影が壁の向こうを横切るたび、班員たちはさりげなくしかし確実にレンの周囲へ寄っていく。まるで焚き火に当たるみたいに、半径2メートルの見えない円の内側へ入ろうとする。
レンは気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。言ったところで「寄るな」とも言えないし、「寄れ」とも違う。そもそも、俺に寄られたところで何かが変わるわけでもない、と本人は思っている。
ミオだけが、カメラを抱えたまま小声で笑いをこらえていた。
「ねえ、みんな何気なく近づいてきてない?」
「気のせいだろ」
「ぜったい気のせいじゃないって。さっきまで3メートルくらい空いてたのに、今1メートルもないよ」
「お前も充分近いけどな」
「あたしは別にいいでしょ! 慣れてるし!」
その言い合いの間にも、班員の1人がとうとう口を開いた。
「班長」
その声は、寒さのせいか少し震えていた。
「帰りは十文字さんを前にした方が……」
言いかけて、自分でも何を言っているのか分からなくなったように口をつぐんだ。班員たちの足音が、ぴたりと止まる。
大男がゆっくりと足を止めた。
振り返る。防寒具の襟の奥で、その顔はこわばっていた。懐中電灯の白い光が下から照らし、目の下の影を濃くする。
大男は班員ではなく、レンを睨んだまま、低い声で言い捨てた。
「先頭は俺だ。お前は最後尾から1歩も前に出るな」
長物を肩に担ぎ直しずかずかと回廊の先へ歩き出す。班員たちが慌てて続き、ミオがレンの袖を引いた。
(いや、そもそも俺、最後尾から1歩も前に出たことねえんだけど)
レンはヘルメットの縁をかきながらのろのろと歩き出した。冷たい床が、さく、と鳴った。




